「お久しぶりです加賀さん、橘です」
『お、琉奈か?どうした、電話なんかかけてきて』
電話の向こうからは聞き慣れた低い声。
兄貴分のように人を安心させる不思議な雰囲気に、琉奈は思わず笑みを浮かべた。
「お話ししたい事があって……今は何処にいるんですか?」
『ああ、シカゴのグレイの所にいる。グレイ知ってるだろ?』
「ええ、昔お世話になりました。今度のオフにそっちに行ってもいいですか?」
『別に構わねーけど、お前は日本じゃねぇだろ?』
「今はイタリアにいます。もうすぐ帰りますから、その足でシカゴに」
『へ~え、そりゃよっぽどの話みてぇだな』
待ってる、という言葉を最後に電話は切れた。
琉奈は息を吐いて、遠くの空を見上げた。
(私は……加賀さんを言い訳にしたいのかな……)
背中を押してもらいたいのか、止めてもらいたいのかわからない。
先が見えない不安ばかりが琉奈を襲う。
迷っている自分はもっと腹立たしくて、憎らしい。
――それでも、選択の日は近づいている。
10・破滅への道連れ
シカゴ郊外のとあるガレージ、琉奈にとっては特に迷う事もなく見つかる場所だ。
修行時代にグレイを慕って押しかけ滞在をした事もあるし、
最近では自分の愛車の出来を見せたくて加賀と一緒に訪ねた事もある。
「お久しぶりです加賀さん」
「おう、相変わらずみてーだな琉奈」
トレードマークの緑の髪はいつものように逆立っている。
外見は奇抜で目付きも悪いけど気さくな人だなと、その容姿を見るたびに感じている事は内緒だ。
「はい。グレイさんもお変わりなく」
「ああ、話は聞いている」
琉奈が修行していた当時からグレイの腕は相当有名で、何度も指導を頼んだ事がある。
とてもよくしてくれた、メカニックの師とも呼べる人だ。
挨拶を交わしていると、ひょっこり別室から顔を出した人影に琉奈は驚きの色を浮かべた。
「フィル!……グレイさんの所にいるとは聞いてたけど……元気そうでよかった」
「ええ、お陰様で」
それぞれと積もる話もあったが今日来た目的はそれではなかったので、
軽く談笑を済ませるとグレイとフィルは気を利かせて席を外した。
「で、話って?」
インスタントで悪いけど、と冗談めかしながら淹れてくれたコーヒーが温かい。
鈍く光る水面を見つめ、琉奈は息を整える。
「……加賀さんは来期戻るんですよね、サイバーに?」
「まあな、これだけ待ったしな」
「アオイ以外で走る気はないですか?」
「おいおい、勧誘しに来たのか?悪いけど他で走る気はねぇよ。何だかんだ言って気に入ってるからな、アオイが」
突拍子もない質問だったからか、煙草に火をつけようとしていた手が止まった。
「勧誘じゃないですよ?聞いてみただけです」
「……琉奈、俺の事聞いてどうするんだよ。お前の話がしたいんだろ?」
すみませんと苦笑すると、軽く聞こえた笑いと共に煙の臭いが辺りに広がりだした。
時間はあるからゆっくり聞いてくれる、という事を暗に言っているようだった。
「……スゴウを辞めようかと思ってるんです」
「はあ!?マジでか!?辞めてどうするんだよ!?」
突然の事に加賀は勢い余って身を乗り出した。
「その……とあるチームから誘われていて……でも弱小っていうか、いつ潰れるかわからないような危うい所で……」
琉奈は何とか不自然に思われないような言い訳を絞り出した。
ここまで来て嘘を言うのは憚られたが、正直に言えるものでもないから仕方がない。
『来期の加賀さんの為に辞めます』なんて、怪しまれるのは必須だ。
曰く付きのマシンを使うとも、名雲が加賀にマシンを託すのかも、
そして彼がそれを受け取るのかすらも、何も決まっていないのだから。
「何でまたそんなチームに、って言いてぇ所だけど……スゴウを辞めてまで行きたいと思った理由があるんだろ?」
「…………よく分からないんです」
――心の半分がそんな無謀な事やめろと言っている、男の頼みなど聞きたくないと叫んでいる。
だけど……残りの半分が、自身を揺り動かす。
答えが出るのならと……これで終わらせられるのなら、と。
「スゴウは好きなんです、ずっといたいと思います。
だけど、私の役目はもう終わった気もしてて……このままズルズルいていいのかとも、思うんです。
ならもっと私を必要としてくれるような所に行ってもいいんじゃないかって……」
最高のドライバー、最高のマシン、そして最高のチームメイト。
夢であり償いだったアスラーダは、琉奈の中で一つの終止符を打った。
夢に追いついて、そして越えられない事を悟った。
クレアや琉奈の力を出しきって作られたアスラーダは、文字通り"完成"されたのだ。
これ以上自分が何かしなくても、アスラーダとハヤトは既に自分の手を離れて未来へ走っている。
――もう、私では追いつけなくて彼らの背中ばかり見ているけど、それさえも眩しくて。
「琉奈、もう気持ちは固まってるんじゃねぇのか?」
そうだろ?と加賀は口元を緩める。
「そういう時は、大体自分の中で答えが出てんだ」
「そうでしょうか」
「止めて欲しいのか?」
「……はい、多分。全力で反対して欲しいです」
「そりゃ難しいこって」
険しい顔をする琉奈に加賀は苦笑を返した。
「もう理性じゃ抑えきれねぇって事だろ?それは俺じゃ無理だ。
理性に勝っちまう程の本能なら、俺が反対したって止まらねぇよ」
「…………」
「ま、そう深く考える事でもないんじゃねぇか?たかがチームが変わるだけだろ?
