加賀と共に損傷していた凰呀は元通りに修理された。
それは乗り手を2人も殺したとは思えないような美しい姿で。
形見であり愛してやまない青のマシンのように見惚れてしまいそうにもなる。
紫の獣が眠る空間の隅、壁に並べられたコンテナの1つに腰掛けて。
口を開く事も体を動かす事もせず、じっとライトに照らされた姿を琉奈は一心に見つめる。
その眼差しは時折憎いものを見るように映り、次には諦めにも似た悲しい色に変わる。
決意に視線を強めても、すぐにまた戸惑いに揺れた。
外界から遮断された部屋は最低限の光源に絞られているおかげで、マシンから一歩離れれば薄暗い。
誰もいなくなってしまったメンテナンスルームで、どれくらいそうしているかはわからない。
だが夜通し作業を行なっていた後の事なので、そろそろ空が白み始める頃だろう。
もう何度も後悔して、謝罪を繰り返して、葛藤に襲われては目を閉じる。
真っ暗な視界で様々な声が、目が、琉奈を責める。
だけど最後に到達する答えはいつも同じだった。
貫く事、それだけが琉奈に許された選択。
誰から決められたのでもない、自分が自分に強いてしまったのだ。
途中で辞める事も引き返す事も許されない、もう自分の周囲には闇しかない。
願わくば、この染まりきった闇の先に一筋でも光があればいい。
だがそれはあまりにも可能性の薄い未来で、掴む事は奇跡に近い。
生きるか死ぬか、そして勝つか負けるか。
どんな未来でも受け入れなければならない、それが自身が担ってしまった役目。
――凰呀……彼は今この時、何を思うのだろう。
会話ができたらどんなに嬉しいか、だがそれは叶わぬ事。
あるいは加賀ならば声が聞こえるのかもしれないが、
それでも彼が何を考えているのかは何となくだが想像がつく。
勝ちたい、ただそれだけに違いない。
何とも単純で、だけどどうしてこんなにも遠い目標なのだろう。
「ねえ……凰呀」
マシンに話しかけるような真似をするのは、恐らく琉奈ぐらいだろうと思う。
所詮は機械、だがアスラーダと同じく凰呀には意思がある。
きっと、聞いている。
「……勝ちたいよね」
ドライバーに応えてくれた凰呀は、もう加賀を乗り手だと認めている。
一緒に戦う気になっているようだが、今度はドライバーの事情で先へ進めない。
どちらも苦しいだろうよ、そうグレイが言っていたのはいつだったろうか。
「加賀さんも頑張ってる……だからあんたも、頑張って」
当たり前だが返事は返ってこない。
何やってるんだと自嘲したおかげだろうか、
ようやく此処を離れる気になった琉奈は勢いをつけて立ち上がった。
一度だけアメジストのような深紫を振り返って、照明を落とそうとした時。
琉奈の鞄から携帯電話の着信を告げる音が鳴った。
メモリーに登録されていない、だけど見覚えのある番号の羅列。
無音の空間で、その音だけがやけに響いた。
10・約束に託したさよなら
車に乗り込んだのは、きっと気まぐれだ。
前回のように問い詰めたい話があった訳でもないのに、
どうして是と返事してしまったのだろうか、いや答えなど出したくもない。
弱っていたのだろう、自業自得とはいえ様々な事があって精神的に疲弊している時期であるからに違いない。
仲の良い友人には少々打ち明けにくい事柄ばかりだし、
全ての事情を知っている人間は数える程しかいないが、彼らは残念ながらスゴウ側だ。
だからなのだろう、仕方ないのだとそう思いたい。
車が目の前に横付けされ男が此方にニヤリと笑う、それが気に入らない。
何もかも見透かしたような目で、だけど何も知らないのだと言いたげな顔でいるから。
いつかその風貌で、ひた隠しにしているものまで暴かれてしまう気がする、それが恐くて警戒心が先に出る。
暴かれたくない、それは琉奈の最後の矜持だった。
無言の車内、喋る事などなくて外ばかりに視線をやる。
じきに鼻にツンと漂う、あの煙草の煙。
「どうだい、加賀君の様子は?」
「……怪我の事を言っているなら大丈夫よ。それ以外はボロボロだけどね」
抜け目ない男の事だ、わざわざ聞かずとも把握しているだろうに。
そうだろうね、と鼻で笑ってみせた名雲に琉奈は憎らしさを込めて睨んだ。
「よくもあんなマシンを作ってくれたわね。加賀さんを犠牲にして満足?」
「ああ、彼は本当に素晴らしい働きをしてくれている」
お門違いな恨み言だとはわかっている、だが言わずにはいられなかった。
