伝令を見送り、土方軍は江差を目指しながら転戦を繰り返した。
残存勢力に対し大きく苦戦する事もなく、軍は海沿いの街道を北へ少しずつ進んだ。

何度目かの戦闘ののち、あと一日ほどで江差に到着するという頃、もの凄い暴風雪に襲われた。
吹雪は氷となって兵達に打ち付け、顔に当たる痛みすら麻痺してくるほどだった。
歩いているだけで体が飛ばされそうな風が吹き、例えばこれが海上だったのなら船も転覆してしまうのではないかという勢いだった。
どれもが先視で感じた感覚に似ていて、もしかしたらこういう自然現象によって開陽丸が沈む事になるのではないかと紫苑は思う。

不安だった。
伝令を頼んだものの、実際いつ起きてしまう事故なのかもわからない。
いくら土方からの伝令だとしても、そもそも突然の要望を榎本は信じてくれるのだろうか。
奇跡的にその日を回避させたとしても、次の日、また次の日はどうなるのだろう。
不安が重なって恐怖となり、紫苑は眩暈すら感じながら、もはや氷となった足を動かした。


「江差にはもう敵はいなかった」

永倉を江差に残し、街道を戻って来た原田がそう言った。
どうやら土方軍が来るという話を聞き、既に兵や住人もみな撤退していたようだ。
戦う気でいた一同は少しだけ肩透かしを食らったが、余計な殺傷をする必要がなくなったのは良い事だった。

江差の街に入り、沖を見てみるが旧幕府軍の帆はない。
永倉が言う通り、榎本の艦隊は来ていないようだ。
合流地点である此処に開陽丸が来ていないという事は、誰かの伝令が伝わり待機してくれているのだろうか。
それとも、江差までの途中でどこかで……

紫苑、此処にいたのか。もう中入ろうぜ、土方さんが呼んでる」

荒れた海風に身を晒していた紫苑の背後で、藤堂が気遣うような声を出す。

「……うん」
「気になるのはわかるけど、休まねぇと体がもたねぇよ」
「……そうだね」

それでもぼんやり海を眺めている姿に溜息をつくと、藤堂は紫苑に歩み寄り肩を軽く叩く。

「本当に紫苑は危なっかしい奴だな。目を離した隙に何をしでかすかわかんねぇ」
「そんな事は……ある、かも」
「だろ。土方さんだって仕事で動き回ってるのに口を開けば"紫苑はどこ行った?"だからな」

何回も聞かれて、藤堂はついに紫苑を探しに行く事にしたという。
土方のその様子がありありと想像できて、彼には悪いが少し笑ってしまった。

「あんまり心配させんなよ?」
「うん……ごめん」

心配という言葉は、藤堂や土方の両方に対するものだろう。
小さく頷いて、紫苑は藤堂の後を追う。

払拭されない不安を抱えながら土方の所へ戻ると、彼は案の定渋い顔をしていた。
だけど紫苑の考えている事などわかっているのだろう、何も言われる事はなかった。

土方軍は数日間江差に滞陣し、その後ゆっくりと五稜郭へ戻る事となった。






薄桜 三






一ヶ月ほどかけて箱館に戻ると、紫苑は焦る気持ちを抑え切れずに港へ足を運んだ。
そして見えた最新鋭の軍艦に紫苑は思わず声を上げた。

「開陽だ……!」

傷もなく綺麗な状態で港に停泊している旗艦に、紫苑はようやく安堵の息をついた。

「よかったね、沈んでなくて」
「……うん」

頼んでもいないのに付いてきた沖田が背後で呑気に笑う。
どうでもよさそうな言葉や態度だが、彼が表面上だけの人間でない事を知っている紫苑は素直に頷いた。
というか、この間から紫苑が何処かへ行くと必ず仲間のうちの誰かが付いてくるのだ。
誰も何も言わないが、恐らく土方から"一人にさせるな"などの指令が出ているのだろう。
心配させてばかりなので、そんな措置が取られても仕方がないなと紫苑は諦めているが。

