―――カランと、ドアが寂しい音を立てた。

「……あれ?今日は1人かい?」
「……ええ、まぁ…」

その様子から、今日たまたま1人で来た訳ではなさそうだった。
雰囲気からして暗くて……あの明るい笑顔が消えていた。

いつもの、彼女の大好きな酒を出す。
ありがとう、と笑い返してくれた表情がどこか硬い。

特に何か話す訳でもなく、黙々と酒を呷る彼女。
ふと、私の胸ポケットに入っていた、タバコに目にやると。

「……マスター、それ一本」
「本気かい?やめときな」
「いいの」

口にくわえた所で火をつけてやると、思いっきり煙を吸い込んだらしい。
そして案の定彼女はむせた。

「ゴホッ……ッ」
「だから言っただろう?体にもよくないぞ」

だけど彼女はやめようとしなかった。
目に溜まった涙は、何度もむせたからなのか、その他の理由からなのか……

「……旦那は?」

客のプライベートに首をつっこむ気はなかった。
だけど彼女は、聞かなければならない気がした。

「……もう、いない。遠くに行っちゃったの……手の、届かない所に…」
「………そうか」

亡くなったのだろうかと、この時は思っていた。

「明日、引っ越すの。……色々ありがとう…」
「そうか、寂しくなるな……」

彼女は紫煙を吸い、咳き込んで、白くなった煙を吐き出した。
愛する者の傍らで花のように微笑んでいた彼女が、
今はカウンターの隅で、酒を呷り、無理して煙草を吸いながら……泣いていた―――




「店のカウンターの端の席がもう2人の指定席になっていました」

バーのマスターは虚空を仰いで何かを見つめていた。

「……でもある日、彼女1人だけで来たんです」

心が死んでしまったかのような彼女。

「あの時の彼女の姿が今でも思い出されて……どうしているかと心配でしてね」


神田の眉間の皺はさらに深く彫られた。

この街には、ムカつくほど彼女の悲しみが詰まっている。






37.5 Tranquilizer






「……お久しぶりです」
「やっぱりアリィンだったか……っ!」

アリィンが躊躇わずカウンターの隅に座ると、マスターはいつもの酒を振る舞ってくれた。

「……元気にしてました?」
「それはこっちの台詞だっての」

それもそうですね、とアリィンは笑ってグラスに口をつけた。

「……ごめんなさい……街、壊しちゃったね」
「アクマを倒してくれたんだ、そっちの方を感謝しないといけねぇよ」

昔に、ほんのさわりだけどアクマやエクソシストについて喋った事がある。
マスターは深くは聞いてこない、だけど私が『そういう仕事』をしてるという事は気付いたんだと思う。

運良く、ここは壊れなくてよかった。

「ありがとう……お店も変わらず営業してくれて」
「ははっ、街が壊れたって酒飲みたい奴は多いんだよ」
「……そうだね」

ふと、アリィンの顔が曇った。

「……壊れちゃったね……思い出が……」


よく見れば目が腫れている、泣いていたのだろうか。
昔のまま変わらずにいるのは、この街じゃなくて、アリィンじゃないだろうか。


ふとアリィンは顔を上げてマスターの胸ポケットを見つめた。

「マスター……それ一本」
「……やめてなかったのか。やめろって言っただろ?」

そう言いつつも、マスターはアリィンに煙草を渡して火をつけた。
アリィンはむせる事なく、深呼吸するように煙を肺に押し込んだ。

「やめてたよ?でも、ここに来ちゃったら……もう止めるものなんかないよね」
「…………」

好き合ってたのに別れてしまった2人。
互いに無理しながら、でも忘れられなくてやけ酒を呷る2人。
似ている、そんな所まで似ている。

いつまでも幸せを探して、自ら傷口を開こうとする。
そこまで愛していたというのに。

もう2人が交わる事はないのだろうか?
彼が研究していた事と、彼女が背負った役目は同じ事だったはず。
なのにどうして、未だ何も変わらない?
部外者が関わっていいものじゃない、でももう一度2人で指定席に座ってくれる事を願ってしまう。

どうすれば、彼と彼女はその心を晒すのだろうか。


「……そういえば知ってるか?随分前に―――」

マスターは言いかけていた言葉を呑み込んで、開かれたドアに立っていた男を見遣った。


「何やってんだよ」

今の彼女と似た服装をした少年だった。
アリィンは特に驚く様子もなくアルコールを喉に通した。

「見て分かるでしょ?ここバーなんだからお酒ぐらい飲むわよ」
「じゃなくて……吸ってたのか?」

ああこれ、と煙草を投げやりに見つめまた口にくわえた。

「エクソシストになってからはやめてた。でも無理だったみたいね」
「……美味いのか?」

煙草を吸った事のない神田にはわからなかった。
煙を吸ったり吐いたりして良い事でもあるのだろうかと。

「美味しい訳ないでしょ、吸わないとやっていけないだけよ」

アリィンにとってこの煙は、いわば精神安定剤のようなものだった。
美味しくはない、だけど吸っていれば何かが忘れられる……そう言い聞かせて吸い続けた。
心だけでなく体も汚れてしまった自分にはピッタリだと思った。

