それは突然だった。
斎藤に起こされるより先に、感じた気配に飛び起きた。

紫苑、囲まれている」
「!?」

そろそろ夕暮れに差し掛かるという頃、体を休めていた所への、逆の奇襲だった。
着崩していた衣類を整え、武器を構えた所に敵が飛び込んできた。

「いたぞ!」
「っ!」

咄嗟に敵への目くらましで土を投げながら、回り込んで腹を薙ぐ。
斎藤はその間に続けて二人程を斬り捨てた。

斎藤に言われた通り、捨て身の戦法にならないように基本を思い出して的確に相手の隙を狙う。
振りかぶってきた者の腹を斬り、刀を反して近くにいた敵を突く。
刀を抜いた拍子に身を翻し、斬ってきた男の横に飛び、背中を斬った。

「引くぞ!」
「うん!」

ここで戦闘を長引かせても不利になるだけだ。
確実に敵を斬りつつも、紫苑も撤退の体勢をとる。

だがそんな時だった。
紫苑の体に変調が訪れた。

「ぅっ……ぁ!?」

ドクンと心臓が脈打ち、自分の意思とは関係なく髪が白く変色していく。
こんな状況で湧き上がる枯渇感、血への渇き、獣のような獰猛な本能。

紫苑!?」
「こ、んな、時に……っ!」

足が震えて動けない紫苑を庇い、斎藤が背後で敵を退けてくれている。
立ち上がって走らなければとわかっているのに、苦しくて息ができない。

血が欲しい。
血の匂いが、紫苑の本能を犯していく。

(く、薬……!)

早くこの状況を何とかしなければと、覚束ない手で懐を漁り、薬包の中身を口に突っ込んだ。
からからの喉で必死で飲み下し、汗で滑る手に力を入れる。

だが症状は少しも改善しない。

「は、じめ、君…っ!ぅ、ぐ…っ!」
「走れるか!?」
「は、はぁっ……はっ!」

喘鳴だけが漏れて、走りたいけどとも言えなかった。

(薬が、効かない!?)

効きにくくなっている事は知っていた。
だけど、血の衝動が弱まるどころか激しくなるばかり。
後ろで斎藤がひたすらに敵を斬っている、早く立ち上がらなければいけないのに。

「くっ……!」

避けられないせいで、防ぎきれなかった刀が斎藤の体に傷をつける。
あの冷静な顔に苦悶が浮かんだのを見て、紫苑の中の何かが溢れた。
守りたかった人が、自分を守って斬られている、そんな現実に耐えられなかった。

「う、ああああ!!!」

この衝動は、ひたすらに血を求めるもので。
それはすなわち誰かを襲いたいという勢いを、今必死で抑えつけている。
だからその抑え込んでいた本能を解き放つだけで、紫苑の梔子色の目が敵へと飛んだ。

所作とか、型とか、そんなものはなくただ持っていた刃物で、斎藤を狙う敵を斬り付けた。

「ぎゃあああ!!!」
「―――っ!」

噴き出た赤い液体が、紫苑の顔に降りかかる。
舌に触れたものが温かいと思った瞬間、その甘い味に全身が震えた。

(あ、甘い……美味しい……)

視界が鮮明に澄んで、体が嘘のように軽くなる。
もっとこの甘美な味が欲しくて、目の前にある敵の首を斬り落とす。
声も上げられずに絶命した男の血を浴びて、何故だかとても嬉しくなった。

ああ、楽しいと。

紫苑!!」
「っっ!?……は、一君?」

斎藤に両肩を掴まれ、視界いっぱいに彼が見えて紫苑は自分という意識を取り戻した。

(今……私は、何を……?)

