第18回大会――2023年の新たなチャンピオンシップ。
生死すらも賭けた最高峰のレース、サイバーフォーミュラは変わらず今年も始まっている。

ピットのシャッターが開き、ドライバーとマシンが光に導かれるように歩き出す。
何回も見送ってきたその眩しいばかりの背中を、今日は観客席から出迎える。

いくらサイバーから離れたといっても愛着が薄れるなんていう事はなく。
開幕戦からずっとテレビで噛り付くように見ていたが、久しぶりに生で見る光景に言い知れぬ感動を覚えた。
隣には元犯罪者の男が、何を考えているかわからない涼しい顔で静かにサーキットを見下ろしている。

琉奈と名雲がサイバーに対して抱える複雑な感情や、お互いの変な関係性はさておき。
好きなものを並んで観戦するカップルのように周りからは見えるのだろうなと思うと、無性にむず痒くなる。

「しかしまた、何でサイバーなのよ」
「おや、お気に召さなかったかな?君には此処が一番喜ぶと思ったんだが」
「…………」

エンジンの爆音とそれに勝るとも劣らない歓声に会話すらままならないが、
隣に聞こえる声で呟くと名雲は、わかっているのに意外そうな顔をして此方を見た。

数日前、どういう風の吹き回しか突然「今度の週末、たまには何処か行かないか」なんて言ってきた男。
日用品の買い物などに付き合わせた事は何度もあるが、いわゆる"恋人らしい外出"はした事がなかった。
もしかしなくてもそれはデートと呼ばれる類のものではないか、
しかもこの男からそんな誘いをかけてくるなんてと、琉奈は様々な驚愕が重なってしばらく返事すらできなかった。

結局目的地も教えられずに車に乗せられたが、何だか見覚えのある風景になってきた所でまさかと思った。
この男が珍しい事をするものだからリアルタイムでの視聴を諦めて録画予約をしてきたから、考えなくとも確か今日はフランスGPの日だった。

それでも信じられなくて弾かれたように運転席を振り返ると、男がクスリと笑いながらチケットをチラつかせたのだ。
してやられたと、琉奈は認めざるを得なかった。
見透かされているのはやはり気恥ずかしい。
とは言っても、あれだけテレビ放送に夢中になっていたら誰にでもバレるだろうとも思うが。

いや、そもそも問題はそこではない。
この男がそれを見て実際に連れてくるような甲斐性があるなんて思いもしなかった。

「君ならテレビで見なくとも、伝手ぐらいいくらでもあるだろうに」
「勝手に辞めたのにレースは見たいからチケット回してくれって?どうしても見たかったら自力で取るわよ」

それは流石に虫がいいというものだし、そうしようと思った事もない。
ふん、と一喝するように言えば、名雲は大袈裟に声のトーンを落とした。

「そうか……せっかく満足してもらえるかと思ったが、余計な事だったかな」
「……満足してないなんて言ってない」

むしろ、これ以上ないほど楽しんでいる。
何故今まで直接行かなかったのかと自問するくらいには、生の感触に震えている。
可愛げがない事を言ったとは自覚していた。
何だかわざとらしい所があるが、琉奈を喜ばせる為に連れてきてくれた事は確かなのだろう。

サイバーを見られた事も嬉しい。
だけどそれ以上に、名雲がそうしてくれた事が何よりも嬉しくて。

だから、とてつもなく言いにくくても本当は言わなくてはならないのだ。

「……り、がと」
「何か言ったかい?聞こえない」
「っ、何でもないわよ!」

いくら相手が前科者であっても礼だけは言わなければならないと、
名雲に対すると素直な言葉を口に出せなくなってしまう自身の性格を振り絞って、
喧騒に掻き消えるほどの声量であったが、どもるように呟いた。

首を傾げる男に居た堪れなくなって、琉奈は真っ赤な顔で誤魔化した。
だがその反面、穏やかな笑みを僅かに浮かべていたから、どうやら聞こえていたらしい。
もしくは、単語は聞こえなかったが琉奈の態度で読み取ったのかもしれない。

「君は本当に、可愛いね」
「はあ!?」

自分でもそれはないだろうと思った。
何を言っているのだと半ば憤慨しながら隣を振り返ったが、
思いの外楽しそうな表情がそこにあって、すぐにグルリと視線をサーキットに戻した。
聞き間違いだろうか、そうであってほしい。

(何なの!?)

