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眠らない夜の街を迷いなく歩く。
音のない足取りがそこで止まったのは、思いがけずショットバーの明かりと看板が目に入ったからだ。
そういえばこの道を通るのは初めてだったなと気付いた。

時々、無性に酒を煽りたくなる。
仕事で動いている間は憎しみも相俟って気を保っていられるが、ふとした時に虚しさというか、虚無感のような感覚に襲われる事がある。
こんな静かな夜は、死んだ女の事を思い出してしまうから特に。

目的を果たして、敵を潰して、その先の自分に何が残っているのか。
考える必要のない思考に囚われ、結局は全てがどうでもいいような気にさえなってくる。
それを、いつもアルコールで押し流す。

だが日本での簡易的な拠点として使っているだけの自分の部屋は殺風景で、あそこでは余計な感情まで引き起こしそうで気が進まない。
だから、それは気まぐれだった。

男――赤井秀一は一度闇色の空を見上げて白煙を吐き出し、短くなった吸い殻を足元に捨てる。
店の備え付けらしい灰皿にそれを入れると、緩慢な動きで足を踏み入れた。

そのショットバーは年季が入っているように見えたが、店内は所々がリフォームされていて、新旧が違和感なく調和している。
古すぎず、だからと言って過剰に飾り立てられてもいない、暗めの壁の色に落ち着いた照明。
初見の自分に気付いたマスターらしき若い青年が、静かに奥のカウンター席を示す。
憶測だが、元々ここを経営していた店主がいて、何らかの理由で彼に引き継がれたのかもしれないと思った。

煙草とマッチを自分の前に置きながら高い椅子に腰掛けると、ちょうど反対側の端で酔い潰れている女が目に入る。
音で目が覚めたのか女はおもむろに顔を上げると一度だけ此方に視線を向け、あとは頬杖を付きながらぼんやりと虚空を眺めていた。

酷い顔だと思った。
少しだけ見えた女性の顔は、遠目でもわかるくらいに顔色が悪く、目はまるで死んだように何も映していない色をしていた。
明らかに何か事情があり、その上での自棄酒をしているのだとわかる。

だけど自分には関係がない話で、踏み込む気もないのでそれ以上は視界に入れる事をやめた。
注文した酒を喉に流しながら、自分も何かを考える訳でもなく火を点けた煙草の煙を吸い込む。

カウンター席の女性とマスターはそれなりに仲が良いのだろう、時折短い会話が聞こえるが、後はゆったりとした音楽が流れるだけの静かな空間だった。
誰かの干渉を受ける訳でもなく、居心地は悪くない。

吐き出した白い煙が細く緩く立ち昇って、何もない空間に消えていく様子を意味もなく眺める。
まるで人間の儚さのようだなと、どうでもいいことを考えていると、視線を感じた。

無理矢理に酔っているらしいカウンター席の女性が、興味を持ったのかじっと此方を見ている。
それも下心や何か意図を持っている熱視線などではなさそうで、目は相変わらず虚ろだった。

「……寂しいの?」

弱々しい音でポツリと呟かれた。

寂しいのは、そっちの方だろう。
そう答えようとした言葉は、続けられた彼女の問いかけによって掻き消された。

「誰か……大切な人でも失くしたの?」
「…………」

咄嗟に上手い言葉を返せなかった。
見知らぬ人間に話しかけられる事は慣れているはずなのにだ。
彼女の問いは恐らく正解だったが、どう見てもごく普通の一般女性に初対面で言い当てられるとは思わなかった。

「……なぜそう思う」
「私と同じ目をしてた気がする、から……」
「ほう……」

自分と同じ目、つまりは彼女は大切な人を失くしたという事だ。
そんな目をしていたつもりはないが、少しでも見抜いた事に感心を覚えた。

「隣……座っていい?」
美弥ちゃん……」
「……別に、構わないが」
「すみません……」

美弥と呼ばれた女性をマスターが制する。
よくあるナンパの常套句だったが、彼女からそんな気配は感じられなかった。
まるで行き場を失くした迷子のような目をしていて、嫌な気もしなかったので自分はそれを許可した。

どうでもよかったのかもしれない。
正直に言えば、感情を働かせる事すらも億劫だったのだ。

代わりにマスターが頭を下げる傍ら、ゆっくり立ち上がった女性が自分の隣の席に遠慮がちに座る。
狭いカウンターだ、女性が少しだけ身を寄せれば服越しの上腕がそっと触れあう。

「……ありがとう……一人で、いたくなかった……」
「…………」

ハラハラと女性と自分を見比べているマスターに視線だけで大丈夫だと伝えると、近くなった女性の顔を少しだけ覗く。

既に相当飲んでいたようで酒の気配が強い。
そして閉じられた目は、店の暗めの照明でもわかるほどに憔悴している。

女性はそのまま何もせず、言葉も発さず、俯いて微動だにしなかった。
ただ控えめに触れた箇所から伝わる僅かな体温だけを必死に受け止めているかのようだった。

寂しいの?と見透かされた。
自分は寂しかったのだろうか、よくわからない。
だが、聞き返せはしなかったが彼女が寂しく感じているのは確かだろう。
自棄酒をして、誰でもいいから人肌を求めているのか。

本来、知らない女の戯言に付き合ってやるような性格ではない。
だが、自分も少し精神的に弱っていたのか、跳ね除ける気さえ起きなかったのだ。
振り払うのも面倒でさせるがままにしたが、この仄かな体温は悪くないと思っている自分がいた。

煙草が何本も灰になり、何杯目かわからないグラスが空になる頃、隣の気配が突然立ち上がる。
思わず振り返れば、やつれきった目が周囲を彷徨っている。

「……ごめんなさい」

羞恥心を思い出したのか、泣いた痕を隠すように俯きながら聞こえた、か細い声。
女性はさっさと会計を済ませ、店から出て行こうとする。

美弥ちゃん、送るよ」
「いい」

マスターの言葉も聞かないまま、彼女はフラフラと夜の闇に消えて行った。
閉められたドアを呆けたように見つめ、はあ、とマスターが溜息をついた。

「突然、申し訳ありませんでした」
「いや……」

マスターが謝る程、自分は何もしていない。ただ隣に座らせただけだ。

「随分と自暴自棄のようだな」
「ええ……ですが、許してやってください」
「…………」

事情を知っているらしいマスターは悲しそうに眉を下げてそう言った。
どういう事なのかほんの少しだけ気になったが、別にそれだけだった。

静かになった店内、寄りかかられた重みがなくなり、途端に冷たさを感じる腕。
余韻を呑み込むように、茶色の液体が喉を焼いた。

それが、彼女との最初の出会いだった。

















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連載開始2022.1.1