終わりが始まる日、答えを出す最後の決戦。
張り詰めたような、経験した者にしかわからない独特な空気が流れるサーキット。
栄光を掴もうとする気迫、勝利をひたすらに求める願い、ドライバーを戦場に送り出す祈り。
様々な意思が交錯して複雑に絡み合い、そのまま五感となって琉奈に流れ込んでいく。
震えている気がするのは恐怖からかもしれない、または奇妙な高揚感のせいかもしれない。
ただどうしようもなく自分が小さく感じられて、この喧騒に溶けてしまいそうになる。
此処では己を強く保たねば自分を見失うからと、両足でしっかりと地を踏み締めてレースという戦に立ち向かう。
そこで琉奈は、目の当たりにした光景に呆然と目を見開いた。
「……加賀さん……」
「よお」
彼のトレードマークであった緑とオレンジの逆立った髪が、背中に長く伸びる三つ編が、バッサリなくなっている。
金の大きなピアスまで取り払われ、黒い短髪の彼はもはや普通の青年のようだった。
「切ったんですね……?」
「ああ、もういらねぇだろ」
彼がどうして今まであんなに奇抜な格好をしていたのか、
またどうしてそれをやめてしまったのか、正確な理由はわからない。
だが琉奈は何となく感じとっていた、彼はもう"ブリード加賀"ではないのだと。
"血に濡れた"彼はもういない、本物の加賀城太郎として戦おうとしているのだろう。
「……似合っています、とても」
「そりゃどうも」
これは良い変化なのだと思う。
琉奈が笑みを浮かべると、加賀もニヤリと答えた。
(彼は加賀さんであって、今までの加賀さんじゃない……)
封印した過去と向き合い、乗り越えて先へと進もうとする、本当の剥き出しの彼。
彼はその最後の壁、アスラーダとハヤトを越えようとしているのだと並々ならぬ覚悟が伝わってきた。
加賀は立ち止まらせていた足を動かすと、すれ違いざまに琉奈の肩を軽く叩いた。
「頼むぜ、琉奈」
「……はい」
苦しみと過去を共有して、同じ罪を背負って、
それぞれの望む未来を目指す自分達にはそれ以上の言葉は必要ない。
様々な事があった、もうやめてと泣いた事もあった。
その上で結びついた、恋愛とは違う強い信頼関係があるのだと確かに言える。
自分達は闇を生き抜こうとする、間違いなく戦友だった。
「言ってくんねぇのか?勝って来いってよ」
「……っ」
凰呀に乗り込む前に加賀が冗談めかしてそう言った。
だがそれでも今日子は何も言えずに歪めた顔を背ける。
端から期待していなかったのだろう、軽く笑いながら加賀はサーキットに消えていった。
女王様と呼ばれていたくらいだ、今までは何度もそう言って送り出していたのだろう。
だけど今の彼女には酷な言葉だったに違いない。
レースというたかがイベントが、勝利というただの順位決めが、加賀の命を削ろうとしているのだから。
随分と小さくなってしまったように思える彼女の背中を見つめながら、琉奈は少しだけ羨ましく思った。
自分は帰りを待つ女達のように儚く美しくいられない、力強く押し出して彼のマシンの一部になる。
こと凰呀に関しては罪と執着に混じり合うような、とても綺麗とは呼べないものに琉奈は荷担する。
彼の意のままに、それがメカニックだから。
だけど同時に、勝利を託して願うだけの非情な存在にも思えた。
(でも……それしかできない、から……)
それ以外の負の感情は仕舞い込んで笑おう。
心が軋んで辛くても、汗だくで油にまみれながら琉奈は彼らを押し出した。
スターティンググリッドに付いていくマシン達が放つ光の反射に、目を細めながら視線を上げると。
「……っ」
この距離からでも見えてしまった、あの長身の男の姿。
スタートを心待ちにする観客に紛れるように小さな影が一人で立っていた。
もしかしたら今までもこうやって見ていたのかも知れない、彼らの激闘を。
――勝ってくれ、必ず。
目が、合った気がした。
こんなに離れていて、此方も大勢のチームクルー達に埋もれているような状況なのに。
