「お疲れ様、凰呀」

優勝の喝采を受けて戻ってきたマシンに琉奈は思わず声をかけた。
こうやって無事に帰ってきてくれる事がどれだけ嬉しいか、いつも安堵で胸を撫で下ろす。

(凰呀と加賀さんは、少しずつ息が合うようになってきたけど……)

細かい傷はあるものの、それでも凰呀の損傷は以前に比べると少なくなった。
彼は言うまでもなく無理をしているが、凰呀が少しずつ応えるようになってきた結果だと琉奈は思う。
心強い味方になってくれるのもそう遠い話ではないかもしれない。

だが、問題はアスラーダだった。
今期から提携したGIO製のエンジンが構造上の問題を抱えているとの報道を知った。

(加賀さんは勝っても嬉しそうじゃないし、ハヤトも……)

いつになったら戦えるのか、苛立つ加賀は表彰台でも不機嫌そうで。
このまま今シーズンが終わってしまうのではないかという気さえしてくる。

アスラーダが走れない、走りたくてもできない状態。
戦いたくても戦えないのは互いに歯痒く思っているに違いない。

「真っ向から勝負して勝たないと、たぶん意味がないんだよね……」

そんな独り言を漏らしながら琉奈は凰呀のボディを指先で撫でた。
走行後でまだ冷えていないマシンの熱は、ドライバーと似た意思を感じさせた。

スゴウには天才マシンデザイナーのクレアがいるから、いずれはエンジンの問題も解消されるだろう。
アスラーダの不調は気になるが、今現在アオイに在籍してる自分にはもうできる事は何もない。
此方の事だけ考えようと気持ちを切り替えた琉奈は、撤収作業を再開させた。

片桐と言葉を交わし合いながらコンテナを持ち、モーターホームまで運んでいく。
重い荷物をドスンと置いて息を吐いていると、顔を上げた先に加賀の背中を見つけた。

一足先に引き上げていたはずの彼は何をする訳でもなくその場に立っていたが、
不審に思った琉奈が首を傾げて見つめる先で、ふらりと体が揺れた。

「、加賀さん!」

モーターホームの車体にもたれ掛かってしまった体を、慌てて駆け寄って支えた。
顔を覗き込めばそこには虚ろな瞳が揺れていて、それでも強がって笑みを作る。

「……おう、琉奈か。すまねぇな」
「大丈夫ですか!?」
「心配すんなって、立ち眩みしただけだ」
「と、とにかく座ってください」

車のドアを開けて、背もたれの倒れた広いシートに座らせると加賀は力が抜けたようにだらりと横になった。
レース後のドライバーは誰だって体力の限界を感じるだろうが、これはそんな比ではない。

憔悴しきった表情で思い出されるのは、やはりハヤトがZEROの領域に目覚めたばかりの頃。
レース中のあらゆる事象を読み取れる代わりに体は酷使され、精神が疲弊していくというあの感覚。
彼はきっとZEROの領域で走っている、それは直感であったがそうとしか言いようがない状態だった。

「お水飲みます?」
「……ああ、頼む」

こんなにボロボロだなんて信じられない程、彼はクルーの前では至極普通にしていた。
よく観察すれば手先が時折震えていたりするが、それでもレース前のドライバーチェックをパスできる程には自身を保っている。

(そこまでしないと凰呀は扱えないんだ……)

凰呀とアスラーダの勝負に決着が付くのが先か、彼の限界が来るのが先か。
そしてそれを琉奈では止められない。
加賀に決着を託したのは自分達なのに、どうして"やめろ"と、"無理するな"と言えるだろうか。
だから琉奈はせめてこの暗い表情だけは見せないようにと努めて表情を作ると、
グラスに注いだミネラルウォーターを加賀に差し出した。

