07
――私は弱い人間だった。
独りきりに耐え切れなくて、彼のいない現実から逃げて。
彼ではない他人の温もりを求めてしまった。
自分が救われたいがために、一番大切な人を裏切ってしまった罪深い女。
愛した人だけを一生想い続け、独りを貫いて生きていけるほど強くもなく。
全てを過去にして忘れ去り、新しい恋人を作ろうと切り替えられるほど器用でもなく。
彼以外は誰も好きになれないと思いながら、違う誰かに縋らないと生きていけない、どっちつかずで中途半端な人間なのだ、私は。
わかっていた。これが褒められた行為でない事など最初から。
だから誰にも本当の事なんて言えなかった。
それでも、と言い訳を繰り返しながら今まできてしまった。
誰かが、私の名前を呼ぶ。
そうして振り返って、美弥の裏切りが露呈する。
現実と、罪が突き付けられる。
あの瞬間、何処かにいるユキに見られているような気がした――
*****
「ありがとう、凄く美味しかった」
「満足できたならいい」
会計を済ませた沖矢の隣に並び、余韻に浸りながらそう言えば簡潔な一言が返ってくる。
普段自分では作らないようなものを食べると新鮮で、それだけで楽しい気分になれる。
美弥があまり自分で選べない事をわかっているからか外食の店は大体彼が決めてくれるが、
今日も店構えからして雰囲気が良く、女子も好みそうなハワイアンテイストだった。
「でも、あんなオシャレな所、よく知ってるね?」
こんな事を言ったら失礼かもしれないけど、見栄えとか流行りとかとは縁遠そうなのが彼のイメージだ。
美弥がいる時は普通に食べているけど、普段はもっと男っぽくて退廃的というか、栄養なんてとれればいいぐらいに思ってそうなのに。
だから変な勘繰りをした訳じゃないが、純粋に気になってしまった美弥はチラリと沖矢の細目を覗く。
「まぁ、若い人間が近くにいるだけで色々と情報だけは耳に入ってくるからな」
「あ、そうだね……」
彼の周囲には小学生がたくさんいて、さらに女子高生達とも知り合いで、それらの情報網は確かに強いだろうと思う。
他の女性と行ったとかじゃなさそうでよかったと、結局どこかで安堵している自分がいた。
「必要な物はもう揃ったか?」
「うん、付き合ってくれてありがとう」
赤井は、時間に余裕があるとこうやって外に連れ出してくれる。
それはデートというよりも普通の買い物に近かったが、美弥は充分だった。
デートとなるとどうしても気を張ってしまうので買い物である方が気が楽だったし、
結局彼は色んな所に連れて行ってくれるから、後から考えればデートだったなと気付く事が多かった。
(どっちかっていうと、夫婦みたいだけど……)
一足先に車に乗せた日用品の数々を思い浮かべ、漂う生活感に独り苦笑する。
付き合わせて申し訳ないような気がしてきて、沖矢も何か買わないだろうかと提案してみる。
「今日は服買わなくていいの?」
「そうだな……予定はしてなかったが、お前がいる時にまとめて買った方がいいか」
「うん、わかった」
意気込んで頷くと、意外そうな顔をされた。
「張り切ってるな。そんなに楽しかったのか?」
「そうかも。だって、こんな機会あまりないから」
「確かにな」
初めて沖矢のコーディネートをした時、彼をそっちのけで夢中になってしまった。
チョーカー型変声機が隠せる服という条件は結構難しいが、基本何を着せても似合うので選び甲斐がある。
何より、彼を着せ替えできるなんて貴重な体験だと思うから、それが楽しいのかもしれない。
小さく笑う沖矢を伴ってメンズショップに入店する。
そしてまた数点を見繕って試着してもらい、美弥が頷いたものを沖矢は何も言わず全て購入した。
「私の一存で選んじゃったけどよかった?好みとか、あるよね?」
