01




――愛してると言ってくれた彼に、何かを返したいと思った。

辛い時にいつも支えてもらっていた、だから今度は自分が彼を支えたいと思うのに。
考えれば考える程、自分にできる事がわからなくなってくる。






電車を降りた美弥は、夜道を足早に歩いていた。
買い物もそこそこに、別に慌てなくてもいいとはわかっているけれど気が急いて足が止まらない。

自宅マンションのエレベーターの中で息を整え、自分の階に出るとヒールの音がやけに響くので抑えるようにして進んだ。
見えた玄関ドアには既に人影があって、僅かな灯りの下で背中をドアに寄り掛からせるようにして煙草を吸っている。

「ごめん!」

エレベーターが着いていた事も、美弥が駆け寄っている事も気付いているはずの彼はゆったりとその身を起こす。

「待ってたよね?気付くの遅くてごめんね」
「いや、問題ない」

眼鏡の奥の瞳は見えなかったが、茶色の前髪を揺らしながら最後の白煙を吐くとポケットから携帯灰皿を取り出して火を消した。
相手の背が高いおかげで、近寄ると自然と見上げるような体勢でその一連の動作を眺める。

(様になってるよなぁ……)

まるで映画やドラマのような仕草を、呆けたように見てしまうのも無理はないと思う。
変装していても似合っているのだから、彼の本質が現れているという事なんだろう。
ひとまず怒っていなさそうな様子に安堵しながら美弥は家の鍵を開けた。

今日来る、というメッセージを読んだのは残業で遅くなった帰りがけの頃だった。
いつもぐらいの時間に受信はしていたが美弥は仕事をしていたため気付かず、クタクタの体で疲れたなあなんて思いながらスマホを確認して驚いた。
早く準備しなきゃと疲労も忘れて帰ってきたが、彼の方が一足早かったらしい。

「すぐシャワー入れるようにするから」
「急がなくていい。仕事柄、待つのは慣れている」

後ろ手にドアの鍵をかけながら、赤井の声が答える。
彼は気にしていなさそうだけど、ちゃんと準備してから迎えたい気持ちがあったので美弥としては少し悔しく感じている。
たまにしか来ないのだから、その時はできればもてなしたいし、部屋だって綺麗にしておきたいし。
ご飯だって、せっかくなら手の込んだものを作りたかったけど、仕方ないので手早くできるものを考えながら調理する。

そんな複雑な気持ちでコンロを見つめる一方で、意外とマイペースらしい彼はシャワー後の本来の姿で美弥の背後をうろついている。
棚から赤井用の酒瓶を取り出し、氷も用意してテーブルに並べている。
まるで一緒に住んでいるかのような、当たり前のように彼がそこにいる空気感に美弥は密かに苦笑した。

酒のアテになるものから順に出していって、全部の料理が出来上がるとようやく美弥もローテーブルの前に座る。
隣の赤井は既に晩酌を始めていたが、美弥が「いただきます」と言うと、同じタイミングでメインのおかずに箸を伸ばす。

美味しいとは思う。
チラリと隣の様子を盗み見れば、満足はしているようだ。
できるなら彼が喜ぶものを作りたいと日頃から思っているが、何でも美味しそうに完食してくれるから、有り難く思いつつも好き嫌いは把握しづらくて。

「シュウ……苦手な食べ物とか、ある?」

今更だけど、と意を決して訊いてみるが赤井はどこかきょとんとした表情をした。

「特に思いつかない。食用であるなら何でも食える」
「…………」

何だか、もの凄く彼らしい返答だった。
なら好きな食べ物は?と聞こうとするが。

「お前の作ったものなら何でも美味い」
「あ、ありがとう」

彼を喜ばせる前に、逆に美弥が喜ばされてしまった。
結局、美弥が知りたかった事は聞けず仕舞いだった。

その後は赤井はいつものように度数の高い酒を転がしながら煙草を燻らせている。
その隣で、回された腕の中で美弥は彼の体温を感じながらまったりと過ごす。

外ではこんな事はないはずだし、昼間の工藤邸で美弥がいる時だって何かしら集中して作業をしているが、
こういう時の彼はソファに深く腰掛けて、ただ登っていく白煙を見つめながらぼうっとしているのだ。

