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プラスチック製の密閉容器に蓋をしてトートバッグにバランスよく詰めると、美弥はそれを抱えて家を出た。

歩美の誘拐事件があった日にコナンから沖矢の話を聞いて、杯戸ホテルで助けてもらったお礼もしていない事に気付いた。
あの時は精神的に余裕がなくて簡単な言葉だけで済ましてしまった気がするので、今からでもちゃんとしなければならない。

どういうものなら喜んでくれるだろうと考えて、結局代わり映えしないがいくつかの料理を作って持っていく事にした。
食事なら形として残らないから処理に困る事もないだろうし、おつまみの時も好意的だったので、何かしら食べてくれるだろうと思った。
その旨を沖矢に連絡すれば快い返事がきたので、休日に約束を取り付けた。
迎えに行きますとも言われたが、お礼に行くのに来てもらうなんてとんでもないと丁重にお断りした。

アスファルトを踏みしめて太陽の下を歩いてみれば、眩しさを感じつつも頬を撫でる風が気持ち良くて美弥は大きく息を吸い込んだ。
しばらくは気持ちが塞いでて家にいるばかりだったけれど、外に出るのは嫌いじゃないし、やっぱり精神的にも大切なんだなと痛感する。

バスに乗って米花町で降りて、もう慣れた道筋で大通りから住宅街に曲がろうとした時。
エンジン音で何気なく道路側を見るとゆっくり走る白いスポーツカーが視界に現れて、それがおもむろに美弥の近くで停車する。
一連の流れがいつか見た光景と同じで、美弥はまさかと一瞬立ち止まる。

「こんにちは、美弥さん。こんな所でお会いするなんて奇遇ですね」
「……こんにちは、安室さん」

乗っている人を覗いて確かめるのもどうかと思い、車の横をさりげなく通り過ぎる予定だったが。
助手席側の窓ガラスを開けて、運転席から身を乗り出すように声をかけてきたのは予想通りの人物だった。

「この辺りにはよく来られるんですか?」
「そうですね、最近は」
「どこか行かれる途中です?」
「ええ、まあ……」

何回か食事にも行ったし、悪い人ではないのかもしれないが、どうも初めの出会いがよくなかったのか彼の顔を見ると警戒心が先に沸いてしまう。
爽やかに笑っている時はまだ胸はざわざわしない。
だけどこの、此方の瞳の動きすらも逃さないとするような目は苦手かもしれないと美弥は苦笑いをする。

「よければお送りしましょうか?」
「そんな、いいです。歩く事も気分転換なので」
「そうですか……それは誰かへの差し入れですか?」

安室の視線が美弥のバッグに注がれる。
どうして誰かに渡す物が入っているとわかるのだろうと内心不思議だった。
もしかしたら自分の荷物がいっぱい入ってるだけかもしれないのに。

「……はい」
「ひょっとして美弥さんの手料理でも入っています?」
「……よく、わかりますね」
「大きめのトートバッグの重心が低い位置にあるし、大事そうに持っているのでお弁当か容器に入った食べ物かな、と。
お店で買ったものなら、大抵は店名やロゴマークがプリントされた紙袋やバッグを使う事が多いと思うので」
「さすがですね……」

さらさらと探偵らしい推理が紡がれた後に「あとは勘です」と茶目っ気混じりに微笑まれて美弥は言葉を失った。
洞察力は凄いなとは思うが、的確に言い当てられて少し怖いような気もした。

「あ、でしたら今度でいいので是非、喫茶ポアロにいらしてくださいね。
5丁目の毛利探偵事務所の下にある喫茶店なんですが、僕そこで働いているんです」

今日もこれから出勤する所なんですと安室は笑う。
美弥が呆気にとられているうちに話が進んでいき、安室が車内からゴソゴソと何かを取り出す。

「これ、よろしければ場所の地図と割引クーポン券です。美弥さんが来てくれたら特別にサービスしますよ」
「えっと……ありがとう、ございます」

お店の宣伝らしいチラシを数枚まとめて美弥の手のひらに乗せられ、ついでにウインクまで頂いてしまった。
来てくださいねと念押しをすると、安室は車のエンジン音を唸らせて行ってしまった。

