――「帰らないって言ってるでしょ!?」


張り上げた声が部屋中に響き渡った。
だが電話口の向こうの人物も琉奈に負けず劣らずの怒号で鼓膜が破れそうだ。

「だーかーら!落ち着いたらまた連絡するってば!」

もう連日このやり取りだ、予想はしていたがそろそろうんざりしていた。
相手の性格も十分に承知しているし気持ちはわからないでもないが、もういい加減諦めて欲しいとも思う。

「ハヤトとあすかの結婚式の話もあるし、また近いうちに日本に帰るから!」

とにかく帰って来い、その男だけは許さないと、彼はやたらと難解言語を駆使しながら叫ぶ。

「修さん、私もう子供じゃないんだって!自分で選んで此処まで来たの!」

喧嘩仲間のような幼馴染み、菅生修は未だに琉奈を連れ戻そうと必死だった。
こめかみを押さえながら何とか冷静になろうと深呼吸をし、口を開こうとしたが。

「、あ―――」

突然背後から携帯電話を奪われ、ご丁寧に電源まで切られてしまった。
振り返れば長身の男が嫌味に笑いながら首を傾けている。

「ちょっと、何するのよ?」
「俺がいない間に男と逢い引きの約束かい?」
「はあ?何言ってんの……って、返してよ!」

手を伸ばしても男はそれ以上に大きい背丈で携帯を上に掲げる。
ヒョイヒョイと必死になって跳んでも届かない事はさらに屈辱的だ。

「ようやく仕事を終えて帰ってきたというのに、出迎えもないのか?」
「しないわよ、そんなもん。っていうかあんたに金を出してくれる会社なんて相当怪しそうだし」
「能力を買われていると言ってくれ」
「ちょっと前まで拘置所暮らしだったクセに」

会話しながら繰り広げた攻防は徒労に終わり、もういいやと諦めた琉奈は手を引っ込めて溜息をつく。
男は携帯を持ったままで器用にジャケットを脱ぎ、飄々とした態度でネクタイを緩める。
仕方ないと気を取り直した琉奈はキッチンに入り、鍋を温め直す為に火をつけた。

「君こそ何処か良いチームの目星は付けられたのかい?」
「っ……まだバタバタしてるのよ。いきなりフランスに連れて来られて荷物とか全部日本にあるし」

飛び出してきた事に後悔は今の所ないものの、日本の事を考えると頭が痛い。
何せ頭の硬い幼馴染みが琉奈の帰還を今か今かと待ち構えているのだから。

(ああ、修さん絶対怒ってるよね……でも居場所とか教えたら連れ戻されかねないし……)

「……琉奈
「な、に……っ」

またしても気が付けば男が傍にいて、片腕を掴まれたかと思うとそのまま横の壁に押しつけられ、唇さえも奪われた。
反射的に顔を逸らそうとしたが、加減のない力で熱い舌がねじ込まれる。

「俺の前で他の男の事を考えるとは、良い度胸だな」
「……何度も言ってるでしょ、修さんは兄みたいな幼馴染みだ――っ」

売り言葉に買い言葉だったが、それは最後まで言わせてもらえなかった。
顎を持ち上げられ、逃げられないままで一方的に口内を荒らされて、
時々弱い場所をくすぐられて鼻から息が抜けそうになる。

「ん……、もう……良い加減に…っ!」
「帰ってきた俺に言う台詞があるだろう?」
「……何も、ないけど?」

わかっていても、素直になりたくない。
目を細めながら見上げると、実に楽しそうな男がそこにいた。

この人は知っている、本当は自分がキスが嫌いではない事を。
そして自分も知っている、本能的にこの人には贖えない事を。

その上で男は琉奈に認めさせるように、逃げる舌を絡め取る。
どうすれば抵抗が弱まるのかを知り尽くしている捕食者は、その獰猛な牙で琉奈に噛み付く。
上顎をなぞられればそれだけで力が抜ける、そうして体の奥が波に呑まれていくような感覚を自覚する。

「ぁ…も、…や……っ」

まるで麻薬を流し込まれているようだと思う。
懐柔されたくないのに、押し戻そうとしていた手はもう男の腕を弱々しく握るだけで。

頑なに閉ざしていた心が簡単に解かれて、意地という虚勢さえも取り払われてしまう。

「っ、は……、おかえりって……言えば満足?」
「良い子だ」

そうして、ご褒美だと言わんばかりに甘いキス。
うって変わって包まれるように柔らかく舐められて、自身の体がぶるりと震えた。
喜んでいる、だからキスをされるのは嫌だったのに。

