01




沖矢が赤井だと明かされてから、ずっと渦巻いていた美弥のモヤモヤが晴れた。
避ける必要はないんだと、いつでも会ってもいいんだと思うと、気持ちが勝手に上向いていく。

彼が生きているだけで嬉しくて、顔が見たくて、休日には頻繁に工藤邸に出向くようになった。
予定がなければ来ていいと言われているので、確認のメッセージを送ればその都度大丈夫かどうかの連絡が返ってくる。
だけど家主のいない家に勝手に出入りしていいものかと、少し心配にもなって。
いいのかな、と尋ねてみたところ、家主の許可は既にとってあるらしい。
心の広い家主だと戸惑いつつも有り難く思い、美弥は心なしか浮き足だって彼のいる家を訪ねた。

「好きに寛いでくれ」
「うん」

二人しかいないからだろうか、沖矢の姿ではあるが声は変わっていなかった。
沖矢でいる事は仕事のようなもので、その間は基本相手をしてやれないがそれでもいいかと最初に聞かれたが、美弥にとっては大した問題ではなかった。
会話なんて元々そんなに多くなかったし、無言でも気まずくならないから以前のような関係でいられたのだと思う。
会いたいから来ているが、構ってもらいたい訳ではない。
彼が生きているという事が確認できて、息遣いを感じていられるだけで満足なのだ。

美弥の作った料理が食べたい、そう言われたら応えずにはいられない。
でも頑張りすぎなくていいとも補足されたので、工藤邸のキッチンに立った美弥はあまり気負わない、以前にも彼に出していたような食事を作った。

「美味いな」
「ありがとう」

ある程度準備をしておいて、ばらつきはあるが食事の時間帯になると一旦仕事の手を止めて現れる彼に合わせて昼食を用意する。
沖矢の恰好をした彼はそれを静かに平らげる。
多くの賛辞を並べ立てるような人ではないが、満足していそうなのは目を見ていればわかるので、美弥はそれを眺めるのが好きだった。
誰かが自分の料理を嬉しそうに食べている姿を見るのは前から好きだったが、加えて彼が生きて動いている事もあいまって感動すら覚える。

(そういえば、沖矢さんに料理を教えてって言われたけど……)

あの時、彼は世話になった人の味を再現したいと言っていた。食べられなくなって後悔しているとも。
つい先日には、『どう再現しようとしてもやはりお前の味にはならない』なんて零していた。

(もしかして、私の料理を気に入ってくれていたって事?)

結び付いたかもしれない事実に、美弥は目を丸くさせる。
いや、だけど、気のせいかもしれないとも思う。
美弥が知らないだけで、彼には同じような関係の人が他にもいるかもしれないのだからと、浮かれてしまいそうな頬をどうにか引き締める。

「どうした?」
「えっ」
「表情が変わってばかりいるぞ。気になる事でもあるのか?」
「……えっと…」

感情の機微に聡いらしい彼に指摘され、美弥は目を泳がせる。
聞いていいものか、だけど違っていたら恥をかくだけだ。
どうにか誤魔化したいが、見透かすような双眸が眼鏡の向こうから此方を見つめていて、抗えなくなる。

何でも聞いてもいいと言われた。
だから、少しくらい素直に訊ねてもいいのだろうか。

「……どうして、料理を教えて欲しいなんて、言ったの?」

お世話になった人って誰、なんて直球な質問はできなくてそう口にすると、赤井は「ああ」と何でもない風に頷いた。

「沖矢の状態でお前と接触する口実が欲しかった。上手くいけば、お前が作ったものが食べられるしな」
「…………」

それはつまり、どういう事だ。
遠回しな言い方をしてしまったが為にはっきりとした明言がなくて、腑に落ちない気持ちでいると。
彼は、くすりと笑った。

「言っただろう?お前のが食いたいと。俺をそうさせたのはお前だ、美弥
「っ……」

美弥の心を読んだような言葉に胸が詰まる。
だから沖矢は、いつもあんなに美味しそうに食べてくれていたのか。
彼は沖矢だったけど、それでもやっぱり"シュウ"だったのだ。

「……あ、ありがとう」
「礼を言うのは俺の方だがな」

嬉しくて、だけど少し気恥ずかしくて。
柔和に笑う顔が直視できなくて、目を伏せながら箸を進ませた。


キッチンに立っている以外は、美弥はひたすらに彼の存在を感じられる場所にいて緩やかな時間を過ごす。
美弥は、赤井がFBIとして具体的にどういう仕事をしているのかを知らない。
だけど書類を読んだり、誰かと連絡をとったり、難しい顔をしてパソコンを眺めていたりと、意外と忙しそうにはしている。
だから邪魔をしてはいけないと、最初は違うソファに座ってお茶を飲んでいたのだが。

