Take one step at a time.
ノートに書いた英文をたどたどしい発音で口にする。
うんうんと根気良く付き合ってくれているジョディが、読み終わった後でノートに指を置く。
「この場合はteachよりtellの方がいいわね。teachはいわゆる学問を教える事で、日常で何か訊ねたい時はtellを使うわ」
「なるほど……勉強になります」
文法のチェックもしてもらい、教えられた事をひとつひとつノートにきちんと書き込む。
ジョディはコーヒーを飲みながらそれを見守っている。
「ごめんねジョディ、こんな事教えてもらって」
「いいのよ、高校では先生と呼ばれていたんだから教えるのはお手の物よ。それに美弥とお茶できる機会が増えて嬉しいから」
「うん、ありがとう」
カフェでノートを広げて勉強なんて学生のようだと思う。
だけど意外と楽しくやれているなと、美弥はほったらかしにしていたカフェオレを手に取る。
「でも、貴女がアメリカ行きを決めるとは思わなかったわ。私はね、向こうに帰っても貴女と会えるのは歓迎なんだけど……大変な事もあるでしょ?」
「うん……勢いで返事しちゃったけど、色々考えると不安になって……行った事のない国で生活できるのかなとか、ちゃんと会話できるかなとか。
でも不思議と、じゃあ行くのやめるって気にはならないから……だったら、できる事からやらなきゃなって」
好きな人に付いていく、それだけの理由で文化も言語も違う国に住むのは簡単な事ではないのはわかっている。
英語だって学生の頃勉強していたはずなのにうろ覚えで、会話なんて到底できない。
だけど今すぐ行く訳じゃない。だったら準備すればいい。
そう思ったらとにかく英語の勉強をやり直そうと、とりあえず英会話教室に入会した。
自分のノートとは別の英会話の教科書を見せて笑えば、ジョディは感心したように頷いた。
「そういう所、美弥は真面目よね」
「でも結構楽しいの。新しい事覚えるのって、嬉しいかも」
「そう思えるならよかったわ」
初級コースから始めて、まだ簡単な英会話しかできない。
だけど元々たいした趣味もなかったから意外と夢中になれて、家でも暇だった時間が全部英語の勉強に置き換わった。
発音とか日常会話とかはレッスンで少しずつやっているけれど、そもそもの英語力が足りないので単語や文法の本も買ってきて一から覚え直しで。
こうやってたまの休日には、わからない文法の使い方なんかをジョディに訊くという生活に変化した。
「仕事はどうするの?やっぱり辞めるの?」
「そうなるよね……でも、すごくやりがいのある仕事って訳じゃなかったから、いいかなって」
今の会社に就職したのは、ユキと一緒に生活できる範囲にあって働きやすいからだった。
つまりユキに合わせて会社を選んだのだから、どうしても此処に残って仕事をしたい、という気持ちは正直な所ない。
職場の人達は良い人ばかりだから、その人間関係だけは少し惜しいなと思うけれど、彼を選ぶのなら仕方ないとも思う。
「でもアメリカに行くとなったら、貴女のご両親はビックリするでしょうね」
「あ、うん……それは一応、全部終わったら挨拶に行くって言ってくれたけど……」
今はまだ本当の姿で人前に出る事はできないから、日本での役目を終えたら一緒に実家に行くと彼は言ったが。
「美弥の両親も真面目そうな気がするけど、貴女があの人相の悪い男を連れて行ったらご両親卒倒するんじゃないかしら?」
「う、うん……それは私もちょっと思う」
優しい人なのはわかっているが、本来の彼は見た目というか目付きというか、美弥ですら悪い組織の人かと思ったくらいだ。
変装をしていない彼は人好きのするような温和な笑顔を浮かべたりしないし、何よりFBIだしアメリカだし、情報が多すぎて混乱するのは必至だろう。
