その日、リサ・ハイネルは友人である琉奈を見かけて声をかけたが、
いくら呼びかけてみても一向に気付く気配がなかった。
「琉奈ー?琉奈ってばー!」
「わっ……あれ、リサ?」
「さっきから何度もって……ど、どうしたの!?」
「え……?」
覗き込んで思わず声を張り上げたリサが見たものは、明らかに血色の悪い顔。
疲労が全身に現れている琉奈は、確かに遠くから自分の名を呼ばれても気づけそうにもなかった。
「凄いやつれちゃったみたいだけど大丈夫なの!?」
「んー何とか……ちょっと徹夜が続いちゃって」
「それ、ちょっとどころじゃないって!」
彼女の原因はそれだけじゃない、リサはそう感じていた。
こんなに痩せるなんて食事も充分摂れていないからだろうし、それに精神的な問題も抱えている気がした。
「ウチもアオイ対策で最近忙しいけどさー……スゴウってそんなにキツイの?」
スゴウはこんな状態になるまで過酷な労働をメカニックに強いるのだろうか、
そんな疑問まで浮かんでしまったが琉奈は即座に否定した。
「ううん、私が自主的に徹夜してるだけ」
「ええ!?なら寝ればいいじゃん!そんなんじゃすぐ体壊すよ!?」
「そうなんだけど……色々気になって眠れなくなって、必死で目閉じてるぐらいなら仕事した方がいいからさ」
「だからって……あ、マリー!」
近くを通りかかったセベナージRTのドライバー、マリー・アルベルト・ルイザは共通の友人であり、
同じように琉奈を見ると途端に顔を歪ませた。
「琉奈……どうしたの、酷い顔だよ?」
「ちょっと忙しくて……」
「食事は?その様子だと食べてもいないようだけど」
「…………食欲が、なくて」
後ろで三つ編みにまとめた赤髪を振ってルイザは溜息をついた。
年齢は琉奈の方が上だが、男勝りな性格上ルイザの方が姉になったような気分になる。
現に琉奈は彼女の言葉に言い返せるだけの理由も気力もなかった。
「琉奈、職人は体が資本なんだ。
どんな時でもベストな状態にしておくのがプロの務めじゃないか?」
「うん……ごめん」
「食べられなくても、無理にでも摂取する必要があると思うよ。決勝で倒れたどうする気なの」
「仰るとおりで……」
弱々しく笑いながらもシュンと項垂れる琉奈は本当に小さく見えた。
「こんな事言うと酷かもしれないけど、メカニックが一人頑張ったってレースの順位はそう簡単に変わりはしない。
クルー全員が同じ気持ちで上を目指してマシン作って、それをドライバーがどれだけ生かせるかによるんだよ」
「そうそう!ウチもお兄ちゃんがよく無理するけどさー、倒れたら元も子もないのにね」
何だかんだ言いつつも、リサは生真面目すぎる兄をいつも心配していた。
だからこそ友達である琉奈がこんな状態では自分も心が痛んで仕方がない。
ルイザは諭すように琉奈の肩を叩いた。
「琉奈一人だけの力じゃどうしようもないんだ、逆にクルーが一人でも欠けたら駄目。
だからちゃんと食事して睡眠をとる、それがあんたには今一番大事だよ」
「……うん、わかってる」
だけど手を動かさずにはいられない、少し鋭さを増した琉奈の目は語っていた。
そういう所は頑固だなと、琉奈の性格を多少なりとも知っている2人は諦めたように笑った。
結局は、本人が気付くまでやりたいようにさせるしかないのだ。
「しょうがないね……事情を打ち明けられようになったら、いつでも相談にのるよ」
「マリー……ありがとう。リサもね」
言えるなら言えばいい、という強制されない優しさと厳しさをくれるルイザ、
そして楽観的に思えても内心では相手の事をこっそり気遣うリサにただ感謝するばかりだった。
こんな良い友人達の為にも早く結論を出さなくてはいけない、琉奈は改めて決意を固めた。
4・遙かな過去に爪をたて
「……っ!こっちはOK!」
予備パーツを取り付けて琉奈は叫んだ。
「ハヤト!」
GOサインを出した良平にハヤトは何の言葉も返す事なくピットアウトしていった。
レオン・アンハートとの接触により左のボディが損傷した事で、随分と時間がかかってしまった。
順位は既に8位にまで落ちてしまっていたから、ハヤトも焦りが隠せない程になっていたのだろう。
「せめて1ポイントでも取れればいいんだけど……」
モニターを見ながら呟いた。
「ごめんなさい琉奈さん……僕がモタモタしてたから……」
「何言ってるのペイ君、あれは仕方のない事だったんだし。私達はやれる事はやったんだから」
良平だってチーフになってもう2年目だ、そんなに自分を卑下する事はない。
確かにまだ経験を積んでいる最中かもしれないが、
実際換装作業はスムーズに進んだ方なのだから自信を持ったっていいと琉奈は思う。
「後はハヤトがどれだけ頑張ってくれるか、だよね」
「……はい」
そんな良平の自信に影響しているのはハヤトの態度によるものが大きいのかもしれない。
ここの所ハヤトは何も言わない。
ピット内でもクルーと談笑などする事もなくただ顔を歪めてジッとしているか、思い詰めたように一点を見つめている。
そんなハヤトの雰囲気が皆にも伝染してしまって、彼がいるピットはどこか空気が違う。
ピリピリしていて、ハヤトの顔色を窺いながら作業をする状況だった。
(……たぶん、私もその1人だ……)
ハヤトのあの無言の態度で責められることが、辛い。
そして結局ハヤトは6位で終わった。
1ポイントでも取れればいいとレース中は願っていたが、
優勝を狙う為には1ポイントという点はあまりにも微々たるもので。
「……お疲れ様」
