確かに、初めて会ったときは嫌いだったはず。
思えば、いつからあの女ばかり見ているようになったのか。

……だけどそんなのはもうどうでもいい。


今、現に俺はあの女の事を考えている。


………初めはその場の勢いだった。
この期に及んで冗談で誤魔化そうとするあいつに思い知らせてやりたかった。
俺はそこまで馬鹿じゃない、そう言うつもりだった。

だが、唇に触れた瞬間体に電撃のような衝撃が襲った。
アクマとの戦闘中でもそこまで緊張した事なかったのに、身動きできないほど麻痺して。
細い腕を掴む手には汗がにじみ、浮かされるように全身が熱い。

目的とは反対に、離したくないと思った。


2回目は、脅かそうとか出し抜こうとかそんな意味はなかった。
ただ気がついたら体が勝手に動いていた。
あいつが泣いてる、そう考えたら何もかもが吹っ飛んだ。

理屈じゃない、ああしたいと思った。



……そうすれば、少しは寂しさから逃れられるかもしれないから、と。


あの時どうして俺はそう思った……?


……慰めたかったから……そういう事なのか……?





指で軽く唇をなぞっても、昨夜のような感触は蘇らない――






17・Dirac Sea






「ユウ!」

歩く事さえも気の向かない時にラビは無闇にまとわりつく。

「昨日の夜あれからどこ行ったんさ~?」
「……ああ、飽きたから帰った」
「ま、ユウがそう言うのは納得できるけど、アリィンさんまでもいつのまにかいないし~……」

グジグジと鼻をすする真似をする。


アリィン』と聞いて、再び昨夜の光景が瞬時に頭を駆けめぐる。

壁に押しつけて夢中で唇を奪って、力が抜けたアリィンはゆっくりと俺の腕からすり抜けた。
抵抗する事も騒ぐ事もなく、『ごめん』とだけ呟いて弱々しい足取りで自室へと向かったアリィン
俺はその背中を見つめる事しかできなかった。

「……お前あんな女がいいのかよ」
「何言ってんだよ~!?アリィンさんほどのイイ女がこの世界にどれだけいると思ってんだよ!」
「毎回言ってるだろ、それ」

キラキラと妙な妄想に走り出したラビを置いて早足で廊下を進む神田。
微かに不快感が募る。

「ん~にゃ!今回は本気さ!」


お前には無理だ、あんな女……


「あ、噂をすればアリィンさん!」

心に思った事を全く知らずにラビは嬉しそうに声を上げるので、神田は真っ先に顔を上げた。
その先には仲睦まじそうに歩いているアリィンとアレン。
山になってる書類を2人で分担して抱えていた。


……またあの時のような痙攣がする。


アリィンさ~ん!」

ラビは尻尾のついた犬のように駆け寄って手を握る。

「あ、おはようラビくん」
「重そうっすね、俺が持つよ!」
「そう?じゃあ半分お願いしようかな」
「何言ってるんですか~全部ですよ!」
「大丈夫よ、そこまで力は弱くないからね」

にっこりと笑顔でやり過ごすアリィンを見て、ラビは『じゃあ半分……』と渋々書類の山の中腹まで持ち上げた。


……アリィンの一挙一動を見ている。
伏せられた睫毛、そして柔らかく曲線を描く黒髪。
貼り付けた笑顔、本当の笑顔ではないとわかっているのに輝く濃い紅の瞳。
涼やかな高い声を発する、妖艶な唇。

全身の血が泡立つように何かが湧き上がる。


「おはよう、神田くん」

神田は一瞬時間が止まったかのような感覚に囚われた。

昨日の今日だから少しは恥じらうか、何か反応を見せると思っていた。
だけどアリィンは何食わぬ顔でいつものように微笑んだのだ。
まるで昨日の事は嘘であるかのように。

「…………」
「……どうしたの神田くん?」
「ユウさっきから機嫌悪いんさ~何でかわかんねぇけど」
「そうなの……」


苛々する。

どうしてお前はそんなに平然としていられる?
昨日の事は全く知りませんって顔しやがって……

俺は昨日……お前に……


「あ、神田くん任務だって、コムイが待ってるよ?」
「…………!」


は?あいつに会っただと?
なのに何でお前そんなに笑顔を振りまいていられるんだよ……!?


あいつの心が読めない。

ツラの皮が厚くなったのかもしれない、嘘とは思えないほどの完璧な表情。
……諦めたのか?
いや違う、あんなに諦めきれないと言ってたからそれはない。

なら……俺のせいか?

俺のせいでお前はそんな仮面のような笑顔をするようになったのか。
コムイに何を言われた?
お前が変わる原因はあいつぐらいしかいねぇ。
昨日の今日だ……コムイとの間に何かあったんだろ。

なのにあいつの作り笑顔は研ぎ澄まされて輝いていた。


……わからねぇ、あの女が何を考えているのか……俺が何を考えているのか……


神田は何も答えずフイッとアリィンの横を通り過ぎた。
眉間に深い皺を作り、気むずかしい顔で暗い廊下に消えていった。


あの女が泣いていると苛々する。

無理させたくねぇのに……だけどあの女が平然と笑顔でいる事にも苛々する。











「神田くん聞いてる?」
「……聞いてんだろ」

コムイの顔など見ると余計にこめかみが痙攣をおこす。
あいつにあんな顔をさせてるのはこの男のせいで。
幾度となく……アリィンを泣かしてる。


はぁ……と、こっちにも聞こえるような溜息でコムイは重い口を開く。


「……神田くん、恋愛は自由だけど君はエクソシストだ。作戦内容はしっかり聞いてもらわないと困る」
「だから聞いてるっつってんだろ」


昨日の事には全く動揺を見せず、か……


「それならエクソシストとしての自覚を持ってもらわないと」
「俺は任務を疎かにしたことは一度もねぇ」


エクソシストはアクマを倒す為にいる……んな事は百も承知なんだよ。


ここにいても闇雲に拳を震わすだけだ、そう思って神田はソファーから立ち上がった。
そして威嚇するように鋭くコムイを見下ろす。

「エクソシストに感情は関係ない、アクマを倒す事が最優先……か?」


正論ばかり並べ立てる男の本心は計り知れない。


「……そんなのと天秤にかけられるもんじゃねぇんだよ」


少し前の俺ならば正論を怒鳴り散らしていただろう。

だけどこれは理屈ではない。
体が勝手に動いてしまうのだから、言葉が勝手に出てきてしまうのだから。
俺だってどうしてか理由が聞きたい。


「感情に左右されてるのはあんたの方だろ?」


その鉄の表情でいるのは、奥に何か強い思いがあるからだろ?


――「そういう約束だったからだよ」――


あれはどういう意味だ?
否応なしに別れる約束だったのか?

そうだとしても……俺はあんたの事情なんか知らねぇ。
俺はあんたなんかに同情しねぇからな。


「完璧でいるつもりなんだろうが、あんたのせいで泣いてんだよアリィンは!」
「…………!」

コムイは急に驚きを表に出した。

「……泣いてたのか、アリィンは?」
「当たり前だろ。いつもいつも目障りなんだよ」
「…………そう……」


あいつが泣くたび、俺が俺でなくなっていく気がする。


わからねぇ……頭がゴチャゴチャする。










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ラビの口調の表記がいまいちわかりません。
「~さ」をよく使うけど実はそんなに使わないし、結構乱暴口調だし。

神田くん視点の話です。
私的神田くんはあまり恋愛は得意じゃないと思ってます。