「すまないが迎えに来てくれないだろうか?」
「ええ?」
かかってくる予定のなかった携帯電話が鳴ったかと思えば、
名雲はいつもの調子でそう言った。
「予定外に酒を飲む事になってしまってね」
今日は車で仕事に向かったはずだし、飲んで帰ってくるとも聞いていない。
夕食だっていつでも仕上げられるようにと下拵えまで出来ているのに、遅いなと思ったらこれか。
だったら早く言えとか、何で私が迎えに行ってやらなければならないのかとか、
電車なりタクシーなりで帰って来ればいいじゃないかとか、いっそ会社で泊まれば、
なんて思いつく限りの悪態が喉元まででかかった。
だが、悔しくも今の琉奈は職探し中の身だ。
暇人と社会人どちらに分があるかと聞かれれば恐らく社会人だろう。
ちなみに名誉の為に言っておくが、琉奈はそれなりに蓄えがあるので、
家賃その他諸々はちゃんと分割しているから名雲に食べさせてもらっている訳ではない。
そして明日は休日、泊まらせるのも何となく気が引ける。
だから琉奈は長い沈黙を置いて溜息をわざとらしく吐いた。
「……私のバイクの後ろでいいなら」
「構わないさ」
そうして琉奈は名雲の珍しいお願い事を叶えてやるために、重い腰を上げて部屋を出た。
4・真冬に触れた融点
指定された場所はビルが立ち並ぶビジネス街から少しだけ離れた、大通りから脇に入った交差点だった。
琉奈も知っている目印のある所で待っているというので、芯まで凍るような冬の寒さを堪えて愛車を走らせる。
やはりいくら防寒していても、この時期の深夜の走行は辛い。
これでもしもヘルメットがなければ、吹き荒ぶ風が針のように顔面を刺していただろう。
(寒い……)
こうなればありったけの嫌味を酔っぱらいに投げ付けて、温かいコーヒーにたっぷりのミルクを入れて飲もう。
深夜だから流石に砂糖は入れられないけど、そこは我慢するしかない。
もう少しで目的地に着くという所で、うっすらと遠目に見えた見慣れた背中。
だが他にも数人の取り巻きのような集団がいるのも視界に入ってしまい、琉奈は焦った。
(他に人がいるなんて聞いてないですけど!)
きっと迎えを待つ名雲を気遣って一緒に待ってくれているのだろうが、
あんな場所にノコノコ出向けば"名雲の恋人"として取り囲まれるに決まっている。
やれどんな人物だと好奇の目に晒され、琉奈は"恋人"として失礼にならない程度の挨拶をしなければならないのだ。
そんなのは断じて御免だ、そもそも恋人なんていう括りで見られるのがどうしても耐えられない。
琉奈は慌ててスピードを緩め、少し離れた車道の隅にバイクを停めた。
ヘルメットを外さなくても名雲なら見つけられるであろう、絶妙な距離。
名雲は未だに取り巻き達――恐らく開発チームの仲間という所だろう――と何かを喋っている。
彼は協調性があまりなさそうな飄々とした性格だが、それなりに仲間達とは打ち解けているようだった。
若くて将来性がありそうな青年が何かを熱弁して、それに楽しそうにはしゃぐ仲間、その少しだけ外側で薄く笑っている男。
友達なんていなさそうな一匹狼があの輪に入っているというのは何とも奇妙な光景だ。
今までの彼とはかけ離れたごく普通のやり取りは、どちらかというと感嘆に近い気持ちを抱かせた。
(何だ……楽しそうにしてるじゃない)
心を入れ替えたらしい男が日頃どんな風に仕事をしているのかは興味半分、不安半分でいた琉奈。
また怪しいプロジェクトでも始めたらどうしようと全く思わない訳ではなかったから、
向こうから教えてくれる以外はあまり聞こうとはしなかった。
いや、昔も真実を知ろうとしなかったから後悔の残る事をしてしまったけれど、
此方は自分で仕事を探すから向こうは勝手にやってくれという、
互いに干渉しない割り切った関係にしたい意識が今回は働いていたように思う。
