「戻ってこい」―――


その言葉を聞かされた瞬間、世界から音が消えたように思えた。

心の底から望んでいた訳ではなかった。
いや、もう本当の所は自分でもよくわからない。
それでもこんなにも衝撃を受けるという事は、やはり未練があるのだろうか。

ハヤトとあすかの結婚式の日に喧嘩して以来の幼馴染みが、恐ろしく真剣な表情で此方を見つめている。
フランス移住直後の電話攻撃がなくなってからの、久しぶりの電話だった。
「話がある」と静かな口調で言われ、どうせロクな話題じゃないんだろうなと思いつつも渋々了承して、
待ち合わせたフランス郊外のカフェで顔を突き合わせる。

メニューを頼む以外は、押し黙った空気が続いた。
ずっと苦い顔をしている修はカップを見つめていて本題に入ろうとしない。
琉奈も結婚式の時に言いたい事は全て吐き出していたので、それ以上何かを言うつもりなんてなかった。
言った所で喧嘩にしかならないのだから。

あーそうか、フランスGPがあったからわざわざ来たのか、なんて重苦しい場に似合わない事を考えていたら。
冒頭の台詞を、突然投げかけられた。

「…………」

何が、とか何処に、とかそんな事を訊く必要はなかった。
わかりきっているからこそ、琉奈は何の言葉も発する事はできなかった。

どうして彼は自分を許すのだろう、そんな思いつめた表情をしながら。
いや、心のどこかではわかっていた。
名雲の言う通りどれだけ意見が合わなくても、彼は最終的には琉奈に甘いのだと。

「あの男を許した訳ではない、未だに別れるべきだと思っている。
だが……それを言っても、お前は聞かないのだろう?」
「……うん、そうだね」

はああ、と長く深い溜息をついて幼馴染みは片手で頭を抱える。
それをどこか他人事のように見つめて、ここに来るまで相当に悩んだのだろうなと思った。

「それについてはもう言わない……というより、言っても無駄なようだ。
だからせめて、目の届く場所にいてくれ」

(そうか、それが修さんの最大限の妥協な訳ね)

そして、石よりも固い頭をしている彼にとっては苦渋の選択であったに違いない。
だが、琉奈にとっては損な事など一つもない、良い事しかない話であり。

「スゴウに、帰ってこい」

(……甘いね、本当に)

恵まれすぎて怖くなる。

嬉しいのに、それを受け入れてしまったら自分はまた停滞してしまう気がする。
幼馴染みが用意した柔らかい揺り籠で守られながら。

「……そんな交換条件みたいなもの、私が呑むと思う?」

だから琉奈は突っぱねる。
目の前にチラつかせた飴に飛びつく程、素直な性格じゃないから。

「私はスゴウに戻らなくても、こっちでやっていける。
修さんがいなくたって生きていけるのよ。コネで、入りたくない」
「…………」

先日、フォーミュラ・ルノーに参戦しているチームの監督と面会も叶った。
話だって良い方向へと進もうとしているのだ。

それだけでなく、ハイネルも、加賀やグレイだって琉奈が望めば歓迎してくれるだろう。
全て必死で生きて勝ち取って、得たものだ。
そんな風に過保護にされなくても、自分は生きていける。
言い切ると、彼は少しだけ傷付いた目をした。
そういうつもりはもしかしたらなかったのかもしれない。

「いや、違う……私は、そういう事が言いたいのではない……」

それは琉奈にというよりは、自分に言い聞かせているようだった。
僅かに目を彷徨わせ、それから逡巡を振り払いながら再び視線を上げる。

「身内だからではない。それだけの理由でスゴウに入れる程、私は甘くない。
ハヤトとアスラーダの為に……お前が、必要だと言いたいのだ。
アスラーダは……もうクレアとお前にしか、扱えない」

修らしからぬ優しい言葉だった。
確かにアスラーダは特殊な機構を持ったマシンで、だから新バージョンの開発は非常に苦労した。
その事もあり、アスラーダは時代に合わせてほいほいバージョンアップができず、
今いるメンバーではマイナーチェンジ程度しかできないらしい。
もちろん最大の要ではるクレアはいるが、
彼女一人に負担させるのは恋人としてもオーナーとしてもあまり建設的な選択ではないという。

