「何?琉奈がいない?」
「ええ……昨日から一度も帰ってきていないようなの」
そう告げたのはホテルで琉奈と同室であったクレア。
マシンの最後の仕上げを指示しようとしていた修は、その奇妙な状況に最初は首を傾げていた。
「何をやっているんだあいつは……どこかに行くとは言っていなかったのか?」
「いいえ、聞いていないわ。それ以上は個人の自由になるから……」
夜遅くなってしまったのだとしても、翌日の決勝に支障をきたすような事は決してしない人間だとわかっていたし、
琉奈とてもう子供ではないのだから、と特に大きな心配もせずクレアは朝を迎えた。
使われた痕跡のないベッド、ようやくクレアは不審に思い電話をかけた。
だけど携帯電話は部屋に残されており、そうなると琉奈の消息は完全にわからなくなってしまったのだ。
「彼女に限って寝過ごす、なんて事はないと思うわ。やっぱり……」
「……わかった、琉奈の事はこちらで何とかする。クレアはマシンのアップを頼む」
「……ええ」
焦りをにじませながら修は琉奈に電話をかけたが、やはり繋がらなかった。
そしてこの後同じような事態が発生する事を、今はまだ誰も予想していなかった。
15・澄み渡る鳶色の
差し込む朝日が眩しくて、それはいつもの起床時間よりも随分遅いという事を物語っていた。
「う、ん……いま、何時……?」
ぼんやりと意識が戻ってきた琉奈は断片的な記憶を繋ぎながら瞼を押し上げた。
(昨日は確か、パーティーがあってお酒も結構飲んで……)
「!!フリー走行が始まってる!!!」
ベッドサイドの時計を見て正真正銘に飛び起きた。
かつてないほどの大遅刻に琉奈は既に顔面蒼白だった。
ベッドルームから出た先の部屋には他に誰もいない。
自分の衣装がドレスのままだったから、結局あのまま眠らされたのだろうと結論付け、
琉奈はとりあえず自室に戻ると服を着替え、身支度もままならないうちにホテルを飛び出した。
「ひっ!不在着信がこんなに!!」
決勝当日にメカニックが遅刻だなんて最悪だ。
いくら眠らされていたんだとしても、やはり色々とマズい。
(……あの男っ、殴るだけじゃ気がすまない!)
握り拳で怒りに震えながら琉奈は全速力でピットに走った。
「すみません遅くなりました!!」
「お前……今までどこにいたんだ!」
土下座覚悟でピットに入ったが思いのほかクルーの数は少なく、
フリー走行中だというのにスゴウのシャッターは降りたままだ。
オーナー兼監督の修だけは予想通り鬼のような形相で迫ってくる。
「本当にすみません!寝坊のようなものです!すぐ作業に入ります!」
「寝坊だと!?そんなふざけた理由が通ると思っているのか!……いや、今はそれどころじゃない」
修は苛立たしい様子を隠さずに時計を気にしていた。
「ハヤトがいない。お前と同様に昨日から帰ってきていないらしい。皆で探しているが見つからない」
「……やっぱり……私も探しに行きます!」
「おい!お前の話はまだ済んでいないぞ!」
背後で修が叫んでいたが、それを無視して琉奈は来た道を戻りホテルへ走った。
名雲の言葉通りなら恐らくハヤトはホテルのどこかで眠っている。
あの男はそう言った、わざわざ琉奈に言ったのだ。
最後の最後で答えを教えた。
「お願いだから間に合って……!」
ホテルに着くと先程とは違い、辺りは犬だらけという異様な光景が広がっていた。
他の宿泊客も大騒ぎしているし、同じような白いスーツを着込んだ男がたくさんいる。
「な、なにこれ!」
「琉奈さん!」
ロビーにはスゴウスタッフが待機していて、
琉奈を見つけるとクレアは驚いたように駆け寄ってきた。
「よかった……!貴女もいないから心配していたのよ?」
「ご迷惑おかけしてすみません、私は大丈夫です。それよりハヤトを探しているんですよね?」
「ええ、今ランドル家の捜索隊と犬でホテル中を探しているわ」
「わかりました、私も行きますね!」
