穏やかな風が吹いている。
気持ちの良い気候に目を細めながら、紗矢は街を歩く。

刀を差さない、普通の生活にも慣れたものだ。
しばらくは本来である女の着物にも違和感を覚えていたが、それもいつしか馴染んだ。

普通の娘のような暮らしができるなんて、少し前の自分が聞いたら信じないだろうと思う。
血と埃にまみれ、銃弾が飛び交う戦場を生き抜いてきた自分にとっては、
戦わず、ただ想い人を待って傍にいればいいだけなんて夢のようだった。

(呑気に夕食の買い物ができるなんて思ってもみなかった)

今日は何が安いだろうか、どれが美味しそうだろうか。
じっくり吟味している自分に内心笑えてしまう。

どこか足元がふわふわしているような不思議な気分でくすぐったくて、だけど胸が温かい。
そんな日々が送れている事に心から感謝していると。

「誰かぁ!そいつを捕まえて!」
「、え?」

突然の女性の金切声に顔を上げれば、目の前からもの凄い勢いで走ってくる男がいる。
詳しい事はわからないが、状況から察するにスリや物取りの類だろう。

「どけ!」

男が紗矢を突き飛ばす勢いで正面に迫ってくる。
だけど紗矢は動じなかった。

「っ!」
「うお!?」

瞬時に体を引いて男の足を引っ掛けると、掴んだ奥襟をひっくり返して男を転ばせる。
何が起こったのか理解できていない男は一瞬だけ呆けて、そして起き上がる。

「あんたが盗っ人?」
「くそ!ふざけんじゃねぇぞ!」

屈辱を受けたと思った男は完全に頭に血が上り、懐から小刀を取り出した。
周囲で聞こえる悲鳴を背に、紗矢はそれでも動揺しない。

「この女ぁ!」

いくら一線から退いたとはいえ、少し前まで武器を持ったやり取りは日常茶飯事で。
ましてや小悪党風情の中途半端な殺気など、たいした事はない。

刀が突き出される瞬間、紗矢は体を逸らしながら手首を掴み、それを軸にして男をもう一度引き倒す。
全体重をかけて男にのしかかり、動けないように締め上げる。

「ぐっ!」
「やっぱり生身だとこんなもんか……」

刀があれば話はもっと早かったが、だけどそうすれば此処に血が流れる事になるし、
殺さないように加減するのはなかなかに難しいのだ。
だからこそ体術でどこまでできるか試してみたのだが、紗矢としてはあまりすんなりといかなかった事が不満だった。
もう少し生身の技術を身に付けなければいけないなと実感する。

「あ、ありがとうございます!」
「いえ、怪我はないですか?」
「は、はい……!」

男に乗ったまま優しく女性に微笑みかければ、周囲の人間の方が驚いていた。

「あ、あんたこそ、大丈夫なのかい?」
「若い娘さんなのに、強いんだねぇあんた!」
「……あ」

そうだった。自分はもう女の恰好をしていたのだった。
気にせず立ち回ってしまったと、紗矢は少しだけばつの悪い思いをしていた。

こんな所を彼に見られようものなら、呆れたような溜息を吐く姿がありありと想像できる。

「あれ、藤沢君?」
「…………大鳥さん」

人だかりから現れた見知った顔が呆然と此方を見下ろしていて、紗矢は何とも気まずい苦笑を漏らした。






残映






「おいあんた、これ落としたぞ」

声をかけながら道に落ちた物を拾うと、少し前を歩いていた女性が振り返る。
首を傾げて懐を探り、持ち物がない事に気が付くと慌てて駆け寄ってきた。
ありがとうございますと言いながら受け取り、顔を上げて、驚いたように顔を赤らめる。

女性は恥じらうように視線を彷徨わせ、何度も頭を下げるとパタパタと走って行った。

(懐かしい反応だな)

土方は不思議な気分を覚えていた。

若い頃はそれなりに人気だった事もあり、街中でも今のように頬を赤らめて自分を見てくるような女性も多かった。
だが新選組の鬼副長で名を馳せるようになってからは、市中の女性達は恐怖の対象として土方を見るようになった。