だから今後、アスラーダが再び力不足になる日が来る時の為に、琉奈が欲しいと修は言う。

のおじさんの技術を受け継いだお前にしか、あのシステムは理解してやれないだろう。
並のメカニックでは、無理なんだ」
「…………」

一度目を閉じて、ゆるりと窓の外に視線をやる。
二階の窓際にあるこの席からは、晴れて澄み切った空が見えた。

愛したマシンと同じ色の、宝石のような鮮やかなスカイブルー。
エンジンの音、駆動系の唸り、タイヤと燃料の焼ける匂い、風を征服するように走る甲高い通過音。

いつだって、何処にいたって、こんなにも簡単に思い出されるもの。
あれへの羨望が途切れる事はきっとこの先、一生ないだろう。

「だから……戻ってきても、いいという事だ。
血だけではない、お前の腕も精神も全ての観点から言っても……お前は、スゴウの人間だ」
「…………」

太陽を反射して発色する空が眩しくて、琉奈は目を細めた。






7・愛の輪廻






「ただいま」

もう習慣化している言葉を口にして琉奈は家に入る。
唯一の同居人に面と向かって言うのは憚られるが、帰ってきたという事を示したくてこっそり言っている。

暗いと思っていた部屋は電気が付いていた。
リビングの扉を開けると、名雲が煙草を吸いながら既に一杯やっていた。

「あれ、早かったね」
「……ああ」

今日の琉奈の予定を伝えた時は早く帰ってくるなんて言っていなかった。
あまりのんびりしていられない、手早く夕食を作らなければとパタパタ歩いていると。

「幼馴染みには会ってきたのか?」
「うん、まあ」

何をつまみにしているのかわからない状態でウィスキーを転がす男は、
テレビも見ず、パソコンを弄っている訳でもない。
意地の悪い笑みもしないで、ただ無表情のまま遠くを眺めている。

どこか様子がおかしい。
全体的に芝居がかっている人間が無表情だという事は、それだけで珍しい。

琉奈
「、……何?」

何かあったのかと訊ねるより先に、滅多に呼ばれない名を、呼ばれた。
ふっと、吐き出された白煙と共に浮かんだのはやはり笑みだった。

「そろそろ潮時かな」
「は……?何が?」
「君との恋人ごっこも、もう終わりだろうな。それなりに楽しませてもらったよ」
「何、言って……」

何を言っているのだ、この男は。
琉奈が呆然と立ち尽くしている間にも名雲はスラスラと言葉を続ける。

そもそも"恋人ごっこ"とはどういう意味だ。
恋人のつもりではなかったと言いたいのか。

「日本に帰るといい」
「っ、ちょっと、説明してよ!何なのそれ!?」
「言葉の通りさ。この生活を終わらせたいと言っているんだよ」
「、……本気で、言ってるの?」

突然すぎる衝撃で、拳と声が震えた。
焦燥を抑え込むようにして睨み付けるが、名雲は紫煙を燻らせながら冷たい目で肯定を語る。
怒りすら湧き上がって、琉奈は笑いながら口調を荒げる。

「はっ、何それ……!私はもう必要ないって事?」
「そうだ。君がいなくても、俺は生きていける」
「……っ!」

飄々と言う男の頬を叩いてやりたくなった。

何故そんな事を急に言い出したのか。
琉奈ではなく、例えば会社で良い女でも見つけたのだろうか。
それとも始めから暇潰しの為だけにフランスに連れてきたのか。

(、違う……これは、違う)

激昂したくなる感情を落ち着かせて、冷静になれと呼吸を繰り返す。

認めたくないと逃げている訳ではない。
未だに信じたいと縋っているだけなのかもしれないが、
それでも、短くとも今まで名雲と一緒にいた時間は本物だったはずだ。

最終戦後に一人消えようとしていた男を見つけた時、僅かに驚いた顔をしていた。
付いて行っていいと言った琉奈を、何度も遠ざけようともした。
頼んでもいないのに、いつ来るかもわからない琉奈を空港で待ち続けていた事もある。
会社で自分の力が認められて、だけど素直に喜べなくて、
バイクに乗りながらただ琉奈の体に腕を回したあの時の、感触と体温を覚えている。

あれに嘘なんてなかった、それぐらいはわかる。
何年前からこの男だけを見ていると思っているのか。

自分に飽きた訳でもないのだろう。
だったら最初から飽きたと言えばいい、わざわざ"恋人ごっこ"なんて言わずに。

(それに私は、知ってる……本当の冷たさを)

過去に手酷い仕打ちを受けているからこそ、彼が非情になった時の目を知っている。
今の男の目に、あの時の底冷えするような冷たさはない。
だからこれは違う。
何かを……いや、何かの感情を、隠している。

