08
目的のバスが目の前で緩やかに停車し、開かれたドアのステップを上る。
杯戸駅に向かう路線だからか車内は混んでいて座席に空きはなく、美弥は立っている人の間隙を縫って場所を確保する。
「あれ、美弥さん?」
「え?」
声変わりのしていない少年特有の声に名前を呼ばれて振り返ると。
「あ、コナン君!」
「こんな所で会うなんて偶然だね」
時々揺れる車内でバランスを取りながら視線を落とすと、大きくて聡明な瞳が瞬いている。
いつもとは違う路線に乗ったからか、まさかバスの中でばったり出くわすとは思わなかった。
「コナン君、お知り合い?」
その会話に反応したのは隣にいた女子達だった。
「あ、うん、とある事件で知り合ったんだ。僕達によくお菓子を作ってくれる人なんだよ」
「そうなんだ。私、毛利蘭といいます。コナン君はウチで預かってる子なんです」
「私は鈴木園子!よろしく!」
「こんにちは、橘美弥です」
清楚な雰囲気のある長い黒髪の子と、元気で明るそうなショートヘアの子。
二人は高校生だろうか、私服であっても若々しさを感じるからそれぐらいだろうと美弥は思う。
「美弥さんはどこか行く所なの?」
「うん、少し買い物にね。コナン君こそどうしたの?」
「これからみんなで杯戸ホテルのケーキバイキングに行くんだ」
「へぇ、そうなんだ」
それは楽しそうだねと美弥が頷くと、蘭が思い付いたと言わんばかりに声を出す。
「そうだ!コナン君がお世話になってるみたいですし、美弥さんもよかったら一緒に行きませんか?」
「え?」
「予定があるのなら無理にとは言いませんけど……園子もいいよね?」
「うん、いいんじゃない?みんなで食べた方が楽しいし!」
「うーん……」
前から思っていたが、この少年の周囲の人間は皆恐ろしいくらいに気さくではないだろうか。
友達らしい園子もあっけらかんとして乗り気であるし。
初対面の人をいきなり誘うだろうかと若干の困惑を覚えつつ、だけど嫌な気持ちにはならないから不思議だ。
今日は、天気も良かったので久しぶりに足を伸ばして買い出しをしようと出かけてきた。
日用品だったり雑貨だったり、つまり必需品を買いに来たのだが、特に急いでいる訳ではない。
買い物は別に後からでもできるし、それにケーキバイキングと言われたら気になってしまうのが女だ。
「……じゃあ、ご一緒しちゃおうかな。蘭ちゃんと、園子ちゃん、かな?よろしくね」
「はい!よかったね、コナン君」
「うん!」
「みんなでじゃんじゃん食べるわよー!」
バイキングなんて久しぶりだ。
それを初対面の女の子達と行く事になるとは思わなかったが、彼女達がはしゃいでいると何だかこっちまでウキウキしてくるようで。
眩しい笑顔を眺めては美弥も自然と笑みが漏れた。
そんな時、彼女達の奥にいた人物がこのやり取りを見ている事に気付いた。
男性だろうか、それにしては細くて中性的で、どちらなのかよくわからないが美弥が気になったのはそこではなかった。
(あれ?この人……)
下向きのツバのある帽子を被っててしっかり見えないが、目元が見た事あるような気がする。
くりっとした大きめの瞳は人懐っこそうな雰囲気だけど、ふとした時の目線の鋭さが……そう。
(どことなくシュウに似てる……?)
美弥の胸がどきりと音を立てたのが証拠だった。
もしかすると彼の親戚や身内とか、何か関係がある人だったりするのだろうか。
それとも美弥が似ていると思い込みたいだけなのか。
「ボクの顔に何かついてる?」
「え?あ、ごめんなさい……」
不躾に見つめてしまっていたせいで彼に似た瞳が此方を見据えた。
高くも低くもない中性的な声でニヤリと微笑まれ、美弥は頭を下げて視線を逸らす。
仮に彼の近しい人だったとしても、美弥から何か言える事はない。
所詮自分は、根掘り葉掘り訊ける立場ではないのだから。
気まずさでバスの進行方向を見つめてしばらく、杯戸ホテル近くのバス停に到着すると、中性的な人も降りてそのまま真っ直ぐフロントに向かった。
それを横目に見ながらケーキバイキングが開催している場所を探してウロウロして、ようやく会場を見つけると既に大勢の人が列をなしていた。
「うわぁ、すごい人」
これはケーキにありつけるまでに結構な時間がかかるなと、心の準備をしようとするが。
「うそ!?締めきっちゃったの!?」
案内看板に『終了しました』との掲示が取りつけられていて、一同は立ち尽くす。
園子が叫んで詰め寄ったスタッフによると、予想以上の客が来たためにケーキの数が足りなくなり受付を終了してしまったらしい。
見るからに混んでいるので仕方ないとも思うが、ケーキを食べる気でいたのでショックの気持ちがあるのも確かだ。
(どうしようね……)