そうすれば万が一のことがあっても、さっさと別れて切り捨てられるから。
だけど、杞憂だったのかもしれない。
当たり前の健全な日常、それに何だか安心してしまった。
だが、次の光景には流石に驚いてしまった。
同じ仲間なのだろう女性達が、遠慮なしに名雲の肩を叩いたりして笑っているから。
しかもその距離感が幾分か近い気がするのだ。
思えば、あの男の周囲に女がいる絵なんて未だかつて見た事があるだろうか。
アオイの社長としてサーキットに現れていた頃は、片棒を担いでいた部下以外は誰も近寄らなかったように思う。
騙されて付き合っていた時だって、他の女と親しくしている様子もなかった。
第一、あの男はどちらかというと近寄りがたい人間であったはずだ。
何を考えているかわからない、人を食ったような口調、間違っても好感が持てる人柄ではなかった。
その話術で女達を口説いて歩く事もできるだろうが、そうかもしれない私生活は考えたくもない。
フランスに来てから彼は牙のとれた獣のようになった、丸くなったのだろう。
だから誰でも気軽に話しかけられるようになったのかもしれないが。
(……あの人が前科持ちってわかってるんだろうか)
あの事件はサイバーに関わる人間ならもちろん、一般人でもニュースで事件の事くらいは聞いたことがあるだろう。
それくらい当時は話題になったのだ。
それが名雲だとは結びつかないかもしれないが、そもそも事件の当事者だと知りながら名雲を引き入れたのは会社側だ。
仲間達も知らないままではいられないはずだ、そうすると全くもって理解できない。
一筋縄ではいかない、逮捕歴のある男だ。
その辺にいる男のように接したって何も得などないのに。
(近づいて喰われても知らないよ)
そんな言葉を心の中で投げかけながら悶々としていると、ふいに名雲が道路をぐるりと見渡して、琉奈を視界に捉えた。
そして仲間達に別れを告げるように手を挙げて、トレンチコートを翻して此方へと歩いてくる。
琉奈はさっさとエンジンをかけると、道路の流れを見つめる。
「すまないね、わざわざ」
「別に」
ビジネスバッグを二人で挟み込むようにしながら、器用にトレンチコートでバイクに跨る。
「ヘルメットないから、これならあるけど」
「ああ、助かる」
自分が被っているもの以外のヘルメットもない事はないのだが、あれは駄目だ。
あれは昔、ハヤトを後ろに乗せる為に買ったのだから。
使用頻度は少なかったけど、今でも大事にしまってあるものだ。
ましてやこの男の為にあれを出すなど琉奈にとっては以ての外。
だから代わりのゴーグルを渡すと、名雲は素直に受け取って装着した。
目は守れるが、その周囲は寒いだろうなとは思ったが、これも仕返しの一部だからまぁ気にしない事にする。
低いエンジン音を唸らせて、街灯と電飾が散りばめられた夜のビル街を突き抜ける。
特に会話はなかった。
もっと名雲から言い訳のようなものを聞かされるかと思ったがそれもなく、
また琉奈も言いたい事がいっぱいあったはずなのに何故か言葉にならなかった。
そもそもバイクの走行中にのんびり会話などできない。
会話があったとすれば、「変な所触ったら振り落とすから」とつっけんどんに言い放った琉奈に、
「それは勘弁してもらいたいな」という飄々とした返事があったぐらい。
背中は硬い鞄の感触だったけど、腹部に回された腕がくすぐったい。
意味のある触り方などされていないのに、そんな気がしてならない。
端から見れば、自分達はどのように映っているのだろう。
バイクを運転する女の後ろにサラリーマンが乗せられているのは、きっと妙な取り合わせになっている事だろう。
「……今度からもっと早く言ってよ」
信号待ちで手持ち無沙汰になった琉奈はそう口を開いた。
連絡をくれていれば、夕食だって準備する必要なかったのだから。
「何分急だったものでね。ああ、夕食はきちんと食べるからそこは心配しないでいい」