「……勝ってみせるわよ、必ず」
だから心配せずに見てなさいよ、そう自然と言葉が零れていた。
澄み渡る程の眩しい蒼碧の空、その下で二人は誓った。
12・命の言魂
耳をつんざくような轟音が激しく競り合って、腹まで響いて五臓六腑を揺らしていく。
走り出してしまえば、自分達クルーのやる事は少ない。
いや正確に言えば仕事は山ほどあり、そのどれもがレースに細かく影響している。
タイム計測に燃料計算、ピットタイミングやレース戦略、いかにピットインの時間を短く済ませるかなど、
少しでもミスをすればそれは順位に大きく作用する。
だから細心の注意を払わなければならないのだが、琉奈が思っているのはそういう事ではない。
走り出してしまえばドライバーは独りなのだ。
精神的に支える事も、代わりに走ってやる事もできない。
レースは最終的にはドライバーにかかっている。
ただドライバーが勝利をもぎ取ってくるのを、じっと待ってなければいけないなんて。
歯痒くて、仕方ない。
早い段階からアスラーダと凰呀は既に一騎打ちの状態になっていた。
ミラージュターンと名付けられたコーナリングで何度挑んでもアスラーダはそのトップを譲らなかった。
どんな状況においても最後にはリフティングターンが主導権を握っている。
抜けた、そう思ってもまたやり返されてしまうのだ。
『うーん、がしかし抜けない!鉄壁のブロック、風見!!』
熱の籠もった実況アナウンスが響く場内とは反対に、悔しいばかりのアオイ勢。
歓声に埋もれてしまいそうなこの状況に、グレイが苛立ちを吐き出す。
「奴にはわかっちまうんだ、ZEROの領域とやらでよ。ミスを待つしかねぇのかよ、クソ……っ!」
「…………」
強すぎる、誰もがそう思った。
全く揺るがない王者に、自分の弟ながらに恐ろしく感じてしまった。
どうしてここまで強くなってしまったのだろう。
それは恐らくハヤトの才能と実力に、アスラーダという存在が完全に融合したからだと琉奈は思う。
互いを高め合って新たな力を生み出していく、だから彼らに限界はないのだ。
それ故に加賀は、彼らに立ち向かう事を決意したのかもしれない。
加賀が越えられなかった過去を持ち去って離れていく弟分、彼らに勝てば自分が変えられると。
だけどやはりハヤト達は、未だに行く手を阻んだままだった。
「橘さん、来ますよ!いけますか?」
「もちろん!」
アスラーダの後ろにぴたりと付けた凰呀がピットに戻ってくる。
何度も訓練された動きでタイヤを交換し、オイルを補給する。
皆がGOサインを出した時には凰呀は再び爆音を上げてコースへと疾走していった。
「タイムはほぼ同じ、か」
順位を変えるまではできなかったが大きなタイムロスもなかった。
与えられた役目をきっちりこなす、結果は上々だろう。
ひとまず安堵の息をついていると、視界の隅で彩スタンフォードの姿を見つけた。
彼女はファインダー越しに想い人を見つめ、命の激突を切り取るように一心不乱にシャッターを押していた。
「……琉奈さん」
顔を上げた彩が此方に気付く。
そして今は彼女とも気まずい関係であった事を思い出した。
曰く付きのモンスターマシンで加賀を死地に追いやる琉奈を、彼女はずっとどう思っているのだろう。
理解しがたい事だろうなと、まだ咎められている気がした琉奈は何故だかおかしくなってふわりと苦笑した。
「これが私の役目。ドライバーが望むならそうするしかない、そうせざるを得ない。
私は、ドライバーに希望を託した……メカニックだから」
「…………」
自嘲する琉奈だったが、彩は神妙な面持ちのままに口を開いた。
「それが、貴方の気持ちなんでしょう?」
「……ええ」
目を伏せるように静かに答えた琉奈に様々な葛藤が覗えた。
どんな逆境にあっても、どんな非難を受けても己を貫こうとする。
ドライバーの為に、そして自分自身の為に。
強い人だと、彩は素直に感心して微笑んだ。
「私も……これが、答えだから」