可愛くしたつもりは一切ないのにどういう神経をしているのか。
意味がわからない。調子が狂う。
もうこれ以上名雲の事を考えるのはよそうと、 琉奈は風で頬を冷やすようにしながら、
レースに集中する為に路面を凝視した。

やがて無理矢理見ようとしなくても、ひとたびマシンの事を考えれば意識はそちらに攫われていく。
目の前を、時速600キロを超えたマシンが爆音と共に突き抜ける。
その一瞬後に吹き飛ばされそうな突風が舞い上がる、その疾走感が堪らない。

周回を重ねるごとに激化して、変動する順位。
見慣れたマシン達は自身の様々なものを背負ってエンジンを唸らせる。

(アンリ……頑張ってるね)

今期からスゴウにブーツホルツが移籍する事を知った時は琉奈もかなり衝撃を受けた。
彼は最年長のベテランだが、劣らない熟年の技を持っている人だ。
その彼がトップチームのマシンに乗るとどうなるか、それは上位に食い込んでいる今の状況が物語っている。
オーナーの修とも旧知の仲なので、意外と面白いチームになっていそうだ。

そしてトレードでアンリがミッシングリンクに移籍になった。
チャンピオンになって以降、目立った活躍が見られなくなってしまったが彼は彼で何とかやっているようだ。
チームメイトのレオンとも子供じみた喧嘩ばかりしているらしいが、逆に言えば感情的になれるのは素敵な事だと思う。
憎しみとは違う、良いライバル心を持てばまた優勝も目指せるだろう。
上位に置いて行かれたくないとばかりに追いかけるアンリのマシンは、とても綺麗に見えた。

アオイもまた、引退した加賀の代わりに新人が入った。
まだまだ若くて粗があるがかなりの腕を持っているらしい。
その若さがかつてのハヤトのようで、何だか懐かしさを感じるから好きだ。
アオイの看板ドライバーに返り咲いた新条も、もう勝てないと揶揄されない貫禄を持っていた。

シュトルムツェンダーのルイザも相変わらず精密な走りを見せていた。
移籍する前の、グーデリアンとのカートバトルがもう昔の事のように思える。
今では(というか以前から疎外する雰囲気ではなかったが)もう、チームメイトとして認められて立派なトップドライバーの一員だ。

(何か……変わったな)

少ししか離れていないのにそう感じるのは久しぶりの新人に、さらに二人目の女性ドライバーがデビューしたからだろうか。
新たな風が変化をもたらす、それは素晴らしい事だけれど少し寂しい気もした。

そして、一際異彩を放って琉奈の目に飛び込んでくるサファイアブルーのマシン。
誰も寄せ付けない強さを見せつけ先頭を走るアスラーダと、弟のようなハヤト。
新たなライバル達に何度もその位置を奪われそうになるが、そのたびに死守して後車に背中を向ける。


――アスラーダと見ていると、どうしてだろう……いつも切なくなる。


形見であり、憧れであり、過ちであり、名雲兄弟を狂わせたもの。
様々な感情がごちゃ混ぜになって、結局は羨望の眼差しで見つめてしまう唯一のマシン。
一度はあれをこの手でセットアップしていたのだと思うと、何だか不思議な気分だ。

「何か……夢みたいだったな……」

スゴウのピットに立ち、入ってくるアスラーダのタイヤを一瞬にして交換する。
あの場に確かに自分もいたのだけれど、その時は必死でやっていたから、離れてみるとあっという間だったなと感じる。
辞めた事を後悔してはいないが、あそこは本当に、夢のような場所だった。

「……人は簡単には変わらない。君が過去を捨てきれなかったように、望みもそう易々と手放せられない」
「どういう、意味?」

ポツリと漏らしたはずの独り言が聞こえていたらしい彼は、少し真剣な眼差しでレースを見つめながら答えた。

言っている事が何となくわかるようで、やはりわからない。
そして意図を訊ねても、彼は確信に触れようとせずにはぐらかして教えてくれなかった。

「それに、あの幼馴染のオーナーとやらは君にとても甘いようだからね。君が本気で望めば、戻れると思うが」
「……それは、スゴウに戻れって事?」
「好きにすればいいと言っているんだ。君の望みを、他人が強制させる事はできない」
「…………」

いや戻らないわよ、と反論する事は簡単だった。
自分の思う通りに仕向けた経験のある人間が何を今更と、そう言う事もできた。
だけど珍しく人を小馬鹿にした態度を消し去った表情に、琉奈は口を閉ざしてサーキットを見下ろした。

栄光のサイバーフォーミュラ、そこは確かに至上の世界であった。

「だが……君はあの場所が一番、似合っていた」
「…………」

その言葉自体はとても心に響くものだった。
だけどいつもとは何かが違う口調に、琉奈はチラリと隣を覗き見た。
素っ気ないというか、どこか不機嫌だと感じたのは気のせいだろうか。

