09
あれから、ぱたりとシュウが来なくなった。
これまでも一ヶ月くらい間が空く事はあったが、今回は特に間隔が長くなっている。
最初はそれほど気にしていなかったのに、日増しにどうしてしまったのかと不安のようなものが芽生えていく。
そして、あの病院の一件の時に珍しく電話してきてくれた彼の言葉が引っかかっている。
「すまない」と彼は言った。あれはどういう意味だったのだろうかと。
毎日仕事終わりに携帯電話を確認して、何の通知も来ていない事に密かに溜息を吐く。
どうして彼は来ないのだろう、最近はそんな事ばかり考えている気がする。
病院での事件が関係していたりするのだろうか、だけど美弥には知る由もない。
美弥は彼の事を何も知らない。それでいいと思っていたのに、今はそれを少し惜しく感じている。
いつだって彼の気が向いた時に連絡が来て、そして自宅に来て肌を重ねて帰っていくだけだった。
連絡が途絶えてしまえば彼との接点は一切なくなってしまう、そんな薄い関係。
連絡先は知っているのだから此方からメッセージを送る事はできる。
だけど、もし送ったとして何も返ってこなかった場合、飽きられたと認めざるを得なくなるのは何だか嫌で。
それ以上に、自分から彼に何かを望む、その行為が別の罪悪感を生む気がするから、それをする事はできなかった。
(あれは、別れの言葉だったのかな……)
いつしか、そう考えるようになった。
彼だけが使う灰皿と度数の高い酒瓶が、行き場を失くしたようにポツンと部屋の隅に置かれている。
元々、寂しさを埋める為の関係だった。
体温だけが欲しかったと言ってもいい。
彼が来る事を期待していたつもりはないのに、来なくなるとどうしてしまったのだろうと思うなんて。
(私は待ってるの?)
そんなはずはないと美弥はかぶりを振る。
彼は「気が向けば」と言ったのだから、来なくなったという事は単純に気が向かなくなったという事だ。
他の理由なんてないだろうし、それに対して美弥が執着できる権利もない。
だから、もしそうであるなら仕方ないとさっさと諦めるべきなのだ。
けどそれを受け入れたら、美弥はまたこの世界でたった独りになってしまうという事で。
言い知れぬ絶望が足の先から登ってくるような感覚に、美弥は眉を顰める。
(ああ、駄目だ。ずっと気にしてる)
切り替えなければと、美弥は胸中の靄を散らそうとする。
そうだ、いつまでもあの歪な関係のまま生きていく訳にはいかなかったのだ。
しばらくの間、人間らしい生活が送れただけ彼に感謝しなければならない。
これからは誰かに縋らずとも生きていかなければならない。
そう、自分に言い聞かせながら単調な毎日を過ごした。
平日は仕事があるだけまだマシで、夜は例によってバーで時間を潰しながら酒で思考力を鈍らせる。
「最近よく来るようになったな」と、頻度と酒量が増えた美弥に対して星司は苦笑していたが、何も言わずに受け入れてくれた。
縋れる相手がいなくなったらまた酒に頼るしかないなんて、薄情な女でごめんと思う。
休日は家事以外にやる事なんかなくて、意味もなくぼうっとして結局余計な事ばかり考える。
最近は食材を買い込んで料理を作り溜めしておいたりしたのだが、今はあまり気が進まない。
今日も何気なくテレビを眺めて、だけどふと思いついた事があったので、この鬱々とした気持ちを晴らす為にも美弥は外に出る決心をした。
少し早いが、亜里歌達への出産祝いを見繕おうと思ったのだ。
亜里歌に妊娠を告げられた時は仄暗い感情が湧いてしまったが、それでも子供が生まれる事は美弥にとっても嬉しい事だった。
星司の事もよく知っていたし、二人の恋愛模様をずっと近くで見ていたのだから、どんな子になるのだろうと気にもなっている。
じっくり吟味してちゃんと良い物を選びたかったので、バスに揺られて数十分、少し足を伸ばして米花百貨店に向かった。
大きな百貨店は中に入っている店舗数が多くて、店頭に目立つように置いてある商品を見ているだけで目移りしてしまう。
エスカレーターで目的の階に辿り着くと、ベビー向けの専門店が何軒も並んでいる。
服や小物は色とりどりで、サイズだって大人に比べると驚くくらいに小さくて可愛らしいものばかりで、自然と頬が緩んでしまう。
つい淡いピンク色のおくるみが目に入るが、女の子か男の子かわからないのでまだ決められない事に気付く。
