08
今日は失敗した。
仕事中に普段やらないようなミスをしてしまい血の気が引いた。
幸い穏便に済んだので、必死に頭を下げて事なきを得たが。
一緒に処理してくれた上司はあまり怒鳴るような人ではなかったが、流石に「気を付けて」と不機嫌を孕んだ表情で注意された。
ここ最近寝不足で、その時は頭痛が酷くて注意力が散漫になっていたかもしれないが、そんなのは言い訳にならない。
美弥の事情を知っていて、調子が悪い時があっても突き放さず見守ってくれている人達だからこそ、それに甘えてはいけないのだ。
給料を貰って働いているのならちゃんと一人前に働かなければ他の人に迷惑なのだから。
わかっているけれど、自分の不甲斐なさが嫌になる。
上司の言葉を何度も思い返して、そのたびに溜息が漏れる。
「眠そうだな」
「、え……?」
頭上から声がして、美弥は目を開けた。
正面にはテレビとローテーブルがあり、隣には今まさに体重を預けていた人が此方を覗いている。
そうだ、酒を飲むシュウの隣でテレビを見ていたはずなのに、もしかしたら自分は寝ていたのだろうか。
「先に寝てもいいぞ」
「ううん、そういう訳には……」
頭を起こし、目を瞬かせて眠気を散らしてみる。
そんなつもりはなかったけど、もたれかかっているうちに眠ってしまっていたみたいだ。
彼は気にしていなさそうだが、家に来てくれた彼を放って何もせずに寝てしまうなんて悪い。
だから起きていると答えれば彼は小さく笑った。
姿勢を正してソファに座りなおし、息を吐く。
カランと音を立てるロックグラスで揺れる琥珀色の液体をぼんやりと眺める。
今日は彼が来てくれてよかった。
こんな日に傍に誰もいなかったら、きっと泣いてしまっていた。
会社の事を話したりはしないが、すぐ隣に人の温もりがあるだけで荒んでいた気持ちが和らいでいくようで。
嫌な事も悲しい事も忘れられるような気がする。
もちろん反省はしている、ものすごく。
ああ、眠い。
カクン、と頭が滑り落ちてまた目を覚ます。
彼がじっと此方を見下ろしている視線を感じていても、それに答えられる余力がない。
起きてないといけないのに、何だかとても眠い。
数日前から眠くても全然熟睡できなくて、寝てもすぐに目が冴えてしまうのに、今日は落ちてくる瞼にどうしても抗えない。
あったかくて、安心して、勝手に体の力が抜けていく。
ふわふわ、ゆらゆら。
美弥の体全体を包み込む、気持ちの良い周期的な揺れ。
温かい海に浮かべられているような、そんな感覚。
誰かに抱き締められているようで窮屈さも感じるのに、その強さが嫌じゃない。
どうしてだろう、と意識がゆっくりと浮上する。
そして我に返れば、目の前にはシュウの首筋が見え、背中にはソファではない柔らかい布地の感触がする。
「起きたのか」
「……あ、ごめん!」
恐らく結局眠ってしまった美弥を、シュウがわざわざベッドにまで運んでくれたのだろう。
眠気が吹き飛び、離れていった腕を呆然と見つめる。
感覚からして横抱き、俗にいうお姫様抱っこな状態だったような気がする。
嬉しいというよりも、いい大人が彼氏でも何でもない人にそんな事をさせてしまった事が申し訳ない。
(恥ずかしい……)
気を遣わず起こしてくれればよかったのだ。
彼の優しさは有り難いが、横抱きにされた自分を想像すると居た堪れない。
どんな顔をしているだろうと彼の表情を窺ってみても、いつもと変わらない目がそこに浮かんでいる。
「今日は寝てろ」
「え、でも」
寝室から出て行きそうになるシュウを引き止めようと慌てて起き上がる。
確かに眠いし、目を瞑ればすぐにでも落ちてしまうだろう。
だけどこのまま寝てしまったら彼が此処に来た意味がなくなる。
それは駄目だと抵抗すれば彼が首を傾げる。
「疲れてるんだろう?」
「でも、今日は、その……」
気持ちが塞いでる。落ち込んでいる。
だから今日こそは、嫌な事を全て忘れさせてほしかったし、何よりまだ触れていたかった。
明確な言葉が出ず口籠っていると、意図を理解したのか彼が口角を上げた。