あれさえなければもっと平穏に生きられたはずだった、加賀も琉奈も。
我関せずにいる男が全ての元凶なのだと突きつけてやっても、態度は全く崩れない。
この男に僅かでも罪悪感を持たせようと思っても、徒労なのだと琉奈は半ば諦めた。
「凰呀の性能をあれほど引き出してくれるとはね」
この男がわざと此方の怒りを煽って遊んでいる事は百も承知だが、そんな風に言い放つ態度はいただけない。
皆真剣なのだ、それがたとえ名雲にとっての誉め言葉であっても気安く言うんじゃないと咎めの目を向ける。
そう、彼にしては珍しく今までのレース結果を評価しているのだ。
飄々とした態度のままなのに、それは加賀を軽視しているというよりは予想以上の結果に喜んでいるように感じる。
要は今の勝てない状況でも満足しているという事だ。
「レースは一通り見ているが、楽しませてもらっているさ。あの勝てそうで勝てない展開は実に歯痒くてもどかしいね」
「馬鹿にしないで。加賀さんが凰呀を走らせ続ける事がどんなに辛い事だと思ってるの。加賀さんはもう、限界なのよ……っ」
「馬鹿になどしてないさ、むしろ称讃しているのだよ。君の言う"勝利を勝ち取る"という意味が、少しだけわかった気がする」
「知った風な事を……」
ベラベラと喋る名雲の表情は、口調とは反対にどこか静けさを映していた。
ハンドルを握り、アクセルを踏み込んで正面を見つめるその目は、少しだけ笑みをなくして遠くを見つめている。
「嘘と思うかい?だが次の最終戦、凰呀が勝っても負けてもどちらでも構わないと思うぐらいには満足しているさ」
(負けてもいい、だって……?)
それが信じられなくて疑惑の目を向けると名雲は煙草をくわえながら口角を上げた。
アルザードを作ってでも、薬を使用しても、アスラーダを破壊しようとしてでも勝利を望んだ、あの男が。
満足しているなどと、負けてもいいなどと口にするなんて。
天地がひっくり返るような衝撃だった。
それがもし本当ならきっと喜ばしい事なのだろう。
あれだけ更正させようとしてできなかった男が、その執着を昇華しはじめているように見えるから。
凰呀に何かを仕掛けるなんて事は今はもうできない、その言葉に裏はなさそうに思える。
彼なりに、加賀の走りを見て思う所があったのだろうか。
「……あんたがそんな事言うと、拍子抜けする」
「死んでもいいから勝てと、捲し立てられると思っていたのかい?」
「実際そうでしょ」
「そうだね……だが凰呀と加賀君を見ているとそう思えてくるから不思議だね。
もうこれは俺の戦いではない、彼らのものさ」
「、……本気で、そう思ってるの?」
「まぁ、信じられないだろうがね」
(それは、つまり……)
琉奈は自分の両膝に乗せた手を握り締めた。
じわじわと胸が熱くて、鼓動が早くなっているのがわかる。
彼から紡がれる言葉は、裏切りの道を進み加賀を命の危険に晒している琉奈を、何よりも救ってくれるものだった。
「兄も、喜んでいるだろう……凰呀がアスラーダと死闘を繰り広げているのだから」
「……っ!」
嬉しくて泣きそうになる。
ただこれだけの事で、だが長年をかけて無意識にこれを望んでいたのだ。
アンリを更正させたのも、アルザードの暴挙をやめさせようとしたのも、
拘置所に何度も通った事も、アスラーダよりも凰呀を選んだのも。
ずっと、自分の感情は、名雲京志郎という可哀想な男を救いたいと思っていた。
(私は……この人を救いたかった……)
己を騙していたあの時から彼は、運命の呪縛に取り付かれていた。
敗北の運命、それをずっと断ち切りたかったであろう彼。
許したくなんてないと思っているのに、もう自分の心はそんなレベルの話ではないのだ。
どうして彼だったのだろう、そんな事は自分にもわからない。
だが、あの時出会ってしまったから、琉奈が若い名雲兄弟の弟に惚れてしまい、その弱みで騙されてしまったから。
そこから全ては始まっていたのだ。
「あの呪われた凰呀が走っている、凰呀の意思のままにね。
兄の理論が正しかったのか間違っていたのか、次の最終戦ではっきりと決まる」
彼はもう勝利に躍起になる執念の男ではなくなっている、それを消し去ったのは加賀と凰呀だろう。
もうやめてと、もういいからと言ってしまいたくなるぐらい命懸けで加賀が走っているから。
その力が、名雲の執念すらも塗りつぶしたのだ。
「俺は、その結末を見届ける」
――貴方は……救われたのだろうか?
