橘琉奈という女性は掴めない人物だった。
スゴウに在籍していた頃の彼女は城之内みきに並ぶ名メカニックだと称され、マシンと熱心に向き合う人だと認識していた。
だが突然凰呀と共にアオイに来た彼女は、全ての罪を被る覚悟でそこに立っていた。
すみませんと謝りながら、アオイにとっては悪夢のようなマシンを持ち込んで。
利用された、そう言っていたのに何故彼女は此処にいるのか。
激しい怒りを露わにして名雲を叩いていたのに、悟ったような静かな顔付きで拘置所にまでやって来たのはどういう訳か。
身内ばかりいるスゴウを辞めてまで、どうして凰呀にこだわるのか。
騙されて作らされた、彼女にとっても人生の汚点であるはずのマシンを、どうして。
彼女と名雲は、一体どういう関係なのだろうか。
もの凄く細くて透明な糸で繋がっているような曖昧な状態が、不思議で堪らない。
それも決して甘さを帯びたものではなく、ただならぬ重さに包まれたもので。
――「彼女は奇特な人間だよ」
凰呀の件で伊豆の邸宅まで押し掛けた折りに、名雲は彼女に関して特に変わらない様子でそう言った。
「将来を約束された名誉ある地位より、日の目を見ない影にばかり引き寄せられる。
暗ければ暗いほど、悪であればあるほど彼女はそれに入り込んで、光を見せようと躍起になる」
「茨の道ばかり選んでしまうのさ、彼女は。だからいつも勝手に血を流して苦悩する」
迷惑なものだ、と名雲は鼻で笑っただけだった――
教えてくれたようで、またしても煙に巻かれたような気がして、結局どういう事なのか釈然としなかった。
彼女は、此処で何がしたいのか。
彼女がそこまでして彼に従う意味がわからない。
「琉奈、アジャストの準備をしておけ」
「はい――、」
グレイの指示通りに動こうと振り返った彼女と目が合ってしまう。
会話のない非常に重苦しい空間で、視線を逸らしたのは今日子ではなく琉奈が先だった。
恐らく此方が睨むように見ていたからだろう。
琉奈と加賀と名雲の言い分はわかった、だが理解はできない。
ただ見ていろと言われても、この危険なレースを素直に応援できる訳もない。
凰呀を欲した加賀を支えると言っていた彼女に対しても、今2人きりで顔を合わせれば恨み言しかでてきそうにない。
どうして、彼に凰呀の存在を教えたのかと。
今のアオイの現状、そしてアスラーダに似た凰呀を知れば、彼が手を伸ばさないはずがないのに。
「大丈夫だよ。奴はあんなマシンになんざ、負けはしねぇ」
「…………」
グレイに言われ、今日子はモニターを長い間凝視していた事に気付いた。
加賀の乗る紫のマシンは以前よりもバランスを保ち走っていたが、それでも危うさが残る。
一歩間違えればドライバーは死ぬ。
彼女と名雲の存在は、彼を危険に晒す。
それは、どうしても認められなかった。
……許せるはずがなかった。
たとえドライバーが望んだのだとしても、死んでしまっては意味がないのだから。
この決勝――第4戦は順位が思うように上がらず、結果は4位に終わった。
6・呑み込まれる願い
許されるはずもない、それは覚悟していた事だった。
自分がやっている事は、ただドライバーを死地に送り出しているのと変わりないのだから。
わかっていた。
だけどそう思いながら、本当の意味の覚悟を自分は持てていなかったのかも知れない。
「!……加賀さん……っ」
決勝へと向かう凰呀のエンジンの最終チェックを終え、ドライバーの搭乗を待っていた琉奈は、
誰にも気付かせようとせず気丈な様子でグローブをはめる加賀の手が微かに震えていたのに気付いた。
信じられないものでも見るかのように駆け寄って声を絞り出したが、
加賀はその続きを言わせないように口角を上げて笑い、何食わぬ顔で乗り込んだ。
「大丈夫だ」
その言葉だけを残して、紫の車体は爆音を立ててコースへと消えていった。
(大丈夫なはずないのに……無理して走ってるんだ、加賀さんは……っ)
制御不能に近い凰呀を抑えながらハヤトに勝とうとするには並の体力と精神力では保たない。
それはトップドライバーと謳われる加賀でも例外ではなく、少しずつ彼の体を蝕んでいた。
少しずつ増えていくポイントとは逆にどんどん疲弊していく。
(加賀さんの為だとも思った……だけど無理させてるのは私のせいでもあるんだ)
それはいつかのハヤトのようで。
出力不足のアスラーダで優勝する為にZEROの領域を駆使していたハヤトは、ボロボロだった。
