「来週、オフを取るそうね」
尋ねてきたクレアの声音は心なしか嬉しそうだった。
「ええ……こんな忙しい時に申し訳ないですけど、半強制的に……」
休日返上で仕事ばかりしていた事で逆に怒られる羽目になり、
きちんと休養するのも仕事の内だとしてオーナーである修に半ば命令される形で指示された。
「ずっと働き詰めだったのだから遠慮せずに休むといいわ」
「……ありがとうございます、クレアさん」
実際、捻挫のせいで自宅療養していたおかげで怪我も疲労もすっかり回復していた。
その上またオフをもらうなんて何だか気が引けたが、クルーからも大手を振るようにして勧められた。
よほど自分の酷い有り様を心配していたんだろうなと、琉奈は改めて申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「久しぶりの休みね。何か予定は決まっているのかしら?」
「ツーリングにでも、行こうと思ってます……」
今まで見向きもしなかったものが視界に入る、それは琉奈に心の余裕ができた証拠だった。
誰に対してもそうだが、仕事を一歩でも離れたなら自分の好きな事をやればいいとクレアと修は思っている。
彼女は与えられた仕事に対し人よりも大きな責任を感じているようだけれど、
少しずつでありながらも自分を取り戻して心を転換させようとしていた。
これで彼女は大丈夫だと、クレアは安堵の笑みを浮かべた。
「まぁ、それは楽しみね」
6・定まらない足跡
ピット内の空気は最悪だった。
ピリピリというより、ビリビリと電気が流れそうな緊張感。
何か見えないものに押し潰されるような圧迫感に琉奈は想像を絶した。
それは3戦後からのテスト走行の時もそうだったが、今日は特に酷い。
確かにテストと本戦ではクルーの緊張の度合いも違うが、一番大きく上下するのはハヤトの機嫌だった。
一言も話そうともせず、苛々した表情でただ一点を見つめている。
3戦でハヤトが怒鳴った事は聞き及んでいたが、それによってクルーの皆がハヤトを窺うように作業をしていた。
誰も、ハヤトに近づけなかった。
「ねぇ、メグちゃん、さつきちゃん……あすか知らない?」
そしてもう一つ気になるのが、ここにあすかがいない事だ。
大学に留学していつも一緒にいない彼女だけど、どんなに忙しくてもレースには来ていた。
あすかがいない事も彼の険悪な顔に関係している気がして、
琉奈は同性であるスゴウのマスコットギャルのめぐみとさつきにコソコソと耳打ちした。
「そうですよね……今日は、おかしいですよね……」
めぐみが暗い顔をして俯いた。
琉奈は彼女がハヤトの恋人の座を狙っている事を知っていた。
あすかがいなければめぐみは本当だったら喜んでハヤトにアプローチに行く所だろうが、
今はそんな事ができる訳もなく、ハヤトの雰囲気やクルーの重苦しい表情につられるように彼女達も押し黙っていた。
そして琉奈もまた、ハヤトに近づけない。
プロのメカニックとしてハヤトの為に全力を尽くそう、
そう決心して第4戦のピットに臨んでいたのに早くも怯んでしまいそうだった。
(ハヤト……)
彼はもう誰の言葉にも耳を貸そうとしない。いや、それが予想できるから誰も何も言えないのだ。
此処にあすかがいない、それはあすかの助言では効果がなかったのだという事を表しているに他ならない。
全てが空回りだった、彼はただ勝ちたい一心なのだろうに。
だがハヤトの不振は彼自身の気持ちが起因しているのだろう。
どれだけ走っても勝てなくて、悔しくて追い込まれて、全てが雑音のように聞こえて、
焦燥に駆られたまま走ってまた勝てなくて……彼はそんな悪循環に囚われていた。
あんな状態の彼ではアスラーダに気付くはずもない。
例えば今の心理状態で乗り換えたとしてもアルザードには勝てないだろうと容易に想像がつく。
ガーランドとアスラーダにスペック面で言えば差などほとんどない、
そして彼は"アスラーダ"を欲してはいない、だから勝てる見込みがない。
(……どうしたらいい?どうしたらこの流れを止められる?)
誰も寄せ付けない気配を放ってシートに座る彼に、琉奈は何だか孤独を感じた。
今の彼にはパートナーがいない、デビューした時から彼の傍にいて支えていた存在が。
正面からぶつかり合う彼ら、結局は煩わしいからとハヤトがはねのけてしまったが、
その事が逆にハヤトを不安定にさせ、余計に苛立つ結果になっているのではないかと思う。
彼らは2人でひとつなのだ。
(そう思うのは、私がアスラーダ贔屓だからかな……?)