ここ数年は男女問わず、土方の存在に気付くと驚き、それから青褪めて逃げていく光景が当たり前だった。
そうなるように仕向けたのだからそれに関しては何も思わなかった。

だが蝦夷に来て、五稜郭を落ち着かせてしばらくが経ったおかげか、
市中の者達は土方を見つけても恐怖を浮かべたり嫌悪をにじませる事があまりなくなった。
此処では土方達は侵略してきた側であるし、自分を知っている者も少なくはないので、
そういう人間は怖いのか敬遠しているのか遠巻きから見ていたりもするが。

だからこそ今のような反応は、思えばとても久しぶりな事で。
嬉しいとかいう感情はないが、何だか昔に戻ったようで懐かしかったのだ。

「相変わらずの色男だね、土方君」
「……大鳥さん」

近付く気配に振り返ると、柔らかい表情の大鳥が立っている。
こんな外出先で偶然出くわす事とは珍しい。
そして彼は自分こそ好かれそうな雰囲気をしているくせに、何だか楽しそうにニコニコと笑っている。

「あんたの前で浮き名を流した事はなかったはずだが?」
「そうだったかい?でも以前から君は女性達に人気だったよ」
「そりゃどうも」

鬼の新選組だとしても、女性からの視線を感じる事は京や他の地域にいても一定数はあった。
だが、別にそれだけだ。

「嬉しくないのかい?」
「今となってはもう興味ないな」

美しい見目の女、色気のある女、清らかな女など、魅力的な女はいくらでもいる。
昔だったら気が向けば声をかけたかもしれないが、今はそんな気はさらさらない。

土方が紗矢と一緒に暮らしている事も知っているはずなのに、どうしてそんな意味のない事を聞いてくるのだ。
大鳥の目的がわからず怪訝な顔を向けるが、彼は笑ったまま。

「数刻前の話だけど、面白い事があったんだ」

少しだけ勿体ぶって大鳥は続ける。

「久しぶりに藤沢君に会ったよ」
紗矢に?」
「盗っ人を締め上げた状態でね」
「ああん?」

素っ頓狂な声を上げれば大鳥が事の次第を説明してくれた。
街中でスリの現場に居合わせて、果敢に立ち回って犯人を捕まえたらしい。
周囲の人間が動揺する中、男を押さえ付けている所を大鳥がたまたま見つけたのだという。

「面白い光景だったよ。変わらず彼女はアクティブな人だ」

大鳥が楽しそうに話すのを余所に、土方はその捕り物の瞬間を想像していた。
どうせ、女物を着ている事なんてすっかり忘れて、涼しい顔をしながら男を引き倒したのだろう。
そして大股で立ち振る舞った事に後から気付いて、気まずさを覚えたに違いない。

「あまり時間もなかったから少し話をして別れたけれど、土方君が外に出ているなら知らせた方がよかったかな」

大鳥に何か言葉を返さなければと思うのだが、土方は堪らず吹き出していた。
くつくつと笑っていると大鳥が驚いているが構わなかった。

「ああ……全く、あいつは飽きないな」
「…………」

想像しただけなのに紗矢の様々な表情が浮かんでくるようで勝手に頬が緩む。

女のくせに無駄に強くて、一端の男と同じ立ち振る舞いをして。
強い目をしたかと思えば気恥ずかしさに眉尻を下げて苦笑したのだろう。

最近は大人しくしているが、やはり彼女はいざとなったら武士の顔になる。
久しぶりに感じた"紫苑"の気配に、土方は愛しさすら感じた。

(だから、傍に置いておきたくなる)

直前に普通の女性の反応を見ていたせいか、余計に紗矢の存在が稀有なものに思える。

彼女を知ってしまってから、ただの女では満足できなくなってしまった。
美しいだけでは、艶やかなだけではつまらない。
お淑やかで慎ましい女性も悪くないのだが、
それだけでは物足りないと思っているのは、恐らく惚れた弱みというやつだ。

「君がそんな顔をするとは思わなかった。これは、僕は惚気られているね」
「まぁ、そう思ってもらってもいいぜ」

恐らく大鳥は、紗矢の話題を出した時の土方の反応を見たかったのだろう。
どうやら彼の予想は超えていたらしい。

「彼女は本当に不思議な人だ。藤沢君のような人は他にどこを探してもいないだろうね」
「はっ……あいつみたいなのが他に何人もいたら困る」
「はは、楽しそうだね」

勝手に死にに行こうとする奴が何人もいたら御免だ。
勘弁してくれと手を振るが、だからこその唯一の存在なのだと大鳥も察している事だろう。

見た目は恐らく普通だ。特段に美人という訳でもない。
男でいた頃の名残か、少し男勝りな言動が残っている彼女はその辺にいる女とは明らかに違う。

彼女には色んな顔がある。
最近になってやっと少し女らしくなってきたが、普段は呑気にヘラヘラと笑っている。
嬉しい時は目を緩ませて破顔するし、儚げな表情を浮かべているかと思えば存外に血の気が多い。
時には獣のような雄叫びを上げて刀を振るうのに、意外に脆くてすぐ泣くのだ。
頼りになるのに、危なっかしくて仕方ない。