「あ、そう……よく食べるわね」
どうやら本当に酒だけで盛り上がっていたらしい。
まあ準備した夕食が無駄にならないのは有り難いからよしとしよう。
腹に響く音でまた会話は途切れる。
それをBGMにしながら流していると、ふいに名雲の腕の拘束が強くなる。
痛い訳ではないがキュッと締められたかと思えば、肩には彼の額が乗せられた。
硬いビジネスバッグの感触を除けば、後ろから抱き締められている体勢だった。
(寒い、とか?いやまさか……)
何かを言う事もなく、悪戯をするでもなく、すり寄られているという言い方が正しい気がする。
そこには色事の気配もなく、ただただしがみつかれているような。
こんな彼は珍しい、いや初めてだと言っても過言ではない。
こんな、何の企みも思惑も感じられない触り方なんて。
(何か、変だ……)
彼は本心を出さない、出せない性格なのだとはもうわかっている。
だけど全く"自身"を見せない訳ではない、普通の人間よりもその表現が希薄すぎるだけで表情にも出すし、
琴線に触れれば言葉にだって出す。
だからこんな不思議な抱き寄せ方をするという事に、全く意味がないという事はない。
何かしらの感情が僅かに表に出た結果である気がするのだ。
だから、思わず聞いてしまった。
「……何かあったの?」
すぐに返事はなかったが、意外と的外れでもなかったのだろう。
腕の力が少しだけ強まって、それから首の後ろからクスリと笑む声がした。
当たりだな、そう思いながらも本音が出しづらい男の為に辛抱強く待ってやると。
「……チームのプロジェクトが、採用される事になった」
「……うん」
彼にしてはやはり珍しく、はっきりとした諭す口調ではなく、ただ呟くような声色。
唐突な内容だったから全て理解はできなかったが、とりあえず相槌をうってみる。
「元々あった開発チームに途中から参入する形ではあるが、
俺の持ち込んだプログラムが多く取り入れられている」
「それは……要は、認められたって事?」
「……そういう事になるな」
言葉少なではあるが、つまりは彼のプログラムが使われたプロジェクトが評価されたという事なのだろう。
彼が今の会社に引き入れられたのはつい1、2ヶ月前の事で、随分早い成果だなとは思ったが、
まあ凄い事なんだろうとは朧気ながらもわかった。
採用されたというのは、きっと次期マシンのシステムを構成するプログラムなのだろう。
彼の会社の詳しい部分を琉奈はよく知らなかったが、あの仲間達を見る限り、
純粋に彼の能力を買っていたのかもしれない。
「そう……よかったじゃない」
琉奈の口振りはそっけなくなってしまったが、内心では感慨深いものを感じていた。
彼にとって、邪心なく純粋に自分の努力を評価されたのはもしかしたら初めてかもしれないからだ。
不運だったとしか言いようがない不幸の連続と、兄の呪縛に縛られた彼は、
そのねじ曲がった執念のまま生きてきた。
それを清算して、新しく一から始める気になった彼にとっては、喜びもひとしおなのだろう。
そう、世間ではごく当たり前で、"喜び"なんて大袈裟な言葉にする程の事ではないかもしれないが、
認められる事を知らなかった彼と彼の家族にとっては、大きな前進であっただろう。
今日の酒の席はきっとその祝宴、そしてそれ故の名雲の奇妙な態度。
この抱き締められている体勢が、嬉しさの表れだとしたら。
(何て、わかりにくい人)
聞かなければ、そんな事があったなんて知り得なかっただろう。
こうやって態度に出てしまうほど喜んでいるのに、それを大手を振って他人に伝えられないなんて。
「……ちゃんと真っ当に生きてれば、認めてくれる人はいるものでしょ?」
ヘルメットがあったよかったと思った。
今、琉奈の顔はきっと緩んでいるだろうから。
「その成功もそうだけど、さっきの人達、同じチームの人なんでしょ?
