02
仕事を終え、帰り支度をしながらスマートフォンを確認すると一つのメッセージが届いていた。
『今日行ってもいいか』といういつもの文面に、疲労感など忘れて嬉しさが込み上がる。
「橘ちゃん、良い事でもあった?」
「えっ」
緩んだ顔を見られたようで、近くにいた同僚に訊ねられて美弥はドキリとした。
会社の同僚達は此方の身の上を知っているからか、普段はあまり踏み込んだ事は聞いてこないのだが。
「楽しい事があるなら、よかったよ」
「う、うん、ありがとう」
狼狽えて言葉を探している美弥を余所に、そう言って笑ってくれた。
気を遣われているのだとは思うが、詳しく聞いてくるのではなく、美弥の小さな変化にただ喜んでくれるだけの同僚の存在は有り難かった。
だからこそ少しの罪悪感を覚え、誤魔化すように苦笑して会社を出た。
休日に工藤邸に通うのがほとんどであるが、時には今日のような平日に赤井が美弥の部屋に来る事もある。
心なしか足早で近所のスーパーに行って食材を買い込むと、一目散に帰宅する。
簡単な掃除をしてから晩酌の準備をして待っていると、ちょうどいいタイミングでインターホンが鳴った。
「こんばんは、美弥さん」
「お疲れ様」
沖矢の顔と声でにこやかに立っている姿に、美弥もまた笑みを返す。
最初は違和感を覚えていたが、茶髪の大学院生がやって来る事にもある程度は慣れた。
他に聞いている人もいないのだから敬語でなくともいいと思うので、きっと彼なりのジョークなのだろう。
招き入れると礼儀正しい所作で足を踏み入れる。
そして外界とを隔絶するドアがバタンと閉まると同時、沖矢が早々にチョーカー型変声機のスイッチを押した。
「先にシャワーを使いたいがいいか?」
「うん、どうぞ」
赤井の切り替えの早さにはいつも感心してしまう。
けれど、この部屋で警戒する必要はないと思ってくれているのは、それだけで嬉しいような気がした。
本来の声色と口調に戻ると美弥にキスを落とし、慣れた様子で浴室に入っていく。
「ご飯食べる?」
「ああ、すまない」
以前は朝にシャワーを浴びる人だったが、今は変装を解く為に先に入りたいらしい。
その間に夕食を仕上げてテーブルに並べ、戸棚から彼が置いている飲みかけの酒瓶を取り出す。
久しぶりに赤井が部屋に来た時、置いたままにしてあった酒瓶を見つけて苦笑された事を思い出した。
「まだ残ってたんだな」と彼は言ったが、ただ捨てられなかっただけだ。
此処に、この部屋に、確かに彼が来ていたんだという証のようなものだったから。
まさか死んだと思っていた人が生きていて、またあの時と同じ関係に戻れるなんて、あの時には想像もつかなかった。
流石に酸化が進んでいるだろうから捨てていいと赤井は言ったが、それでもどうしても捨てる気にはなれなかった。
今度は、生きて戻ってきてくれた奇跡の証になったのだから。
もう飲めなくてもいいからと、美弥はその瓶を戸棚の奥に大事に閉まっている。
今の瓶は、その後新しく買ってきたものだ。
これが少しずつ減っていくのは寂しい気もするけど、どこか感慨深くもあった。
「どうかしたか?」
振り返れば、濡れた黒髪を無造作に後ろに流した赤井が立っていた。
少し隈のある深い色の目には言い知れない色気が滲んでいる。