肌身離さないカメラを見下ろしながら彼女が言う。
結局自分達にできる事は変わらないのだ、だから二人はどちらからともなく小さく笑い合った。
どちらかが優位に立つ事もなく、無情にもレース周回は増えていくばかり。
熾烈なコーナー争い、どちらも譲らないブースト加速。
他のマシンが追いつけないくらいの攻防。
まるでアスラーダと凰呀だけがサーキットに存在しているかのように、2台が作り出す世界だけが明らかに違っていた。
アスラーダ、あれは父の形見であり夢であり、絶対的な強さを備えさせた者。
そして凰呀、あれは罪の象徴であり過去の産物であり、勝利という答えを導く為に甦らせられた者。
どちらも琉奈にとっては欠かせない存在で、
それらが命を賭けてぶつかっている姿を見るだけで胸に込み上がってくるものがある。
光と闇、相反する者同士なのに彼らの本質は似ている。
彼らは、ドライバーという相棒と溶け合うように意思を同じくさせて走っている。
この瞬間、アスラーダと同じように凰呀もドライバーと共に必死で勝利を探している。
初めて出会った時のようなふらつきも振り回される事もない、
恐らく加賀が凰呀の特性を知り、そして凰呀も加賀の挙動に合わせて修正を加えているからだろう。
彼らは今、1つになっている。
ずっと見てきた琉奈だからこそ、そんな確信を持てた。
(これが共闘……凰呀も、間違っていなかったんだよね?)
こんなにも勇ましく走る凰呀が失敗作なんて事はないはずだ。
その高すぎる能力とプライドのせいで、危険というレッテルを貼られてしまったにすぎないのではないだろうか。
(だって……凰呀は、)
――あんなにも純粋で、綺麗だ。
「あと3週……」
もう自分達にできる事は今度こそない。
「凰呀……加賀さん……っ」
(勝って……貴方の為に……!)
祈るように拳を握り締めた。
まだ勝てるから、まだチャンスはあるから。
「勝たせなさいよ……じゃないと許さないんだから」
「、え……?」
ふいに聞こえた声に横を見れば、今日子の背中がプラットホームに足を進めていた。
今のは、ずっと押し黙って何も言わなかった今日子の声だった、琉奈は思わずつられるように後を追った。
今日子はグレイからインカムを受け取るとその両耳にあてた。
ずっと、避けていた彼女がインカムに向かって囁く。
「勝って、きなさい……」
(、今日子さん……)
彼女がようやく加賀に向き合った瞬間だった。
勝利の女王が、弱々しくも確かにその言霊をドライバーに与える。
「最後なんでしょう?最後のレースを、貴方は負けて終わるつもりなの?
勝てるわ……貴方なら勝てるから、加賀君!」
それを聞いて、琉奈は泣いてしまいそうになった。
今日子らしい激励で、琉奈が伝えたかった事も彼女が伝えてくれた、いや彼女にしかできなかった。
彼女は加賀の事を、そして琉奈の事を少しは理解してくれたのかもしれない。
その証拠に今日子は琉奈にまでその言葉を呟いた、"勝て"という一言を。
感無量だった、まだ勝利がついていないのに救われた気がするのは何故だろう。
それは加賀も同じだったのだろうか、彼は活力を取り戻したかのように再びアスラーダを追い立て始める。
その光景をモニターで見つめて琉奈はふっと息を吐いた。
彼には今日子の支えが必要だったのだろう、彼女に応えるように凰呀が動きを鋭くさせた。
(やっぱり勝てないなぁ、今日子さんには)
だけど今は悔しくなんてない、素直に心からそう思った。
彼女は女王の名のままに君臨しているように見られるが、
その実、仲間を強く想い、時には厳しく激励して、仲間を想うあまりに脆さを見せる。
それでも最後にはドライバーの背中を押すようにして勝利へと導く。
なんて美しくて強い人だろうか、彼女に自分が敵う訳がない。
こればかりは仕方ない、だから琉奈は敬愛の意味を込めた微笑みを彼女に向けた。
凰呀がコーナーで再び勝負をかけた。