疲れているのかな、と思う。
それとも吸い込んだニコチンが全身に染み渡っていくのを感じているのか。
わからないけど、彼にとって必要な習慣であるのかもしれない。
だとすると、あまり邪魔をしてはいけないような気がして、美弥は無理に話しかける事もせずに静かにしている。
だけど孤独を感じて欲しくもなくて、頬を彼の胸元に寄せてみる。
それに反応したのか、赤井の指が美弥の髪を撫でる。
表情を窺ってみるが特に意味はなさそうで、無意識に髪や肌をただ弄っているだけのようだ。

「大きい猫みたい……」
「ん?」

つい、クスリと笑ってしまえば赤井の意識が此方を向く。
何も言わず主人にゴロゴロと懐いているだけの自分はまるでペットのようだと思ったのだ。

皮肉で言った訳ではないが、あながち間違ってもいない気がする。
弄っていた事に気付いたらしい赤井が「ああ……」と指を離す。
そして急に動いたかと思うと両腕で美弥を持ち上げて、赤井の膝の上に跨らせた。

「すまない、放っておいてしまったな」
「……ううん、怒ってる訳じゃないの」

謝るような理由なんてない。
首を横に振るが、後ろから後頭部を支えられた状態で深く唇を塞がれる。
痺れるような感覚に瞼を震わせると、至近距離で赤井が笑みを浮かべる。

「ただのペットにこんな事しないだろう?」
「……うん」

そうして、期待していたであろう情欲を与えられる。
重く遠のいていくような感覚で目を閉じていると、急に赤井が唇を離した。

「ん?……美弥、体調でも悪いのか?」
「、え……?」

ぼんやりする意識を浮上させると、深い色が此方を覗き込んでいる。

「いつもより熱い」
「そうなの、かな」

そう言われれば少し熱っぽいかもしれない。
仕事中も何となく怠いような気がしていたけど忙しいせいだと思っていたし、赤井からの連絡を知った時点でそんな事忘れていた。
体温計は?と言いながらソファから立ち上がる姿に、申し訳なく思いつつも引き出しの場所を伝える。

差し出されたそれを脇に挟んでしばらく待てば、小さな電子音が鳴る。

「37.2℃……」

確かに微熱がある。
だから疲れを感じるのが早かったのかと、妙に納得してしまった。
体温計を呆けたように見下ろしていると。

「今夜はもう寝ろ」
「でも……」

元気がないくらいの不調で、別に喉が痛かったりする訳じゃない。
彼を置いて先に寝てしまうなんてと渋るが、赤井の意思は変えられそうにない。

「具合の悪い人間を襲うほど人でなしではないぞ」
「……ごめん」
「薬はあるのか」
「あ、そこの引き出しに……」

彼が別の引き出しから総合感冒薬を取り出して美弥に渡し、さらにキッチンから水の入ったペットボトルを持ってきてくれた。
そのたびにごめんねと言うが、赤井はさして気にしてないという顔で美弥をじっと見下ろしている。
早く飲め、という顔だ。有無を言わさない目の圧力に、素直に薬を飲み込んだ。
そして彼の晩酌もそこそこに寝室に押し込められそうになり、はたと気付く。

「でもシュウ、どこで寝るの?一緒に寝たら風邪うつしちゃいそうだし……」
「俺はそんな弱い体してないぞ」

そうは言ってもうつしてしまったら悪いし、彼も隣に風邪の人間がいるのは嫌だろう。
だけどせっかく来てくれた人をベッド以外で寝かすなんてとんでもない。

「ソファでなんて悪いし……どうしよう」
「気にしなくて良い。俺は何処でも寝られる」
「でも……」
美弥

おろおろしていると、それを止めるように名前を呼ばれた。

「いいから、寝ろ」
「…………」

念を押すようにゆっくりと、だけど僅かに笑みを浮かべた言葉に、美弥は大人しくなるしかなかった。
元々疲れてはいたので、監視されながらベッドに入ればあっという間に眠気が襲ってくる。