「……そんな顔すんなって」
「、え……?」
「ま、無理もねえか、俺がこんなザマじゃ」

隣に座って様子を窺っていた琉奈が聞いたのは、そんな冗談交じりの声。
顔を上げれば加賀は緩く笑い、そのまま水を一気に飲み干した。

心配する資格のない琉奈は平静を装っていたはずなのに、そんなに思い詰めた顔をしていただろうか。
数倍も疲れているだろう彼に気遣われてしまうなんて情けない。

何も言えずに黙って加賀を見下ろしていると、彼がふいに口を開いた。

「……昔のハヤトは本当にヒヨッコだった。まだ幼いガキで、面白がって見てたもんだ。それが今じゃ……」
「…………」

すぐ傍にいる琉奈が辛うじて聞こえるぐらいの独白だった。
自身の手を持ち上げて、やはり震えているように見えるそれに自嘲の笑みを浮かべて。

「別にハヤトに負けたから躍起になってる訳じゃねえ。
だけどな、あいつはZEROをモノにしちまった……俺が越えられなかったアレを」

ポツリポツリと、少しずつ呟かれる言葉は全て本音だろう。
自分の事をあまり話そうとしない彼が、自身を不甲斐ないと言わんばかりに。

「俺にはできなかった……動揺して、大事な奴まで死なせちまった」

掌よりも遠くにある何かを見つめて、長い沈黙の後に彼は言った。
大事な人の死、それは彼にとっては心の傷以外の何物でもなく、心の奥底にある弱さに違いなかった。

琉奈はそれに対して何も言うべきではないと、ただじっと加賀を見つめていた。
吐き出したいものがあって、それが自分に聞かせてもいいものであるなら最後まで聞こうと、静かに言葉を待つ。

「アオイの出場停止をくらって、そのままサイバーをやめてもいいと思った。元々金がいいから入ったってだけだからな。
けどこのまま終わったら……俺はまた逃げる事になる。……俺は、あの時から何も変わってねえ」

だから彼はこれほどまでに勝ちにこだわっていたのだ。
彼が越えられなかった壁を乗り越えて自分の物にしてしまったハヤトに勝つ事で、彼は過去を振り切ろうとしているのだろう。

「俺は使命感で乗ってる訳でもねえ。勝ちたい、それ以外はいらねぇ」
「……はい」
「ハヤトにできて、俺にできねぇはずがねえんだ」

握り締めた拳は決意の表れ。
ハヤトに勝つ、という事よりも過去を乗り越える為の意地だ。

「だからお前ぇと一緒さ。大事なもん引き換えにしてでも、答えが欲しい」
「…………」
「俺がお前ぇを利用してんだよ、悪いな」

だからお前のせいじゃない、加賀はそう言っていた。

自身を見せず、プライドの高い彼にとって心に刻まれた過去は容易に人に話せるものではないだろう。
なのにそれを打ち明けて琉奈の気を楽にさせようとしてくれた彼の為にも、今は微笑んで頷くだけに留めた。

「水、ありがとな。お前まだ仕事残ってるだろ?」
「……はい、戻りますね。何かあったら言って下さい」

本当はもうしばらく様子を見ていたかったが、彼が大丈夫だと訴えるから大人しく立ち上がる事にする。
琉奈がいてはきっと体を休められないだろうし、これ以上踏み込んでいい立場でもない。

だけど彼は心を見せてくれたから、それは琉奈にとっては嬉しい事だった。
代わりに彼の気持ちが僅かでも楽になればいいと願いながら、真摯な目で振り返る。

「……ありがとうございます、加賀さん」

勝たせてあげたい……いや、一緒に勝ちたいと強く思った。

自分達は、明日を勝ち取らなければならないのだから。






7・幻影の奥に






人の思惑というのは様々で、決意に立ち上がる者もいれば苦悩に蹲る者もいる。
それぞれに大切な人がいて、守りたいもの、失いたくないものを抱えている。
それが脅かされれば不安に駆られ、脅かすものを排除しようとするだろう。