美弥が選んだものからいくつか決めてもらうつもりだったから、まさか全部買うと思わなくて些か不安になる。
重そうに持っている紙袋を見下ろしていると、頭上から全く気にしていなさそうな声が聞こえる。
「問題ない。お前のチョイスは確かだからな」
「……なら、いいけど」
特に気にしていないのか、それとも信用されているのか。
だけど認められているような気がして美弥の気持ちは密かに浮上した。
それから、休憩を挟みながらいくつかのショップも見て回った後の帰り道。
ドライブがてら少し遠回りをしようと、穏やかにスバル360を運転している沖矢に声をかける。
「今日、夕ご飯は食べてく?ランチご馳走してもらったから、夜はちょっと手の込んだものにしようかと思うんだけど」
「緊急の呼び出しがなければそのつもりだ」
ランチのお返しに彼が喜びそうなものを作りたい。
赤井はたまに、作ってもらってるからと言って代わりに外食に連れてきてくれる。
美弥にとっては誰かが美味しそうに食べてくれる事が好きだから料理をするのは苦じゃないが、彼のその気遣いは嬉しかった。
何食べたい?なんて聞きながら、近くにあったスーパーに立ち寄って献立を思い浮かべる。
基本何でも食べてくれるが、昼がハワイ料理だったのでやっぱり夜は和食だろうか。
足りない食材は何だっただろうかなんて考えていると、どうしてか隣で一緒に歩いていた沖矢がふっと笑った。
「お前はそうしている時がいい」
「、え?」
「良い顔をしている、という事だ」
「……う、うん」
自分でどんな顔をしていたかわからないけど、急に褒められると何だか恥ずかしい。
顔が熱くなるような感覚に思わず視線を彷徨わせた。
(不意打ちはズルい……)
普段から彼の言葉は簡潔で無駄がないのに、意外とこういう事は真顔でさらっと言うのだ。
だから冗談やお世辞でない事がわかるだけにタチが悪いなとも思う。
「炊き込みご飯、というのだったか。あれはできるか?」
「あ、うん。できるよ。どんな味でもできるから、何がいいかな」
「それは任せる」
炊き込みご飯は、いつの間にか美弥にとって思い入れのあるものになっている。
最初に美味しいと言ってくれたもので、それが彼との距離感を変えるきっかけになったと思うし、のちに"シュウ"である事の証明にもなった。
彼もそう思ってくれているのか、それをリクエストされた事に美弥は気分を良くして具材をカゴに入れた。
レジで会計を済ませていると、食材を入れた袋を沖矢は何も言わずに持っていく。
(こういう所がモテるんだろうな)
嬉しいはずなのに何だか恨みがましい気持ちにもさせられる。
流石にそんな事、彼には言えないけれど。
「ありがとう」
「ああ」
野菜が入った袋をぶら下げている沖矢はとてもFBIには見えない。
むしろ本来の姿で持っていてもアンバランスだろうなと、美弥は密かに笑った。
彼の隣に並び、近くの駐車場まで歩いていると。
ふいに、誰かが呼び止めた。
「――美弥ちゃん?」
高めの女性の声は聞き覚えのあるもので。
振り返って、美弥は息を詰めて固まった。
「亜里歌ちゃん、星司君……っ」
ユキの親友であり、入り浸っていたバーのマスターでもある星司と、その恋人であり妻になった亜里歌が大きくなったお腹を支えながら美弥を見つめている。
その二人の驚いたような目に、どうしてか動揺が止まらない。
逃げたいのに目が逸らせなくて、呼吸も上手くできなくなっていく。
「やっぱり美弥ちゃんだ……こんな所で会うなんて思わなかった」
「久しぶりだな。顔を見せないから、どうしてるか心配してたんだ」
二人が口々に言う言葉が頭に入ってこない。どうしよう、上手く笑えない。
会えて嬉しそうにしてくれているのに、心配してくれているのに。