「ごめんね、シュウ……私の事気にしないで、飲んでて」
「ああ、わかった」

目を閉じてウトウトしていれば、ようやく赤井は寝室から出て行った。
小さなテレビの音、それから食器の音が聞こえるので、飲み直しているんだなと思ったら少し安心した。
誰かがいる気配だけで、ベッドに一人で入っていても心細い気持ちはあまりない。

そして思う、今日もまた自分は何もできなかったな、と。
悔やまれる気持ちが、沈んでいく意識と一緒に揺れていた。


翌朝、テーブルの後片付けまでやってくれたようで食器類は綺麗になって水切りに並べられていた。
目を覚ました時には彼は既に沖矢の姿でソファにいたが、寝ている時に背中が包まれるような感覚があったので一緒には寝ていたのだと思う。

体調は良くなったようで気怠さはなく、熱も下がっている。
これなら仕事に行けるな、と朝の支度をしていると彼が会社まで送ってくれると言うので美弥は思わず遠慮する。

「元気になったから、もう大丈夫だよ」
「病み上がりで満員電車は堪えるだろう?今日ぐらいは車に乗っていけ」

申し訳なく思いつつも、なんだか面映ゆい。
そのつもりで動いているらしい赤井にそれ以上遠慮する言葉も浮かばず、美弥は小さく頷いた。
彼が淹れたコーヒーを飲み、美弥が作った軽めの朝食を食べてから一緒に自宅を出て車に乗り込む。
わざわざ会社まで送ってくれるという事は、彼にとっては遠回りだろうから時間はいいのだろうかと気になったが、
彼の事だからきっと恐らく大丈夫なんだろう、そう思ってあえて口にはしなかった。

「昨日はごめんね、来てくれたのに何もできなくて……」
「そんな事はない。お前といる、それだけで俺の目的はほぼ達成されている」
「……、うん」

難しい言い回しだったが要するに、一緒にいられたからいい、と言ってくれているのだろう。

(敵わないなぁ)

彼から与えられる情に溺れそうになる。
もらうばかりで、返せていない気持ちが積み重なっていく。
何をあげられるのだろうと考えるけれど、いつも答えが出ないまま日々が過ぎていくのだ。

密かに溜息をついているうちに車は会社の近くまで来ていた。
流石に会社の目の前で降りると色々と支障が出そうだったので、何件か隣の人通りが少ない道路に停めてもらった。

「ありがとう、シュウ」

彼の名前を口にしてからドアを開ける。
手を振るのは気恥ずかしかったので閉まるガラス越しに視線を送ると、変装した沖矢が小さく笑った気がした。

若干浮ついた気持ちで会社まで歩くと、ちょうど同僚が美弥とは反対の方向から出社してくる所だった。

「あ、ちゃんおはよう。今日早いねー」
「う、うん、おはよう。早く起きちゃって」

見られなくてよかったと安堵しながら適当な言葉を紡ぐ。
一緒に並んで歩いていると、同僚が美弥を振り返って首を傾げる。

「……ちゃんって、煙草吸ってたっけ?」
「えっ?吸ってないけど、どうして?」
「たまに煙草の匂いがするから。何となくだけど」
「…………」

それはもしかしなくても赤井の煙草だと、ギクリと動揺で胸が跳ねた。
ヘビースモーカーの彼が部屋にいて、終始くっついていればうつりもするだろうが。
自分から赤井の匂いがするのかと思ったらカッと顔が熱くなる。

「え、っと……」

一体どう答えたらいいのだろうか。
平静を装いながらも目を泳がせていると、同僚が急に真剣な表情をして美弥の腕を掴んだ。

ちゃん、色々大変だろうけど、体は大事にしなきゃ駄目だよ?悩み事があったら相談乗るからね!」
「……う、うん……ありがとう」

どうやら美弥自身が吸っていると勘違いしてくれたらしい。
有り難いような悪いような気がして、励ましてくれる同僚に苦い笑みを向けた。











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