だけど彼を見て思う、アスラーダがいない現在彼はずっと独りで戦っていると。
(ガーランドも決して負けたいなんて思っていないのに……
だってガーランドだって勝つ為に生まれたのだから、その為に皆が渾身の力を込めているのだから)
琉奈は誰もがハヤトを遠巻きで見守る中、意を決して歩み寄った。
こんな事になってしまった原因も、3戦に参加できなかった事も責められている気がして恐かった、
だけどこのままではいけないのだ。
「ハヤト」
「………」
目すら此方を捉える事はなかった。
戯れ言だと思ってもいい、だけど届いて欲しかった。
「……ガーランドの駆動音をよく聞いて。呼吸を合わせればガーランドの意思が聞こえるはずだから……」
突然抽象的な事を言われたからだろう、怪訝な表情のハヤトがようやく琉奈を向いた。
笑う事なんでできなかった、恐らく懇願の表情をしていたと思う。
「こんな事言う資格なんてないのだけれど……覚えていて欲しい。
ガーランドは決して貴方を裏切らない。だから、信じて」
自分にできるのは、ハヤトが独りではないと何とか伝える事だけだと。
結局ハヤトは小さく返事をしただけで行ってしまった。
もの凄い騒音を上げ、マシンが疾走していく。
「琉奈さん……中に入りましょう……?」
「うん……」
ピット外で立ち尽くしているのを見かねてかクルーが呼びかけた。
琉奈は奥に入ろうとしてふと隣のアオイを見ると、社長を解任された今日子が久しぶりにサーキットに来ていた。
初戦以降話しかけようとしても加賀はあまり多くを語らない、そして彼女も浮かない表情をしていた。
アオイの皆もアルザードが来てから何かが混乱している、琉奈はそう思った。
そんな矢先、混乱を持ち込んだであろう張本人が飄々と今日子の隣に立った。
名雲は今日子に向かってしきりに何かを喋っていた。
「…………」
――昔、あの男のパソコンの画面に映っていた玲瓏な女性。
どこまで本気かわからないけど彼女こそが本命で、世界には彼女しかいなかったのだと思う。
優しくされる事もあったけど、あれは私を利用する為の上手い口上で。
本当は愛されていないとわかっていた、自分ではないのだという事もわかってた。
それを理解していた上でいくら頑張っても、あの男の心が振り向く事なんてなかった。
今日子さんに初めて会ったとき、絶対には敵わないと直感した。
家柄や容姿だけでなく、何より彼女のその高すぎるほどのプライドに。
ああ、あの男が惚れる訳だと漠然と納得してしまった。
それだけ彼女には魅力があったし、加賀さんが言うように信頼も厚い。
それに比べて私は――
「――私には、そんな事しなかったくせに」
新条達はいとも簡単に解雇した反面彼女には優しく接するんだと、琉奈は冷たい目で睨み付けた。
それでもお決まりの本音の読めない顔で踏み込みすぎないようにして、
ある程度の距離を保ってアピールしている姿は何だか滑稽だった。
少なくともあんな風に、一心に目を見つめて語られた事なんてなかった気がするから。
「……何を考えてんだ、私は……」
琉奈は憎々しく舌打ちするようにして視界から2人を消すようにピットに入った。
もう負けたくないのだから。
この気持ちに決着をつけると、決めたんだから。
悶々とした気持ちを払拭させるようにタイヤ交換に没頭する。
だけどレースの方もあまり宜しくない展開で、どこを見ても八方塞がりだった。
ハヤトの走りは既に今までの走りではなくなっている。
粗々しいだけで鋭さがまるでなくて、ちょっとしたコーナーでも抜かれてしまう。
ハヤトはZEROの領域で走っているはずなのに、そんな面影すらもない。
もう誰もハヤトを止められない、そしてアルザードを止められない。
今日もアルザードが独走で終わるのか……そう誰もが感じていた頃、アルザードが突然失速した。
「……え?」
ピットインするも、すぐさまアオイのガレージは閉じられてリタイアとなった。
何とも呆気ない終わり方に、周りのチームも騒然とその様子を見守っていた。
「やっぱり、おかしい……」
この厳重さは何なのだ、一部のアオイのスタッフですらも手が出せないといった様子だった。
アルザードは全てが極秘扱いで、唯一システムはバイオコンピューターだという事は発表されていた。
だけどシステムの本当の意味は誰も知らず、それを秘密にする為にガレージを閉じたという事も考えられる。
だがそれではおかしい。何故なら、マシンは毎レースごとに必ずチェックが入る。
人に見せられないようなものがあればすぐに出場停止なのだから。
ならば、ガレージを閉ざすほど何を人に見られたくなかったのか?
「…………」
(マシン以外で存在するのは、人……?)
「新条さんの代わりに来たアオイの新人、フィル・フリッツ……」
バイオコンピューターの本質も大きな秘密だが、それ以上にドライバーのフィルに理由があるのではないか、
琉奈の考えは確信に変わっていた。
だとしたらあれはドライバーにとっては非常に危険なマシンだ、彼に負担がかからない訳がない。
止めなければ、手遅れになる前に。
(だけどまだ暗闇は晴れない……ハヤトさえ、持ち直せば……)
誰もが彼を待ち望んでいた。
琉奈を導く希望は、まだ目覚めそうにない。
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ちまちまと進んでいきます。