「最初は反対されるかもしれないけど、納得してもらえるまで通うしかないよね……」
両親が美弥を心配しているというのは充分わかっているつもりだ。
それでも二人は頭ごなしに怒るようなタイプじゃないし、ちゃんと話は聞いてくれるからいつかはわかってくれるかもしれない。
流石に二人の反対を押し切ってアメリカには行けない。
「彼、何て言うのかしらね?日本の伝統の"娘さんを僕に下さい!"とかやったら面白いんだけどね」
「ふふ、やらないよねぇ」
くすくす笑うジョディにつられて美弥まで想像してしまい、似合わないなぁなんて失礼な事を思ってしまった。
そんな台詞よく知ってるね、と静かに笑う美弥を見つめながら、ジョディは内心で苦笑する。
(これで結婚はまだしないって言うんだもんね)
親に挨拶して渡米するならもう結婚するようなものだし、そういう意味だと誰だって捉えるだろう。
だけど美弥が過去に恋人を亡くした事は以前に聞いた。だから最後の砦というか、最後の一歩を踏み切れないのもわかる。
婚姻関係でなくともアメリカで住む方法もあるにはある、それについてはジョディも協力を惜しまないつもりでいる。
だから本当に美弥が納得できて、過去の恋人に対して区切りをつけられる日が来たらでいいとは思っている。
出会った頃は泣いたり暗い顔ばかりしていた美弥がこんなに穏やかに笑っている、今はそれでいい。
ジョディにとっては既に美弥も大切な友達になっているのだ。
「困った事があったら何でも言って。英語の勉強もいつでも見るから呼んでちょうだいね」
「ありがとう、ジョディ」
今日の所は終わりにしようとノートを閉じると、ジョディが「よし」と声を上げる。
「せっかくのオフなんだから、ショッピングに行かない?」
「うん、私もそのつもりだった」
「たまにはね、私だって美弥とデートしたいのよ」
「うふふ」
ジョディが拳を握るようにして言うので、不思議なライバル意識がなんだか可笑しくて美弥は頬を緩める。
元カノであるらしい彼女に、彼との惚気話をするのは流石に悪い気がして最初は遠慮していたのだけど。
気遣いなのかもうそんなに気にしてないのか、ジョディから色々訊かれて結局何でも話すようになって、今は良き相談役になってくれて本当に有難く思っている。
優しくて明るくて、はっきりと物事が言えて仕事もできるジョディは美弥にとって憧れだ。
何の面白みもない自分に手を伸ばして連れ回してくれる彼女の存在に助けられている。
だからこそ英語も上手くなって少しでも彼女に近付きたいなと密かに思っているけど、そんな日はまだまだ先だろう。
それでも、アメリカに行ってもジョディがいるのならきっと心強いに違いない。
「さあ服買うわよ服!」
「うん。この前できた新しいビル行ってみる?」
「いいわね、行きましょ!」
意気込むジョディと共に、女同士のデートへと立ち上がった。
「熱心だな」
はっと顔を上げると、隣にいた赤井が物珍しそうに此方を見ていた。
美弥の手には単語帳と、足元にはメモをする為に置いたノートがある。
「あ……最近毎日やってるから、なんか習慣になっちゃって」
夕食も後片付けも終えたら勉強の時間になるのが今の日常だったので、ついいつものように始めてしまった。
今日は彼が来ているのでしていないけど、普段はさらに耳を慣れさせる為に英語教材の動画を流したり、洋画を字幕なしの原語で見たりもする。
晩酌の邪魔にならない程度ならいいかなと思っていたのだけど。
「ごめんね。やっぱり気になっちゃう?」
「いや、構わないが。俺の為のようなものだしな」
小さく読んでいた本を閉じれば、続けてていいと言われ。
今までにない勉強風景に興味がでたのか、酒を転がしながら此方を眺めてくる視線を感じる。
「ジョディにも教えてもらってるらしいな」
「うん。ネイティブの友達がいるとホントに助かる」
「此処にもいるではないか、最適な練習相手が」
