ひどい船旅だった。
予想した以上の荒波に船は大きく上下し、揺れる足元に気分を悪くする者は後を絶たなかった。
舵も利かず、一緒に行動していた艦隊は波に攫われ散り散りになってしまった。
だが離れてしまった船の心配をする余裕もなく、自分達の乗った船が陸地に無事辿り着けるかも危うい状況で。
操舵をしない紫苑には船の維持をする事と見守る事しかできなかったが、
視界の先にうっすらと白い陸地が見えてきた時は本当に安心した。
上陸時に、またしても激しい波のせいで犠牲者をだしてしまいながらも、
なんとか蝦夷の鷲ノ木の大地を踏みしめた。
やっとこの気持ち悪さから解放されると思ったのも束の間、紫苑が最初に抱いた感想は。
「はああああ寒いー!」
船上でも感じていたが、寒さが尋常ではない。
芯まで凍るとはまさにこの事だと紫苑は痛感し、上着を重ねながらも震えていた。
慣れない水上という苦行が早く終わらないだろうかと願い続け、
ようやく念願の陸地に降り立ったのだが、また別の試練が待ち構えていた。
「仕方ねぇだろ。そのうち体が慣れる」
(土方さんは相変わらずけろっとしてるんだよなあ)
元々様々な事象に耐える事に慣れているらしく、紫苑まで酷くはないだろうが多少なりとも船酔いはしているだろうに。
彼はいつものように眉を潜めるだけでその場に立っていた。
既に雪が積もっている蝦夷の大地は、その色彩のほとんどが白だった。
吐く息すら白く、何だか本当に別の国に来てしまったかのようで。
新政府軍と戦うよりも先に、手強い敵が立ち塞がっていた。
薄桜 一
鷲ノ木で一晩を明かし、一行は箱館を目指して二手に分かれて進軍する事になった。
一応は行き場を失った旧幕府軍の為の領土を確保する為の開拓、というのが名目だが。
蝦夷地の新政府軍の一部である箱館府はそれを良しとせず、交戦は避けられない状況であった。
此処から五稜郭まで最短の道で進む本道軍を大鳥が総督として指揮をとり、
本道軍には旧幕府軍ほとんどの陸兵と、新選組本隊が所属する事になった。
回り道をして海沿いを進む間道軍の総督には土方が就任した。
そして新選組の中でも古参を含む少数精鋭での「守衛新選組」が土方の直属の軍として編成された。
兵数は少ないものの、幹部級と、もちろん紫苑もこれに配属された。
久しぶりに傍にいられると意気込んでいると、背後から釘を差す声がする。
「紫苑、お前は前線に出させねぇからな」
「え、どうしてですか?」
「…………」
不満な声を上げて振り返ると、思った以上に渋い顔をしている土方と目が合った。
厳しい言葉が出てくるかと思いきや、何か思い詰めたようにじっと紫苑を見つめてくる。
「な、何ですか?」
「……もう十分、羅刹になって無理してきてるだろ」
「……寿命、ですか?」
「…………」
聞きたくない言葉だったのだろう、彼の眉が余計にしかめられた。
否が応にも思い出すのは、薄笑いを浮かべながら灰となって消えていった山南の事だろう。
寿命だと、彼は言った。
そして羅刹化は寿命を使って力と回復力をもらっている。
(こればっかりは、大丈夫って言えないしな……)
無理をしてきた自覚はある。
「二晩眠り続けるなんて普通じゃねぇだろ?だから、できればもう羅刹にはなるな」
「…………」
無理をしている時は、それで命が潰えてしまっていいとも思っていた。
だけど確かに今、寿命でこの身が滅んでしまってはいささか問題がある。
まだ紫苑は本当の使命を果たしていないのだから。
(それまでは、まだ死ねない……)
「……わかりました。いざとなったらわかりませんが、約束します」
戸惑いながらも笑うその表情がとても儚く感じられて、土方は思わず紫苑の頬をつねる。
指の力はそんなに入っておらず、むしろ優しいぐらいだったが、軽くでも頬を引っ張られればそれなりに痛い。
「い、痛いです」
「頼むから、約束守ってくれよ」
「…………」
抗議の声を挙げて、紫苑は固まった。
彼は冗談などではなく切実な声で、悲しそうに笑っていて。
頬ではなく胸が痛んで、紫苑は放心したまま土方を見上げ、消え入るような返事をするので精一杯だった。
雪と格闘しながらの進軍もまた苦難の連続だった。
とにかく寒く、降ってくる雨まじりの雪が隊服を濡らし、手足の先から全身が凍っていくようだった。
移動に慣れている紫苑でも、これには参ってしまいそうだった。