「なんだ?」
彼はわかってて聞いている。
だけど素直に言うのは恥ずかしくて、美弥は俯きながらシュウの服をそっと掴んだ。
「……私は大丈夫、だから……」
酔っ払ってもいないのに此方から求めるなんて、はしたない女だと思う。
今の美弥にはそこまでが限界で、彼の視線から逃れるように握り締めた指先を見つめていると。
肩を押されて美弥の体がベッドに沈んだ。
「お前がいいと言うなら、断る訳にはいかんな」
クッと笑ったシュウが美弥の上にのしかかる。
どうやらその気になってくれたらしく、何だかとても楽しそうな目が此方を見下ろしている。
嬉しいのか恥ずかしいのか、美弥も可笑しくなってきて薄く微笑んだ。
彼の唇から覗く舌の熱さが美弥の世界を溶かす。
その瞬間を、自分は望んでいた。
*****
お大事に、という決まりの言葉に頭を下げながら診察室を出る。
以前に比べたら自分でも調子が良くなっていると思う。
医者にもそう言われ、美弥は喜んでいいのか何なのか複雑ではあるが。
ユキの事故の後から定期的に通院するようになって、しばらくが経つ。
通ったって現実が変わる訳でもないと思っているが、普通の精神状態ではなくなってしまった美弥を周囲が心配して受診を勧められた。
今どんな生活をしているか、食事内容などを担当医と惰性で話をしたが、流石にシュウのおかげだとは言えない。
だけど、だからこそ調子が良いのだからいいじゃないかと、美弥は誰ともなしに言い訳をする。
仕切られた診察室から広い廊下に戻ると、周囲の僅かなざわめきが耳に入ってくる。
この杯戸中央病院には複数の科があって、外来患者だけでも人が多くていつも混み合っている。
さらに混んでしまわないうちに会計をして薬をもらおうと、白くて無機質な廊下を歩いていると。
(え……?)
向こうから誰かと歩いてくる、シュウを見つけた。
ついさっきまで彼の事を考えていたのでまさか見間違いかとも思ったが、そんなはずはない。
全身暗めの色の服でニット帽を被った、目付きの悪い男性は彼しかいない。
「…………」
美弥は思わず立ち止まっていた。
昼間の、明るい太陽の下で彼の姿を見るのは初めてだった。
どうしてこんな所にいるのだろうか。
どうしようか、話しかけようか。本当は話しかけたい。
だけど彼が外国人の女性と小学生ぐらいの男の子と歩いている事に気付いて思い留まった。
親子だろうか。流石にそれはない気がするけど、なら一体どういう組み合わせなのか。
まだ遠くの方にいるシュウと目が合った。
いや、美弥が見つけた時には彼はもう此方を見ていたが、驚く事もせず顔色を少しも変えていない。
美弥が話しかけたらどんな反応をするのだろう。
だけど話しかけなければそのまま素通りしそうなほどに彼は何の変化も見せていないから、
きっとそうするつもりなのかもしれないと思ったら美弥は何故か笑えてしまった。
(そうだよね。私達の関係に名前なんてない)
美弥を視界に入れても声をかけてきそうな素振りがないのは、話す気がないという事だ。
外国人の女性と小学生の男の子とどういう関係かわからないが、美弥との事を知られたくないのかもしれない。
確かに、どういう仲と聞かれてもまともな答えもできないよね、と簡単な結論に辿り着いた。
ならばと、美弥はシュウから視線を外すと、正面だけを見て廊下を突き進む。
こんな所でつまらぬ欲を出して、美弥を慰めてくれる存在を失いたくはない。
彼の人生の邪魔はしたくない、その一心で彼とすれ違う。
通り過ぎる瞬間に、僅かに煙草の匂いがした。
「いま……あの女の人、赤井さんを見て笑ってなかった?」
「まあな。だが問題はない」
「シュウはモテるから。女性の視線を浴びるのはよくある事よ」
背後でそんな会話がされていたが、美弥には聞こえなかった。
(会えただけで、それでいい)
偶然に顔が見られただけで満足だった。
カウンセリングを受けるより、よっぽど美弥の気持ちを上向かせてくれた。
会計をしばらく待って、薬も受け取ると病院を出た。