だからこうやって衝突してしまうのだろうか。
彼女達はそれぞれに葛藤を抱えながら生きているだけなのに。

「どうして背を向けてしまうんです?」

それは、レースカメラマンの彩から発せられた言葉がきっかけだった。
ピットを出て行く今日子を呼び止めた、非難にも似た棘のある口調。

そして偶然見かけてしまった琉奈は、他チームのモーターホームの影からそれを聞いていた。

「貴女なら、してあげられる事がたくさんあるはずなのに。なのに、見ていてさえあげないんですか?」
「……貴女に何がわかるっていうの、何も知らないくせに」

彩は加賀に淡い想いを抱いているのだろう、普段から彼を見る目ですぐに気付いた。
本当は戦う加賀を支えたいのにそれができない、だからいつでも傍にいられてサポートできる位置にいる今日子が羨ましくもあるのだろう。
だから立ち去る今日子が気に入らない、彼を放っておく行為が許せない。

「知ってる知らないは関係ないでしょう!大切なのは、加賀さんの気持ちじゃないんですか?」

彼の意思を尊重してあげて欲しい、だがそんな訴えは今日子の怒りに触れた。
間髪入れず聞こえたのは頬を叩いた音。
琉奈の視線の先で彩がよろめき、同じくこの会話を見ていただろうあすかが受け止める。

「何が、加賀さんの気持ちよ……あんたなんかに、あんたなんかにわかるもんですかっ!」

今日子の激昂には悲痛な色がにじんでいた。
逃げるように踵を返した所で、その視線が琉奈を捉えた。

何か言われるだろうか、そんな面持ちで反応を待っていたが、
今日子はさらに眉根を潜めただけで何も言う事なく行ってしまった。

「……琉奈、さん?」

あすかに名を呼ばれた。
これ以上隠れていられない琉奈はそのまま進み出て、目を細めた。

「ごめんなさい、彩さん……ごめんなさい……」

この騒動を生み出した原因は間違いなく自分達だ。
今日子がああも頑なになるのも、加賀の走りを見ていられないのも。

彼女にとっては凰呀自体がトラウマの一部だろう。
一度は社長の座を引き摺り下ろされ、やって来た男はあの飄々とした態度で今日子やアオイを振り回し、
ついには史上最大の不祥事であるアルザード事件を引き起こした。
アオイは汚名を着せられ、ドライバー達は命の危険に晒され、
優勝でもしないかぎりは今期限りで撤退するという事態にまで陥った、全ての元凶。

いくらニューマシンが生産できないからと言っても、加賀が持ち込んだのはよりにもよって名雲が手がけたマシン。
そんな悪夢を呼び起こす凰呀を、許せる訳がないのだ。

今日子が彩を叩いてしまったのも自分のせいだと、琉奈は真っ直ぐな目で謝罪の言葉を繰り返す。

「……琉奈さんは全て知って、その上でアオイにいるんですか?」
「ええ……私が、加賀さんに火を付けてしまったんですから」

今の加賀を支えているのは実質琉奈だ、彩が言うように加賀の気持ちを汲んで凰呀の傍にいる。
なのに、まるでその道が悪とでも言いたげな悲しい目が揺れていた。

「……どうして、そんなに辛そうな顔をしているんですか?」
「加賀さんと私達が意思を貫く事で、辛い思いをしてる人がいるから」

"私達"と琉奈が表現したのが引っかかる。
だがその言葉があすかや今日子の事を言っているのだと気付いて、チラリと隣を見遣るが。
あすかは、避けるように俯いていた。

彩は不思議だった、加賀を支えている人がいるのはいいが、どうしてそれが琉奈なのだろうかと。
あすかが思い詰めるぐらい、レンズ越しの彼女はアスラーダを愛していたのに。

「どうして、そこまで……琉奈さんはスゴウの人間だったんじゃないんですか……?」
「…………」

琉奈は知っている、彩が加賀に想いを寄せている事を。
だから彼の周りにいる人間が気になるのだともわかっていた。
加賀に対する気持ちについてを彩は聞いている、だから琉奈は消え入るように微笑んだ。