幻影のように素早く動き進路を選択するマシン、それを読み切ったかのようにアスラーダがラインを奪う。
リフティングターンを使うまでもなく凰呀を抑えられると思ったのだろうか、
だがアスラーダが防いでいたラインとは別の進路から凰呀が現れた。
「っ、前に出た!」
不意打ちを与えた凰呀がトップに躍り出た。
このまま抑えきれれば加賀の勝ちだ。
『さあファイナルラップ!しかし風見がまだ真後ろにいる、逃げ切れるか加賀!』
膨らむ期待、実況に呼応するように胸の鼓動がドクドクと激しく打ち付ける。
もうブーストを使える程の余力はない2台は、その身を削りながら先を争う。
そして最終コーナー、凰呀が進み出て、そしてアスラーダがリフティングターンで仕掛けた。
琉奈は思わず祈りを捧げていた、お願いだから彼らを勝たせて欲しいと。
あまりにも全身に力が籠もっていたせいで息が止まりそうだったが、苦しさはもはや感じなかった。
アスラーダの最強のコーナリングはこの時も最強だった。
為す術もなく凰呀の前に出られてしまうかと思いきや、凰呀が突如ブーストを使った。
「え……!?」
コーナー出口で滑りながら、無理矢理にも変形して加速する凰呀がアスラーダの一歩前に進み出て。
限界以上のブーストにエンジンから煙を上げながら、チェッカーフラッグを受けた。
「うそ……っ」
信じられない光景だった。
もう駄目だとも感じていたのに、栄光を勝ち取ったのは……加賀だった。
「や、やった……!!」
遅れてやってきた喜びに琉奈は腹の底から叫んだ。
クルー達も皆飛び出さんばかりに暴れ、今日子は泣き崩れている。
「勝った……勝ったよっ!」
感極まって琉奈も涙が溢れた。
所構わず皆と抱き締め合い、フィルにも抱きつき、言葉にならなくなってからは泣き続けた。
「ふん、よかったな。お前ぇも」
「はい……っ、グレイさん」
グレイにも肩を叩かれた。
そして琉奈は、今日子に近づいてしゃがみこんだ。
「今日子さん……」
彼女には謝っても謝り足りないほど迷惑をかけた、だけど今この時は違う言葉をかけたかった。
「……ありがとう、ございます……」
「……っ」
彼女は何も言わなかった。
だけど僅かに首を振るとその手が琉奈の服の袖に触れた。
それだけだった、だけど琉奈には十分だった。
―――凰呀が勝った。
互いに反発し合いながらも同じ目標に向かって少しずつ歩み寄り、
そして最後はドライバーとマシンの執念が勝利をもぎ取った。
人とマシンが、同じ夢を見た。
その点で言えば、"真の融合"という名雲柾の理論は確かに間違っていなかったのだ。
しかし、あれは一瞬の勝利であり、安全面やドライバーの問題から考えても、
優れているのは風見広之が提唱した"アスラーダ"の理論の方だろう。
だがこれで、名雲柾の理論が一部ではあるが認められた事になる。
あの男――執念に狂っていた名雲京志郎が求めた答えは見つけられただろう。
(柾さんのマシンは、失敗なんかじゃなかったよ……)
ここに辿り着くまでに何人もの犠牲者を出してしまったけど。
凰呀を生み出した張本人まで、絶望に苛まれるように命を絶ってしまったけれど。
それでも凰呀は、一人のドライバーを救えたのではないだろうか。
名雲柾が目指した理論そのままに勝利を掴み取れた。
たった一度だけ、それでも唯一の栄光。
(名雲さん……見てた?今度こそ、答えが出たでしょう?)
双眸から止めどなく溢れている涙もそのままに、
レース開始時に見つけた客席を見渡したが男の姿はなかった。
勝利の瞬間に吹き飛んだ闇のように、運命に囚われていたあの男も既に消えていた。
これで、もう二度と会う事はない。
あの人らしい、と琉奈は僅かに頬を緩ませた。
――そうして今此処に、加賀城太郎という新たなチャンピオンが生まれた。
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ついにここまで辿り着きました。
恐らくあと2話でSIN終わります。