02




食事を取るようになったおかげか、体力は少し回復した。
重いものはまだあまり食べられないが、少量だけでも料理するようになったのは進歩だ。

散乱した部屋を片付けて、掃除機もかけた。
彼の持ち物はやっぱり捨てられなかったので、ひとまとめにしてクローゼットとは別の棚の一番隅にしまった。
もう出される事はないんだなと、そう思っただけで零れた涙は必死で拭った。

会社の上司には「ご心配をおかけしてすみません」と改めて頭を下げ、それからは無心で働いた。
無理でもなんでもいい、せめて仕事だけはちゃんとしようと、それがまず一歩だった。
同僚達にはまだ心配されているのはわかっていたけど、少しずつ今までのような日常に戻りつつあった。

仕事で気を張っているせいか、会社を出ると途端に酷い疲れを感じるようになったが、それは仕方ない事だと諦めた。
重い足取りで夜道を歩き、途中にあるスーパーに寄って食材を探す。

「あ、どうも……よくお会いしますね」
「……ええ」

あれから何回か、あの茶髪の青年を見かけるようになった。
美弥の帰りの時間とちょうど重なるのかばったり出会うので何となく気まずいが、軽く会釈をして一言二言会話を交わすようになった。

大学の帰りによく此処を利用するんです、と彼は言った。
学生にはあまり見えなかったが、どうやら大学院生らしい。
長身の男性がスーパーのカゴを持ってウロウロしているのは結構目立つ。

「一人暮らしを始めたんですが……料理をした事がなかったのでいつも苦労しているんです」

だから最初の頃に厚揚げを調理せずに食べられるのか聞いてきたのかと納得した。

「そうなんですね。けど、ちゃんと自炊しようとしているなんて凄いと思いますよ」
「ええ、やはり経済的ですからね。それに気分転換にもなります」
「……それは、わかる気がします」

今の時代、自炊しなくても便利な世の中だ。
冷凍食品だって充実しているし配達だってできる。
だけど慣れない自炊を一から始めようとする意欲は素晴らしいなと素直に思った。

気分転換になるという話も同意できる。
誰も食べてくれる人がいないのに料理して何になるんだと思っている部分もあるけど、実際料理をしている時はあまり余計な事を考えないで済む。
そして一人で静かに食べながらも、美味しいものはちゃんと美味しいと感じるのだ。

食べて寝てれば人間は大丈夫と、誰かが言っていた言葉を思い出した。
それは確かにそうなのかもしれないなと美弥は思う。

「それでは、僕はこれで」
「あ、どうも……おやすみなさい」
「気を付けて帰ってくださいね」

柔らかく微笑んだ彼はレジへと歩いて行った。

(私も、自炊頑張らなきゃいけないな)

彼を見ていると何となくそう思えてきて、美弥は小さく頷いた。






*****



「突然すみません、美弥さんでいらっしゃいますか?」
「えっ?」

仕事を終えていつもの帰り道を歩いていると、ふいに見知らぬ男性に呼び止められた。
振り返ると、小麦色をした肌に明るい髪色の男性が笑顔で立っている。
どうして名前を知っているのだろうと思っていると男性が名刺を差し出してきた。

「僕はこういう者です」
「……探、偵?」

探偵という職業に縁がないので、どうしてそんな人が自分に声をかけてくるのか意味がわからない。
困惑しながら名刺に書いてあった文字をそのまま読み上げれば、はいと目を細められる。

ドラマとかで見るような探偵は、身なりもきちっとしていなくてちょっとくたびれたような年配の人というイメージがあるけれど。
若そうに見える彼にそんな部分は一切なく、ラフではあるが清潔感のある服装で、とても爽やかそうな雰囲気の人だった。
容姿だって明らかに整っていて、これは所謂イケメンという部類の人かもしれないと美弥でもわかった。

「依頼を受けて、ある人物の行方を追っているのですが、その件について少しお話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「…………」

ある人物とは一体誰なのか。
突然声をかけられて話がしたいと言われ、正直不信感しか感じなくて美弥は眉根を寄せる。

「……どうして、私なんですか?」
「それについても詳しくご説明いたします。もちろん、お時間はとらせませんから」

誰もが見惚れるような、まるでキラキラと音がしそうな笑顔で立っているので、どうも嫌ですとは言えない空気で。
強く拒否できるほどの気力がない今の美弥では流されるがままだった。

用意していたかのように近くの喫茶店に案内され、気付けば向き合って座る事になり。
あれよという間に飲み物を訊ねられ、彼はテキパキと美弥の分も注文してしまった。

「すみません、いきなり声をかけたので困惑されていますよね?」
「……そう、ですね」

怪しい者ではありませんと冗談ぽく微笑む仕草は完璧で、店内にいる女性客の何人かは彼を見て色めきだっている。
表情の変わらない美弥の前でも彼は動じない。

「早速ですが、僕は安室透と申します。しがない探偵業をやっています」
「はあ……」

探偵という人と対面する事などないので、どういう反応をすればいいかわからず気のない返事が思わず漏れる。

「実は今、とある依頼を受けて赤井秀一という人物の行方を追っています」
「、……」

それは少し前に一度だけ聞かされた、馴染みのない名前。
あの時の男性の話によれば、それがシュウの名前であるらしいが。

(けど、どうしてシュウを……?)