一時も目が離せない、だけど一緒にいて飽きないと心から思う。
そして何より、あの覚悟を決めた時の瞳の美しさは、どんな人間でも惹きつけられるだろう。

「目が綺麗な人、というのはああいう人の事を言うのかな」
「……あいつの本気の目はそんなもんじゃねぇよ」

彼女は一度懐に入れた人間をとことんに守ろうとする意志の強さがある。
がらりと雰囲気を一転させ、すっと目の色が変わる。
それは戦が終わった後でも感じるときがある。

「へえ。気になるけど、それを知ろうとしたら君に恨まれそうだからやめておくよ」
「賢明な判断だ」

彼女の本当の美しさを垣間見れる人物は限られるのではないかと思う。
いや、限られていてもらわなければ困る。

あの目……あの時、命を捨てて戦いに行こうとした時の目が忘れられない。
一番美しくて、輝いていて、だからこそ恐怖を感じる目をもう二度と見たくはない。

だから、他の人間が見る必要はない。
土方だけが知っていればそれでいい。

「今夜、予定がないなら飯食っていくか?」
「え、いいのかい?」
「ああ、その方があいつも喜ぶ」

紗矢の本気はさておき、ちょうどばったり会ったのも何かの縁だ。
夕食に誘えば、大鳥はせっかくだからと頷いた。

元々紗矢は大人数でがやがやしているのが好きな人間だ。
二人で和やかに食事をする、それはそれで彼女は満足しているだろうが、
それでも時々寂しそうに遠い目をしている時がある。
恐らく、旅立っていった仲間達の事を考えているのだろうなと思う。

彼女は薄く笑っている事が多くなった。
昔はもっと無邪気で屈託なかったが、大人になったというか、様々な事を経験したが故なのだろうとは思うが、
そのまま消えてしまいそうな気がして時々不安になる。

だから土方は頻繁に人を家に招く。
見知った誰かがやって来れば、寂しがりの彼女は嬉しそうに笑顔を見せるから。

夕食の約束を取り付けると、二人は奉行所へ戻っていった。















そろそろかな、と思っているとちょうど玄関から音がした。

「おかえりなさい。あ、大鳥さん!」

調理の手を止めて出迎えに行くと、土方の隣には客人がいた。

「こんばんは、また会ったね。突然で申し訳ないけど、お邪魔してもいいかい?」
「どうぞどうぞ!」

彼が来るなんて珍しいなと思いながら、紗矢は大鳥を奥へ招く。
土方がふいに誰かを連れてくるのはいつもの事だ。
きっと寂しがりな紗矢の性格をわかっていて、頻繁に誘ってきてくれるのだろうと思う。
大体は山崎や島田を連れてきてくれるのだが、大鳥は意外な人選だった。

慣れているので、誰が来てもいいように夕食はいつも多めに作ってある。
出来たての料理を運ぶと、小さな宴会が始まる。

「今日、街で大捕り物したんだってな」
「やっぱり聞きますよねー……すいません」

大鳥が此処に来た時点で、ああ会って話したんだろうなとは予想していた。
男を押さえ付けていた所を目撃され、遅れてやって来た役人に引き渡す時も大鳥は楽しそうにしていたが、
紗矢としてはそのうち土方の耳に入ってしまうだろうなという事が気になった。
一応女らしくしようとしているのだがたまに男のくせが抜けなくて、それをよく土方に苦笑される。
怒られる訳ではないが、最後までお淑やかでいられないのが少し恥ずかしいのだ。

「いや、よくやったと思ってる。これからもどんどん捕まえてやれ」
「?……はい」

どうしてか、いつもより上機嫌だ。
しょうがない奴だ、と言われるかと思っていたのに褒められるとは。
大鳥を見遣ると彼も同様に笑っているので余計に紗矢は首を傾げる。

(けど、まいっか)