もっと近くで見たくて、開陽丸を視界いっぱいに入れながら歩いていると、傍から二人の人影が現れる。

「そろそろ帰ってくる頃だと思っていた」
「山崎さん……!島田さんも!」
「きっと藤沢君なら先に港へ来るだろうと思って、待っていました」

やっぱり、という顔で二人が笑っている。
紫苑は今にも飛び付かんばかりの勢いで駆け寄った。

「開陽がここにあるって事は……!?」
「ああ、俺達が榎本さんに報告した」
「開陽が出港する直前でしたが、何とか間に合いました」

松前城から大急ぎで戻ると、榎本艦隊はまだ箱館にいたのだという。
書状を渡して事情を説明すると、榎本は訝し気な顔をしながらも了承してくれたそうだ。
「他でもない土方君からの頼みならば、無下にする訳にはいかない」と出港を中止した。

先視の事は言えないから俺が適当に理由を作る、と書状を作る前に土方が言っていたので、
彼を納得させるだけの上手い言葉を並べてくれたのだろう。

「よかった……」

まだ冬は長い、この先も警戒は続けなければならない。
だけど開陽丸の綺麗な姿を見られただけ紫苑の心は格段に軽くなった。

「いちいち大袈裟なんだよね、君は」
「っ……うるさいよ、総司」

感極まって泣きそうになっていた顔を沖田に覗き込まれる。
やっぱり嫌な奴だ、と紫苑は沖田を涙目で睨み付けるが。

「本当に、馬鹿な紫苑
「…………」

馬鹿という言葉が予想外に優しい音をしていて、紫苑は次に言う言葉をなくした。
結局、紫苑が大事にしている仲間達は皆、紫苑に甘いのだ。
気恥ずかしさに目を伏せていると、島田が肩を叩く。

「五稜郭に向かいましょう。土方さんを待っていた祝賀が行われます」
「祝賀?」

確かにいつもより港が騒がしい気はしていた。
五稜郭への道すがら、山崎と島田が詳しい説明をしてくれた。


土方軍が松前城を経由して江差から戻ってくる間に、
榎本は蝦夷の地に独立した新たな政権を作ろうと動いていたという。
諸外国の言質をとり、事実上の新政権として認めさせた。
もちろん本州の新政府はこれを良しとはしなかったが、蝦夷地をまとめる組織が整えられた。

箱館新政権樹立。

それはつまり敗走軍や旧幕府軍という名前ではなく、自分達の政権組織が生まれたという事だ。
その記念すべき日の翌日に土方軍が凱旋した。
港の艦隊や弁天台場から祝砲が放たれる。
特に開陽丸からの祝砲は、紫苑にとってはとても感慨深いものだった。

そして今夜、新政権樹立の祝賀会が盛大に催されるそうだ。
実際は問題は山積みで、財政的にも苦しい状況だったが、暗い空気を払拭したい意図もあるのだろう。


「やったぜ、祝いの飯だ酒だ!」
「新八っつぁんは飲めれば何でもいいだろ」

宴の席に並ぶ豪華な食事に、幹部級の人間が勢ぞろいする。
紫苑の周りには昔からの仲間達が集まり、既にどこの卓よりも騒がしくなっている。
はしゃぐ永倉に藤堂は呆れるように笑っているが、久しぶりの高い酒を皆浴びるように飲み進める。

土方は榎本や大鳥などの奉行達と一緒で、奥の席で会話に花を咲かせていた。

「土方君が早馬を飛ばして待機と言うから、一体どういう事かと思ったが」

あれには驚いたと榎本が笑う。
土方は言い澱む事もなく、酒に少し口を付けながら答える。

「自分達はまだ蝦夷の気候に慣れていない。
実際、船が転覆するかというほどの暴風雪に襲われた事もある。
厳しい雪風に対処できなくなるという可能性も考え、待機をお願いした」

榎本さんの船員は皆腕が立つとは承知の上で、と土方は続ける。

「開陽は箱館軍の一番大事な旗艦。万が一にも沈ませる事があってはならない。
だから、出番がなくて手持ち無沙汰かもしれないが、春までは温存していて欲しい」
「戦慣れしている土方くんがここまで言うのだ、君の通りにしよう」
「感謝します」