彼のそんな姿を見られる瞬間は、何度見ても飽きない。
「ううん、何でもない」
手にした酒瓶をじっと見下ろしている姿は不思議に映ったのだろう。
美弥がくすくす笑っていると、赤井が僅かに目を瞬かせる。
「お前も飲むか?」
「こんなに強いお酒飲めないよ。でもせっかくだから私も飲もうと思って、買ってきた」
彼と同じ度数を飲んだら確実に目を回すだろう。
美弥が飲むのは度数が3%ぐらいしかない、ほとんど果汁入りジュースのような缶だ。
冷蔵庫から出して見せれば赤井がふっと笑うので、どうも初めて会った頃の飲んだくれていた美弥を思い出されているような気がする。
あの頃はかなり荒れていて無理矢理飲んで酔わせていたから、美弥にとってはばつが悪い。
(だけど、そのおかげで貴方に会えた)
今まで通りの普通の人生を送っているだけだったら、絶対に彼には出会わなかった。
何の変哲もない会社員と、アメリカから来たFBIじゃ、何もかもが違いすぎる。
キュッと詰まるような僅かな胸の痛みをなかった事にして、二人並んでソファの前に座る。
今日は夕ご飯というより酒のおつまみがメインで、小鉢ものが多くなったので見た目は居酒屋か小料理屋のようになった。
少し味を濃いめにしたので酒にも合うし、白米にも合うと思う。
あまり飲めない美弥はそれをおかずにして白米を口にして、その調和に満足した。
「ん、美味いな」
「ありがとう」
頷いてロックグラスを傾ける姿に、美弥は自然と笑む。
何も言わずに食べていた彼が、いつの間にか言葉にしてくれるようになった事が、胸をじわりと満たす。
食べ終わった食器を先にあらかた片付けると、まだじっくりと酒を楽しんでいる赤井の隣に戻る。
彼が美味しそうに食事をしている風景を隣で見られるのもいいが、やっぱり体温を分け合えるくらいに密着した位置が一番安心する。
テレビの映像を何となく眺めながら缶のお酒を舐めるように飲んでいると、おもむろに赤井の腕が肩に回されて距離がぐっと近くなる。
顔を上げて隣を見ようとした矢先に、柔らかくて熱い唇に捕食される。
「甘いな」
「……シュウは、苦い」
彼にとっては甘味が強いかもしれないが、甘い果実酒を飲んでいるのだから仕方ない。
美弥だって、煙草とバーボンの強いアルコールのおかげで彼のキスはかなり刺激的なのだ。
対抗するように言えば、至近距離で赤井の口角が上がる。
「嫌か?」
「……嫌じゃない」
悪びれない言葉に悔しいなと思いつつも簡単に翻弄されて、再び与えられる痺れに似た甘さに溶かされていく。
粘膜から伝わるバーボンの余韻と、彼の纏う煙草の匂いで頭がぼうっとする。
外でこの銘柄の煙草の匂いがしただけで体が震えるくらいには、もう自分はとっくの昔に躾けられている。
嫌だと思う訳がない。
リップ音を鳴らして唇が離れると、赤井は美弥の肩を抱いたままグラスを転がしている。
いつからだろう、恐らく彼が生きていると教えてくれた頃から、キスを含め、どうも彼からのスキンシップが増えたと感じている。
一緒に寝てくれたり体温を分けてくれたりは以前からそうだったが、それ以外の普通の場面でもふいにキスをされたり、こうやって遠慮なく触れる事が多くなった。
(アメリカで暮らしてたから?)