「何か……怒ってる?」
「さあ?」

名雲が此方を振り返った時には、もう違和感は笑みの奥に消されていた。
それ以上言う事はないと口を閉ざされてしまって、その話題は途切れてしまった。

何となく腑に落ちない気分で溜息をついた。
戦いの風は、そんな琉奈のモヤモヤまでは吹き飛ばしてはくれなかった。






6・共鳴する風の行方






エンジンの甲高い音が腹部を響かせ、鼓膜を揺さぶる。
観客席にまで届くそれが、いい音と衝動だと思った。

摩擦で溶けたタイヤのゴムの匂い、それから油だったり独特な排気の匂いが風に乗って流れてくる。
慣れたそれに懐かしさすら感じ、落ち着いた気持ちになる女なんて本当に少ないだろうなと琉奈は内心で笑う。

少し小振りのフォーミュラカーがコーナーでライバルを抜こうと攻防を続けている。
人によっては雑音にしかならない勝負の音をBGMにしながら、溜息を一つ落とす。

先日、フランスGPを見終わってから久しぶりにリサとルイザにメールを打った。
二人をこの目で見ていたよ、と。
そしたらすぐにリサから電話がかかってきて、三人で会う事になった。

連絡をほとんどしない琉奈に、リサは半ば拗ねながらも喜んでくれた。
ルイザとも近況なんてのを報告しあい、やはり恋愛話にもなった。

前回会ったのはハヤトとあすかの結婚式の時だが、それからも変わらず応援すると二人は言ってくれた。
名雲の事を純粋な眼差しで応援されると何だか複雑だったが素直に頷いておいた。
ルイザの女性ならではのレースの苦労話や、
グーデリアンとの小競り合い(彼が一方的にちょっかいをかけてくるだけだが)を聞いたりして、とても楽しい時間だった。

だが話はそれだけではなかった。
リサが、ある人と話をして欲しいと言い携帯電話を差し出してきた。
おもむろにそれを受け取ると、相手はまさかのハイネルだった。
どうやらリサが、琉奈が今フリーだという事を伝えたらしく、それならとハイネルが再びにチームに誘ってくれたのだ。

それを聞かされた瞬間、琉奈は恐縮するしかなかった。
一度は断ってしまったのにそれでも琉奈を欲してくれるなんてと、嬉しいと思う以上に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
普通ならば、有り得ない。
自分はそんなにも必要とされるほど腕がある訳でもないのに。

「小耳に挟む程度で構わない、こちらはいつでも歓迎する」

ただの世間話のようなものだと彼は軽く言っていたが、サイバーを目指す世のメカニックが聞いたら卒倒するような勧誘だ。

何て、幸せな事だろうと思った。
サイバーのようなトップクラスのレースに、しかも二度も断ったとしたら流石にメカニック精神が廃ると思ったが、
それを負担に思わせない程度に彼は何気ない口調で続ける。

「その……今は恋人と一緒に住んでいる、と聞いたが」
「えっ?……あ……はい、そうです」

ゴホンと咳払いをしながらの質問に琉奈は自身の顔が熱くなっている事を自覚した。
恥ずかしくて叫んでしまいたいが、ハイネルに対してそうする訳にもいかなくて素直に認めたら、さらに恥ずかしくなった。

「せっかく一緒になれたのに、また離れてしまう事が気がかりかもしれないが……」
「…………」

彼はその"恋人"が名雲である事を知らないらしい。
流石のリサもそこまでは言わなかったようだ。

(いや、別に言ってもいいんだけどね、今更……)

ハイネルは、琉奈がサイバーに復帰する事で長く家を空けてしまう事を心配しているのではないかと思っている。
サイバーのチームに所属すれば世界中を飛び回らなくてはいけなくなるし、
本拠地のドイツで長く滞在しなくてはいけなくなり、フランスに帰ってくるのは本当に僅かしかできなくなる。

「君がなるべく家に帰れるように、善処しよう」

なんていう特別待遇だ、有り得ないほどの。

実際、そこに関してはあまり心配していない。
今は職もなくて頻繁に顔を合わせているが、元々そういうスタンスでやっていくつもりはなかったし、
一緒にいたからといって特に会話が多い訳でもないからそんな関係でもないだろうと思う。

琉奈が何日も家を空けても名雲は変わらず仕事をしていくだろうし、
時々帰ってきても「ああ、帰ってきてたのか」とか何でもないような顔をするぐらいだと思う。
食事だって、今まで外食なんかで済ませていたらしいから、特に問題はない。

「……どうして、そこまで。私にはそんなにも腕が立つ訳ではありませんし、
体力にいたっては男性よりも劣るはずです」

ハイネルが親しいからと言って贔屓するような人間ではない。
チームの利益などを客観的に判断した上での事だろうとはわかっているが、
自分に絶大な自信がある訳でもない琉奈はそれらが疑問だった。
以前にも同じことを訊ねたが、どうしても気になってしまうのだ。
だが彼は、何でもないという風に電話越しに笑った。