「来ないのか?」
「……いいの?」

彼は自身の隣の空いているスペースを示して、そう言った。
いいのだろうかと美弥は遠慮がちに首を傾げる。

「邪魔にならない?」
「問題ない」

以前にも聞いた言葉に懐かしさを覚え、自然と笑みが漏れる。
美弥は静かに彼の傍に寄ると、そっと腰を下ろした。

僅かに体を寄せると、しばらくしてじんわりと体温が伝わってくる。
ああ、この温かさだと思うと安心して、気持ちが穏やかになっていく。

窮屈じゃないかな?とチラリを隣を覗いてみるが、彼は集中しているのかじっとパソコンの画面を見つめているので、寄り添っている事は別に気にならないらしい。

「退屈じゃないか?」
「うん、大丈夫」
「そうか」

仕事の邪魔をしているのは此方なのに、彼の方が美弥を気遣うような事を言う。
だけど暇を持て余すという事はない。
今までだって特に会話もせずに体温だけを分け合って思い思いの事をしていたのだから。
彼の作業を意味もなく眺めたり、持ってきた本を読んだり、うとうとしたり、それだけで時間はあっという間に過ぎていくし、美弥は満足だった。


そして夜になって夕食も終えると、シャワーを浴びた彼は本来の赤井の姿に戻る。
闇のような漆黒の髪が艶めき、上気したシャープな頬に浮かぶ、少し隈のある瞳。
それが見られれば今日の仕事は終わったという合図だ。

「……シュウ」
「ああ」

名前を呼べば答えてくれる、それがこんなにも嬉しい。
隠されていたものが明かされる貴重さと、それを見せてもらえる優越感に頬を緩ませていると、彼の目が自然な動作で降りてくる。

「構ってやれなくてすまない。寂しかったか?」
「ううん」

そう言ってもらえるだけで満足で、美弥は首を振って笑う。
躊躇いのない腕が伸びてきて、抱き締められながら触れられる彼の唇は気持ちいい。
次第に深くなっていくキスに瞼を震わせて、甘えるように首に腕を回す。
もしかしたら自分は堕落しているのかもしれないと思う事もあるが、彼の体温を感じると安心するのだから仕方ないとも思う。

だけど、じっとりと粘膜を絡め取っていた舌は意外にもあっさりと離れていく。

「シュウ……?」
「この家ではこれ以上は嫌なんだろう?」
「そう、なんだけど……」

最初に沖矢が赤井だと明かされた時は、嬉しくて勢いで最後まで進んでしまった。
美弥としても、本音を言えば今この時もベッドに雪崩れ込む事の方を期待してしまっているが。
だけどやっぱり他人様のお宅でという事が、どうしても本能にストップをかける。

それを明確に言葉にした訳ではないし拒否をした事もないのだけれど、美弥が躊躇っている事に気付いた赤井がその先に進む事をやめるようになった。
有り難いのだけど少し残念にも思っていて、美弥はいつも複雑だった。

「でも……いいの?」
「ああ、気になるなら無理する必要はない」
「……うん」

躊躇いを感じてはいるが、それとは別に彼が望むのなら、しなきゃいけないとも思っていた。
それが美弥と赤井の前提だったから。
色々あったけど、元のような関係に戻ったという事は、そういう事だと思っていたのに。

赤井の部屋で待っていた美弥をスマートに促して、二人で同じベッドに入る。
逞しい腕が背中に回り、引き寄せられた状態で美弥はチラリと彼の顔色を覗う。
それを見て小さく笑ったり、軽くキスをしたりして、彼はそのまま眠りにつくのだ。

(いいのかな?)

彼がどういうつもりなのかわからない。
自分達は、大切な人を失った傷を舐め合う為にできた間柄だったのだから。
それをしなければ、どうして自分達はただこうやって寝転がっているのだろうか。
以前とは違って大切にされているような感覚に、なんだか逃げたいような気持ちになって目を背ける。