「…………はい」
琉奈だったから何とか返事をしたというぐらいの反応だった。
会話をするのも億劫だという態度でさっさとモーターホームに引き上げてしまった。
「辛いよね、ガーランドも……」
ピットに帰ってきた応急処置済みのガーランドを見て、溜息をついた。
せっかくハヤト用として新たに誕生させたのに全く活躍できていない。
可哀想だと、琉奈は機械に対して感じた。
ハヤトがアスラーダを思い出すまでは後どれだけかかるのだろうか。
アスラーダは既に最終調整の段階にまでなっているし、後はサイバーシステムの問題。
それでも、やろうと思えば次からでも何とか走らせられる状況だろう。
(ハヤトは……独りで戦ってる……)
唯一ハヤトに進言できるあすかは留学しているからいつもいる訳ではない。
修もクレアも何も言わないし、琉奈は言えそうもない。
アスラーダに気付いてと言っても、きっと今のハヤトには届かないのだろう。
パートナーがいらないと言ったハヤトがまた"彼"を必要だと理解しない限りは、アスラーダは出せない。
ならばあんな急ピッチで仕上げなくてもよかったんじゃないかと思うけど、
やらずにはいられなかったのだから仕方がない。
それは、あの男に勝つための全てがアスラーダに詰まっているからだと琉奈は思う。
早くアスラーダを仕上げたいと思うのは、いわば琉奈の義務のようになっているから。
(日本に帰ってガーランドを直して、それからまたアスラーダの調整を……)
「……ぁ……」
琉奈は一瞬、天地がひっくり返りそうになったのを感じた。
慌てて両手に抱えたタイムボードを持ち直し、頭を振った。
元々睡眠時間が極端に少ないうえに、今はベッドに入っても神経が冴えていて眠れないか、
もしくは体力の限界で死んだように眠るかのどちらかだった。
後者であれば、笑みを含ませたあの男の囁きはほぼ聞こえない。
熟睡する、その為に体が悲鳴を上げるまで酷使してしまっている節がある。
本末転倒のような気がするが、琉奈には一番効率の良いやり方だった。
だけど今日はその限界が早く訪れている気がしていた。
(気持ち悪い……頭がフラフラする……)
その事ばかり考えていて、足下のコードを引っかけている事に気付かなかった。
「…っ……ぁ…!」
ガランガラン―――!
タイムボードを盛大に落とした音がした。
だけど目を開けた時には、そのボードを自分は見下ろしていた。
琉奈の体は地面にはぶつかっておらず、代わりに誰かの腕に支えられていた。
「だいぶ疲れているようだね」
「……っ!」
それは夢の中で何度も聞いた、余裕たっぷりの嫌な声だった。
琉奈はほぼ反射的に腹部に回された力強い腕から逃げた。
名雲はそれを見て嘲笑うかのように溜息をつき、何を思ったのか手を伸ばしてきた。
「知っているかい?寝不足は女性には不健康の―――」
「触らないでっ!」
手をはね除けられると名雲は降参だとでも言いたげに肩を持ち上げてみせ、
散らばったままだったタイムボードを拾い集めた。
「せっかく助けてあげたのに、礼の一言もないのかい?」
「頼んでなんかない……っ!」
「やれやれ……」
全く嫌そうな態度ではなかった。
「文句があるなら、それを言うだけの体力を蓄えてからにするんだね」
「……っ!」
「あの風見ハヤトのおかげでチームは大忙し、そして君は私に勝とうと躍起だ。
だから寝不足になんてなるんじゃないのか?」
「うるさい……!」
ハヤトの不調と自分の意地さえも見透かして、
さらには自分を突き落としてもがいているのを見て楽しんでいる男。
どこまでいっても負けた気分で、悔しくて仕方がない。
「私は絶対……あんたと、あのマシンに負けたりしない!」
「……琉奈?」
「!……加賀さん…っ」
叫んでしまってから誰かに聞かれてやしないだろうかと後悔していた矢先、
見慣れた緑の髪の男が顔を出した。
「……どうかしたのか?」
スゴウのメカニックとアオイの新社長、その珍しい光景に首を捻った加賀。
「何でもないです……ちょっと、転びそうになった所を助けてもらったんです、ありがとうございました」
未だ名雲の手にあったタイムボードをほぼ奪取するように取り戻すと、
琉奈は礼をして逃げるように走っていった。
不自然なやり取りに加賀は怪訝そうな顔で名雲を見た。
だが本音の見えない新社長は笑ったまま、目を細めるようにしてスゴウのピットの方を眺めていた。
「君はあの女性とは仲がいいのかい?」
「あぁ?んな事別にどうだっていいだろ……」
加賀と名雲の関係は良好とは言えず、互いに必要な会話もあまりしない。
だから名雲の予想もしなかった言葉に加賀はただならぬ空気を感じた。
「あんた……あいつに何かしたのか?」
「どうもしてないさ。だがとても気丈な女性だね…………相変わらず」
「………」
最後は小声で聞き取りにくかったが、確かに「相変わらず」と言った。
それは以前からの知り合いだったという事を意味しているのだが、
いかんせん名雲が謎の人物な為に何が正しいのかは判断に苦しむ。
加賀の疑いの目をやりすごすように、名雲は口元を歪めたまま行ってしまう。
相変わらず読めない嫌な奴だと、加賀は微かに舌打ちをした。
「楽しいね、飼い猫に手を噛まれるというのは」
去り際にそう聞こえたのは、どういう意味なのかと。
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リサは扱いやすくて助かります。
名雲さんが出るとテンションが上がりますね。