海軍なしに江差も制圧できて何より、と榎本は上機嫌だった。
完璧な受け答えをした土方は、静かに榎本と酒を酌み交わす。

その一方で、酒が進んできた紫苑は段々と楽しくなってきていた。
長旅の疲れが残っているせいか、久しぶりに飲んだせいか、いつもより酔いが早い。

「一君、飲んでる?」
「ああ」
「ご飯は?」
「食べている」

特に意味もなくただ絡んでいるだけなのだが、斎藤は律儀に答えた。
斎藤が飲む姿をじっと見つめていると、どうしたと首を傾げられる。

「一君って、本当に飲んでも変わらないね」
「あんたは……今日は珍しく飲んでるな」
「だって、見てるだけで面白いから」

ほら、と紫苑が振り返れば原田を含めた三人組が。

「ちょ、ああ!新八っつぁん、それ俺の酒!」
「固い事言うなって」
「おい新八、お前もいい加減大人になれよ」
「って、左之さんもちゃっかり俺の飯持ってくな!」

少しは大人になったかと思ったのに、三人集まればやっぱり大騒ぎ。
息ぴったりの芸に紫苑は声を上げて笑う。

「あはは、楽しいー」
「珍しく紫苑が酔ってる。面白いからもっと飲ませてみよう」
「い、いいんですか沖田さん、そんなに飲ませて……」

思考をフワフワさせながら笑っている紫苑の猪口に酒をどんどん注ぐ沖田に、隣にいた千鶴が慌てる。

「総司」
「いいんだって」

斎藤からも静止の声がかかるが、沖田は止めようとしない。
そんなやり取りなど気にせず紫苑は手にある酒を飲み、ぼんやりと三人を眺める。

「平助ー、これは良い酒だぞ!飲め飲め!」
「わ、ちょ、新八っつぁん!零れてるから!」
「いやぁ舶来の酒はやっぱ美味ぇな。紫苑、これ飲むか?」
「飲むー。左之さんありがとう」

秩序なんてない、思い思いに楽しんでいる仲間達。
この酒宴の席で恐らく一番騒いでいるのが守衛新選組の卓だろう。

「お前達、もう少し静かにできないのか」

咎めたのは、一人で酒を飲み続けていた斎藤だった。
煩くしすぎただろうかと、一同が謝ろうとすると。

「これ以上騒ぐなら、全員斬るぞ」
「……酔ってるよね、一君」

沖田の言葉通り、斎藤は言うだけ言ってまた黙り込んで酒を飲んだ。
この可笑しなやり取りに、吹き出したのは紫苑だった。

「あはははは!」

変わらない空気が楽しくて、何だか嬉しくなって紫苑はひたすら笑った。
酸欠になるぐらい笑って、息も絶え絶えだった。

「……紫苑って、笑い上戸だったか?」
「最近はそんなに飲まないから忘れてたけど、そうだったかもしれない」

永倉と藤堂がひそひそと会話しながら苦笑する。
昔、馬鹿騒ぎをしていた頃は、いつだって陽気に笑っていたように思う。
それを忘れるくらいに、紫苑は今まで騒いでこなかったのだ。

「はあー……」
「……あ、寝た」

落ち着いたかと思ったら、突然倒れ込むように突っ伏して静かになった。
寝息が聞こえるのでどうやら寝たらしいと、大切な仲間達は紫苑を柔らかい目で見守る。

「ここしばらく、笑ってなかったからな」
「僕達に気を遣わせるなんてね、全く……」

原田が紫苑の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、沖田が疲れたと言いながら溜息をつく。

「やっと気が緩んだか」

寝てしまった紫苑を背後から抱き上げたのは、いつの間にか現れた土方だった。

「土方さん」
「ずっと気を張ってたからな。開陽を見て少しは安心したんだろう」

一同が見守る中、待ってたと言わんばかりに素早く紫苑を支える。
どう持ち上げようか思案し、結局土方は一番運びやすい横抱きにして抱える。

「世話になったな。こいつは先に寝かせてくる」
「……お、おう」

小さく笑み、すたすたと宴席を後にする土方。
その背中を眺め、途端に静かになった卓で藤堂がぽつりと呟く。

「俺達……さり気なく釘を刺された?」
「……そうだな」

大切にしてはいいけど手は出すなよ、そんな風に言われている気がして。
仲間達はただ苦笑するしかなかった。


翌日、土方の部屋で目を覚ます事になるのだが、激しく動揺したのは紫苑ただ一人のみであった。











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2019.12.15
ストーリーを大幅変更。