必死な顔をしている斎藤の片隅で、惨たらしい死に方をしている敵だったものがある。
どういう事だ、これを私がやったという事なのだろうか。

「とにかく逃げるぞ!」
「え……あ…う、ん……」

走って逃げなければ、それだけだったのを思い出して、斎藤に手を引かれながら紫苑は走った。
さっきまでの衝動はもうない、だけど逆に体が軽すぎる。
今なら何でもできるぐらいに力がみなぎっている。

薬の効果ではここまでならない、ならば意味する所は。

「っ……!」

人の血を飲んで、体が、心が悦んでいた。
これで本当にただの獣に成り下がってしまったと、
紫苑は泣きたい気持ちをこらえながら、また安息の地を求めて彷徨った。


自分を怖いと思った。

一瞬だけではあったが、確かに紫苑は吸血衝動に負けた。
そして血を求める為に人を斬り、血を美味しいと嗤い、悦んでいた。

斎藤が止めてくれていなかったら、どうなっていたのだろう。
考えると自分が怖ろしくて仕方ない。

「ごめん、一君」
「……いや」
「ごめん」

追手がなくなった場所で、紫苑は立ち尽くす。

彼の足を引っ張って、怪我をさせて、そしてあんな事になってしまうなんて。
彼に申し訳がなくて顔が上げられない。

「いいんだ、紫苑。結果的に二人とも生きている」
「……っ」

あの時は敵だけを斬っていたが、本当に自分の意識が羅刹に負けた時、
今度は斎藤や仲間までも襲ってしまうのではないだろうか。

どうすればいいのだろう。
だが、この体はもう薬が効かなくなっている。

(怖いよ、土方さん……!)

何かの期限が刻々と迫ってきている予感がした。






紺碧 六






何回目かの情報収集で、幕軍が鶴ヶ城の南西にいるという情報を入手し、
斎藤と紫苑は敵の目をかいくぐりながら街道沿いの森を南下した。

その途中での敵の襲撃、そして紫苑の吸血衝動であったが、その後は大きな争いが起こる事はなかった。
何日もの間森を彷徨い、ようやく幕軍の軍勢を見つけたのだ。

「山口君じゃないか!よく生きていてくれた!」

初めは突然現れた二人に警戒を見せた兵達だったが、それが新選組の斎藤一だと判明するとすぐに手厚く歓迎された。
この隊の総督である佐川官兵衛は、今は山口と名乗っている斎藤を見つけると大いに喜んだ。

早速とばかりに現状の情報交換が始まり、二人は彼らの隊に組み込まれた。
だが戦の前にしばしの休息をと、僅かな戦時の食料を分け与えてもらい、簡易的な風呂にも入れてくれた。
平時と比べると質素なものばかりだったが、紫苑達にとっては久しぶりのまともな衣食住で、心から有り難いと思った。

風呂に関して言えば、せいぜい衣類を引っ掛けておく仕切りぐらいしかなく、男達がいる中でどう入ろうかと紫苑は久しぶりに悩んだが、
それを察した斎藤がわざわざ見張りに立ってくれた。
心遣いに感謝しながら、何日かぶりの湯に手早く入った。

紫苑

身も心もさっぱりした気持ちで風呂から出て、戦の準備やら刀の手入れやらをしていると斎藤が口を開く。
顔を上げれば、遠くを見ていた彼が険しい目で振り返る。

「遠くないうちに此処も戦場になる。だから、あんたは此処を離れろ」

何を言っているのか、と紫苑は唖然とした。
彼の気持ちはわかるが、紫苑は思わず腹立たずにはいられなかった。

「……嫌だよ。何の為に一君に付いてきたと思ってんの、今更だよ」
「わかってはいるが……」
「そりゃあ、一君を助けるつもりだったのに、俺の方が助けられてばかりで役に立ってない所はあるけど……
一君に庇われて、それで一君を傷付けてしまうような事は、もうしないから」

紫苑の怒ったような目で距離を詰められて、斎藤は少しだけ気圧される。

「誰も失いたくない。だから此処まで来たんだよ」
「…………」
「だから安心して戦って。一君の背中を、俺が守る」

少し前に、山南の先視をして取り乱していた紫苑を見ていたから、
誰も失いたくないという言葉に、どれ程の強い気持ちがあるかを斎藤は知っている。
一番慕っている副長から離れ、危険な目にわざわざ遭いに来るほどに。