ポツンと立ち尽くす美弥の髪が、風に乗ってさらりと揺れる。
押しが強い人だなと困惑しつつ、もらったチラシをトートバッグに入れた。

そうこうしているうちに約束の時間が近付いている事に気付き、急ぎ気味に工藤邸へと向かった。






「遅くなってすみません」
「いえ、全然構いませんよ」

遅刻はしなかったもののギリギリの到着になってしまった。
門扉を通り、玄関の前で美弥は恭しく頭を下げたが、彼は笑顔だった。

「杯戸ホテルでの件もお世話になりました。お礼になるかわかりませんが、よければ食べてください」
「気を遣ってもらわなくてもよかったんですが、ありがとうございます」

肩から背負っていたトートバッグを下ろし、容器を取り出して手渡していく。

「沢山あるんですね」
「はい。こっちがおかずで……あと、おつまみもあります」

透明な容器を見せながら一つずつ中身の説明をしていると、沖矢が窺うような声を出す。

「あの……よければ美弥さんも食べて行きませんか?」
「え、でも……」
「このまま休憩もせずに帰すのも申し訳ないですし……」
「お気遣いは有り難いですけど……」

お礼なのに自分が食べてしまったら意味がないと言おうとしたら、彼は遠慮がちに眉を下げた。

「それに……一人で食べるより、誰かと食べた方が嬉しいです」
「…………」

その気持ちは美弥にも痛いほどわかる。
ずっと二人で暮らしていたから一人きりだと寂しいというか、味気無さを覚えるのだ。
最近は子供達の笑顔を見ながら食事する事もあったから、余計に。

喜んでもらいたくて作った料理だ。だから彼がその方が嬉しいと言うのなら、応えるのもお礼のうちかもしれないと思う。
口に合うかどうかも正直気になるので、美弥は戸惑いながら頷いた。

「じゃあ……お邪魔します」
「ありがとうございます。どうぞ入ってください」

一転してふわりと微笑んだ沖矢に招かれ、工藤邸の広い廊下を歩く。

「この前は大変でしたね。阿笠博士から聞きました」
「そうなんです」

カレーを作って子供達と食べる予定が、歩美が人質にされたり絨毯が盗まれたりと散々だった。

「誰も大きな怪我がなかったようなので安心しました」
「はい、それが本当に……何よりでした」

今回のお礼にはその時誘ってくれるように頼んだ件も含まれているのだが、きっとコナンはこっそり教えてくれたのだろうからあえては言わなかった。
だけど、彼には何となく伝わっているような気がするのは何故だろう。

一度来た事のあるキッチンに足を踏み入れると、既に良い匂いがほのかにする。

「貴女がおかずを持ってきてくれるというので、味噌汁を作っておいたんです」

以前教えてもらった通りにしました、と沖矢はどこか楽しそうに言う。
鍋の蓋を開けて見せてくれるという事は、美弥にもそれを出してくれるという意味だろうか。

「私も頂いちゃっていいんですか?」
「もちろん。是非味見をしてもらいたいです」

(もしかして、初めからそのつもりだった?)

美弥と一緒に食べるつもりで作っていたのかもしれない。
用意周到さを感じつつも、どうしてか彼に対してはそんなに不快感はない。
何だか誇らしげに微笑んでいる彼に呆れたように苦笑しながらも、美弥はありがとうございますと素直に感謝を口にした。

「お昼にはまだ少し早いですけど、お腹すいてますか?まだ食べられそうになければ時間を置きますが」
「たぶん、大丈夫そうです」
「そうですか。では頂こうとしましょうか」

予定外ではあったが空腹状態は問題なさそうなのでそう答えれば、細目が緩く弧を描く。

沖矢が棚から皿を出してくれるので、美弥はトートバッグから容器を取り出してキッチンの空いているスペースに並べていく。
おつまみ類は今は食べないだろうから分けて置いていると、容器にくっついていたらしい紙が一枚はらりとバッグから落ちる。
あ、と思っていると、気付いた沖矢がそれを拾い上げた。

「これは、喫茶店のチラシですか?」
「あ、そうなんです。さっき貰ったものなんですけど、落ちてしまいました」
「……これを渡したのは、白色のスポーツカーに乗った男性だったりしますか?」
「は、はい、そうですけど」
「…………」

