08
――少し前までは、この当たり前の日常が壊れるなんて思っていなかった。
仕事から帰ってきたユキが疲れた様子で椅子に座った。
今日は帰りが遅くなると聞いていたので美弥は先に食べてしまったが、テーブルを挟んだユキの正面で夕食に付き合いながらテレビを適当に眺めてみる。
並べられた食事を無言で掻き込みながら、ユキも視線をテレビに向ける。
彼は元々口数が多い方じゃない。
料理にだっていちいち美味しいとかは言ったりしないけど、満足しているかは箸の進み方でわかる。
「ユキ、おかわりいる?」
「ん」
すっと差し出された茶碗を受け取り、炊飯器からご飯をよそう。
彼の前に置くと小さな返事が聞こえた。そして、おかず片手に白米を口に運ぶ。
変わらない、毎日の普通の光景。だけど美味しそうに食べる姿を見るのが好きだった。
あまり食べ過ぎるとカロリーオーバーしてしまいそうなので、こっそりと食材をヘルシーなものにしているのは内緒だ。
「これ、何か違う?」
「えっ?」
「いつもと味が違う」
まさにヘルシーに調整した料理をユキが指差すので、ちょうど考えていた事がバレたのかとドキリとする。
味見した時には明らかな違いは感じなかったと思っていたけど。
「ちょっと、豆腐を混ぜてみたんだけど……駄目だった?」
「いや?これはこれで良い」
「……そう?ならよかった」
そう言ってユキは白米と一緒にそれを食べた。
何も言わないけど、味付けとかちゃんとわかって食べてるんだなと、少し嬉しくなった。
そんな時、来客を知らせるインターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろうと、美弥はモニターも見ずに玄関に行って鍵を開けた。
扉の向こうにいる人物を見て、美弥は目を見開いた。
ニット帽を被った男性が煙草を咥えて静かに佇んでいる。
その鋭くもどこか寂しげな目が、無言でじっと美弥を見つめている。
「シュウ……」
呆然としながら思わずこぼれた名前。
背後からカタンと音がして足音が聞こえる。
まずいと思って振り返ると、立ち尽くしたユキが怪訝な表情で首を傾げた。
「美弥、そいつ……誰?」――
「っ!!」
ハッと目が覚めて、美弥は思わず周囲を見渡した。
今はもう見慣れた一人分のベッドで自分は横になっていて、外はまだ薄暗いまま。
夢だとわかってもまだ胸がドクドクと音を立てている。
(なんていう夢……)
自分の罪悪感が具現化したような光景だった。
赤井を見るユキの目が、そのまま美弥に突き刺さる。
(やっぱり、ユキは怒ってるかな……?)
動揺を逃がす為に吐いた息は、思っていた以上に掠れていた。
*****
少し大きめのバッグを手に電車に揺られて数時間、地元の駅に降り立って美弥は息を吐いた。
(久しぶり、でもないか……)
大学時代から親元を離れていたので、生まれ育った街を見るととても懐かしい気持ちになる。
葬儀の時やそれ以降にも帰ってきたはずだが、今ほど精神状態が落ち着いてなかったのでその頃の記憶は曖昧だった。
学生時代に何度も通った場所は、帰って来られて嬉しいなと思うのに、どこか悲しくもある。
――この地は、ユキとの思い出が詰まった場所。
駅からはバスに乗り込んで、慣れ親しんだ道を走る事しばらく。
車で迎えに行くよと両親に言われたが、今回はそれを断って流れていく町並みをぼんやり眺めた。
最寄りのバス停で降りると、ユキと並んで帰っていた道のりをなぞるように一人で歩いた。
変わったようでいて変わっていない景色をじっくり見ると立ち止まってしまいそうになるから、足だけは動かし続けた。
そして久しぶりの自宅に戻れば、待っていたであろう両親が穏やかに迎えてくれた。
「おかえり」と言われただけで泣きそうになって、なんとか堪えて笑い返す。
ユキの事ももちろん知っているので心配しているだろうに、両親はその話題には触れずに、素直に美弥の帰省を喜んでくれた。
今までは年に数回は顔を出していたけど、葬儀以降は一度も帰ってなかった。
気持ちに余裕もなかったし、何より此処は、どこにいたってユキを思い出してしまうから。
だけど、逃げてばかりもいけないのだろうと。
現実を思い出して、ちゃんと向き合わなければならない。
そう思ったから美弥は連休を利用して実家に帰ってきたのだ。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「うん。今は食べれてるよ」
ご飯は食べてるのか、仕事には行けているのか、お金には困ってないか。そんな事を次々に尋ねられて美弥は苦笑する。
美弥が一人で生きている事がそんなに心配なのだろうかと思いつつ、心配に決まってるよなとも思うから邪険にもできない。
早い段階からユキと付き合っている事を知っていた母だから余計なのだろう。