ぼんやりとしていく意識の中で、琉奈はどうしてこんな状況になったのかを思い返していた。


少し前まで、この名雲京志郎という男を憎んでいたはずだったのに――






1・解き放たれた自由






日本を発つ名雲を追って船に乗り、最終的に2人はフランスの地まで渡った。
そのまま狭くもない適度な広さの部屋を借り、一緒に住み始めた。

名雲は元々罰金を払ってくれた会社があるらしく、今はマシン開発者の腕を買われて働いている。
琉奈はかなり怪しんでいたが、それなりにきちんとしているオーナー会社のようで、名雲も一応真面目に仕事をしていた。

琉奈はというと、勢いでフランスまで来たので荷物や身辺の整理、その他諸々の手続きに時間がかかり、
ようやくそろそろ仕事を探し始められるか、という段階だった。

だが琉奈にはこの現実がまだ信じられなかった。
だってあの名雲邸でのメッセージを聞いた後、気が付けばハイネルや今日子に断りの連絡を丁重に入れ、
簡単な荷物をまとめて飛び出していたのだから。

少し前までサイバーフォーミュラで生死を賭けたレースを見守っていたというのに、
今や仕事に追われる事もなく、ゆったりとした時間が流れている。
そして名雲とはあんなに対立し合っていたのに、どういう運命の悪戯か同棲と呼べるような関係になってしまった。
嬉しくない訳ではない、だけどくすぐったくて変な感じなのだ。

名雲は心を入れ替えたかのように企みもなしに働き、そして仕事を終えれば帰ってくるのだ。
伸びていた髪も襟足を切り、随分とさっぱりして普通のサラリーマンのようになってしまった。
あれだけの騒ぎを起こした男がきちんと会社に行き、
琉奈に対しても弄ぶばかりで全く気持ちを読ませなかった男が自分のもとに帰ってくるなんて、
これは本当に現実だろうかと一瞬疑ってしまいそうになる。

嫌々ながらもそれを出迎えて、夕食の準備とかをしている自分自身も信じられない。

確かに互いの想いはぶつけあった、だけど真剣に伝え合ったのは後にも先にもあの一回だけ。
あれがあるから多少は信じていられるし、気持ちも落ち着いてはいるけれど、以前とのギャップが激しくて正直ついていけない。

(随分と遠くに来ちゃって……計画性も何もあったもんじゃないな)

女の身、たとえサイバーのトップチームで働いていた経験があってもそう簡単に仕事は見つからないだろうし、
幼馴染みは今にも飛び出さんばかりの形相で怒り狂っているし、まだ悩みの種は尽きそうにない。

「あの男だけは駄目だ!いいから戻ってこい!」その一点張り。
彼の気持ちはわからないでもないし、自分でもそうだろうなと内心思っている。

(でも……帰ろうと思う気持ちは、不思議と湧かないんだよね……)

ここで根を張って生きていこう、その決意だけは確かに存在していた。











一緒に生活していても、特に会話が弾む訳ではない。

あまり深夜にならないうちに帰ってくる名雲に夕食を用意し、食後にはコーヒーを渡す。
それと煙草を片手に男は終始パソコンで仕事に打ち込んでいる。

ソファーの対面に座った琉奈はレース雑誌をめくったり、
そんな姿をちらりと盗み見ながらカップに口をつける、というのが日常だった。

(別に何か喋りたい訳じゃないからいいけど)

無言の空間が居心地悪いならともかく、それで互いに平気らしいから良い事なのかもしれない。
名雲は仕事を念頭に置きながらも時折話しかけてくるし、
琉奈もまたテレビ等を見て呟いてはその相槌に答える、少なくとも今はそんな会話で支障ない。

琉奈にとっては、こんな1つ屋根の下でぼんやりと名雲を眺めている事だけで異常なのだ。
忙しいメカニック業から一時的に解放されているせいだろう、おかげでこんなにも時間が空いてしまって違和感を覚える。
琉奈が仕事を始めればもっと顔を合わす機会も減るのだろうが。

「私もう寝るよ」

シャワーを浴び就寝の準備を終えてリビングに顔を出す。
名雲は相変わらず画面を見つめながら手を動かしている、忙しい事だ。

「ああ、早いな」
「そりゃね、そろそろ職探しに動かなきゃいけないでしょ」
「それに関しては君の好きにすればいいさ」

この生活は悪くないが、自分は仕事がしたいのだ。
フランスに住居を構えてしまった以上、この地でできる仕事を探さなくてはならない。
何もサイバーでなくともいい、フォーミュラ系でも耐久系でもツーリングカー系でもいいのだ。
琉奈の信念に沿う素晴らしい場所であるなら。