拾ったチラシをじっと見つめたままの沖矢を見上げる。
難しそうな顔をして、だけどすぐに雰囲気を和らげてチラシを美弥に渡した。

窺うような目をしてみせたが、彼は「何でもありません」とそれ以上何かを言いそうにはなかった。
結局何だったのかはわからないが、仕方ないと美弥は気を取り直して容器に入ったおかずを皿に移し替え、レンジで温める。

テーブルにはよそった白米と、シンプルな味噌汁。
そして順に置かれていく、カレイの煮付け、肉豆腐、それから蓮根と人参のきんぴら、蒸し茄子の胡麻和え。
本来何日かに分けて食べてもらうつもりだったので統一性もなく量も多くないが、品数はそれなりになったようだ。

準備を終えて、二人で並んで席に付く。
恋人でも、ましてや夫婦でもないのに何だか彼と食事をする機会が多い気がする。
意図していなかった事なのでくすぐったいような奇妙な気持ちになりながら、美弥は「頂きます」と手を合わせる。

まずは、彼が作ったという味噌汁の味を静かに確かめる。

「あ、美味しいです」
「そうですか。今回は自信があったんです」
「出汁も良く出てて美味しいです」

わざわざ出汁もとったようで、煮干しの風味と旨味がよく出ている。
「煮干しならできそうだったので」と沖矢は満足そうに言うので、教えた甲斐はあったのだろうかと美弥も少しだけ誇らしい気持ちになった。
此方の反応を見届けると、彼は小皿に取り分けたおかずに箸をつける。

「ああ、やはり美味しいですね」
「ありがとうございます」

ありふれた料理ですけどねと言えば、そんな事はありませんと首を振られる。
黙々とおかずと白米を交互に口に運んでいく沖矢の食べっぷりが気持ちいい。

「……和食、好きなんですか?」

いつも和食をリクエストするし、彼が白米を美味しそうに頬張るので、つい口に出てしまった。

「そうですね……今まではファストフードや適当な物ばかりでしたが、和食の美味しさを知ってしまってからはそればかりですね」
「お米、美味しいですからね」

今までどんな食生活を送ってきたのだろうか些か心配になる。
それでなくとも、彼はどちらかというとパンとコーヒーみたいな生活をしていそうなイメージがあるので、
だから味噌汁を味わって白米を食べていると違和感というか、珍しさを感じて微笑ましく思えるのかもしれない。

彼の分が、あっという間に消えていく。
自分が作ったものを美味しそうに食べてくれるのはやっぱり嬉しくて、いつまででも見ていたくなる。
自分の食事もそこそこに眺めていると、沖矢の少しだけ驚いたような顔が美弥に向く。

「……僕の食べている所、面白いですか?」
「あ、すいません……!じろじろ見ちゃって……っ」

食べている所をじっと見られるのは気持ちのいい事ではないだろう。
行儀が悪い事をしてしまったと美弥は顔を赤らめながら慌てたが、沖矢は気分を害した様子ではなく。
むしろ、ふわりと笑っていた。

「いえ、いいんです……貴女はそうやって笑うんだなと、思っただけですので」
「…………?」
「貴女が笑っている姿を見るのは好ましい、という事です」
「……、ありがとう、ございます……?」

(それは、どういう意味?)

彼の真意がわからなくて、お礼を口にしたものの美弥の動きが一瞬止まる。
言葉を反芻させようとした思考を遮るように沖矢が笑う。

「ゆっくり食べてくださいね。食後には紅茶を淹れますから。前回とは茶葉が違うので味が変わって面白いと思いますよ」
「……はい」

沖矢の態度は変わらないままなので、美弥の小さな疑問は立ち消えてしまった。
というより、それ以上深く考える事をやめた。

若干急ぎめに食事を終えると、後片付けの為に椅子から立ち上がる。
食器洗いも自分がやりますよと沖矢が言ったが、美弥が持ってきた容器もあるので今回は譲らなかった。
洗剤を付けたスポンジで皿を洗い、ぬるま湯で流した皿を隣に立つ沖矢が受け取ってタオルで水気を拭く。
自分よりも背の高い人が、当たり前のように隣にいる気配が久しぶりで何だか落ち着かない。