「あ、琉奈さん……っ、貴女の話がまだ……!」
詳しい事を聞かれそうになったが、正直どう説明していいのかよくわからない。
あの男に付いていって眠らされたと答えたらそれはもう決勝前に大問題になりかねないし、
それより男との関係について問いただされるのが一番困る。
(……どうして騒ぎにしたくないって思ったんだろう、今……)
自分の件だけでも立派な犯罪になるのに、そんな気は起こらなかった。
そういう警察沙汰で男と決着を付けるのではなく、レースで終わらせたいと正直まだ思っている。
本当に憎いなら今からでも訴えに行けば簡単に男は捕まるはずなのに。
許せないのは確かだ、でも心の奥でどこか許してしまっている自分がいる。
どれだけ傷つけられても、裏切られても、騙されても。
――どうして、嫌いになりきれないのだろうか。
「あ、加賀さん!」
「おう、お前ぇも来てたのか!」
彼の他に、あすかやランドル、ランドル家執事のグレイスンもいた。
犬が指し示す方向を頼りにホテル内を探っている所のようだ。
「琉奈さん、無事だったんですか!?」
「うん、ごめんね心配かけて」
「?お前ぇも何かされてたのか?」
「……当たらずとも遠からずというか……は、話は後にして犬を追いかけないと!」
加賀の素朴な疑問を何とか誤魔化すと一緒になって走った。
階段を上り、無数にある部屋のドアをやり過ごすと、
犬の鳴き声がする前方の騒がしいドアから白い犬が突き飛ばされていた。
「あれは……シロハチ!」
「ここか……」
ハヤトの愛犬は壁まで突き飛ばされていたが、どうやら無事のようだ。
部屋にはナイフを持った男達が数人いたがランドルは見事な体術でいとも簡単に気絶させていく。
「ひょ~!坊ちゃん強ぇ!」
「中国武術大会ジュニア部門のチャンピオンでございますので」
ランドルが男達を一掃して部屋の奥に突き進むと、
ベッドサイドにはフィルが、そしてベッドにはハヤトが横たわっていた。
だが残っていた男がハヤトにナイフを突きつけている為に、こちらは容易に動けない。
「ハヤト……っ!」
「そのままだ!いいか、動くなよ……!」
その時、隙を見て男に飛びかかったのはフィルだった。
フィルが男の意識を逸らしたのを見計らい、最後にランドルと加賀でとどめを刺した。
「フリッツ!」
皆がハヤトの様子を窺っている一方で、琉奈はフィルの傍に駆け寄った。
彼の顔には傷があり、それはフィルが一番にこの部屋に突入したんだと思わせるものだった。
「もしかして、ハヤトを助けようとしてくれたの?」
「………っ」
フィルは気まずいのか顔をフイっと逸らした。
それを肯定と受け取った琉奈は、フィルの肩を取って微笑んだ。
「貴方……ちゃんとわかってるじゃない。何が正しくて何が間違ってるのか、もうわかってるんだね?」
「………」
「ありがとう、フリッツ。私達の大切なハヤトを助けてくれて」
あれだけ勝ちにこだわっていたフィルがハヤトを助けた、それだけで十分だった。
「グレイスン!ドクターエデルマンをすぐに!」
ランドルの厳しい声が響いた。
ハヤトのベッドサイドには、奇妙な液体が入ったアンプルが置かれていた。
「さて琉奈、昨夜からどこに行っていたのか説明してもらおうか」
ハヤトが眠る部屋にスゴウのクルーが集まる中、修が仁王立ちで睨み付けてくる。
隣には同じように険しい顔をしたクレアがいて、どうやっても抜け出せそうにない。
しどろもどろになりながら、琉奈は必死で言い訳を絞り出す。
「その……友達と飲んでいたら気分がよくなってそのまま寝ちゃって……寝坊、したんです」
「本当なんだな?もしそうならお前はプロとして失格、それなりの処分をするぞ」
「修さん、何もそんな言い方……」
「どうなんだ?」
クレアが止める声も聞かず、修は静かに琉奈の目を見つめてくる。
(どうしよう……どうすればいい?私はどうしたいの……?)