「たぶん、純粋に惹かれたってのもあるんだと思う」
「……っ」
「私達は共謀者、その言葉が一番似合う」

恋愛感情とかそんなものではない、ドライバーに対するメカニックの気持ちはそういうものでは表せない。
琉奈の言う意味を読み取ったらしい彩は、一瞬どきりとした後に内心で息を吐いた。

「……だから、ハヤトには重いものを背負わせてるってわかってる」
「…………っ」

琉奈はあすかに視線を移して真剣な表情で告げた。
顔を上げたもののあすかは何も言えず、目を逸らすだけ。

「ハヤトには申し訳ない事をしてると思ってる。私も加賀さんも……ハヤトに託してしまっているんだから」

実際はハヤトを通して過去と戦っているが、託された方は辛いだろう。
それでも進まずにはいられないなんて、他人を巻き込んで何という自己満足だろうか。

「理解して欲しいとは言わない…………ごめん、あすか」

自分にもハヤトにも近しい存在だからこそ、ずっとあすかには言えなかった。
許されるとは思っていない、だから返事は待たなかった。

何かが解決すると思った訳ではない、だけど今日子のした事だけはどうしても自分が謝りたかった。
彼女が悪い訳ではないからと、そんな気持ちだけだった。

琉奈はわずかな間だけ目を閉じ、そして彼女達に背を向けた。
振り返れば囚われる、だから前だけを見据えて独り歩き出す。

勝ち取ると、決めたのだから。














「……え?私が、ですか?」
「ああ、是非君の力を貸して貰いたい」

呆然と琉奈が言葉を返せば、対面に座るハイネルは至極真面目な態度のまま頷いた。
レースの間のオフにリサを通じて呼び出され、
何事かと思えば来期からシュトルムツェンダーで働いて欲しいという、いわば勧誘の話だった。

まさか自分が他トップチームから、そう信じられない気持ちだったが彼は嘘を言う人間でもない。
几帳面さが表れた背筋はしっかりと伸びていて、チームを率いる人間らしい強い目で続ける。

「君の実力は確かだ、私が言うのだから間違いはない」
「そ、それは嬉しいです。ですが私は男性に比べたら非力です、リスクはあるかと思いますが……」

自分よりも有能なメカニックなどいくらでもいる。
本当に自分でいいのか、そんな疑問を投げかけるとハイネルはふっと笑った。

「私に男尊女卑の概念はない、こちらが望む能力を持っているから引き入れる、それだけだ」

マリー・アルベルト・ルイザの件で証明されているはずだと彼は言う。
確かに彼女はトップドライバー達に劣らない力を持っていると前々から思っていたが、
いかんせん女という理由で見下されていた部分があった。
それを払拭してくれたのがハイネルだ、彼はレース界にある様々な伝統や保守的な考えを覆し、
まったく新しい世界を想像する事ができる希有な存在だ。

今まで経験した事のない独創的なチーム、それは琉奈にとってはかなり魅力的だった。
監督兼マシンデザイナーのハイネルは言うまでもなく尊敬に値する人で、ドライバーの2人もプロだ。
グーデリアンに関しては軟派な性格が問題ではあるが。

「以前から君を引き入れたい気持ちはあったが、君はスゴウに所縁のある人間だ。
どんなに報酬が良くともスゴウから離れる事はないだろうと内心諦めている部分があったが……」

眼鏡の奥にある双眸が真っ直ぐに琉奈を見ていた。

「今回は、考えてもらえるだろうか?」
「…………」
「すぐにとは言わない。君の人生だ、ゆっくり検討してくれて構わない」
「……はい。しばらく、考えさせて下さい」

琉奈は一度だけ思惑を巡らせ、そして真剣な表情で彼に答えた。
今年ももう折り返しだ、これからの事をそろそろ視野に入れなくてはならない。

勝っても負けても、決着は今期で付く。
そうしたら全てが終わり、自分は自由になれるはずなのだから。











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話が進みません。