気を紛らわす為に「寒い寒い」と連呼していた言葉も、しばらくすれば出す気力をなくした。
吹雪が目に入りそうだからだろうか、皆俯いて無言で歩いていた。
「千鶴、大丈夫か?」
近くを見渡せば、風で今にも倒れてしまいそうな体と真っ白な顔。
一番辛そうな、何より女である千鶴に声をかけた。
だが彼女は色のない唇を震わせながらも、静かに頷いたのだ。
「、……はい、大丈夫です……っ」
「そっか……」
大丈夫なはずないのに、それでも肯定しようとする彼女。
本当に芯の強い人間だなと感心しながら、その隣にいる沖田を見遣れば。
彼の方が紫苑に苦笑してみせる。
(総司もわかってるけど、何も言えないのか)
こういう、頑として譲らない彼女の強さに恐らく彼は惚れたのだろうと思った。
ならこれ以上は言うまいと、紫苑も小さく笑って前を向く。
そんな風に互いを気遣い、時には焚き火で寒さを凌ぎながらひたすら海岸沿いを歩いた。
途中、小競り合いはあったものの大きな被害はなく進み、川汲峠の麓の村をその日の宿とした。
やっと寒さが凌げると、紫苑が大きな溜息をついて荷物を運んでいると。
「紫苑紫苑、ここ温泉があるってよー!」
「え、温泉!?」
雨と雪でぐしゃぐしゃになった隊服が脱げるだけで有り難い限りだったが、まさか温泉とは。
藤堂の言葉に紫苑は一気に目を輝かせる。
「やった!あ、一君も入るよね?傷に効くよ」
「……あ、ああ、そうだな」
「総司も、ちゃんと温まらないと」
「言われなくてもそうするよ。母親みたいな事言わないでくれる?」
「誰が母親だ」
「おい、遊びに来たんじゃねぇぞ紫苑」
嬉しそうに仕切る紫苑を咎める土方。
「……すいません」
怪我や病気に少しでも良くなればと思った。
だけど温泉と聞いてつい浮かれてしまったのは確かで、
そんな状況ではない事を思い出して紫苑はしゅんと肩を落とす。
いつもの調子で言った土方にとっては、予想よりも落ち込んだ紫苑に戸惑った。
「いや、怒ってはねぇ……だから、好きなだけ入ってこい」
「……はい」
少しだけ足早に自室に去っていった土方に、周りの男達がにやにやと笑う。
「本当に土方さんって君には甘いよね。しかも前より余計に甘くなった」
「え、そうかな……?」
「確かに今までだったら、紫苑に怒鳴っても平然としてたな」
沖田の言葉に、原田が同意だと頷く。
そして紫苑を見下ろして、柔らかく目を細める。
「意識されてるって事だよ、よかったな紫苑」
「…………」
(なんか、恥ずかしい……)
気持ちが通じた事も何故か皆に知られていて、しかも温かく見守られているこの状況は、嬉しいのにむず痒くて仕方ない。
原田は応援してくれているが、沖田なんかは確実に面白がっている。
土方との関係が変化したせいで、仲間達の反応が何だか変わってしまって居た堪れない。
だけど、今までのままがいいとは思えないから女心とは面倒くさい。
それでも恥ずかしさを隠そうと、早く温泉入ろうぜと男らしく言った所で問題が発生する。
大きい温泉宿ならば湯殿は男女で分かれていて。
名目上は紫苑も千鶴も男なので、他の隊士の前で堂々と女湯に行く訳にはいかない。
「紫苑、千鶴、少しの間待ってな」
どうしたものかと考えるより先に、例によって察しの良い原田が率先して動いてくれた。
素直に頷き、その間に別の隊務をこなしているとしばらくして呼ばれ。
男湯に行くと原田と永倉が護衛兵のように立っていた。
「他の奴等はもう済んだから、安心して入っていいぞ」
「……ありがとう」
彼らだったり、他の人だったり。
毎回毎回気遣ってくれる仲間達に感謝してもしたりなかった。
二人に監視してもらっている間に、遠慮なく温泉に足を踏み入れた。
「はあ~、癒される~」
露天になっている岩風呂に沈み、染み込む温かさに声が漏れる。
外気に触れる部分は寒いのだが、熱い湯が下から全身を温めてくれるからちょうどいい。
「、痛っ……」
「まだ痛みますか?」
「少しね。もうほとんど治ってるんだけど」
撃たれた足の傷は大方塞がり、もう動いても支障はないが時折思い出したように痛む。
元々鬼の血のおかげで傷は痕になりにくく、さらに変若水の効果で肩の銃創すら消えた。
だから何度も戦を経験しているくせに紫苑の体に傷痕はない。
今回は対羅刹の銃弾だったせいで傷の治りが遅いだけで、怪我自体はそれこそ昔から日常茶飯事だった。