「君はマシンに対して並々ならぬ熱意を持っているようだな、それがマシンにしっかりと反映されている。
君の正確さとマシンを愛するからこその判断力は私のチームと相性が合うと確信している。
それを抜きにしても、スゴウやアオイを経験している人間は喉から手が出る程に戦力になる存在だ。
それから、女性であるからこそルイザのサポートができるのではないかとも考えた。
これだけ言えば、君は満足してもらえるか?」
「…………」

すぐには言葉が出なかった。
そこまで信用されている、メカニックとしてこんなにも幸せな事なんてないと思った。

考えさせて欲しいと電話を切り今に至っているが、ずっとぼんやりして頭が回らない。
自分はどうしたいのだろう、何がしたいのだろう。
それを考えながら、眼下のフォーミュラ・ルノーのレースを眺めている。

(私は、何がしたいんだろう……)

何もかも投げ出して名雲を追いかけた。
サイバーを辞めた事もフランスに来た事も後悔はしていないが、 何もしないで名雲の世話だけしているつもりは始めからなかった。
現地でまた仕事を見つければいいか、そう短絡的に考えていた。

どんな現場でもいいと思ってはいるけど、選べる選択肢がいくつかあったとして、
どれがしたいかと考えると自分でもよくわからなくなる。

サイバーが最高の舞台であり好きな事も変わりない。
アスラーダは今でも一番に愛しているマシンだし、
シュトルムツェンダーでルイザのサポートをして優勝を目指してみたいとも思う。
だけど自分の経験やコネを抜きにして、一から初めてみたいと思った事も嘘ではない。

今は本当に、気持ちがニュートラルな状態だった。
新たな夢を、どこでなら見つけられるのだろうか。

(あ、優勝した……)

動きを見て、勝つだろうなと予想していたドライバーが勝った。
二番手のドライバーも最後の最後まで競り合っていたが、悔しそうにしながらも優勝者を労っている。

誰かが必ず手にする悦びの瞬間。
逆に多くの人間が味わう、悔しさの影。
勝てた時はこれ以上ない程に嬉しくて、負けた時は次こそは勝ちたいと一心に願う場所。

正と負、表裏一体の思考が渦巻くサーキットを幾度となく見てきたが、何回見ても惹き込まれるものがある。
そして一度でも勝利を味わえば、もう抜け出せない。
そんな場所に身を置きたい、そして一緒に高みへと昇りたいのだ。
どれを選んだらいいのかわからないなんて、何て贅沢な悩みだろう。

「――君がここ最近飛び込みで来ているという女性か?」
「え……っあ、はい!」

突然声をかけられ、振り返ると年配の男性が立っていた。
一瞬戸惑ったのは、誰だかわからなかったのではなく、まさかという気持ちが強かったから。
その人物が、雇ってもらおうと足蹴なく通っていたチームの一つの監督だと気付いて、
琉奈は飛び上がって直立不動になる。

いつもはメカニック部のチーフに直談判をしていたから、目にした事はあるが実際対面したのは初めてだ。
さっきまで表彰式をやっていたチーム――惜しくも負けて二番手になったチームの方だ――の人間が何故此処に。

「どうだったかな、ウチの走りは。ずっと見ていたのだろう?」
「……はい」

好奇心を全面に出しながら温和な態度でやってきた監督は値踏みするような、
試すような目で琉奈を見据えた後にサーキットを見下ろす。

さっきまでの喧騒が嘘のように、そこはもう静まり返っている。

「……思った事を、言ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、聞こうか」

さらり、と焼けるコンクリートの匂いが混じった風が吹き抜ける。
琉奈はすっと顔を上げた。

「あのドライバーはハンドリングのタイミングが若干早いように見えたので、
フロントのトー角を少しだけイン側に戻した方がアンダーで曲がれると思います」

見ていて気になった点を素直に告げた。
早めのハンドリングはドライバーの性格なのだろう、それにマシンが反応して曲がりすぎている気がするのだ。
だから少しだけ曲がりにくくすればコーナーでのバランスが安定して、
コーナー出口での速度も稼げてもう少し速く走れるかもしれない。
試してみないとわからないが、良くなる可能性はある。

と、そこまで考えて少しはっきり言いすぎたかもしれないと思った。
もしかしたら指摘されて怒るかもしれないと身構えたが、しばらく目を見張っていた監督はふっと笑って見せた。

「……面白い、君の話をもう少し聞かせてもらおうか」

未来の選択肢が、また一つ目の前に広がった音がした。











Back Top Next



さて、そろそろ本当にラストに近づいてます。
あと2話ほどで終わります。