ユキも時々はお皿を片付けたりしてくれたけど、仲良く並んで一緒にやってくれるタイプではなかったなと思う。
あの人はそう、美弥がお風呂に入っているうちにいつの間にかやってくれたりして、後は素知らぬ顔でいる人だった。

「これだけの品数を一度に作るのは大変だったでしょう?」
「えっ?あ、でも、楽しかったので苦じゃないですよ」

柔らかい声が頭上から聞こえて、思いを馳せていた美弥はハッと顔を上げる。
確かに手順は多かったが、休日に料理をまとめて作り置きするのはいつもの事だし慣れている。

「食べてくれる人がいるってだけで、やる気がでます」
「……美弥さんの手料理を食べられる人間は幸せ者だという事ですね」

そんな大袈裟な、と首を振るが沖矢は笑みを湛えたままだった。
気恥ずかしくなった美弥は視線を落として容器を洗う手元ばかりを見つめた。

その後はリビングに移動して、彼が淹れてくれた紅茶をゆっくりと味わった。
今回は誤って寝てしまわないようにと目に力を入れていると、正面のソファに座った沖矢が小さく笑った気がした。

茶葉を変えたと言っていた通り、確かにこの前とは香りがどことなく違う。
だけど落ち着くもので、心地よい温かさが体を巡り、ほうと息を吐く。

会話がとても多い訳ではないのに、不思議とそれを気まずく感じない。
茶葉の銘柄の話題になって相槌を打って、もう一度カップに口を付けている時に訪れる静けさ。
無言の空間がむしろ心地よくて、気持ちが穏やかになっていくようで。
他人様の家なのにこんなにリラックスしてしまっていいのかと美弥は思う。

ふとテーブルの隅に置かれた、年季の入ったハードカバーの本が目に入る。
絵はなく、文字だけが並んでいる表題はどうやら英語なので、中身も全部英語だったりするのかもしれない。
シュウも酒を片手に難しそうな本を読んでいた事を思い出す。

(シャー、ロック……?)

そういえば彼が読んでいたのもそんなタイトルだったような。
美弥の視線に気付いた沖矢が、ああと声を出す。

「シャーロック・ホームズのシリーズです。ご存知ですか?」
「名前だけは何となく……」

多分昔から有名な書籍なんだろう、美弥でもその単語ぐらいは知っているが、どういう内容なのかは全然知らない。
けどシュウも、彼も読んでいるのなら、面白い話だったりするのだろうか。

「気になりますか?」
「……少し」

視線を注ぎながら僅かに頷くと、沖矢は笑ってその本を手に取った。

「これはアーサー・コナン・ドイルという人物が19世紀後半に創作した、簡単に言えば推理小説です」
「ああ……推理小説なんですね」
「ええ、このシャーロック・ホームズという探偵が主人公の話です」

パラパラと本をめくりながら、主人公やそのストーリーについて懇切丁寧に教えてくれた。
恐らく、美弥でもわかるようにかなり噛み砕いて説明してくれているのだろう、おかげで本当に本を読んでいるかのように内容が頭に入ってきた。
美弥にとっては馴染みのない別世界のような話だったので新鮮で面白かった。
そして解説している彼の顔はどこか生き生きとしていて、本当にこの作品が好きなんだろうなと思った。

「すみません、話に夢中になっていたら結構な時間が経ってしまいました」
「いえ、楽しかったです。また聞かせてください」

美弥はふんふんと聞いているばかりだったが全然退屈ではなかった。
帰り支度をしながら素直に答えれば沖矢は緩く笑みを作る。

「ええ、いつでも。貴女がシャーロキアンになるくらい説明してさしあげますよ」

冗談ぽく言うので美弥もくすりと笑った。
乾いた空の容器をバッグに入れて、お邪魔しましたと玄関先で頭を下げる。

「手料理ありがとうございました。気を付けて帰ってくださいね」
「はい」
「……それと」

踵を返そうとすると、声を潜めた沖矢が少しだけ距離を詰める。

「あの安室という人物は、あまり信用しない方がいい」
「…………、はい」

喫茶店のチラシを渡してきた人物を、どうして安室だと知っているのだろう。
いつになく真剣な表情をしている沖矢に、驚きと疑問で目を丸くさせながらも美弥は小さく返事をした。











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また無駄に長い…
シャーロック・ホームズ関連は素人なので間違ってたら許して下さい。