どこか別の場所、と考えてみるが他にケーキバイキングをやっている所なんてあるのだろうか。
携帯で何か調べてみようかと美弥がバッグを漁っていると、外から突然大きな音がした。
「な、何、今の音……?」
何かが破裂したような、ぶつかったような音。そして、
「きゃああああ!!!」
「えっ!?」
「あ、コナン君!」
遠くから聞こえる悲鳴に、周囲がどよめく。
誰よりも先にコナンが音のした方角へ走っていってしまったのでもうケーキバイキングどころではない。
騒ぎを聞きつけた警備員と一緒になってコナンを追いかけて、外の駐車場で不自然に人だかりができている所に辿り着くと。
見知らぬ男性が頭から血を流して倒れていた。
「っっ!!!」
引きつった声が出たかと思えば、呼吸が止まったかのように息が苦しくなる。
心臓の音だけが耳に響いて、目の前の男性の姿が、ユキと重なった。
「っ、ひ……あ、……ああっ!!」
「美弥さん!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
誰かに肩を揺さぶられている気がするけど何も感じない、何も聞こえない。
見えるのは、ユキの顔、ユキが血塗れで倒れている姿、もう息をしない寝ているだけのユキ。
「ひ……っい、…や…っ!いやああ!!」
実際に彼の事故現場を見た訳ではない。
だけど車に跳ねられたと聞かされた時から、美弥の脳裏にはユキの体が宙に浮いて、
冷たい道路に打ち付けられて、頭から血を流している光景が何度も映し出された。
痛かっただろう、悔しかっただろう。
彼は、薄れゆく意識の中で何を思ったのだろう。
少しくらいは、美弥の事を考えてくれていただろうか。
「、ユキ……っ!!」
その場にいられなかった自分を呪った。
彼の命が消える瞬間を、自分は何も知らずに彼の遅い帰りを待っていただけ。彼を独りで逝かせてしまった。
ごめんねと思う。だけど、どうして置いて行ったのとも思っている。
嫌だ、置いて行かないで、怖い、助けて欲しい、苦しい、痛い。
「蘭姉ちゃん、美弥さんを現場から遠ざけて!」
「う、うん……美弥さん、こっちに!」
「ユキ……、ユキ、が…っ!」
脱力して蹲ってしまった美弥を、蘭達が引きずるようにして倒れる男性から距離を置く。
駐車場のアスファルトにへたり込んだ美弥は、大粒の涙をボロボロと流しながら呼吸困難を起こしていた。
目は焦点を失い、うわ言のようにユキの名を呟き続ける。
「ユキって、何?もしかして倒れてる人の事?」
「違うと思う……これは、フラッシュバックかもしれない」
美弥のショック状態をそう予想していたコナンは、心配する蘭に首を振る。
状況からして、"ユキ"は人の名前かもしれないとも。
蘭に一緒に付いていてもらうように頼んでコナンは現場に戻ったものの、さてどうしようかと頭を悩ませる。
美弥をなるべく早く安全な場所で休ませたいが、コナンは手が離せないし、警察も事件を解決した後でなければ送ってくれないだろう。
時間が経てば落ち着くとは思うが、彼女はかなりぐったりしていて、とてもじゃないが待てる状態ではない。
「高木刑事、美弥さんは事件とは無関係だから先に帰ってもらってもいいよね?」
やってきた高木の了承を得て、コナンは携帯を取り出してある人物に連絡をとる。
しばらくすると呼び出した人物がやってきたので、警察に事情を説明して規制線の中に入れてもらった。
「ごめんね、昴さん」
「いや、君の判断は正しい」
沖矢は眼鏡を押し上げながら駐車場を歩き、「こっちだよ」とコナンの案内に従って真っ直ぐに美弥の元へ向かう。
傍で付き添っていた蘭が沖矢に気付いて驚いたような顔をする。
「昴さん?どうしてここに?」
「ボクが呼んだんだよ!昴さん、美弥さんと知り合いだから」
「ええ、迎えにきました。ありがとうございました、蘭さん」
「い、いえ」
眠っているのか気絶しているのか、蘭の膝を枕にして横たわっている美弥を横抱きにして持ち上げ、規制線から出て車の助手席に乗せる。
「っ、……ユ、キ……」
「…………」
後方に傾けたシートに力なく体を預けているのに眉はきつく寄せられて、時々苦しそうな呼吸を繰り返している。
沖矢はドアを閉め、運転席に乗り込んで車を発進させる。
走行中の車内でも美弥の唇から何度も発せられるのは、「ユキ」ただそれだけだった。
うなされているのだろう、小さく身じろいでは目尻から生まれる新しい涙が頬を伝う。
工藤邸に戻ると、乗せた時と同じように美弥を抱え上げる。
それでも起きる事はなく、沖矢は美弥を抱えた状態で器用に家の鍵を開け、中に入った。
「…っ…、」
固く目を閉じた美弥の唇が震えて、薄く開く。
「、……シュウ…っ」
「…………」
美弥のうわ言を聞きながら、沖矢はリビングのソファに静かに寝かせた。