あの人達も全部自分で得たものだって、わかってる?」
かつて彼は言った。
勝たなければ最高のチームとマシン、クルーは集まらない。
まず始めに勝つ事が絶対条件だと。
だけど今回の成功はそれに当てはまらない。
名雲が自力で努力をして、良い仲間に出会えて、1つのものを作り上げた、だからこその評価だったはずだ。
前科持ちの彼を信頼して、仲間だと認識してくれているからこそのあの気安さなのだろう。
それは、始めに勝利――成功があったのではない。
仲間と呼べる人達と出会う道を選んだのも、掴み取った"勝利"も、全て彼自身によるものだった。
「みんなで1つのものを達成させるって、嬉しいものなんだよ。それに自分がかなり貢献できていたら尚更ね。
言葉にすると安っぽくなるけど、実際は言葉なんかでは表現できないぐらい不思議な気分になる。
あんたも、味わっちゃったみたいだからもう抜け出せないかもね」
私みたいに、と茶化すように言った琉奈への返事はなかったが、特に気にしない。
人生はレースのようなものだ。いや、勝てる人間が限られている分、レースの方が過酷かもしれない。
あの、レースで優勝した時の高揚感は味わった者にしかわからないように、
本当に望んでいた成功を勝ち取った人間の悦びも計り知れないものだろう。
だけどどちらにも共通して言える事は、もう"それ"なしでは生きられないという事。
いや、何もチャンピオンのような多大なる栄光でなくてもいいのだ。
人生におけるささやかな悦び、それを積み重ねられる事が幸せに繋がるのではないだろうか。
その小さな"ゴール"を感じられるようになったのなら、もう道を間違えたりはしないと思う。
「そりゃ時々は辛い事だってあるしどん底もあるかもしれないけど、また頑張ればいいのよ。
初めは誰だって何も持っていない。偶然とか運命で成功する人もいるけど、自力でだって成功できる。
少しずつでも生き抜いていけば、何にだって勝てる。だから……よかったわね」
あんたはもう、ちゃんと生きていける。
そう言葉にしても、背後の男は終始何も言わなかった。
意地の悪い言葉や、からかう言葉はスラスラ出てくるのにこういう時の名雲は決まって黙り込む。
上手い口上が見つからないのか、本心を悟られまいとする防御なのかはわからないが。
だけど、触れ合った部分が何だかじんわりと温かくなっていると思うのは、気のせいだろうか。
長い長い沈黙、もう会話は終了したかと思えるぐらいの時間。
家路へと向かう道をさして速くもない速度で流している、そのふとした時に。
「……時々、君が怖いと感じるよ」
「何で」
「いや、君がいてよかったという事さ」
さらりと凄い事を言われた気がして、琉奈は言葉を失った。
そもそもこの件に関しては琉奈は関与していない。
何か勝手にマシンデザインしてるな、そう思っていた程度だ。
アドバイスらしき事もしたことがないのにどうしてそういった発言になるのだろう。
酔っぱらっているのかもしれない、今度は琉奈が上手い切り返しを思いつけなくて、
とりあえず流れるライトばかりを見つめた。
「……意味わかんない」
いや、言葉の半分程度は何となくわかる。
とりあえずお礼を言われたんだなと、それだけはわかった。
だけどやっぱり、わかりにくい人だ。
そして自分も、素直になれない性格だった。
自宅に辿り着き、バイクを駐車させて玄関へと歩きながら。
琉奈はあのまま途切れていた会話の事をずっと考えていた。
鍵を差し込みつつ、ふと思いついた事をからかい混じりに呟いてみる。
「でも、あの人達がいるんだったら別に私いなくてもよかったかもね?」
勢いでフランスまで付いてきたが、琉奈がいなかったとしても名雲は会社で仲間達と出会い、
今日のように成功を生み出す事ができただろう。
あの仲間達がいるのなら彼はきっと穏やかに、充実して生きていけるだろう。
君がいてよかった、という台詞が本音か冗談かはわからないが、琉奈は本当に何もしていない。
「仲良くできそうな女の人達だっていたし、私いない方が好きにやれるんじゃない?」
こんな過去も何もかも知っている女より、名雲の"普通の部分"だけ知っている女性の方が案外上手くやれるのではないか。
そう笑って部屋に足を踏み入れた琉奈だったが、突如腕を引っ張られ玄関脇の壁に押しつけられた。
いきなりの衝撃に琉奈は思わず眉を顰めながら睨み付けたが、かなり強く肩を掴みながら男は笑う。
「それでも逃がしてやらないよ、残念ながらね」
「…………」
「この俺が自分の持ち物を手放すと思うかい?」
不敵な笑み、一歩間違えれば狂気じみた力と目。
言いたい事も文句も色々あったけど、何故だか黙り込んでしまった。
表情はこんなにも危険な色をにじませているというのに、彼の言葉はつまり。
"自分の持ち物"、言い換えれば"彼が得られた物"の中に琉奈も含まれているという事なのだろうか。
普段だったら怒って噛み付いている所だけど、今日の彼はいつもより嬉しそうに見えるから。
「君以外に、誰が俺を平手打ちにできるというんだ?」
(……平手打ち、して欲しいの?)
それについても反論しようと思えばできた。
だけど、次に降りてきた唇と指先が、言葉以上に優しくて。
また呑み込まれていく、この危なくも不器用な男に。
まあいいか、そんな風に思ってしまう琉奈はもう既に抜け出せなくなっていた。
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あまりフランスっぽくないけど、こんな日常書いてみたかったのです。
平手打ちしてくれる人がいい=ヒロインがいい。
わかりにくい表現。