あの頃琉奈はアンリの担当であったが、その疲れ切った様子は嫌でも目に入っていた。
引退まで決意させる程の事故にまた繋がってしまうのではないかと心配だった。
だけどあれほど走りたがっている彼に、やめろとはとても言えなかった。
名雲に薬を飲まされ、体に痺れの残る体で走ると宣言した時も、つられるように頷いた。
いつだってそうだ、琉奈はドライバーが強く望んだ事に逆らえない。
加賀も早い段階からハヤトと戦い、勝つ事を望んでいた。
その意地にも似た揺るがない意思は琉奈にも十分に伝わり、それを叶わせてあげたいとも思った。
だが今回は、死亡者が出る程の曰く付きのマシンを与えたのは紛れもなく名雲と琉奈であった。
そう、勝ちを望む彼の気持ちを利用して凰呀を託したのだ。
――「よく平気でいられるわね!ドライバーが死ぬかもしれないって思わなかったの!?」――
今日子にそう言われても仕方のない事をした。
視線が合ってもその度に此方を責める目を向けられ、最後には避けてしまう毎日。
真実を知り激昂した今日子の形相を思い出し、あれが普通の反応だろうと琉奈はどこか納得していた。
彼が望んだから、は言い訳にならない。
凰呀を受け取る程の執念が彼にある、そう見越していたから渡したのだ。
(信じて待つのは、辛いな……)
後ろめたい分、縋るように凰呀の姿を追った。
ピットへと流れてくる風を受け、靄に包まれた思考を吹き飛ばすように眩しい外界に身を晒す。
顔を上げると、少し遠くにあるスゴウのプラットホームに見慣れた姿があった。
隣にはレースカメラマンの彩スタンフォードも立っていて、2人揃ってじっと琉奈を見つめている。
(、……あすか)
たとえサーキット内ですれ違っても彼女は何も言わず、ただいつも琉奈に懇願するような眼差しを向ける。
投げかけられているのは「何故」という疑問。
言いたい事も問い詰めたい事も、責めたい事もあるだろうに、それを全て呑み込んで目で訴えていた。
彼女に見つめられると、琉奈は自分が"悪者"なのだと自覚させられる。
そしてそのたびに"ごめん"と心で呟いた。
せめて彼女の非難を正面から受け止めなければならないと、琉奈は思っている。
自分は凰呀を走らせる事を止めないだろうし、アオイも辞めないのなら言葉にしたって何の意味もないから。
何故なら自分は、今でも"それでも"と自身に言い聞かせている。
自分が正しいのか間違っているのかもわからない。いや、きっと間違っているのだろう。
(それでも止まれないなんて……性格まであの男に似てきたか……?)
そんなのは勘弁願いたいが、少なからず影響されてるかもしれない自分が嫌になる。
自嘲するように微笑んで、あすかとの見つめ合いを打ち切るとピット奥へと戻った。
そのまま突き進んで、ピット裏のモーターホームまで足を伸ばして、またしても後悔した。
(何で今日は色んな人に出くわすんだろう……)
これからスゴウのピットへ行く所だったのだろう、幼馴染みの修が同じように琉奈を見つけて立ち止まっている。
オーナーである彼は今はほとんど現場へと顔を出さない、
だから以前にパーティー会場で激しい言い合いをしてからは一度も顔を合わさなかったというのに。
「…………」
互いに無言。いや修は変わらず厳しい目を琉奈に向けてきた。
彼の言いたい事を全てわかっている琉奈は、茶化すように笑って横を通り過ぎようとした。
何故かアオイにいて、名雲兄弟が開発した凰呀を扱っている事に修は未だに怒っている。
あれから自分達は絶交状態だ、仕方のない事だが。
裏切ったのは自分、彼を騙したのも自分だから話す事もなくすれ違って終わるのだろうと思っていると。
「痛いか、周囲の無言の非難が」
「……っ」
琉奈のすぐ近くで、唐突に修が言った。
感情を露わにしたら和解できるものもできなくなると思っているのだろう、
押し殺した声色から冷静を保とうとしているのだと感じた。
その的確すぎる言葉に琉奈は自然と肩を揺らし、歩みを止めた。
「自ら悪に回るという事はそういう事だ。それでもお前は貫くというのか」
「……はい。最後まで見届けます」
かつてナイト・シューマッハとしてあえて汚れ役を選んだ彼だからこその言葉だった。
その時とは状況も目的も全く違うが、要は裏切りの道を進む琉奈の覚悟を問うているのだろう。
はっきりとした口調で返事をすると、心底呆れたと言わんばかりの溜息が聞こえた。