(天気、良いなぁ)
爽やかな太陽の光を浴びて目を細める。
行きはバスに乗ってきたが、日光を浴びる事も大事だし、急ぐ用もないので運動がてら徒歩で帰る事を決めた。
少し前ならそんな事思いもしなかった。
ただ生きてるだけで、天気が良いとか悪いとか気にもかけなかった。
不健全な事をしているわりに健康的な自分に笑いながら、大通りを歩く。
車がひっきりなしに走る音、遠くで飛んでいる飛行機のエンジン音、大型店の前でかけっぱなしの呼び込みの音声。
騒がしいなと思いつつ、それに慣れて気にならなくなってくるあたり人間の順応性は凄いなと思う。
だけど今日はそれでも周囲が煩い気がする。
流れてくる空気も何か違うようで、さらには遠くの方でサイレンの音がいくつも鳴っている。
何だろうと首を傾げていると、携帯電話が着信で震える。
バッグから取り出して画面を見て驚いた。
さっき他人のふりをしてすれ違ったシュウからの電話だったので、慌てて通話にすると。
『今どこにいる』
美弥が言葉を発するよりも先に訊ねられた。
どこか性急な声で、美弥はよくわからないまま素直に答える。
「えっ?もう病院を出た所だけど……」
『電車か?』
「ううん、歩いて帰ってる」
『ならいい、そのまま真っ直ぐ家に帰れ。駅や人が集まる場所には近付くな』
「う、うん……」
どういう事か聞く暇すらなくシュウの声は聞こえなくなる。
少し怖いくらいの声色をしているのは何故だろうと戸惑っていると。
『美弥』
「は、はい」
『……すまない』
え?という言葉を返す間もなく、プツリと通話は切られてしまった。
(……何の、"すまない"?)
聞き返す事は叶わず、美弥は通話終了になった画面を見つめるばかり。
立ち止まり、シュウに言われた事を反芻する。
よくわからないけど、彼はどこか緊迫した声で真っ直ぐ家に帰れと言った。
ならば美弥がするべき事は、その通りにするしかない。
強く早く伝えたかったから文章でなくわざわざ電話をしてきたのだろう。
元々どこかに寄り道する予定もなかったので、美弥は大人しく従って家に帰った。
夜になって、ようやく彼の電話の意味を知る事になった。
テレビのニュース番組で映し出されているのは、杯戸町で立て続けに起きた不審な事件の内容、それから被害に遭った人達が杯戸中央病院に駆けこんでいる映像。
まさに美弥が歩いて帰っていた時間帯の出来事が報じられていた。
(これがあったからシュウは電話をかけてきたんだ)
どういう訳か病院にいた彼はこの事を知り、美弥の居場所を確認して何処にも寄らずに帰るよう言ったのだろう。
杯戸駅でも異臭騒ぎがあったらしく、ほぼ同時刻に3つの事件が重なっているのでテロの可能性があるとテレビの解説者が気難しい顔をしている。
(テロ、か……)
彼は一体何者なのだろうと改めて思う。
たまたま病院にいただけなのかもしれないが、それにしては情報も正確で指示もはっきりしていた。
まるで警察のような口調で、思わず頷いてしまうだけの力を感じた。
(ホント、普通の人じゃないのかもね)
言動が普通の一般市民からはかけ離れている気がする。
警察とかそういう関係の人なのかもしれないが、良く知らない美弥には判別できない。
それともまさか、テロを起こす側の人間だったりするのだろうか。
いや、小学生ぐらいの男の子もいたから流石に違うと思いたい。
(いいや、考えても仕方ない)
たとえ悪い側の人間であったとしても、それでも彼は美弥を危険に晒さないようにしてくれた。
あの時は互いに知らないフリをしていたが、ちゃんと存在は認識されていて、即座に連絡してくれたから。
彼が何者であっても、美弥にとって必要な人物である事には変わりない。
次に会う時だって今日の事なんかなかったようにして、いつものように体温を求めるだけだろう。
だから、それでいい。
電話の最後の、彼が謝った理由はわからないままだったけれど。
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