紫苑にとって傷は珍しいものではないのだが、千鶴は心配そうな目でこちらを見てくる。
優しい性格の彼女に自然と頬が緩む。
「こんな傷で済んでるだけで御の字だよ」
後遺症になるようなものでなければ、いつか傷は癒える。
あれだけ激戦をくぐり抜けてきて、こうして生きているだけで奇跡のようだった。
「みんなに助けてもらって、五体満足で温泉に浸かって、こんなに穏やかでいられるのが信じられないくらい」
(本当に、嘘みたい)
何人もの仲間が死んで、大切な人も亡くして、それでいてたくさんの命をこの手で奪ってきた。
どれも忘れてなんかいない、だけど自分達はそれでも必死で前を向いて、そして笑っている。
笑っていられる事が嬉しくて、楽しいのに。
「……平和すぎて、怖い」
胸を占めるのは、そんな不安だった。
満たされていて怖いのだ。
望んだ以上のものが手に入ってしまった気がして。
「もらいすぎてる気がする」
「そんな事はないです……紫苑さんがずっと頑張ってきたから、今があるんです」
「ありがと……でもこんなに欲張ると、いつか罰が当たりそう」
千鶴の言葉は嬉しい。
だけど本来こんな風にのんびりしてていい身じゃない事もわかっている。
新政府軍は、すぐ近くまで来ている。
「私はたぶん、こうしていられるだけで、もう十分なんだよなぁ」
「……紫苑、さん?」
さらに戦にまで勝とうだなんて、思ってはいけない気がするのだ。
これ以上望むものなどないくらいに、満たされている。
(いつ死んでも後悔しないくらいには、もう十分)
穏やかでいて、だけど消えてしまいそうな笑みを浮かべている紫苑に、千鶴は不安を覚えた。
初めて来た宿でありながら、勝手知ったる場所のように紫苑は間道軍総督の部屋を訪れる。
「土方さん、温泉入らないんですか?」
「ああ?そのうちな、これが終われば入る」
まだ湯気が残るまま、作業をする机の近くにちょこんと座る。
筆を動かす土方が紫苑を見ないのも、"仕事を終わらせた後にやる"というような返答もいつもの事。
相変わらず仕事最優先な人だ、紫苑も慣れてるから特に何とも思わない。
「終わる事、あるんですか?」
だけど今日は悪戯心が働いたので、少しだけ皮肉を込めてみると土方はやっと此方を向いた。
「……言うようになったな、お前」
「鍛えられましたよ、土方さんに」
全然怒っていない目で睨まれて、紫苑はにっこりと微笑み返す。
とても想いが通じ合った者同士の会話には思えないが、紫苑にとってはこのくらいの方が気楽だった。
「という訳で、折角だから入ってきたらいいのに」
「……そうだな」
彼もまた、その"作業"が到底終わる事などないと思い直したのだろう。
筆を置き、凝り固まった肩を動かしながら、ふと紫苑を見る。
「良い匂いがするな」
「、……そうですか?洗いはしましたけど……」
これでも女の端くれだ、久しぶりに体の隅々まで洗えて満足はしている。
けど香油だったりは使っていないので、何故匂いがするのかわからない。
首を傾げていると、何だかじっと見つめられている事が恥ずかしく感じて目を逸らす。
土方は何を思ったのか、ニヤリと口角を上げる。
「一緒に入るか?」
「は!?……な、何言ってるんですか!?」
「はは、冗談だ」
全く予想していなかった言葉を投げかけられ、紫苑は真っ赤になって声を張り上げた。
仕返しだ、と笑いながら立ち上がる土方はさっさと風呂の準備を始めている。
(本当に、心臓に悪い……)
どうして突然そんな事になったのか、慣れない紫苑は動揺した頬を鎮めようと、ぱたぱたと手で仰ぐ。
それを満足そうに見下ろしている、想い人。
「湯冷めするなよ」
「……はい」
鬼副長にあるまじき優しい声で彼は部屋を後にする。
夜に消えていくその背中がとても穏やかで、紫苑の胸がきゅっと詰まる。
(本当に……このまま時が止まればいいのに)
戦も、責任も、何もかも捨て置いて、こうやってただ平和に過ごせたらどんなに幸せか。
(ああ……ほら、やっぱり欲張りになってる)
誰もいない部屋で紫苑は自嘲した。
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願わくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 西行
蝦夷編が始まりついに最終章。