暑かった夏が過ぎ、庭の景色に彩が映える季節になった。
いつもの部屋の障子は赤い照明に照らされて、秋独特の雰囲気を醸し出している。
しかし普通であるなら静かに冬を迎える準備をするはずだが、今年は騒がしかった。
城内に流れる不穏な空気……綾葉にとって、予想だにしない事態が起きていた。
逆臣・明智光秀を討ってからすぐに織田信長の後継者を決める動きはここの所ずっとあった。
綾葉らが総大将の羽柴秀吉が、直接光秀を討ったという事もあり一番有力候補であったが、それに柴田勝家が反発した。
何度も互いに和議を取り行おうとしたが全て決裂に終わり、流れはどちらかが滅びなければ収束しそうになかった。
先の結婚の噂は、その柴田勝家を鎮める為にお市様を嫁がせた背景があるらしい。
だが対立は変わらず…………既に一触即発の状況になっていた。
13・救いのない選択
―――「一本!勝者、綾葉!」
男達の中で、小さな綾葉が満面の笑顔で此方に手を振っていた。
階下の彼女に手を振り返すと、嬉しそうに応えて再び槍を握り稽古を始めた。
「……あのような手練れの中で、綾葉は強いですね」
「ああ、幼少の頃から鍛えているからな。油断していると大の男でも一本取られるぞ」
自慢げな夫を余所に、お市は悲しそうに目を閉じた。
「本当は……女子らしい事をさせてあげられればどんなにいい事か……」
「……わかっている。だがこの戦の世はそれだけでは生きていけぬ」
少女の身でありながら砂や埃にまみれて戦う綾葉。
「いつか綾葉が我らから離れた時、あの槍の腕が綾葉の生死を決めるだろう」
「何もできない女は殿方によって生死が決まる。それではいけないと思っているのでしょう?」
「そうだ。綾葉にはそのように生きてはもらいたくない。
己が意思で道を決め、己の力で生き抜く……それが真の人の道だろう?」
「ええ。ですが、それは同時に女子にとっては酷な道……」
少女が誰よりも敬愛する主は強く語るものの、やはり辛そうな瞳をしていた。
「ああ……だがそれも、綾葉が決めればいい。
あれの槍は我らを守るものではない。自らを守る為のものだ」
色素の薄い髪を太陽に透かせながら、主は少女を見守る。
「誰の為でもない、己の為にその力を使えばいい。そしてそれも綾葉が思う通りに好きに決めればいい」
「貴方は……本当に藤姫を愛していらっしゃる。妬けてしまうほどに」
「……すまない、市。だが藤姫には、それほどまでに幸せになってもらいたいのだ」
「酷な事を。藤姫にとっては貴方の傍で命を燃やす事が最大の幸せであるというのに」
お市は、誰よりも優しい夫の瞳が悲しい色を帯びている事に気付いていた。
「…………それでは、駄目なのだ」
「わかっています。彼女は私達の想いが詰まった、藤姫なんですから……」―――
「一本!勝者、綾葉殿!」
「……はぁっ……はぁっ……!」
いつになく苦戦した試合に、綾葉は荒い息を整えるように肩で深呼吸を繰り返した。
「辛勝でしたね隊長」
副隊長の労いにも引きつった笑いで答えると、試合を取り囲む輪から離れた。
遠くない未来に戦があるとして稽古場はいつになく緊迫した空気が流れていた。
しかし、その中で綾葉だけは集中できずにいた。
柴田勝家と戦うという事は、その奥方のお市様とも敵対するという事だ。
柴田家が滅びればお市様も無傷ではいられない。最悪、諸共殺されてしまう。
「…………はぁ……っ」
木製の稽古棒を右手から剥がすと、その指は震えている。
マメが赤く染まっていた。
「綾葉、殿…………綾葉殿!」
「あ、はいっ」
「お疲れの所すみません、私にも稽古を付けていただけませんか?」
「…………ええ、ではあちらへ」
まだ軍に入って間もないのだろう、戦の前で既に緊張している少年に何とか返事を返し、
人の少ない広場へと場所を移動した。
彼はまだ槍術が未熟なようだった。
「……どうして剣ではなく、槍を?」
「す、すみません。私、人よりも腕が短くて間合いが狭くて不利だという事で、槍に変えろと隊長に言われました」
「そう……では、早く槍術を身につけなくてはいけませんね」
そう言うと少年のまだ覚束ない稽古棒と対面した。
私よりも幼い少年も、戦に出ようとしている。
何か強い意志があって軍に志願したのかもしれない。
私は……私の槍は……あの人に学んだ。
見惚れるようなあの人の槍術、それを真似するように必死に稽古をした。
あの人を、2人を守るために……その一心で人を殺す術を身につけた。
それなのに今……あの方が嫁いだ家と戦おうとしている。
守る為の槍で、あの方と戦おうとしている。
「やぁっ!」
「…………っ!」
あの方と戦う為に今まで槍を振り続けてきた訳じゃない!
あの人の槍をあの方に向けるなど…………できる訳がない!