エクソシストになる時に、それまでの自分を変えようと何とか煙草を捨てた。
だけど、色々な事があった。表情を変えないあの室長に心が乱されてばかりで、
また吸ってしまおうかと思った事が何度もあった。
だけどその場に煙草はなかったし、何より好きな男の前で煙の臭いなんかさせたくなかった。

だけどこの街にいては、やはり限界だった。
一緒に行ったバーがあって、私達の事を知っているマスターがいて。
私達の幸せで辛かった思い出が詰まる街の中に佇んで。
そして、その思い出まで壊れてしまったのだから。

「立ってないで座ったら?」

神田に隣の席を勧めた。
そこは、彼の指定席だった。

「あ、そうだ。彼、神田くん。私の同僚っていうか、先輩っていう感じ」
「よろしくな」

マスターが挨拶すると神田は軽く頭を上下させた。

「……同僚なのか?」

何かを匂わせるようなマスターの台詞。

「そう、同僚。言っておくけど何もないから」
「……そうか、残念だな」
「で、さっき言いかけてたのって何?」

とりあえず話をそらしたかった。


……でもそれは、全く逸れた話ではなかった。


「……あんたが引っ越して数年かした後かな……急に来たんだよ、旦那が」
「え……?」

ふと、これが随分昔の話だという事に気付く。

「……悪い、もう旦那の話は聞きたくなかったか?」
「………ううん、聞きたい」

この話題に過敏に反応したのは、同じ東洋の少年。











―――「あ、あんた……!」

「……お久しぶりです」
「生きてたのか!?」
「え……?」

「彼女が『遠くへ行った』とか何とか言ってたから、俺はてっきり死んじまったもんだと……!」
「すいません、お騒がせしました……でも、あながち嘘じゃないです……」

彼は申し訳なさそうに笑った。

「それで……彼女は?」
「……引っ越したよ、随分前にね」
「……そう、ですか……」

落胆で肩を落とす彼を、何とか指定席に座らせた。
いらないと言ったが、無理矢理酒を振る舞った。

「別れたのか?」
「……はい。僕が選んだ仕事は危険すぎて……彼女は、連れていけなかった」
「そうか……」


だから彼女は『手の届かない遠くへ行った』と言ったんだ。


「でもここへまた来たって事は、まだ未練があったんだろ?」
「……」

それには笑うだけで何も答えなかった。

「……泣いてたぞ彼女。引っ越す前の日、ここでずっと……」
「……」


彼が選んだ人生に口出す資格はない。
互いにまだ未練があるのだとしても……部外者である俺では、どうする事もできない。


「……捨てておいて、まだこの街にいるかもなんて……勝手だな、僕は……」


彼のやるせない嘘笑いが、もどかしくて……忘れられない―――










「彼も、辛そうに酒を呷っていたな。あんたの様子見てる限りでは……まだ未練あるんだろ?」
「…………」

笑うだけで何も答えない、そのアリィンの仕草が彼と似ていた。
マスターは溜息をつくと自分も煙草に火をつけた。

「……難しいな、男と女ってのは。好きなら好きだと言えばいいのに、そんな簡単な事ができないでいる」


大人はいつも、逃げてばかりいる。


「あんた達見てると……時間が止まったような気さえしてくるよ」


このカウンターの隅だけ、あの頃から時間が止まっている―――











「神田くん……お願い、帰して……」
「このまま帰っても何も変わらねぇだろ」

ベッドにアリィンを縫い付け、至近距離で睨む神田。

「いい加減、はっきりさせろよ……!」


本気で抵抗しない手、赤く腫れた目、怯えた表情……全てに苛々する。
だけどさっきからずっと胸に込み上がるのは……悲しみと、悔しさと。


「……っ…!」


頭に血が上る。

自分がたった今支配しているはずの唇にすらも、あの男が残っている。

苦くて、この行為による甘さなどどこにもない………僅かな煙草の味。











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最終話直前の番外編です。
バーでの過去編、入れたかったんですけど
本編的にはなくてもよさそうだったので番外という事になってます。
本編での流れは、アクマと戦った後~神田が宿屋に連れ込むまでの間になります。

一度は興味を持ってしまうもの、煙草。
美味しいかと聞けば「別に美味しくない」と返ってくる言葉。
では何故人はこの麻薬を求め続けるのだろうか。

それは、煙と共に何かを吐き出したいから。


それではもうしばらくお付き合い下さい。