「心配なのよ……貴女がどうしてるのかって……」
「……うん」
ごめんね、と心の中で呟く。
だけど自分は、母親が思っているよりもしたたかに生きている。
「……お前こっちに帰って来てもいいんだぞ?あちらで住む必要もあまりないだろう?」
「…………」
父親が言葉を濁しながらもそう言った。
確かに半ばユキを追いかけて上京したようなものだ。
彼がいないのなら東京で一人で住んでいても仕方ないのだろう。
親の気持ちはよくわかる、気遣ってくれている事も有り難いと思う。
だけど、それを承諾する気持ちにはなれずに口を噤む。
何に躊躇っているのか、その理由を美弥はもうわかっている。
両親に応えられない事にも罪悪感を覚えて、曖昧に笑っている事しかできなかった。
両親との話が一段落した後はリビングを出て階段を上り、自分が使っていた部屋へと足を踏み入れた。
母親が掃除してくれているのだろう、清潔で埃っぽさもなく、学生時代の美弥の私物がほとんどそのまま置かれていて懐かしさが込み上がる。
(時が止まってるみたい)
その場に荷物を置いて綺麗なベッドに腰掛けると、まじまじと部屋を見渡す。
子供の頃に親に買ってもらったものだったり、それ以外のものだって残って飾られている。
昔から使っていた本棚は、いくらか新しい物も並べられているようだけれど。
下の段には、美弥の学校の卒業アルバムらしき背表紙や、子供の頃からの写真が収められている冊子が見える。
引き寄せられるように立ち上がって、その中の一冊のアルバムを取り出して、一呼吸をした後に勇気を出してそれを開いた。
「ユキ……」
学生時代の写真は、女同士で撮ったもの以外はほとんどユキと一緒だ。
他の友達と一緒に大勢で撮ったものや、気持ちを隠した状態で友達の乗りで撮ってもらったもの、それから付き合いだしてから記念で撮ったもの。
学校だったり、ちょっとしたデートだったりの、様々な風景の中で笑っている美弥と、あまり笑っていないユキ。
彼はかしこまって撮る写真がそんなに好きじゃなかったようで。
何気ないシーンでは少しおどけた顔をするけど、かっちりとした記念撮影は気乗りしてくれなかった。
だから旅行先では仲居さんにこっそりとお願いして、食事中などに旅館からのサービスという事にして有無を言わせず写真を撮った事もあった。
二人で並んで写っている写真はそういうのが多かった。
(写真の中にしか、もういない)
まだ少し若い、色褪せないユキが写真の向こうにいる。
淡い恋に想いを馳せていた頃と同じ自分の部屋を振り返れば、そこかしこにユキの欠片が残っている。
思い出ばかりに囲まれていると、まるで生きているかのように錯覚してしまう。
アルバムを閉じてベッドに置き、年季の入った自身の机の一番上の引き出しを静かに開けた。
そこを開くのは、少し怖くもあった。
(ああ、懐かしいお祭りの……)
隠すように仕舞い込んだ奥の方に、大切に置かれている小箱がある。
その蓋を開けると、色褪せたおもちゃのアクセサリーを見つけた。
中学時代に、クラスの何人かの友達と近所のお祭りに出掛けた事があった。
男女入り混じった集団の中にユキもいたけれど、あの時はまだ仲の良い友達ぐらいに思っていた。
立ち並ぶ露店でたまたま目に入った輪投げの店で、美弥がいくら投げても景品が取れないでいると。
見かねたのかユキが隣にやって来て、美弥が狙っていた景品をあっさりと取って、無言でそれを手渡してくれたのだ。
いいの?と訊けば、俺はいらねぇよ、なんてぶっきらぼうな言葉が返ってきた。
美弥自身も、ものすごくそれが欲しかった訳じゃない。
ただ始めてみたら全然取れなくて躍起になってしまっただけで。
だけど、取るだけ取ってさっさと歩いて行ってしまったユキの背中を見て胸が掴まれた事を覚えている。
思えば、あれが最初だったかもしれない。
「っ……」
封印していた思い出が溢れて、記憶が勝手に蘇っていく。
初めて手を繋いだ日の事。
付き合う事になっても自分達の距離感はあまり変わらなくて。
お互い別々の高校だったから帰りの駅で待ち合わせして、たまには外のどこかで座ったりもしたけど、
とりとめのない会話をしながらブラブラと帰るのがいつもだった。
触れたいな、と思ったのは美弥だった。
だけど手を繋ぎたいとはなかなか言えない日が続いた。
意を決して口に出したのは、バスを待つ為のベンチに座っている時。ちょうど他には誰もいなかった時だと思う。
たぶん顔は真っ赤だった。繋ぎたいと、とてもたどたどしく言葉を絞り出せばユキは少しだけ固まって、それから無言で手のひらを美弥の前に出した。
繋いでいいんだと解釈して、それに自分の手をそっと合わせ、弱めに掴むと緩く握り返される。
好きな人の体温と、自分とは違う指の感触。