だけど、自分達は"何でもない関係"でいい。
美弥だって別にそれでいい。この体温さえ感じられれば、それで。

赤井の腕の中で美弥は念じるようにしながら思考を遮断させた。






翌日になると彼は既に沖矢になっていて。
どうやって変装しているんだろうと、しげしげと見上げていると、くすりと笑った彼の唇が美弥のそれに掠める。

未だに沖矢の姿で接触されるのはどうも慣れない。
だけど意地悪が成功したような楽しそうな目が浮かんでいるので、まあいいかと思った。

日中、彼は結構な頻度で片耳にイヤホンをしたままで作業をしている。
何を聞いているのだろうか、言葉にした事はなかったが、視線だけで読み取ったのか彼はイヤホンに触れながら「仕事だ」と言った。
それ以上追及する事もなく、そうなんだと頷いて、美弥はいつものようにまったりと過ごす。
料理の本を見つめながら今度は何を作ろうかなんて考えていると、ふいに隣にいた沖矢が立ち上がる。

「どうしたの?」
「少し出てくる」

何もかもそのままの状態で、だけど何故かキッチンから彼が煮込んでいた鍋を持って出て行こうとするのを、美弥は慌てて追いかけた。

「私、どうしたらいい?」
「いい、此処にいろ。誰か来ても出なくていい」
「う、うん」

首元のチョーカーに触れると、沖矢の柔らかい声になった。
バタンとドアが閉まり、しんと静まり返った家。

急に時間が空いてしまい、さてどうしようかと美弥は無駄に広い屋敷で頭を捻る。
いつ帰るのか言わなかったので、戻ってくる明確な時間はわからない。

辺りを見渡して、とりあえず掃除をしようと決めた。
よそ様の家なのであまり好き勝手にはできないが、美弥が使わせてもらっているキッチンやリビングあたりぐらいは綺麗にしようと思った。

(なんだか、主婦みたい)

思いのほか綺麗なシンクを磨き始めていた手がピタリと止まる。
ふと考えてしまった事が、胸にちくりと罪悪感の影を落とす。
以前にも美弥は二人で住んでいて、ユキを待ちながら家の掃除をしている事もあったが、それから結構な月日が経った気がする。

(ユキ……)

他の男の帰りを待っている自分を、あの人はどう思うだろう。
別れた訳ではないのにこうしている自分は、きっとユキを裏切っているのだろう。

あの人を忘れた事は一度だってない。
だけど、毎日ぼうっと眺めていたユキの写真を最近はあまり見られなくなった。
それはもしかしなくても罪悪感からだ。

(弱い自分でごめんね、ユキ)

心でユキを想いながら、現実ではユキに顔向けできない事をしている。
随分矛盾しているとは自分でもわかっている。
だけど美弥は、誰もいないあの部屋で一人きりで生きられるほど強くなかった。

ごめんと、近頃は心で謝ってばかりいる。
鬱々とした気持ちを紛らわせるように部屋の掃除を終わらせ、夕食の準備をする。
いつ帰ってくるかわからないので、温め直せる物を用意してラップをしてテーブルに並べた。

やる事がなくなってしまってからは、しばらくリビングのソファでフワフワと惰眠を貪る。
だけど、やっぱり一人きりは寒い。
テレビなどをぼんやり眺めても、なんだかちっとも頭に入ってこない。

そうしていると、玄関から物音がした。
帰ってきたかもしれないと美弥が慌てて出て行くと、沖矢の姿があった。

「おかえり」

まるで尻尾を振っている犬のようだと自分でも思った。
待ち遠しかった事が笑顔に表れてしまっただろう出迎えに、彼は僅かに驚いた顔をして無言で此方を見返してくる。

(……あれ?)

もしかしたら彼は美弥の存在を忘れていたのかもしれない、そんな事すら思った。
こんな新妻みたいな出迎えはやりすぎただろうかと、わきまえなかった自分を反省しかかっていると。
沖矢は首元のボタンで声を変えて頷いた。

「悪くないな、おかえりと言われるのは」

確かに、こんな状況は初めてだったかもしれない。
小さく微笑まれて、どうやら失敗ではなかったようなので安心した。

彼が帰ってきて嬉しいが、時計を見れば結構遅い時間になっていて。
帰ってきたばかりで慌ただしい所を付いて回っても邪魔だろうからと、美弥は沖矢の後ろ姿に声をかける。

「夕食作っておいたから、よかったら食べてね。私、明日から仕事だからそろそろ帰るね」

それだけを告げて、リビングに荷物だけ取りに行こうと踵を返した瞬間、腕を引かれた。

「せっかくなら泊まっていけ。明日の朝は送る」

唇が触れそうな距離で赤井がそう囁いた。
今度は美弥が驚いたように彼を見つめ、そして大した抵抗もできずに体が勝手に頷いていた。

「……うん」

ふと現れる、彼の深い目に美弥は敵わないなと苦笑して、ゆっくりと目を閉じた。











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3章に入りました。新たな日常。
ここから"シュウ"が"赤井"表記に変わります。けどまだ慣れない。