とりあえず予算と相談しながら、購入できそうな商品で何点か候補を決めた。
お祝いの額は友人に送る相場の一人分よりも多めにするつもりだ。
これは美弥の分だけでなく、ずっと星司と亜里歌を見ていたもう一人の分も入れたかったから。
(どうしようかな、買ってもいいんだけどな……)
出産報告を聞いて性別がわかってから買ってもいいだろうし、どっちの性別でも大丈夫そうな色を選んで今買う事もできる。
すぐには決められなかったので、一旦店を離れてゆっくり考えてみる事にした。
あまり運動していない事もあいまってか少し歩き疲れてきたので、休憩と昼食を兼ねて百貨店地下の飲食店街にあるカフェに入った。
こういう所で一人きりで食事をするのは慣れなかったが、勇気を出してランチと食後のコーヒーを注文した。
ガラス越しに見える人の往来をぼんやり眺めながら美弥はふうと息を吐く。
(気分転換に出かけてよかった)
ベビー用品だけでなく、他の階に行けば女性向けのファッションブランドが右にも左にもある。
カラフルでお洒落な服を眺めているだけで気持ちが上向く気がするのは何故だろう。
自分の服なんて選ぶような気分ではなかったはずなのに、見ていれば何だか欲しくなってくる。
休憩が終わったら後でもう一度見に行こうなんて考えている自分は、きっと楽しんでいるのだろう。
これからもたまには来ようなんて思っていると、カフェの入口が騒がしい事に気付いた。
(あの人……病院でシュウといた人だ)
金髪で眼鏡をかけた、スラリとした外国人の女性、これだけ特徴的なら美弥でも覚えがある。
もう一人店内に入ってきた大柄な男性の隣で、彼女が必死な様子で店員に詰め寄っている。
トラブルでもあったのだろうか、何を話しているかまでは聞き取れなくて、どこか深刻そうな雰囲気の二人を眺めながらも美弥は違う事を考えていた。
シュウと知り合いらしい彼女に訊ねたら、彼が今どうしているのか知っているのだろうかと。
(知って、どうするっていうんだ……)
知りたいと思う、だけどそれに意味なんてない事もわかっている。
消息を知ったからといって美弥の元にやって来る訳ではないのだ。
けれど、それで諦めがつくなら聞いておいた方がいいのだろうか。
ぐるぐると葛藤する美弥の視線の先で、外国人の男性が困惑したような表情で声を荒げる。
「貴女も言ってたじゃないですか、赤井秀一は死んだって!遺体の指紋も確認したでしょう。生きてる訳がない!」
「で、でも……!」
(赤井、秀、一……?)
ドクンと、胸が嫌な音を立てた。
知らない名前のはずなのに、彼と知り合いらしい人達から"シュウ"という音を聞いた。
それはただの偶然なのだろうか、それとも。
「シュウならきっと、何とかして……!」
「――シュウ……?」
「え!?」
思わず声に出してしまった。
突然発せられた第三者の声に女性が此方を振り返るが、美弥は一つの事で頭がいっぱいだった。
心臓の音が煩くて呼吸もどんどん浅くなっていく。
嫌だ、知りたくないのに二人から目が離せない。
「それは……シュウの、事?シュウが、なんて……?」
「あ、あなたは誰!?どうしてシュウの事を知ってるの!?」
女性が凄い勢いで駆け寄ってきて美弥の両肩を掴む。
強い力なはずなのに痛みなど感じなくて、足や全身が恐怖に震えていく。
この感覚には覚えがある。
信じたくない、だけど現実だと突き付けられて、何も聞こえない闇に引き摺りこまれていくような。
あの時と、同じもの。
「あなた……何処かで見た事あるわ……!でもどうして!?」
「シュウって、誰……?シュウが、なに……っ?」
彼女に問いただされているのに、それが思考に入ってこない。
うわ言のように同じ事ばかり言って会話が成立しない状態を見兼ねて、外国人の男性が間に入る。
「貴女の知っている"シュウ"という人物は、黒髪にニット帽を被った、目に隈がある男性ですか?」
「……!」
ああ、嫌だ。頷いてしまったら答えが出てしまう。
それでも、知らずにはいられない。
「……っ……はい……」
「そうですか……なら、その人物は赤井秀一という名前の、我々の仲間です。……彼は、少し前に亡くなりました」
「……っ」
(ああ、やっぱり)
絶望に突き落とされた。
信じたくない。嘘だと叫びたい。
だけどそれをしても現実が変わらない事を自分は知っている。
来なくなった訳じゃない、いなくなってしまったのだ。