「……わかった」
「……ありがとう」

斎藤は表情を緩めながらそう応えると、自身も刀の手入れを始めた。
もうこれ以上は言わないという事なのだろう。
何度も紫苑を安全な場所に戻そうとしてくれる事が嬉しくもあり、申し訳なくも思う。
心でごめんねと呟きながら、紫苑も作業を再開させた。

仲間が隣にいる、その満足感に浸りながらの僅かな休息の時だった。




そして、数日後には新政府軍の総攻撃が始まった。
鶴ヶ城を攻め落とさんとする数十の大砲が鳴り響き、爆風と振動が大地を揺らす。

斎藤と紫苑がいる佐川隊は城の南西で敵の軍勢を押し戻そうと抵抗を続けていた。

「ここから先は絶対に通すな!!」

佐川の号令と共に大地を駆け抜ける。
飛来する大砲を音で聞き分けながら避け、身を屈んで爆風を凌ぐ。

一足先に走り出す斎藤から離れないように紫苑も走り、その勢いで敵を斬る。

「ぐあああ!!」

断末魔を聞きながらも紫苑は構わず動いた。
前方や左右にいる敵を薙ぎ払う斎藤を追撃せんと背後から来る者を紫苑が斬る。

いつの間にか何も言わなくても連携がとれるようになってきている。
隣にいるのが当たり前になるほどの日数を斎藤と過ごした。

戦って戦って、埃と血に塗れながら生き抜いてきた。

「よし、このまま押し返せ!」
「「「うおおおお!!」」」

流れは幕軍に来ていた。
新政府軍が押され気味になっている所へ、その勢いのまま押し迫る。
前線を少しでも城から遠ざける為にひたすらに敵を斬った。

だが戦が何日も続くうちに、戦況は次第に劣勢に傾いてきていた。
一向に減らない新政府軍の数、そして疲弊していく味方達。

城の南で戦っていた隊は多くの兵がやられ、指揮官まで戦死して撤退したらしい。
次々と知らされる撤退の報に、焦りが生まれていく。

「くそ!ここも撤退だ!」

持ち堪えられなくなった戦線を後退させると、じりじりと背後に城が近付いてくる。
だけど、もう止まれない。戻れなかった。

「行け!走れ!」

怒号のように響く斎藤の声に、ただ無心に人を殺す。
刀を振り上げて、円を描くように人の身を割く。
肉と骨を斬り、温かい血を浴びながら、だけど口には入らないようにしながら紫苑は大地を踏みしめる。

ずっとその繰り返し。
いつしか人を殺す事に何の抵抗も感情も、意味すら感じなくなっていた。
飛んでくる銃弾が腕や足をかすめるが、もはや小さな痛みすらわからない。
自分が生きている限り、目の前に現れる人間を斬る、それだけ。

「う、ぎゃあああ!!」
「っ!」

ただ、仲間が死んでいくのは辛かった。
悲しくて、その死を悼む前に新たな死が重なって、行き場のない悲しみだけが心に積まれていく。
無性に泣きたくて堪らないのに、どうやって泣いたらいいのかわからなくなって。
だけど人を殺して敵の叫びを聞いているうちに、どうして泣きたいと思ってたのかもわからなくなって。

頭が、麻痺していた。

紫苑、無事か!」
「っ……だ、大丈夫!」

時折、振り返って紫苑を確認する斎藤。
その声だけが、今の紫苑の思考を動かせる音。
そして変わらず前を突き進む斎藤の背中だけが、紫苑の道しるべだった。
視点を定めて、また走り出す。

小さな希望を追い求めて、幕軍は何日も何日も戦い続けた。
いつか、どうにかして、それでもと願いながら。

だが兵達の忠義は打ち砕かれる。



――9月22日、鶴ヶ城が落城し、会津藩が投降した。

それを聞かされた幕軍、そして斎藤は呆然と立ち尽くすのだった。











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詰め込み。
そして敗戦。