「……負けてもいいなんて、嘘でも言うんじゃないわよ」
込み上げる熱を抑えるように、琉奈は心とは逆に強い言葉を放った。
「二人とも勝ちたいって思ってるのよ、勝とうとしてるのよ。
なのにそんな事言うなんて、随分ドライバーとマシンを馬鹿にしてるのね」
再び隣を睨み付ければ、意外そうな顔をした名雲が目だけで此方の威勢を見ている。
もっと穏やかな言葉が返ってくると思っていたのだろうか、そんな事する訳がない。
「確かに危険すぎる力とドライバーに歩み寄らない意固地な性格だったけど、
凰呀は今、加賀さんとわかり合おうとしてる」
少しずつ少しずつ、力を合わせて勝利を目指しているのだ。
あんなにも必死で、命懸けでトップを望む姿を琉奈は未だかつて他に見た事がない。
負けてもいいなんていう言葉は、彼らには失礼だと悟った。
「此処まで来たら勝たせてあげたい。何があっても、絶対に勝って欲しい」
「……意外だったな。加賀君のクラッシュで、もう降りると言うかと思っていたのに」
そう思った時もあった、実際に加賀にしがみついて泣き叫んだ。
後悔で押し潰されそうで、もうやめてくれと必死で訴えた。
今でも本当はやめて欲しいと思っている、次は死んでしまうかもしれないのだから。
だけど、それ以上に勝たせてあげたいから。彼らが望むから。
(それから……あんたがそんな事言うから)
この天の邪鬼な性格をきっと目の前の男は知っている。
負けてもいいなんて発言したら反論してくるだろう、ぐらいの期待は持っていたに違いない。
確かにその通りだ。
今の今まで後悔と不安やらが渦巻いていたのに、男の言葉のせいで全てが吹き飛んだ。
やってやるわよ、勝ってみせるわよと、なけなしの虚勢が溢れてくる。
もしかしたら最初からそのつもりだったのかもしれない。
この男に背中を押されるのは癪だが、謀らずともそういう結果が生まれた。
(感謝なんてしないけどね、結局本音なんてわからないままだし)
「……死んで欲しくない、もうやめて欲しい、凰呀の事は忘れて欲しい。
だけど……今はもう言わない。最後まで、走らせてあげるわよ」
それでも零れ出る恐怖を、震える睫毛で静かに閉じ込める。
眉を潜めながら心を整理するようにゆっくり呼吸を繰り返していると、くすりと笑われる。
それがこの会話には似つかわしくない穏やかすぎる音で、琉奈は首を傾げた。
「君がそうやって自分を犠牲にしてまで他人に尽くす性格だから、俺は君に凰呀を託した。
最も愛しているスゴウとアスラーダを捨ててまで苦しもうとする君に、ね」
「…………」
「感謝している」
「……っ」
別に犠牲にしたつもりはない、自分で考えて選んできたのだから。
変な誉められ方がくすぐったくて顔を背けた所に、さらに追い打ちだった。
謝られた事はあっても感謝されると思ってなくて、琉奈の肩がピクリと強張った。
そんな素直に言われると心の奥の何かが動揺する、揺れてしまう。
だからそう大人しくなられても困るのだ。
彼にはいつまでも無礼で不躾で、強引でいてもらわなければ駄目なのだ。
「……それこそ今更よ。私は、あんたを一生許さない」
「ああ、わかっている。君には迷惑をかけた」
やめて欲しい、何のつもりかは知らないがこれ以上惑わせないで欲しい。
強気に牙を向けてもするりと避けられて、
勝手に熱くなる頬を悟られないように外の景色を必死で眺めた。
だが次の言葉によって、それらは氷のように冷えて胸に落ちていった。
「だから誓おう。勝っても負けても、もう二度と君の前には姿を現さないと」
ようやく理解した、その為の呼び出しだったのだ。
何も言わずに消えられるよりよっぽど律儀でいいが、その宣言を聞いて眉間に皺が寄った。
散々振り回しておいて、最後までこの男は飄々と姿を消そうとするのか。
「……そうね、そうしてもらいたいわ」
「君はもう自由だ。君が望む通りに好きに生きればいい」
「言われなくてもそうするわよ」
惑わされる前に、まだ牙を向けていられる間に何処かに消えて欲しい。
つい一瞬前にはそう思っていたはずなのに、どうして自分は苛立っているのか。
おかしいだろう、憑き物が落ちたらしい男が綺麗にいなくなってくれれば、自分も気が晴れて次へと進めるのに。