疑問に思いつつも、どこか納得している自分もいる。
彼は美弥の目から見ても普通の人ではなかった。悪い人かもしれないと考えた事もある。
だから、こうやって行方を追われるような、何か大きな秘密を抱えていたとしても不思議ではない。

動揺してピクリと反応してしまった美弥に、安室はテーブル越しに僅かに距離を詰めた。

「彼は死んだと依頼主は聞かされていたそうですが、似た人物の目撃情報があった為、それが誰なのか調査をして欲しいと僕に依頼がありました」

穏やかに、だけど明瞭な口調で話す安室の視線は終始美弥に注がれているようで、どうも居心地が悪い。
だから、運ばれてきたホットミルクを見つめるように視線を落とす。

「そして先日、彼に似た男性を発見したんですが、その時に貴女が話しかけている所を見かけました。
もし彼について何か知っている事があれば、よければお話しいただきたいのですが」
「…………」

どうして自分とシュウに繋がりがある事を知っているのか、そう疑問に思っていた事が見抜かれたように説明された。
似た男性と言っているので、あの米花百貨店での事かもしれないし、もっと以前のやり取りの事という可能性もある。

探るような目が、黙ったままの美弥の挙動を逃さないようにじっと見つめてくる。
容姿との相乗効果か、女性ならば思わず惹かれてしまいそうなほどに瞳に力が込められた眼差し。
だけど美弥は、その圧のような真っ直ぐさをどこか怖いと感じていて。
事件を起こした犯人が警察に取り調べを受ける状況というのはこういう事なのかもしれないと冷静な自分が思う。

「……私は、赤井秀一という人を知りません」

口にしてみて、なんて言い慣れない音だろうかと思った。

だけど残念ながら情報の足しになるような話は何もない。
本名だって彼の口から聞いた訳でもない。
美弥の知るシュウがその人なのかどうかも本当はわからない。

「ならば、"シュウ"という方なら知っているのですか?」
「…………」

安室という人は、美弥の事をどこまで知っているのか。
探偵というだけあって、此方よりも数倍頭の回転が速いらしい。

「知りません……シュウの事だって、何も、知らないんです……」
「…………」

そう、隠している訳でもなく本当に何も知らないのだ。
気になる事はいくつかあったけど、訊ねた事なんてない。
彼がいて、体温を感じられるのであればそれでよかったのだ。
だから、彼の本名だとか、素性だとか、色々聞かれても自分は知らないのだ。

どうして死んでしまったのかも。
死んだと聞いたのに、どうして今になって彼について訊ねられるのか。

どうして似た人物が歩いているのかも。
どうして、自分は何も知らないのかも。

「では、あなたが言うシュウという方は、どんな人なんですか?」
「…………」

どんな人か、なんて。
思い出そうとすればすぐに胸のあたりがぐっと重くなって、込み上がってくる苦しさを必死で抑え込む。

美弥が知っている事なんて僅かしかない。
必要な事しか喋らなくて、だけど冷たくもなくて、どこか孤独を纏った、大切な誰かを失った人。
けれどそれが彼の全てではない事もわかっている。

「……言葉に、できません」
「…………」

美弥が知っているのは彼のごく一部の内面だけだし、それを他の誰かに言って聞かせるものではないと思う。
安室が、少し困ったように首を傾げた。

「あなたは恋人だったのですか?」
「……違います」

恋人なんかじゃない。
自分達は、ただ傷を舐め合う関係なだけだった。

「だけど、好きだったんですよね?彼が亡くなったと聞いて、とても憔悴しているように見えます」
「…………っ」

(好き……?誰が?私が、シュウを?)

その言葉に、美弥は隈のできた目をハッと見開いた。
ほとんど無意識に、弾かれるように首を横に振った。

「……、違う……っ」
「違うんですか?」
「違う……私が、好きなのは……違う……っ!」
「…………」

体を繋げていたのだ、嫌いな訳ではなかった。
だけど好きだったのかと聞かれるとわからない。
いや、違うのだ。シュウが好きなんじゃない。

自分には、何よりも誰よりも好きな人がいる。

(そう、私はユキだけが好きで……っ)

誰よりも一番、ユキが好きだ。
だけどユキがいない世界を生きるにはシュウが必要だったのだ。
好きとかはよくわからない。ただ自分は、誰かに傍にいて欲しかっただけだ。

ただ、それだけだったのに。
ユキがいない、なのにシュウもいない。

(みんな私を置いて、いなくなった……!)

またしても置いていかれた事実を思い出してボロボロと泣き始めた美弥に、安室は初めて困惑の色を見せた。

「……すみません。泣かせるつもりはなかったんです」

こんな人目がある所で泣いて、きっと周囲から奇怪な目で見られているだろうと思ったが止まらなかった。
安室はそれ以上何も言わず、美弥の涙が落ち着くのを待っていた。
正面で静かに見守られている事に気付いて、美弥はどうにか涙を拭った。

「ですが、この件は貴女にとっても他人事ではないはずです。亡くなったと思っていた彼が生きているかもしれないのですよ」
「…………」

優しく諭すような言葉は、まるで甘言のようだった。

「貴女も本当の事が知りたくありませんか?」
「…………」
「よければ連絡してください」

名刺に連絡先が書いてありますと言われ、テーブルに置いていたそれをじっと見下ろす。
だけどそう言われた所で、美弥の気持ちは動かなかった。

「……結構です」
「よろしいのですか?」

探偵に調べてもらって、それでどうなるというのだ。
もし本当に死んでいるのなら絶望が上塗りされるだけ。
仮に生きているのだとしても、美弥の所に来なくなったという事は、もう美弥が必要なくなったという事だ。

元々「気が向いたら来る」ぐらいだったのだ。
生きていても、死んでいても、どちらにしても彼は美弥の元には戻ってこない。

「追いかけたって、意味がないんです」
「…………」

すまない、と彼は言った。
だから、もう仕方ないんだ。

美弥が赤い目で薄く笑えば、安室は少しだけ眉根を寄せた。











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安室さんが あらわれた