琉奈、寝る前にこれを見てくれないか」
「……何」

パソコンを見ろという仕草に、仕方なく名雲の傍に寄り画面を覗き込む。

「新しいマシンのプログラムだ。会社の意向を取り込みつつも、革新的に設計した」
「へえ……」

マシン開発とは言うが、彼が具体的に何をしているのかは知らなかった。
正直プログラムは読み解けないが、動作スペックを確認すれば中々にバランスがいい設計だ。

「あんたにしては安定してるわねこれ。
ドライバーにもよるだろうけど、もう少し鋭い感じにしてあげても――っ」

真剣に喋っていたのに、ふいに腕を取られて唇を重ねられた。
はっとした時にはもう遅い、引き寄せられた体はがっしりと固められ。

「ん、う……っ」

不意打ちで目も閉じられないでいると、間近で楽しそうな色がじっと見つめている。
心の奥底まで見透かされるような深い闇に、思わず捕らわれそうになる。

「ちょ、……はめたわ、ね……!」

今までの会話に意味なんてなかった、こうする為だけに呼ばれたのだ。
ぬるりとした舌が琉奈を攻め立てて、騙された腹立ちすらも霧散していく。

「簡単に引っ掛かる君が悪いだろう?」
「私は真面目に喋ってたの、に……っ」
「俺が何の為に律儀に帰って来てると思っているんだ?」
「は、ぁ……、体目当て?」
「まあ、否定はしないよ」

ソファーに沈む名雲に乗りかかるように捕まった琉奈にもはや逃げ道はない。
いや、あまり逃げる気がないのだから憎らしい。

体目当てだと言われているのだから、本来なら不満を言うべきなのに。
煙草の味が琉奈の思考を溶かして、そんな事どうでもよくなってしまう。

琉奈は目の前の食えない男を睨み付け、せめていいようにされないようにと歯を食いしばった。

「良い目だね、琉奈。壊したくなる」
「……壊せるもんなら、壊してみなさいよ」
「その言葉、後悔するなよ」
「ん……っ、」

(っていうかこの人、こんなキャラだったっけ……?)

昔、付き合っていた時は義務的なキスしかされなかった。
抱かれながら交わした唇も熱なんて感じなかったのに。


――今はとても、熱い。


人を弄ぶような、おおよそ恋人とは思えないような酷い言葉の代わりに、
琉奈ですらも驚くぐらいに触れ合った場所から何かが流れ込んでくる。

この濁流は何なのだろうかと時々思う、いや、本当はわかっているから拒否できない。
これはきっと、言葉にならない彼の心の声。


――もしかしなくても私は、溺れている。


求められている、それだけで喜びを感じている自分はもう病気だ。
だけど、そんな事は知られたくないから。

「私は、あんたの思い通りにはならない、からね……っ」

そうやって、いつまで経っても虚勢を張る。











「それじゃ、行ってくるよ」
「あーはいはい」

そっけなく追い出せば、名雲はふっと笑ってドアの向こうに消えた。
朝日を背負いながら出勤するなんて本当に似合わない。

「……行ってらっしゃいなんて言わないわよ、馬鹿」

言ってやりたくない、言ったらそれこそバカップルみたいじゃないか。
だから絶対言ってやらないと、ドアという壁に呟いた。

「……さてと、私も早く仕事見つけないとね。腕が鈍る」

だるい体を目覚めさせるように伸びをして、琉奈は自室にある写真立てを振り返る。
名雲はあまり気に入らないらしく、時々伏せられるという悪戯をされてしまうそれ。

大切な家族達やかけがえのない仲間、そして何よりも愛してやまない蒼穹のマシン。
形見と夢、そして過去と希望まで詰まった尊い宝物。

眩しい彼らにふわりと笑いかけると、琉奈は異国の街へ飛び出した。


どうかこの先、光が溢れるような未来が待っていますように、そう太陽に願いながら。











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こ、こんなに甘くする予定じゃなかったんですが…貴重なサービス回に(汗)

ここからはフランスでの生活を掻い摘んで書いていきます。
部屋は、日本で言うマンションのような所に住んでいると思って下さい。

とにかく名雲さんが別人…だけどせっかくだから甘めにもしたい。
今までの反動が凄い。