◇
――暗い、暗い海の底にいた。
苦しくて、悲しくて、息ができない。
ずっとユキを探しているのに見つからない。
ユキに会いたいのに、顔を見たいのに、どこにもいなくて泣きたくなる。
見渡すばかりの闇。
怖くて苦しくて、叫びたいのに声が出ない。
冷たい海を必死でもがいていたら、ふいに温かさを感じた。
(ああ、温かい……誰かの、体温)
人の温かさがじんわりと腕から全身に伝わってきて、苦しかった気持ちが和らいでいく。
息を吸い込めば空気が肺に入ってきて、ゆっくり吐き出すと少しずつ楽になる。
そっと控えめに、だけど確かな温度に美弥の意識は奥底から浮上する。
(シュウ、みたい)
彼の体温は、温かかった。
今感じているこの熱も、それにどこか似ていて安心する。
シュウに寄りかかっている時間は嫌いじゃなかった。
口数は少なかったけれど、甘える自分を受け入れてくれている気がして、私は無理する事なく私としてそこにいられた。
私には、シュウが必要だった――
「……?」
静かに目を開けて、まずそこが自宅じゃない事を不思議に思った。
見た事のあるような調度品に、どこかの家なのかとぐるりと見渡して、美弥は誰かに寄りかかっている事にようやく気付いた。
「っ……!」
「目が覚めましたか」
顔を上げれば至近距離に沖矢の顔があって、慌てて身を起こして離れた。
どうして彼にもたれかかっていたのか、そもそも何故自分は此処にいるのか状況が理解できなくて混乱していると。
「すみません。コナン君から連絡をもらって貴女を運ばせてもらいました。貴女の自宅に無断で入る訳にはいかないので、やむなく僕の居候先ですが」
「あ……そうだ、私……」
杯戸ホテルで血を流した人を目撃したのだった。
あの時の悲鳴だったり駐車場での光景を思い出して、また胸がグッと苦しくなる。
「少し待っていてください」
立ち上がった沖矢がリビングから出て行った。
隣に人の気配がなくなると途端に肌寒いような感覚になって、思わず身を縮み込ませる。
ほどなくして戻ってきた彼はティーカップを手に持っていた。
「よければどうぞ。淹れたてではないので、前回より味は落ちてしまっていますが」
「……ありがとうございます」
テーブルに置かれたのは前回と同じく紅茶だった。
指先に温かさを感じながら喉を潤せば、安心する味がふんわりと広がった。
淹れたてではないと彼は言うが充分美味しくて、まだ残っていた小さな震えが治まっていくようだ。
沖矢は美弥の隣には座らず、向かいのソファに腰を下ろした。
「ショック、でしたよね?事件現場を見るのは初めてですか?」
「はい……」
「無理もありませんね」
普通はそんな所に遭遇したりしない。
一生のうち一度あるかないかぐらいだ。
「……少し、色々思い出しちゃって……誰かが死ぬのは、嫌です」
「……そうですね」
ユキはもちろんの事、シュウだって美弥の傍からいなくなってしまった。
知っている人だろうが知らない人だろうが、人が死ぬという現象が何より怖くて仕方ない。
(最近は起きなかったのにな……)
ユキがいなくなってからはしばらく、ふとした事でこんな風な発作のようなものに襲われた。
時には仕事中なのに泣いて、叫んで、苦しくなって、おかしくなってしまう事もあった。
だから病院に行く事を強く勧められた経緯がある。
時間が経って、少しずつそれが起こる間隔が長くなっていたというのに、
やっぱり赤の他人であっても事件現場を目撃したのは結構なショックだったらしい。
「事件はもう解決したと、コナン君から連絡がありました。犯人は警察に連行されたそうですので、そこは安心してください」
「……はい」
「もう遅いですし、送っていきますよ」
いつもだったら遠慮させてもらうけど、今回ばかりは素直に頷いた。
沖矢の車に乗せられながら、窓の景色を虚ろな目で眺める。
この車が目的地に着けば誰もいない家に一人で帰らなければならないのか、と絶望のような気持ちすら抱いた。
できれば、誰かの気配を感じるこの時間が長くなってほしい。
だけど、そう思っている自分に戸惑いも隠せない。
「美弥さん」
「……はい?」
「何か困った事があれば、僕を頼ってくださって結構ですから。僕は迷惑ではありませんから」
「…………」
(まただ)
誰にも頼りたくないと思っているのに、心の奥で助けを求めている自分がいる事に嫌気が差す。
沖矢の近くにいると、そんな気持ちになってしまうから嫌になる。
彼の熱はシュウに似ているから怖いのだ。
弱い自分が、また目を覚ましそうになる。
美弥は何も答える事ができなかったが、沖矢は構わず車を走らせた。
そのスピードは、心なしかゆっくりに感じられた。
Back Top Next