「短絡的で無利益だな。利用されているだけだと何故わからない」
「……それでいい、見返りも何もいらない。見捨てられなかっただけですから」
凰呀と加賀さんが走ってくれればそれでいい、そう呟くと修は話にならないと首を振った。
「とにかくあの男だけは駄目だ、いい加減に目を覚ませ」
「別に従っているつもりも、付いていくつもりもありませんよ」
仕事としてレースに関わっている以上、別チームになる事はそれほど問題ではないらしい。
確かに騙していた事に彼は腹を立てていたが、今は何より名雲に協力しているこの状態が嫌で堪らないのだろう。
だが随分前から琉奈は直感していた、これが本当の"最後"だと。
だから心配しなくてもいいんだと笑ってみせると、見上げた眉間の皺はさらに増えた。
「私は私の決着を付けるだけですから。あの男を、過去にする為に」
「、勝手にしろ……っ」
理解する気は毛頭なかったのか修はそれだけを吐き捨て、さっさと行ってしまった。
振り返れば両肩を怒らせた幼馴染みの背中がだんだんと小さくなっていく。
「……修さん」
彼はかつてない程に琉奈の選択を真っ向から反対している。
だがそれは"兄代わり"と自称する幼馴染みなりの心配の表われなのだという事は百も承知で。
愛想尽かされてもおかしくない状況なのに、それでも彼は厳しい言葉をぶつけてきた。
こんな自分をまだ気にかけてくれてありがとう、琉奈は誰にも聞こえない声で呟いた。
「琉奈!」
「あ、リサ!」
レース後の撤収作業をしていた琉奈に久しぶりに声をかけてきたのはリサだった。
変わらず陽気な笑顔で、そしてシュトルムツェンダーのドライバーとなったルイザも一緒にいた。
「優勝おめでと、琉奈」
3度目の挑戦となった第5戦、加賀は見事に優勝した。
だが今回もまたアスラーダが不調でリタイアとなり、勝負すらできなかった勝利ではあったが。
「ありがとう。マリーは惜しかったね」
「ああ、今日はついてなかったよ」
「でも調子は上がってきてるでしょ?それで、グーデリアンさんとはどう?」
「どうもこうも、暇があればすぐにちょっかいかけてくるからうざったくて仕方ない」
「あはは、趣味だからね」
疲れるよ、と首を横に振るルイザがいつも通りでつられて笑っていると、
リサが琉奈の全身をしみじみと眺めながら指さしてくる。
「琉奈こそ~やっぱり見慣れないね、そのアオイの色」
「そう?」
「うん。ずっとスゴウの青色に慣れてたからさ、変な感じ」
「そうかもね」
「似合ってない訳じゃないよ?意外と他チームでもいけそうだから、ウチのユニフォームも似合いそうだね!」
リサとルイザは琉奈が何処にいても変わらず接してくれる人物だった。
突然にスゴウを辞めていつの間にかアオイにいても、彼女達は"またサイバーで一緒に頑張れるね!"と笑ってくれただけだった。
具体的な事情も何も話していないのに、それでも受け入れられている事が嬉しかった。
「……そうだね。アオイは今期限りの臨時採用だから、来期からはまた何色になるかわからないよ」
「え、そうなの!?」
次決まってないの!?とリサはしきりに確認してくる。
自虐を混ぜた冗談だったのだが、意外にも興味を持たれてしまったらしく、
少々気圧されぎみに琉奈が「う、うん……」と頷くとリサは目を輝かせた。
「そしたらやっぱりウチに来てよ!マリーのマシンを見てくれると嬉しいな!」
「リサ、強要するんじゃないよ。そういう事は自分の意思で決めるもんだ」
「そっか、そうだよね、ごめん」
シュンと俯いたリサに琉奈はいいんだよと笑ってみせる。
次が決まっていないのだから、もし本当に自分が必要とされるなら素直に喜ばしい事だ。
「琉奈」
「ん?」
来期からの身の振り方をぼんやり考えていた所へルイザが心持ち真剣な声を出した。
「あんたは一人じゃない。何かあったら話してくれればいいんだ」
「そうだよ~琉奈は全部一人で決めちゃうんだから!」
「それだけ強いって事さ。だけど琉奈、弱音を吐きたくなったら遠慮せずに言えばいい」
この時琉奈は心から思った、何て素晴らしい友人を持ったのだろうと。
こんな何も言えない自分を信頼してくれているなんて。
「……うん、ありがとう」
いつか彼女達に何かを返してあげたい、そんな事を切に思った。
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色んな人達との会話の回。