え、と視線を上げれば、テーブルに頬杖をついたどこか面白くなさそうな顔が。
英語について訊ねたり教えてもらったりを今まで彼に頼んだ事がないのだけど、やっぱり気になっていたらしい。
「ええっと、シュウはちょっと恥ずかしい……」
「どうしてだ」
「だって私英語力全然ないし、発音とかできなさすぎるから、その状態でシュウに聞かれるのはちょっと……せめて、もう少し上手くなってから」
レッスンの講師とかジョディくらいなら下手でもそこまで抵抗はないけれど、彼相手では近すぎるのだ。
平たく言えば恥ずかしい英語を聞かせて幻滅されたくない気持ちの方が強い。
「だが耳を慣らすのが大事なんだろう?」
「そうだけど……」
「動画などよりも直に聞いた方がいいと思うが」
そう言うと手を伸ばし、美弥の肩を引き寄せる。
「I can’t take my eyes off of you.」
「っ」
低い声で耳元で囁かれて、色んな意味でビクリと反応してしまった。
慌てて視線を彷徨わせる美弥を余所に、依然として愉しそうな唇が耳に近付く。
「I’m in love with you.」
「待って、それ照れるから……」
「ほう、わかるか?」
「これぐらいわかるよ……」
全部の意味が理解できないのだとしても、この状況ならば大体察せられるというもので。
映画のワンシーンのような、なんとも甘い愛の言葉にどう反応すればいいのかわからない。
加えて流暢な英語の発音が囁きに拍車をかけているようで、余計にドキリとして落ち着かない気分になる。
「伝わったなら何よりだ」
「ほら、もう……結局勉強どころじゃなくなっちゃうの」
「すまんな」
本気で悪いと思っていないような口ぶりに悔しさすら感じて。
もう英単語なんて頭に入ってこなくて、吸い寄せられるように顔を上げれば期待通りのキス。
こういう所が本当に敵わないといつも思う。
柔らかな熱と甘さに酔わされ、開けなくなった本を置いてずるずると赤井の胸元に背中を預ける。
後ろから片腕を回されすっぽりと納まったそこで静かに呼吸をすれば、彼の息遣いや心臓の鼓動を確かに感じて心が穏やかになっていく。
温かい、そして満たされている。
「いつか」
「ん?」
「ちゃんと、シュウとも英語で喋れるようになりたい」
「焦る必要はない。気長にその時を待ってるさ」
「……うん」
平和な日々だった。
この先どれだけ大変か全部はわかっていないし、組織を追い詰められなくていつかが来ない可能性だってあるし、その間に彼の身にもしもの事だってあるかもしれない。
楽観視もできなくて不安に思いだしたらキリがないけれど、彼を信じていようと思う。
たぶん、それしかできないのだ。
「あ、ねぇ……ちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「改まってどうした」
「うん……」
ふと昼間のジョディとのやり取りを思い出して、窺うように視線を上向かせる。
訊きづらい話題なのだけど大事な事だからと躊躇いながらも口を開く。
「シュウのご両親は、ご存命?」
「父は行方不明で、母もいるにはいるが、今は少し複雑なようでな」
「…………」
いきなり普通とは違う回答がさらりと返ってきて思わず押し黙ってしまった。
詳しく聞くのも憚られるし、でも聞かずに続けるのも微妙だし、どうしようと狼狽えていると。
「あの二人の事だ、そう簡単にやられたりはしないだろう。だからそれもいずれ解決する時が来る、あまり気にしなくていい」
「そ、そうなの……」
「聞きたい事はそれだけなのか?」
なんか色々気になるけど、彼がそこまで重い空気を出してないからとりあえずは目を瞑る事にした。
「ええっと……会えるようになったらでいいんだけど、私も一度きちんと挨拶した方がいいのかなと思って……」