「嘘……あんた、そんなに器用じゃない」
「…………」

(ほら、否定できない)

表面的にはいくらでも取り繕うが、意外とこの男は感情の話になると嘘がつけない。
雄弁な男が"答えられない"というだけでそれは肯定だった。

「何か言いたい事があるんでしょ?隠したってしょうがないんだから、言ってよ」

名雲はさっきまでの優位的な態度をなくし、途端に押し黙ってしまった。
だけどそこを否定しないあたり話をする気はあるようなので、琉奈は名雲が動くのを辛抱強く待つ。
チリチリと火を燃やしながら紫煙を吸い込み、吐き出すを繰り返す様子をじっと見つめた。

「……幼馴染みと、何の話をしたんだ?」
「え?……スゴウに戻ってこいって、話。返事は保留だけど」
「やはりな、そうだろうと思っていた」

少し馬鹿にしたように鼻で笑われて、ムッとした。

「それが今の話と何の関係があるのよ」
「よかったじゃないか、自分から頼む前に引き止めてもらえて。これで何のわだかまりもなくスゴウに戻れる」
「……いや、戻るって決めた訳じゃないし。例えばスゴウに戻ったって、此処から出て行く気はないんだけど」

何だか投げやりに突き放されて琉奈は困惑する。
そう、彼は投げやりだった。そして聞く耳を持ってくれない。

「人は変わらない。どんなに手放そうとしたって、後にも先にも君の最上はアスラーダだけだろう?」
「っ、そうだけど……だから――」
「そうして、君は飛び立っていく」

まるで人の話を聞かず、勝手に自己完結している名雲に落ち着かせていた怒りが湧き上がる。
琉奈はズカズカとリビングを歩くと、横を向いている男の両頬を掴んで無理矢理振り向かせた。

「だから日本には帰らないって言ってるでしょ!?」

至近距離で視線を合わせると、流石に目を見張っていた。

「そりゃあメカニックなんていう仕事をするんだから、
どのチームに入ったとしても普通よりは全然家に帰ってこれないだろうし、
むしろそっちばかりになっちゃうと思うけど……」

この人が何を危惧してあんな事を言ったのか、琉奈には何となくわかってきた。
元々修に対して対抗意識があった男だから、会うと聞いて"盗られる"とでも思ったのかもしれない。
自分で考えて信じがたいと思ったが、それ以上に納得のいく理由が見つからない。

「だからって、此処に二度と帰って来ないなんて言ってないし。
……もしかして、私が離れていくかもって心配してんの?」
「…………」

たまにはからかってやりたくて冗談交じりに口角を上げると、
名雲は何も言わなかったが負けじと此方をじっと見据えてくる。
少し胡乱な目付きが、そうだろう?と訴えている。

どうやら本当に拗ねているらしい。
それに気付いて自然と琉奈の口元が緩んだ。
しょうがない人だ、そう笑わずにはいられなかった。

「あ、でもそうかもね。新しい所行ったら良い人いっぱいいるだろうし、素敵だなって思う人もいるかもね~」

思いを馳せながらそう言うと、名雲はあからさまに嫌そうな顔をする。
嫌なら手放そうとしなければいいのにと思う。
手放そうとしたり縛り付けようとしたり、色々と面倒な性格らしい。

だけど見かけによらず弱い所は、意外と嫌いではない。

「だけど……変わらない変わらないってあんたは言うけど、それなら私だってもう変われないのよ。
こんな所まで来ちゃうぐらいには……もうあんたしか選べないんだから」

どれだけ選択肢があっても、どんなに気持ちを誤魔化そうとしても、結局これを選んでしまった。
だからもう、無理だろうなと思う。

(他の人に心変わりする事は……たぶんできないんだろうな)

諦めるしか、なかった。

「あんたみたいな面倒な男、私ぐらいしかいないでしょ?」
「…………」

悔しいけどね、と琉奈は意地の悪い言葉と一緒に思いっきり笑ってみせた。
名雲は呆然としたまま表情すら動かさない。
少しはからかいや冗談が返ってくるかと思ったのに、全く反応がない。

「ちょっと、何か言ってよ」
「…………いや……どう言えばいいのかわからない」
「何それ」

かなり際どい発言をしたのに突っ込みがないなんて、恥ずかしいにも程がある。
加えてソファーに座る男の上に乗って両頬を掴んでいるこの状況も、よく考えなくても異常な事だった。