「はぁっ!!」
「うわっ!」
無意識に振りかぶっていた木の棒は少年の棒を叩き落とし、その勢いで少年は尻餅をついた。
「ご、ごめんなさい!つい、手加減が……」
「いえ、御指南ありがとうございました」
無遠慮の試合を何ともせず、少年は律儀に礼をすると自分の隊に戻っていた。
「………………」
あの人に教わった手が、震えている。
だけどどうしようもない。
柴田勝家との戦は止められそうにないし、和解なども既にできそうもない。
お市様は政略結婚として嫁がれていったのかもしれない。
けど……前のように、幸せなものになっていたら?
私がその幸せを壊すことになるのでは……?
そんなの……あの時と同じじゃない……っ
今度は、私がお市様を不幸にさせる番なの?
「嫌だ……それだけは、嫌だ……っ!」
お市様と連絡がとれればどんなに良い事か……
でも、相手は遠くの城の中……できる訳がない。
この戦だけ辞退させてもらおうか。
いや、私が戦に参加しなくても、変わらず柴田軍との戦は始まるのだろう。
だからと言って、もう秀吉軍から抜ける事などできそうもない。
そう……三成様の軍からは抜けたくはない。
………私は、欲張りな女だ。
「おお綾葉、待たせたな」
「いえ、お呼び立てして申し訳ありません」
稽古も早々に打ち切り、綾葉は総大将に謁見を申し込んだ。
自分のような下の者が無理を言って申し訳ないと深々と謝罪したが、
秀吉は気を悪くしたようには見えずずっと笑っていた。
「それで、話があるそうだな?」
それまで畳につけていた顔をゆっくりと上げ、秀吉を見つめた。
「秀吉様………柴田勝家殿とは、やはり戦は避けられないものなのですか?」
「そうだなぁ。このまま状況が変わらねば、近いうちに戦となる」
柴田勝家殿と秀吉様は、やはり織田信長の配下として知らぬ仲ではなかった。
元々仲が良い方ではなかったとお聞きしたが、それでもある程度の信頼はなかったのだろうか。
それが今、互いの信ずるものによって意見が食い違ってしまった事により、
どちらかが死ななければ終わらない状態にまでなっている。
秀吉様もお辛いのだろうと、綾葉は表情を読み取って目を伏せた。
「それについては、私は最後まで秀吉様に尽くす所存でございます。
ですが、差し出がましい事を申し上げれば……一つだけお願いがございます……」
「ふむ、申してみよ」
「…………どうか……お市様を、助けていただきたいのです」
綾葉から聞かされた「お市様」の言葉に秀吉は目を見開いた。
その名は、秀吉にとっても十分思い入れのある初恋の人であり、この手で悲しみに突き落とした人だった。
「綾葉、おみゃあは……」
「すみません、隠していた訳ではないんです。私は……元は、浅井家に仕えていた者。
その時にお市様には、侍女である私に対してもよくしていただきました」
案外自然に話す事ができた「浅井」という名。
この9年間一言も口に出して言わなかったと確信を持てるほど、綾葉にとっては禁断の言葉。
その過去を晒してでも、あの方だけは救いたかった。
「お願いします……この戦、お市様には何の罪もありません。
お市様には、どうか穏便な処断をお願いしたいのです」
主の命とあらば数え切れないほどの人を殺してきた自分。
この期に及んでお市様だけは助けてほしいとは、何て強欲で我が儘なんだろう。
……だけどこの腕が、この心が、いつまでも過去にしがみついて離れてくれない。
あの人に教わった槍をあの方に向ける事など、できる訳がない。
最愛の人を守れなかった罪を償うように、大罪を犯してでもあの方を助けたい。
「浅はかだとは自分でもわかっています。ですが……あの方は不遇なお方。
このまま戦の世に沈ませたくはないのです………お願いします……っ!」
畳に頭を擦りすけたまま泣いているように見える綾葉。
秀吉は一旦目を閉じ、そしてゆっくり綾葉を見据えた。
「……わかった。お市様の事は綾葉に任せる。
だがワシはお市様に嫌われているからなぁ、無理にはできぬぞ」
「あ……ありがとうございます!秀吉様のご慈愛、感激痛み入ります」
綾葉が思い付く限りの礼の言葉を述べているのに対して、秀吉は悲しい目をしていた。
「そうかあ、浅井か……綾葉にも辛い思いをさせたな」
「……いえ……私などお市様に比べれば、幸せ者です」
心から仕えるべき主を見つけたのだから。
「それと……このことは、どうかご内密にしていただけませんか?おねね様や、特に三成様には……」
「どうしてじゃ?三成も近江出身だから浅井の事を聞けば喜ぶぞ?」
このような私欲に囚われていると知られたくないから。
知られたらきっと、三成様は私を捨てる……
「…………失望されたくないんです」
自嘲のように綾葉はゆっくりと首を横に振った。
そうして、再び歴史が動き出す。
雪が降り積もる純白の季節に、戦が始まる。
Back Top Next
ようやく浅井の名が!長かったよ!
あの人、あの方とかで読みにくくてすいません(今さらかよ)
秀吉様、良い人化。どこまで名古屋弁にしていいのかわからん(名古屋弁かよ)
今さらですが「女子」は「おなご」と読んでくださいね。