彼が美弥の両親に会ってくれるのなら、当然美弥もあちらの両親に挨拶するのが通常だと思ったのだが。
そもそも彼の身の上をよく知らなかったとはいえ、複雑そうな事情が増えて普通の事が通じるのかよくわからなくなってきた。
「あ、でも、日本じゃないんだよね……」
彼が本来アメリカに住んでいるなら両親の拠点もあちらなのかもしれない。
日本人っぽい見た目なのでどうも忘れてしまいそうになるけど、挨拶もアメリカにまで行かなければならないのかと考えていると。
「言ってなかったな。俺の父親は日本人だが、母はイギリス人でな。以前はイギリスにいたはずだが、今は違うらしい」
「え、シュウってイギリスのハーフだったの?」
「母がイギリスと日本のハーフだから、正確にはクォーターだな」
「……って事はシュウは、日本人とイギリス人のクォーターだけど、アメリカに住んでて……」
急にグローバルな情報が多くて頭が混乱してきた。
驚く事ばかりで唸るように言葉を反芻させながら、だけどどこか納得もしていて。
そっと視線を上げれば、美弥が好きになった深くて美しい色がそこにある。
(やっぱり普通じゃない)
胸に湧き上がるのは愛しさと、僅かな不安。
複雑な心情を見抜かれたのか、赤井の眼差しが緩やかに細められる。
「時が来たら会わせるつもりだが、それも恐らく全て終わった後だろうな」
「……そっか」
ロックグラスをことんとテーブルに置いた腕が美弥の腹部に回り、さっきよりもしっかりと抱き寄せられる。
「シュウのお母さんってどんな人?」
彼の様子から察すると、どうも温和で優しいお母さんというイメージは想像しづらく。
厳しそうな人だったらどうしようと不安を覚えて仕方ない。
「大丈夫かな、私……」
こんな普通の一般の日本人でいいのだろうか。
そうポツリとこぼせば、小さな笑みと共に頭部に軽く触れられる感覚。
「お前なら問題ない」
「そうかな……」
「ああ、自信を持っていい。母はお前に何かを要求するような性格ではない」
「うん……」
安心させるように言ってくれるけど、それでもあまり自信はない。
世の中の男女達が直面する問題なのだから、こればかりは仕方ないとは思うけど。
「この先……楽な道ばかりではないだろう。それでも心配するな、俺がお前を守る」
「……うん」
彼の言葉は嬉しい、だけどそれに甘えちゃいけないんだろうなと思う。
きっと、ただ守られてるだけじゃ生きていけない。
わかっている。それでも、彼の傍にいたいから。
「私、頑張るよ」
「無理はしなくていい。そのままのお前を俺は愛してる」
「、うん」
こういう人だから離れられないのだと、回された腕に自分の手を添える。
そうやって、彼と一緒に生きるだけの力を必死でかき集める。
「……それで、真純ちゃんが妹なんだよね」
「もう一人、弟がいる」
「え、そうなんだ……そっか、お兄ちゃんなんだ」
確かにお兄ちゃんっぽい気がすると美弥は小さく笑った。
「お前は、一人っ子だったか」
「うん。だから兄弟がいっぱいってどんな感じなのかわからないけど、ちょっと羨ましい気もする。仲は良いの?」
「悪くはない、だが妹とは産まれてから数えるほどしか会ってない。気が付いたら大きくなっていた」
「そっか、真純ちゃんまだ高校生だから、結構年が離れてるんだね」
毎回予想の斜め上の言葉が返ってきて、美弥はそのたびに苦笑を漏らした。
その後も子供の頃の思い出話とかアメリカに渡った時の話とか、珍しく昔の色々な話をしてくれた。
きっとそれだけが全部じゃない事もわかっているけれど、彼について少しだけ詳しくなれて嬉しい夜だった。
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英語の勉強を始めました。
そして超人家族の話を聞かされて一抹の不安を覚える一般人夢主の図。