自覚すると途端に動揺して、琉奈は真っ赤になった顔を背けるように体を離そうとした。
だけど腰に回った両腕がそれをさせてくれなかった。

「……っ」

相変わらず何も語らない目にじっと見つめられて。
逃げられなくなった琉奈は思わず男の頭を抱えた。
抱きかかえてしまえば顔は見られないと咄嗟にやってしまったが、これはこれで大胆だったかもしれない。

(ま、まいっか……されるがままだし)

どうか心臓の音が聞かれていませんようにと願いながら琉奈は深呼吸を繰り返す。
他人の体温の温かみで気持ちが和らいでいく。
さっきまで緊迫した感じだったのに、お互い無言で抱き合っているのが何だか不思議だった。

「で、まだ日本に帰れって言うの?」
「……そうだな……流石に、それは惜しい」

間を置いて、ようやくポツリと呟いた。

「一からまた相手を見つけるというのも、中々骨が折れる作業だからね」
「素直じゃないね、本当に――」

笑おうとして、琉奈は息を呑んだ。
名雲の緩く捕えていた腕が、きゅっと強く琉奈を抱き締めたから。
そうしてすり寄るように包み込まれて、胸が締め付けられた。


――ああ、この人は知らないのだろう。

求められているとわかる瞬間が、本当はとてつもなく嬉しいのだという事を。
誰にも心を開かなかった人間が拗ねたり甘えたり不安になったり、その当たり前の感情を琉奈に見せる事が。

彼が自分だけを欲している、自分だけのものだと思える、それだけでこんなにも満たされた気持ちになるのだ。
彼が変わった瞬間はいつだったのだろう、それはわからないけど、確かに琉奈の想いは伝わった。
そして執着までしてくれるなんて事、少し前だったら絶対に信じられなかった。
この人にはきっと自分しかいない、それを実感する事で自分に特別な価値があるような気になれる。

他人にはきっと理解できないだろう。
いや自分だって多分まだわからない、だけど好きだと思った。

執念に囚われて罪を犯したり、足掻いて惑いながら、それでも前に踏み出せた。
そして何だかんだ琉奈には応えてくれるこの人を、人間的で愛おしいと思う。
完璧な人より不器用な人の方が、良いと思った。

どうしてだろう、いつの間にか、込み上がるようにハラハラと目尻から何かが溢れている。

「…………」

あまりにも突然で意外だったのだろう。
異変を察知して少しだけ体を離した名雲まで目を見開いて琉奈を凝視している。

「……それは、どういう意味を持った涙なんだ?」
「っ……あんたが好きだからでしょ!?わかってよ馬鹿!」

ぐい、と乱暴に涙を拭いながら睨めば、ゆっくりと確かめるように再び抱きすくめられた。
今度はお互いの肩に顔をうずめるようにして。

「そうなのか」
「……うん」

そうか、と反芻させるようにそればかりを口にする。
不可抗力に泣いてしまった琉奈もかなり恥ずかしかったが、何度もそう呟くので根気よく頷き返す。
次第に穏やかになっていく名雲の口調に、琉奈も素直になるしかなかった。

「……やはり、君の幼馴染みには……やれないな」
「……うん」

だから安心して掴んでいなさいよ、と小さく囁くと。

「――ありがとう」
「……っ」

返ってきた言葉に、また涙が零れた。

(何か今、すごい愛の言葉を囁かれたみたいだった)

とても柔らかい響きで、温かい何かが流れ込んでくるようだった。
もし名雲が名雲ではなく、どんな種類の言葉も言える人間だったならきっと違う単語を囁いていたはず、それくらいの声色だった。

だから琉奈も、応えるように肩口に呟いた。
"意味"が伝わったのだろう、拘束する腕がピクリと揺れて、そして強くなった。


「――馬鹿」


それが不器用な二人の、精一杯の愛の言葉だった。











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甘すぎる…。

作者的には、二人はキスより純粋に抱きしめ合う事の方が難易度が上だと思ってます。
キスは相手をからかったり戯れたり陥れたりする為にも簡単にできたりしますが、
ただ抱きしめるという行為にその効力は弱く、むしろ内心の恋心を晒しているようでそうそう出来ない気がします。
世間の難易度が、簡単な接触<キスであるなら、二人はキス<簡単な接触だと思います。
だから、それ以上の行為もせず、ただ抱きしめあっているだけの状況は相当に恥ずかしい事でしょう。

次でついに終わりです。