――「こんな事してまで、勝ちたいんだと何故わからない!!」――
(違う……こんな事して勝ったって……何の意味もないんだよ、名雲さん)
「……ハヤトの居場所を教えてくれる事を条件に、酒飲み勝負をしたんですけど、
負けて、酔いつぶれて……そのまま朝になってしまったんです……すいません」
「何!?……それはアオイの名雲京志郎なのか?」
「…………はい」
「くそっ、全部あいつがやりやがったんだな…っ!」
それを聞いていた加賀が苛立たしげに拳を握りしめた。
「何故それを最初に言わない!?」
「言ったら怒られると思って……」
「当たり前だ!一人で突っ走る奴があるか!それでお前は大丈夫なのか?何もされてないのか?」
「何故かそのまま寝かされていたから多分何もされていない、と思います……」
まだ何か言いたそうにしていた修だったが、それ以上の追求はなく大きく息を吐いただけだった。
「……そうか。だがあまり無茶をするな、今度から何かあったら私を呼べばいい」
「本当に無事でよかったわ……」
「……ごめんなさい、修さん、クレアさん」
心配そうに肩を握りしめてくる修に笑いかけると、安心したのか力が緩んだ。
その一方で罪悪感に苛まれる琉奈は内心で2人に謝罪の言葉を呟いた。
(いつか必ず本当の事を話しますから……それまでは……)
「ハヤト……ハヤト…っ?」
ハヤトの意識が戻ったのだろうか、あすかの呼びかける声がする。
まだ状況が掴めていない様子だったが、ハヤトは辺りを見渡して自分が誘拐された事を思い出した。
起き上がろうとしたが、麻酔に似た薬を打たれていてできなかった。
「ハヤト、すまなかった……どう詫びても済むもんじゃねぇけど、俺達がもっと早く手を打っていれば……」
「……いえ、加賀さんのせいじゃないですよ」
同じチームの人間が起こした事に加賀は苦しそうに顔を歪ませて。
ハヤトは静かに答えながら、ふとソファーで手当てを受けているフィルを見つけた。
フィルはハヤトに見られていると気付くと、やはり顔を逸らした。
「お前ぇがここだと教えてくれたよ」
「真っ先に見つけて、戦ってもくれたのよ?」
「ふん、どういうつもりか知らないがな」
琉奈はそんなやり取りを聞いて、ハヤト同様に苦笑してフィルを見つめる。
彼はきっと立ち直れる、そんな事を考えて安堵した気持ちになっていた。
「修さん……名雲社長は、どうやら僕にも関係があるようです。というか、僕の父とアスラーダに」
「どういう事だ」
「………」
名雲は教えたのだろう、ハヤトにアスラーダとアルザードの事を。
それは、決着はついたと思っていたのに男の中ではまだ終わっていないという事を示していた。
ハヤトを監禁してアルザードを勝たせようと思ってしまうほど。
だが、これで余計に立場が悪くなると聡い男ならわからないはずがない。
それすらどうでもいいほど追いつめられているのだろうか、琉奈はしかめた眉をさらに深くさせた。
「さて、僕はそろそろ失礼するよ。付き合って棄権するつもりはないんでね」
「私達もそろそろ、アンリくんの方もあるし。あすかさん、後をお願いね」
「ええ」
「今度は貴女を救い出したいものです、貴女の騎士としてね」
「ランドル、本当にありが―――」
「っ!」
「げっ!」
何やらクサイ台詞を吐いたかと思ったら、ランドルはハヤトの目の前であすかの頬にキスをしたのだ。
ランドルらしい報酬の取り方にハヤトは苦笑を漏らして、だが思わぬ事を口にした。
「クレアさん、琉奈さん、アスラーダも仕上げておいてください」
「え……?」
「走ります僕、今日の決勝」
「ハヤトくん……!」
クレアは驚いていたが、琉奈はある程度予想していたおかげであまり驚きはしなかった。
やっぱり、という諦めから琉奈は静かに目を閉じた。
「何言ってんだこの馬鹿!起きられもしねぇそんな状態で走れる訳ねぇだろ!」
加賀が言う事ももっともだ。
だが、だからといってやめるような性格ではないのだハヤトは。
「まだ時間はあります。琉奈さん、お願いします」
「………………わかった」
「琉奈!」
「ハヤトやめて、お願い!」
琉奈は修に責められ、ハヤトはあすかに責められ。
でもハヤトの目は変わらない。
「……ハヤト……!」
「ハヤト、お前ぇの気持ちもわからねぇじゃねぇ。けどアルザードとだって、もうケリはついたじゃねぇか!」
「でもレースが終わった訳じゃない……走ります。
グランプリは、気持ちで負けたら絶対勝つことなんてできない世界だから。そうでしょ、加賀さん」
「いや、けど…!」
「今日の事は、決勝の間は公にしないでください。その決着もレースでつけます」
ハヤトはフィルを見据えた。
ハヤトの走りたいという目が、きっとフィルには痛かったと思う。
「僕は逃げない」
「……っ!」
どこまでも彼の目は澄んでいたから。
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アニメ沿いの部分は削りたいんですが、省略しきれませんでした。