可愛げのない自分だけれど、受け入れられているなら嬉しいと思った。

「でも元気そうでよかったよ。
いつも土方君の隣にいたから顔を合わせる事もあったけど、どうしているかなって気になっていたんだ」
「私も、久しぶりに大鳥さんに会えて嬉しいです」

土方や紗矢がここまで生き抜いてこられたのは、榎本や大鳥達のおかげでもある。
彼らが二人を認めてくれて、協力してくれたからこそ思い切り戦う事ができたのだ。

今だって新政府軍側との交渉に尽力してくれているのだから、これからはさらに彼らに頼る事になる。

「水面下で戦ってくれている事、感謝しています」
「こちらこそ、二人には世話になりっぱなしだったからね。何とか現状を維持したいと思っているよ」

大鳥らしい柔らかくもはっきりとした言葉に、紗矢も微笑みながら頷いた。
土方はそれを満足気に眺めては酒に口を付ける。

(大鳥さんぐらいがちょうどいいかもな)

大鳥が普段の生活などを訊ねては紗矢が答える。
家の畑で作っている野菜の話にも発展し、大鳥は興味深そうに聞いている。

話題は尽きない。
それは大鳥が持ち前の話術で様々な話題を投げかけては上手く盛り上げる事ができるからだ。
手料理が羨ましいとおどけて見せたり、時々冗談なんかも飛ばしては和やかに笑い合う。
退屈せず、紗矢も楽しめているだろう。

彼には悪いが、大鳥に対してなら紗矢はまだそこまで傾倒していないだろうと土方は思う。
仲良く話していても問題がなさそうだから安心して見ていられる。
ちょうどいいとはそういう事だ。

紗矢は大切だと思った人間には簡単に心を開く。
懐いて、はしゃいで、笑って、そして自分を犠牲にしてでも全力で守りたがる。

特に試衛館時代の奴等は駄目だ。
彼らと一緒にいる紗矢は本当に楽しそうで、嬉しそうにしている眼差しだって綻ぶように柔らかいのだ。
仲間達もまた紗矢を特別扱いして、遠慮なしに触りまくる。
見ていてヒヤヒヤさせられるから嫌なのだ。

「…………」
「土方さん?」
「……いや、何でもねぇ」

彼らとのやり取りを思い出していたら悶々としていたようで、紗矢が心配そうな顔をする。
場の雰囲気を壊してはいけないと、考えを霧散させて笑って見せる。

料理を味わい、ひとしきり喋ると、あまり長居してはいけないからと大鳥は立ち上がる。

「ご馳走様。楽しかったよ」
「またいつでも来てくださいね」
「そうさせてもらうよ。けどそれは、土方君次第かな?」
「えっ?」

どういう事かと土方を見遣ると、彼は心当たりがあるのか言葉を返さない。
色々と大鳥に勘づかれているのだろうなと土方は苦笑する。

「いや、俺からも頼む」
「はは、喜んでいいのかわからないけど、ならまたお邪魔するよ」

ありがとうと言いながら大鳥は去って行った。
土方の許可がいるのだろうかと、会話の意味があまりわからない紗矢は隣を見上げる。

「何の話ですか?」
「何でもねぇよ」
「??」

教えてくれる気はないのに、どうしてか笑いながら頭を撫でられた。
首を傾げていたが、土方はそのまま踵を返す。

途端に静かになった夜の空気は、少しだけ肌寒さを感じさせる。
灯りがなければ真っ暗になってしまうなと見上げて、紗矢はふいに気付いた。

「あ……今日、綺麗な満月ですね」
「……ああ、そうだな」

どうりで明るい訳だ。
急に良い事を思い付いた紗矢は土方を追い越して家に入ると、
残っていた酒瓶なんかを手にして縁側を開け放つ。

「歳さん、飲みながらゆっくりお月さん見ましょ」

何をする気なのかと見ていただけの土方は、意図がわかったのか苦笑している。
月に喜ぶなんて子供っぽいと思われてそうだが、面白そうな事はやってみるのが紗矢である。

「飲まないならお茶とか淹れますけど、どうします?団子は流石にないですけど」

酒を盆に乗せ、つまみなんかも持ってきて縁側に置く。
ようやく土方がやって来た気配がするので、隣に座ってもらおうと振り返るつもりが、
彼は何を思ったのか紗矢を後ろから抱き締めた。