――どうしてこの場に自分は、ユキではない人といるのだろう。
少し前までずっと四人で過ごしていた、美弥の隣には当たり前のようにユキがいた。
それなのに今は違う人が立っている。
その後ろめたさに、美弥は後ずさりしてしまいそうなほどに焦っていた。
亜里歌の目が、スッと美弥の隣に移る。
「……そちらの人は?」
「っ……え、っと……」
どう答えたらいい。ただの知り合いだと言えば良いのか。
だけどスーパーのレジ袋を持った男をただの知り合いだと言うには距離感に無理がある。
彼氏だなんて、嘘でも言えない。
あれからそんなに経っていないのに、もう次の男に行けるのかと軽蔑されたくない。
二人の視線が怖い。美弥を薄情だと思って、責められるのが怖い。
二人が並んでいると、彼らの隣にいつもいたユキの姿が浮かぶ。
真顔のユキが美弥を非難の目で見ているようで、ドキリとする。
ああ、早く答えないと。
答えが遅くなればなるほど言い訳がましくなる。
震えてしまいそうな声で言葉を探していると、隣の沖矢がスッと前に出る。
「どうも、僕は沖矢昴といいます。しがない大学院生なのですが、知り合いを通じて橘さんを紹介してもらい、料理の指導をお願いしてもらっている者です」
沖矢は持ち前の柔らかい微笑を浮かべている。
「お恥ずかしいのですが一人暮らしをしているのに全然勝手がわからなくて、今日は食材選びから学ばせてもらっていた所なんです」
「そう、なんですね……確かに美弥ちゃんは料理が上手だから……」
すらすらと出てくる言葉に、二人は戸惑いながらも納得しているようだった。
「お二人は橘さんのお知り合いですか?」
「ええ、学生の頃から……」
「そうですか。久しぶりの再会であるなら僕は遠慮しましょうか?」
「あ、そんな、いいんです」
どこまでも他人らしい言動をする沖矢に、亜里歌は手を振って答えた。
それも見越していたかのように頷いた沖矢が、二人には見えないように美弥の背中をそっと押した。
会話もほとんど頭に入っていなかったが、ようやくハッと我に返って無理矢理笑顔を作った。
「ご、ごめん……今日はちょっと予定があるけど、また連絡するね?産まれたら、ちゃんと教えてね?」
「うん……美弥ちゃんもいつでも連絡してきてくれていいからね」
「ありがとう」
上手く笑えただろうか。嘘っぽくならなかっただろうか。
気持ち速めに手を振ると、星司が口を開く。
「この前、ユキの墓参りしてきたんだ」
「…………っ」
音として発せられた名前に、息が詰まるように苦しくなる。
「ずっと勇気がなかったけど、やっと行けたんだ。美弥ちゃんも一人で抱え込まなくてもいいんだからな?だから、店にも来いよ?」
「……うん」
「じゃあ、またね美弥ちゃん」
何とかやり過ごして、彼らが立ち去るまで必死で笑顔を貼り付ける。
見えなくなった所で力なく手を降ろすと、ドッと押し寄せるのは罪悪感。
ユキを知っている人に、ユキじゃない男性と一緒にいる所を見られて心臓がバクバクと音を立てている。
そう、まるで浮気現場をユキに見られてしまったかのような感覚だった。
「美弥、帰るぞ」
「っ……あ……うん」
声をかけられ足を引き摺るように動かして、駐車場に停めていた車に乗り込む。
どうしてかエンジンをかけない沖矢もまた言葉を発しないので、狭い空間で重苦しい無言が続く。
どうして忘れていたのだろう。いや、忘れていた訳じゃないのに麻痺していた。
これが、違う男性と一緒にいる事が、ユキに対する裏切り行為だと。
二人の目がそう訴えているようで、まともに顔すら見られなかった。
ふう、と息を吐く声が隣から聞こえて、それから小さな電子音が鳴った。
「……美弥。お前が、ユキと呼ぶ男を忘れられない事は知っている」
「…………」
「罪悪感を抱いている事もな」