そりゃお前にとってはスゴウは家みたいなもんだと思うが……」
「……ええ」
本能、その響きに琉奈は衝撃を受けた。
どれだけ否定しても、心の奥底ではこの選択に引き寄せられているという事だろうか。
破滅への道を、新たな罪を生むかもしれない道を。
(そう……誰かに止めて欲しいんだ……自分ではもう止まれないから)
琉奈の決断を"チームを変わる事"だと思っている加賀に合わせるように、真実を隠して平静を装う。
スゴウを辞める事に負い目を感じているのも嘘ではないのだが、どうにも罪悪感が大きい。
「でも安穏とした生活に慣れると、また新たな試練に飛び込むのが怖いんです。
あそこはとても居心地がよくて暖かくて、今でも十分自分を必要としてくれると思うから……抜け出さなくてもいいんじゃないかって」
琉奈が出て行くと知ったら彼らは必死で止めてくれるだろう。
あの頑固な幼馴染みだって、きっと烈火の如く怒るんじゃないだろうか。
だが彼では駄目だ、自分の足枷にはならない。
彼に反対されると、たとえ正論でもどうしても反抗したくなってしまうだろうから。
(っ、修さんも振り切ろうとしてるなんて……)
無意識に幼馴染みをやり過ごす事を考えていた自分に気付いて辟易する。
もう、足は確実に歩みだそうとしていた。
「まだ……やり残した事があるんです。だけどもしかしたら全て失うかもしれない、
取り返しの付かない事になってしまうかもしれない、そう考えると……一歩も動けなくて」
「けどレースってそんなもんだろ?レース自体がでかい博打みたいなもんだ。ドライバーなんか賭けに負けたら死ぬんだしな」
「そう、ですよね……」
琉奈の気持ちが沈んできている事に気付いたのか、加賀は努めて明るく振る舞った。
次に沈黙が訪れた頃、紫煙を眺めながらツリ目がちの瞳が真剣さを帯びた。
彼は相手が今はどう接してほしいのか、どのタイミングで真面目な話をすればいいのか察する事ができるようで、
相手の表情を読み取りながら気遣える、改めて兄貴肌な人だと感じた。
「ウダウダ考えてたって良い結論なんか絶対でねぇ。始めに頭に浮かんだ事やりゃいいんじゃねーか?」
「……はい」
「後悔するかも、とか考えてたら先に進めねぇ。……過ちも、自分の人生だ」
「でも私は、過去に拭いきれない罪を犯しました……」
そして再び罪を増やそうとしている。
後悔し尽くせない事になるかもしれない。
「払拭できない過去なんかいくらでもある。
けどこの先どう行動すればそれを作らないで生きていけるかなんて、わかんねーだろ?」
「……少なくとも、スゴウを辞めなければ過ちを犯さなくてすみます」
「だがそこにいたら自分が腐る、そう思ってるんだろ?」
「…………」
よくわかるな、と琉奈は思わず感心した。
それとも、彼も"そう"思っているのだろうか。
煙草の煙を眺めながら遠くを見る彼の眼差しは、何処か苦しそうだった。
「止まっちまったら負けだ。俺はドライバーだからな」
「……そうですね」
「大事なのは……犯しちまった過去をいかに背負って生きていくか、越えられるか……」
彼には、何か背負っている業があるのだろうか。
拭いきれない、大きな罪を抱えているのだろうか。
此処にはない"何か"を見つめる目がそう感じさせた。
――その為に、ハヤトと戦う事を望んでいるのだろうか。
「ま、答えなんか最初から決まってんだよ」
加賀は暗くなった雰囲気を吹き飛ばすようにおどけてみせた。
「無一文になってどうしようもなくなったら此処に来りゃいいさ。な、グレイ!」
振り返るとグレイとフィルが顔を出していた。
相変わらず仏頂面の大男だったが、グレイはフンと鼻を鳴らして琉奈を見下ろす。
「これ以上ヒヨッコの世話なんかできねぇよ。来やがったらメカニック根性を叩き直してやる」
「……はい」
それは、困ったら此処に来て良いというグレイなりの激励だった。
琉奈は緊張の糸を緩ませるように、柔らかく微笑んだ。
シカゴまで飛んでは来たが、琉奈に長居する暇はない。
加賀に会う為だけのアメリカ往復だが、琉奈にとっては必要な行程だった。
「今日はありがとうございました」
「いいって事よ。わざわざ此処まで来たわりにゃ、あまり役に立たなかったかもしれねーけどな」
「いいえ、そんな事ないです」
真っ直ぐに見据えてくる眼差しは今の琉奈には直視できなくて、
出発の間際に逸らしがちに振り返ると、言葉を振り絞った。
「加賀さん……」
「ん?」
「……私は、心から走りたいと思うドライバーの為にありたい。それが私の道です」
――不安はある、恐怖もある……だけど、貴方が望むのなら。
「…………待ってます、加賀さん」
この先、あんなに温かくて最高のチームにはきっと出会えないだろう。
夢と償いと、全てが詰まった場所。
一歩踏み出てしまったら……もう、戻れない。
――「スゴウを辞めて、加賀くんをサポートしてあげてほしい」――
あの男の声が、頭に響く。
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加賀さんとの会話。
そろそろ間章も締めに入ってきましたよ。