01
仕事がそろそろ終わろうかという頃、自身の携帯電話が小さく震えた。
『今日行ってもいいか?』
余計な前置きもない簡潔な内容。
タイミングがいいなといつも思う。
仕事終わりが大体何時かなんて言った事がないはずなのに、彼からの連絡はそれを知っているかのように送られてくる。
『いいよ』
此方も同じように短く返すと、美弥は退勤の支度をして会社を出た。
彼からの連絡はいつも突然だ。
だけど予定なんてないから、急であったとしても大した問題はない。
帰って自分の夕食を作るついでに、彼が食べる酒のつまみぐらい作ろうか、その程度の変化だ。
電車に無言で揺られ、最寄りの駅からは徒歩。
食材はある程度揃っているが、彼が来るならと途中のスーパーに寄って少し買い足した。
誰もいないマンションの一室に帰ると一人分の夕食を準備して、テレビを適当に眺めながら一人でそれを食べきる。
風呂に入り、髪も完全に乾かして、暇潰しに携帯を弄っていると、ようやく部屋のインターホンが鳴った。
「お疲れ様」
「ああ」
「おかえり」なんていう言葉は違う気がして、出迎える常套句は無難に「お疲れ様」だ。
こだわりがあるのかはわからないが身に纏う服はほとんど黒一色で、ニット帽は欠かせないらしい。
慣れたように部屋の中に入っていく背中から彼特有の煙草の残り香がする。
リビングスペースっぽくしているテレビの前の空間にあるソファ、彼はそこに迷いなく腰を下ろす。
その間にあるローテーブルに用意しておいたつまみと酒を並べると、黙々と飲み始める。
美弥は彼の隣に隙間を開けず座ると、晩酌に付き合って自分用の甘い酒をチビチビと飲む。
会話はほとんどない。
「これ食べる?」などの質問をする事はあるが、世間話なんてものはもっとない。
まるで互いが存在していないかのように、それぞれが一人でその時間を過ごす。
とりあえず付けているテレビからの情報を右から左に聞き流し、美弥は雑誌を読んだり携帯を弄る。
彼もまた、つまみと酒を交互に口にしながら、後は煙草を燻らせているばかり。
二人が共有しているのは、寄せて触れた場所から伝わる互いの体温、ただそれだけ。
その為の時間であり、それ以外は何も必要なかった。
だけど美弥の気持ちは落ち着いている。
気を抜けば闇に引き摺られそうになる意識を、すぐ隣にある温度と彼の息遣いが引き止めてくれるから。
どれくらいの時間が経ったのか、おもむろに美弥の肩に腕が回されると、酒はもう充分飲んだという合図だ。
そのまま顎をクッと掴まれ、視線を合わせられると食われるようなキスをされる。
彼の唇は優しさがなくて遠慮がない、だからそれでいいと思った。
薄目を開けると、獣のような強い瞳がじっと此方を見つめている。その事にぞわぞわと肌が泡立つ。
控えめに触れていた熱が、力強さを伴って熱さに変わっていく。
ああ、そうして自分はまた現実から逃げる選択をしてしまうのだなと、遠くにいるどこか冷静な自分が囁いた。
朝、ベッドで目を覚ますと、彼の姿は既に消えている。
それが常で少しだけ寂しい気もするが、だからといって朝まで腕を回しててほしい訳でもなく。
複雑な気持ちを覚えながら、だけど彼らしいなと美弥は苦笑する。
自分も仕事に行かなければと、気怠い体を無理に起こす。
そうして、また灰色の現実世界へと戻るのだ。
変わらない毎日が、いや、変わってしまった毎日が襲ってくる。
一人しか住んでいない部屋に鍵をかけ、とぼとぼと会社への道を歩く。
第三者から見れば彼とは恋人のように映るかもしれないが、決して恋人などではない。
そもそも美弥は、彼が何処に住んでいて、どういう身の上の人で、どんな仕事をしているかなど一切知らない。
知っているのは"シュウ"という呼び名だけで、それが本名なのかも定かではない。
ふとした偶然で出会い、気が付けば今のように彼が時折家に来るようになった。
規則性はなく、間隔を空けず二日後ぐらいに来た事もあったし、逆に何週間も来ない日だってある。
美弥がそうしたように、あのバーで寂しそうな目をしていた彼もまた、どうにもならない現実に疲れた時に来ているのかもしれない。
ふらりと家にやって来て、体を重ねて、そして朝にはいなくなっている。
その、実にあっさりとした態度を不満に思った事はない。
――私は彼を好きな訳ではない、もちろん彼もそうだろう。
世間ではこういう関係をセフレというのだろう。
だけどどうという事もない。そんな事、どうでもよかったのだ。
何故なら、美弥の心はあの日から凍り付いているから。
(……ユキ)
あの人がいなくなってから、美弥の世界は意味のないものになった―――
Back Top Next
この時期はまだスマホでなく携帯電話ですね。