こんな感じなんだとドキドキと驚き交じりで手を眺めている間も、ユキは何も言わなかった。
チラリと顔色を覗こうとしたけど、横を向いていて見せてくれなかった。きっと、照れていた。
それからは、ユキは美弥の繋ぎたい視線に気付いたら繋いでくれるようになった。
周りに誰もいない時だけの、特別なものだった。
ファーストキスは、高二の美弥の誕生日だった。
その日は平日で普通に学校があったから、帰り道で何かあったりするのかな、なんて少し期待しながら歩いた。
駅近くの公園のベンチで適当な会話をしていたら、唐突にプレゼントを渡された。
はい、誕生日、と。おめでとうまで言わない所がユキらしいなと思った。
ユキに似合わない可愛らしいラッピングから出てきた、これまた可愛い小振りのネックレス。
こんな女子向けのものをわざわざ買いに行ってくれた気持ちだけで嬉しくて、何度もありがとうと言った気がする。
試しに付けてみて、どうかな?と訊ねても、うんしか言わない。
恥ずかしいと目を合わせてくれない所がユキらしくて、自分が好きになった人だなと思った。
もらったラッピングの包装すら綺麗に畳んでバッグに入れて、そろそろ帰る時間かなと立ち上がった瞬間、
正面にいたユキの顔が急に目の前まで近付いて唇に何かが掠めていった。
かさついた、柔らかいもの。
しばらく経ってからそれがキスだと気付いて、放心して固まった。
顔と喉が熱くて、どうしてか泣きそうだった。
いっぱいいっぱいで何かを言う事もできず動けないでいると、帰るぞ、とそっけない声と一緒に手が繋がれた。
バス停に着くまで、嬉しいのにどうしていいのかわからなくて、バスに乗っている間もしばらくはユキの顔をまともに見られなかった。
初めて体を重ねたのは、大学生になってユキが一人暮らしをするようになったアパートでだった。
高校生の時はずっと健全なお付き合いだった。
周囲には先へ進んだ同級生が何人かいて話も聞いたりしたけど、自分達というかユキは外でわざわざ場を作るような人じゃなかった。
デートはたまにあっても泊まりで旅行まではなかったから、そういう機会がなかったせいもあるし、あんまりそういう気がないのかなとも思っていた。
興味はある、だけどこっちから話題を出す事なんてできなくて、これはこれで自分達らしくていいか、なんて半分諦めてもいた。
美弥も同じように一人暮らしを始めて、少し距離は離れているけどユキのアパートに頻繁に行くようになった。
その頃にはもうユキと付き合っている事を親に伝えていたので、母親直伝の料理などを教えてもらって一生懸命作って振る舞った。
最初は失敗する事も何度もあったけど、ユキから文句を言われた事はなかった。
お腹いっぱいになって食器も洗って、そろそろ帰ろうかなと思ったらユキに呼ばれた。美弥、と一言。
何?とユキに近付いたら、手を引かれてキスをされた。
それくらいならたまにあるので目を閉じていると、そのまま深くなっていく唇に驚いた。
目を開けて慌てていると、怒ったような顔をするユキがじっと此方を見つめている。
我慢してたんだよ、これでも、と呟かれてもう駄目だった。
再び合わされた唇から入り込んでくる舌に動揺して、息の仕方もわからなくて苦しくて。
ただただ緊張していた。けどたぶん、ユキもそうだったんだろう。
あのユキが欲を孕んだ目で、指でそっと触れてくる、それを待っていたはずなのに恥ずかしくて。
胸と頭が破裂しそうになるのを抑えて、与えられる熱を震えながら受け入れる事ばかりで精一杯だった。
ユキにこんな一面があるとは思わなかった。
あの人は少ない言葉の代わりに、壊れ物を触るかのような指先がいつも温かくて、その優しさに自然と安堵していた。
きっとあの時の自分は幸せだった。
「……っ!」
ボタボタと、握り締めた掌に涙が落ちる。
子供っぽくて、初々しくて、だけど嬉しかった全ての思い出が美弥の中にある。
鮮明に、美しく残ったまま。
(まだ、こんなに好きなのに……っ)
どうして、先に行ってしまったのだろう。
どうして美弥を置いていってしまったのか。
ユキに心を奪われたまま、独り取り残されて。
いつまで経っても美弥は此処から動けず、何処にも行く事もできない。
(私は、どうすればいい……?)
ユキとの思い出に囲まれながら、ユキを想いながら一生独身で生きる選択もあるだろう。
きっとそれが一番愛を貫く道なのだろう。
だけど、この部屋に帰って来てどうなるというのか、とも感じている。
時が止まる事、それは果たして良い事なのだろうか。
(ユキは……どう思う?)
美弥にどうして欲しいと思っているのだろう。
考えたって仕方がないのに、そんな事を問いながら写真のユキに触れた。
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続きます。