言った事はなかったけど、彼には全てお見通しだったらしい。
静かな赤井の声にすら、美弥は顔を上げる事ができない。
「だがそれでも、俺はお前を手放すつもりはない」
「っ……」
離れなければいけないと考えていた事を予想していたように先回りされて、美弥は困惑する。
それは、どちらの意味なのだろう。
体だけの関係の事なのか、それとももっと踏み込んだ話なのか。
「お前が困るだろうと思って明言は避けていたが……今はもう、セックスの為だけにお前と会っている訳じゃない。
最近はそのつもりでいたんだが、気付かなかったか?いや、考えないようにしてたんだろうな」
「…………」
「無理強いはしないが、それは覚えておいてくれ」
美弥が言葉を返せなくても、彼はそれすらわかっていたとでも言いたげに苦笑している。
眼差しとか、態度とか、何となく気付いてはいたけれど、そんなはずはないと否定していたのは自分だ。
いつの間にか、体だけの割り切った関係ではなくなっていた。美弥の事を考えてくれていたのだ。
それを嬉しいと思うのに、喜べない。
「私は……シュウに、逃げてるの……」
「ああ、そんな事は初めからわかっている」
彼はそれでもいいと言っている。
だけどそれで首を縦に振れるほど美弥も恩知らずではない。
「でも、シュウにだって……大切な人、いるよね?」
「確かに俺の中にも消えない存在があるし、この先も忘れる事はない。だが、今生きているお前を大事にしたいとも思っている」
「そんな……っ」
彼からまさかそんな言葉が出るとは思わなくて、美弥を逃がさないとばかりに正面に立たれてしまったような感覚に焦りを隠せない。
そんな簡単に気持ちが切り替えられるものなんだろうか。
仮にそうだとしても、殺されてしまった彼女もそうだとは限らない。
どんな付き合いをして、どういう関係性だったのか、どんな死に別れ方だったのかは知らない。
だけど美弥が彼を選んだら、彼女から彼を奪ってしまう事にはならないだろうか。
美弥が赤井を選べば、ユキに悪い。
そして赤井に美弥を選ばせたら、彼の死んでしまった恋人に悪い。
自分はユキを裏切っている。
それはつまり、赤井も裏切らせているという事で。
「嬉しい、けど……このままじゃ、シュウにも悪い」
「それはお前が気にする事じゃないがな……」
本当に心の底から赤井を愛しているのなら、そういう選択もあるのかもしれない。
だけど美弥は現実から逃げて、縋り付いて、依存しているだけ。
赤井の気持ちを知った上で、これからも逃げる為に彼を利用するなんて、そんな事はきっと良くない。
(どうすればいいかわからない)
ユキを選ぶのなら、彼とはスッパリと縁を切るべきだ。
赤井を選ぶのなら、ユキを切り捨てるしかない。
そのどちらもできそうになくて、美弥は膝に置いた拳をギュッと握り締めた。
「少し……考えさせて」
「……わかった」
彼も言いたい事はもうないのかそれ以上会話は生まれず、ようやく走り出した車内は無言のままだった。
美弥のマンションに到着すると、彼はこのまま帰ると言った。
少し前まで楽しく過ごしていたはずなのにと、寂しい気持ちになったのも確かで。
だけどこの雰囲気では仕方ないのだろうと、買ってきた荷物を全て運び出した。
「ごめんね……」
「いや、いい。また連絡してくれ」
怒っている様子もなく、だけどいつもより真剣な顔をしながら彼は車を走らせ行ってしまった。
亜里歌達に上手く取り繕ってくれてありがとうと言う事もできなかったと、後になって気付いた。
彼の為に腕によりをかけて作ろうと思っていた食材の重みが、痛いくらいに美弥の手のひらに食い込んでいた。
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