「っ!な、何ですか?……て、うわ!」

突然の重量に動揺するが彼は何も答えず、紗矢を抱えたままその場に座り込む。
腕を回された状態なので、必然的に土方の前を陣取るような形になった。

「月、見るんだろ?」
「だからって、どうしてこの体勢……」
「嫌か?」
「嫌じゃ、ないですけど……」

俯いて小さくなってしまった紗矢に、土方の悪戯心が湧いた。

「お前、俺にはそういう顔するよな?他の奴が似たような事しても何ともないのに」
「っ、それは、そうじゃないですか……」

歳さんが好きなんですから、とは言葉にできなかった。
だけど彼には伝わっているようで、きゅっと引き寄せられる。

「お前、大鳥さんは懐に入れるなよ」
「えっ?どういう事ですか?」

どうしてここで大鳥の名前が出てくるのか。
だけど背後から聞こえる土方の声は笑っているようで。

「俺が独占できなくなるだろって事だ」
「…………」

至近距離で呟かれて、紗矢は振り返る事もできずに目を泳がせる。
彼から見えない位置にいるおかげで、この赤い顔を知られなくて本当によかったと思う。

「独占、してるじゃないですか……」
「まあ、そうだな」

紗矢を抱き寄せて頭上で息を吐く彼は終始楽しそうで、紗矢もつられて嬉しくなる。

「でも……ありがとうございます。色んな人を連れてきてくれて」

頻繁に誰かを呼んできてくれてはいるが、彼としては色々と思う所があるらしい。
それでも、結局は紗矢の為にそうしてくれているのだろう。
土方の優しさに自然と頬が緩む。

「あいつらの分まで、俺がお前を甘やかしてやる」
「……もう充分、甘やかされてます」

新選組時代にはなかった、目に見える優しさを戸惑うくらいに与えられている。
大切にされて慈しまれて、今だって温かな体温に包み込まれて溶けてしまいそうな心地になっている。

起こしていた上体を傾け、土方の胸に体重を預ける。
逞しくも柔らかい甘さに囚われながら見上げる月は格別だった。

闇夜の中で静かな光を発する満月。
今は羅刹としての血が騒ぐような事もないが、見るとどこか安心するのだ。

(みんなと繋がってる気がするから)

どこにいても仰ぎ見れば輝く月、そして太陽。
仲間達と同じものを見ているのだと思うと、自然と力が湧き上がる。
それを土方に言った事はないが、聡い彼はきっと紗矢の気持ちなどお見通しなのかもしれない。

だからこそ、月を見ながらも紗矢は彼に拘束されているのだろう。

「何か、飲みます?」

終始紗矢に腕を回したままじっとしている土方に声をかけるが、彼はくすりと笑うだけ。

「いや、いい。お前がいれば退屈しない」
「……それ、褒め言葉ですか?」
「ああ。お前は見てて飽きねぇからな」
「…………」

紗矢としては逸脱した事はしないようにしているが、昼間の事もあるから否定もできない。
だけど彼が嬉しそうだから、それでいいのかなと思う。

(それに、独占したいのは私だって一緒だ)

こんなに穏やかな顔をしている事を、他の誰にも知られたくない。
彼の不器用な優しさが他人に理解されないのは悲しいと思った事もある、だけどそれとこれとは別なのだ。

(傍にいていい女は、私だけがいい)

その思いが力となり、紗矢は勢いを付けて振り返って顔を上げる。
そしてほんの少しだけ唇をかすめさせると、驚いたような目が見下ろしている。

「仕返しです」
「…………」

悪戯したぞ、と言う紗矢の満面の笑みが美しくて土方は固まった。

(敵わないな……)

結局、もう互いに逃れられないのだ。
あの時出会ってしまった瞬間から、気が付けば二人で一つのような存在になってしまったから。

戦がなくとも、副長と隊士という関係でなくとも、それでも土方と紗矢は一緒にいるだろう。
全てを共有して、苦難にぶち当たろうとも、救われた命を噛みしめながら。

寄り添い合って、月を見上げる。











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戦いがなくなった世界での、主人公の立ち位置について書いておきたかったのでできた話です。
土方さんが主人公を選んだ理由なんかも少し。

戦いがあったからこそ結び付いた二人ですが、
それがなくなっても仲良くやってますよ、というのが言いたかったのです。