意味がわからない、と琉奈は自身に悪態を付きながら態度を変えないように必死に言葉を紡ぐ。
清々すると吐き捨てると、予想していたのか名雲の満足そうな笑みが聞こえた。
「それから、全てが終わったら凰呀はあの家に戻してくれていい。
あれの居場所は、あそこにしかないだろうからね」
「……確かに、これ以上世に出すものじゃないわね、あれは」
もしチャンピオンにでもなれば凰呀は一躍有名になるだろう。
だがあれと同じ物は作ってはいけない。
名雲からそう言うという事は、これ以上バイオコンピューターを広める気はないらしい。
本当に、終わらせるつもりなのだ。
「鍵を渡しておく。用が済んだら捨ててくれて構わない」
「……わかった」
「もう眠りから覚める事はない。それで、本当に終わりだ」
「…………」
それを頼んだという事は、最終戦後にはもう名雲はいないという事だ。
鍵もいらない、それは二度と日本に戻らないと言っているのだ。
(……これで、最後)
これが琉奈の決着の終点。
あっという間に惹かれて、好かれたいと必死になった。
それは男が本性を現わす事によって憎しみに変わった。
裏切られ、嘲笑われ、琉奈の心を土足で踏み荒らされた。
悔しくて、凰呀にも名雲兄弟にも負けたくなかった。
ずっと、あの忌まわしい過去を抱えながら生きていくのだと思っていたのに、
今琉奈を占めている感情は哀れみの方が多い。
随分と振り回されたものだ。
執着の塊となってサイバー界を暴れ回り、琉奈の環境すらも荒らした。
意地を張って何度も倒れて、それでもどうしてもアスラーダで勝ちたくて。
ハヤトを誘拐され、悪巧みを止めようとして眠らされた事もあった。
どう転んだって悪人の塊のような男。好意的に思える部分が一つもない。
他の人間にこの事情を話したら全員が「やめろ」と全力で説得してくるだろう。
琉奈にだってわからない、どうしてこの男なんだろうか。
他の男の方が遙かに素晴らしい、いや比べるなんていう行為すら失礼なぐらいだ。
だけど、もうすぐ全てが終わる。
琉奈を縛るものはなくなる、この感情すらも解き放ってしまえる。
もう、"過去"はいなくなる。
(勝手に何処へでも行けばいい)
自分の役目はここまでだ。
これで楽になれるのに、残されていた過去の遺恨は消えるはずなのに。
どうしてか琉奈の気分だけは完全には晴れない。
本当に最後の最後まで、腹立たしい男だった。
結局どこかに寄る事もなく、琉奈の寝泊まりする部屋の前で車は止まった。
あれ以上の会話は生まれず、互いに沈黙を噛み締めていた。
琉奈は少し大袈裟な動作でドアを開けて外に出ると、車内から声が聞こえた。
「琉奈」
久しぶりに名前を呼ばれた。
これだけ会話をしていてもその実、名雲から名前で呼ばれる事は少ない。
その珍しい現象が最後だという事を如実に物語り、不機嫌な顔を隠さずに振り返った。
「さようなら……なんていう言葉は似合わないね」
男はいつものように煙草を吹かしながら呟いた。
朝日がだいぶ顔を出しているものの車内は暗くてよく見えなかったが、
人を喰ったような、小馬鹿にしたような笑みではない気がした。
ふう、と白い息を吐き、ようやく名雲の目が此方を見た。
「勝ってくれ、必ず」
奇妙な関係で結ばれた自分達には似合いの合言葉だと、琉奈は内心で苦笑する。
だがそんな事などおくびにも見せず、相変わらずのしかめっ面で琉奈は口を開いた。
「……勝ってみせるわよ、必ず」
そうして踵を返して歩き出せば、しばらく経って車がゆっくりと進み出す。
そのエンジン音を逃す事なく耳をすまして、ついに聞こえなくなった所で琉奈は振り返る。
今日の始まりを告げる太陽が顔を出して、車が消えた方角すらも眩しく照らす。
その場から動く気になれなくて、しばらくの間ずっとその景色を眺めていた。
「さよなら……名雲さん」
―――私の人生を狂わせた人
ほろりと零れた声は、思った以上に寂しい音になった。
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ここも書きたくて仕方なかったシーン。