どうして来ないのかと考えている一方で、彼は死んでしまったというのか。
まただ。
――また、私の前から人が消えてしまった。
それから、どうやってカフェを出たのか覚えていない。
フロアが何だか慌ただしくても美弥の耳には届かない。
また美弥の世界が壊れた。
本当に彼はもういないの?と何度も問いかけている自分がいる。
わかっているのに、飽きずに頭が受け入れる事を拒否している。
先程の女性が「貴女にはまだ聞きたい事があるから一緒に来て」と言っていたが、別の騒動に二人の意識が向いている間にその場から離れた。
恐らくシュウとどういう関係なのか、そんな事を聞かれるのだろうが、それを聞かれたら困る。
「ただのセフレ」だなんて答えづらいし、彼の名誉の為にも言わない方がいい。
ふらふらと、何処を歩いているのかよくわからなくなった。
何をしに此処に来たかさえわからない。
虚ろな目で俯きながら彷徨っている美弥は通常なら異質な存在に映っただろうが、別の事件が起きているせいで美弥を気にかける人間はいなかった。
足止めされた客の人だかりに混じった美弥はその場で呆然と立ち尽くす。
未だ頭が混乱していて現実が理解できていない。
いつ死んだの?どうして死んだの?
そもそも彼は一体誰だったの?
金髪の女性に訊ねたら教えてくれたのかもしれないけど、それでももう彼は戻ってこない。
(また私は、独りなの?)
あの人肌の温かさを感じられないという事なのか。
煙草の匂いも、美弥まで酔わされてしまいそうな強いアルコールの混ざった熱も。
何より、多くを語らない彼が時折ふっと笑う、その瞳の色も。
――もう見られない、触れられない、なんて。
動き出した人達の波に押されて、足がよろめいた。
転びまではしなかったが、あっとふらついて少しだけ我に返る。
足元を見て、顔を上げて、美弥は息をする事を忘れた。
百貨店から出て行こうとする人混みの中で、彼を見つけた。
(見間違い?幻?似た人?)
今は背中しか見えないけれど、それでも彼だったような気がした。
縋るように、覚束ない足取りで必死にそれを追いかけた。
「……っ……シュウ……?」
病院で会った時は他人のふりができたのに、今はできそうもない。
消え入りそうな声で確かめるように呼びかけると、彼が振り返った。
「っ!」
シュウと呼んで、彼が此方を向く。
だけど美弥を見ても表情は一切変わらず、何も喋らなくて。
彼の顔には見覚えのない火傷の痕があった。
それは一瞬だったのかもしれない、数秒だったのかもしれない。
彼が何か反応する事を期待したのに、彼はそのまま踵を返して行ってしまった。
「シュウ……?」
(今のは……誰?)
シュウなの?シュウじゃないの?
彼は死んだと言われたのに、どういう事なのか訳がわからない。
どうしてか一斉に店内に戻ってきた客達に押されて、立っていただけの美弥は廊下の隅に弾き出された。
今度こそ足元から崩れそうな感覚に抗えなくて、その場で手と膝を付いた。
もう立ち上がる気力なんてなかった。
「大丈夫ですか?ご気分でも悪いのですか?」
何を見ているのかさえわからない視界を動かせば、眼鏡をかけた茶髪の男性がそこにいた。
差し伸べられた手を、美弥は取る事ができずに呆然とただ見つめる。
「お姉さん、前に病院で会った事があるよね?」
「、え……?」
ふいに聞こえた子供特有の高い声を辿ると、確かに見た事のあるような気がする顔が男性の隣に現れる。
利発そうな小学生ぐらいの眼鏡の子で、そう、あの時シュウと一緒にいた。
「、……シュウ……っ」
「えっ?」
病院で偶然すれ違った、あれが最後の姿になってしまった。
知らないふりをしていたのに、その後にわざわざ電話してきてくれた。
そして、彼の「すまない」が最後の言葉だった。
それを思い出したら一気に涙が溢れた。
少年を見てボロボロと泣きだしたせいか、驚かせてしまったがもう止まらない。
「シュウは……死んだの……?」
泣き崩れながらそう聞けば、少年が困った顔をした。
その時初めて、美弥は彼が死んだ事を理解した。
Nothing lasts forever. Even the stars die.
永遠に続くものは何もない。星でさえ死んでしまう。
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アメリカのとある番組での、星に関する名言を引用。