見た目は日本人っぽく見えるが、FBIに所属しているという事は普段はアメリカに住んでいるのだろう。
という事は、考え方や文化はアメリカ人の感覚なのかもしれない、そう考えると少しだけ納得できる。
外国人の感覚からしたら、こういうスキンシップは普通の範疇なのだろう。
日本人が考えるよりも特別な意味はないのかもしれない。
触れられるのは好きだから全然構わないのだけれど。
きっと、必要以上に身構える事もないのだと思う。
「明日は休みだろう?」
「うん、そうだよ」
「たまには外に出かけるか」
「えっ?」
明日は休みだからずっとくっついていられるな、と思っていたら。
意外な言葉が降って来て美弥は思わず体を起こした。
「問題があるか?」
「う、ううん、ビックリしただけ。嬉しい」
「ならいいな。とは言っても、変装してだが」
「うん……そんなの、全然構わない」
沖矢になっていたとしても、彼は彼なのだ。
誘ってくれた事が嬉しくて、美弥は甘えるように赤井の首に抱き付いた。
「行きたい所はあるか?」
「……えっと…………」
「だろうな。希望があればと思って聞いてみただけだ」
彼と何処かに出掛ける事なんて考えもしなかったので、行きたい場所が急に思い付かなくて固まってしまったが。
そんな返答になる事など予測していたのだろう、律儀に抱き締め返しながら楽しそうに笑う声が聞こえる。
「まあいい。そのつもりでいてくれ」
「……うん」
明日どうするか、きっともうプランはあるのだろう。
美弥が目を細ませて笑えば、また唇が絡み合う。
自分はいつから彼のキスを待つようになったのだろうと、陶酔する意識の奥でぼんやりと考える。
回された手のひらに後頭部を支えられると、まるで獣に捕まった小動物のような気分になる。
逃げる気は最初からなく、僅かな躊躇いすらも掻き消されて、ただその腕の強さに逸る高揚感が抑えられない。
彼が居候をしている家ではこんな風にできないので、此処では遠慮しなくていいのだという事実が美弥の箍を外す。
ついさっきまで飲んでいた自身のアルコールと、送り込まれたバーボンの酒気で思考が余計に麻痺していく。
ふわふわした視界で見える、鋭いのにどこか孤独を感じさせるその瞳から目が離せなくて、美弥は首を引き寄せて自身の唇を押し付ける。
「ん……っ」
彼には及ばないかもしれないが、美弥だって彼に気持ち良くなってもらいたいと思っている。
ありったけの知識で舌を差し込んで粘膜を擦れば、吐息なのか笑みなのか赤井が小さく声を漏らす。
「今日は随分と情熱的だな」
「……うん」
「酔いやすいのも考えものだな」
とろんとした瞳が一心に赤井を見つめている。
アルコールが入ると美弥は大胆になるというのは、この部屋に来るようになってからわかった事だ。
バーで出会った時は衝動的だったが、本来の美弥はとても理性的で、寂しいからと人肌を求めるような性格ではない。
甘えられる事は問題ではないが、3%程度のほとんどジュースのような酒でこんな風になってしまうのは、それはそれで心配だと赤井は苦笑する。
「いや?」
「もちろん歓迎だ。だが、他ではこんなに酔ってくれるなよ」
主導権を奪い返して、美弥をソファに沈めるとまた舌を絡ませる。
赤井の指が美弥の劣情を煽るように、するりと地肌を滑る。
音を立てて吸われて聴覚まで侵食されながら、艶めかしい舌が首筋や薄い肌を這っていく。
ゾクゾクと欲に支配されていく感覚に美弥は体をよじらせるが、明確な刺激はなかなか与えられなくて、もどかしくなって熱い吐息が漏れる。
「っ……シュウ」
「どうした?」
物足りなくて瞳を覗けば、何もかも見透かしているその深い色が緩く弧を描く。
わかっているのに聞いてくる、意地悪だ。
知り合ったばかりの頃は、こんな風に時間をかけたりしなかった。
繋がれればそれでいい、それは恐らくお互いの共通意識だったはずなのに。
だから恋人同士のような絡みをされると美弥はどうしていいかわからなくなる。
赤井の、静寂をまといながらも獲物を逃さないと言わんばかりの目に見つめられると弱い。
なけなしの理性を引き剥がされると、どうしてか胸の鼓動までも高まっていく気がするから。
否が応にも湧き上がってしまう感情の名を、美弥は知りたくない。
気付いたら戻れなくなるから、まだ気付かない振りをしていたい。
「ベッドに、行きたい……」
「ねだられたら応えるしかないな」
だから本当は、何も考えられないよう激しく揺さぶられるぐらいがいいのに。
近頃の彼は全然そうしてくれないから、困る。
反応を確かめるような指先は自分勝手に動いてくれなくて、まるで慈しまれているようで。
割り切っているし、わきまえている。だけど溺れてしまいそうになる。
いや、もう既に溺れてしまっているのかもしれない。
腕の中が心地よくて、そのまま溶けてしまいたいと何度思った事だろう。
もしかしたら、もう彼から離れられないのかもしれないと、遠くにいる自分が耳元で囁いている気がした。
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長くなったので前後編に。
携帯がスマホに変わってます。