「……はぁっ……っ」
夜の闇をひたすら走り続ける。
列車のスピードももどかしくて。
時間が止まったような空間で蘇るのは愛しい人の顔だけ。
手遅れになる前に、もう手遅れになっているかもしれないけど。
それでも、これ以上嘘はつきたくなかった。
最後に、吐き出したかった。
込み上がる悲しみも苦しみも、怒りも、全てはこの想いがあるから。
どうしても消せない、愛の枷。
38・Certainly
「……ふ……っ!」
されるがままに唇を奪われる。
この唇から伝わる甘美がアリィンの体に染み渡り、力が抜けていく。
長年の間で出来上がってしまった、快楽を求める身。
でも今は、胸が痛くて張り裂けそう。
「……どうして」
こんな事をするの。
「何がだ」
「……お願い…」
震えが止まらない。
怖い……やめて、怖い。
「抵抗しないなら続けるぞ」
「…………や……ぁっ」
やめて、どうしてこんな事をするの。
怖い、お願い、私を壊さないで。
「やめ、て……」
消えそうになる声を絞り出して神田の服の袖を必死に掴む。
何かに縋っていないと恐怖でどうにかなってしまいそうだった。
たとえそれが、今まさに自分を襲っている男であっても。
「理由は?」
「…………っ」
神田に襲われているのが怖い訳じゃない。
「……こんな事をしても……コムイは、来ない……」
さらには、完全に私と神田くんが繋がったと思われてしまう。
――じゃあ、あのキスはどういうつもり?――
彼に見捨てられる、それだけが全てだった。
「やめて……」
はらはらと涙が頬を伝う。
「もう、やめてよ……」
もう、わからない。
どうすればいいのかわからない。
どうしてこんな事になってしまったの?
どうしてここまで堕ちてしまったの?
どうして、あの時神田くんとキスしてしまったの?
どうして、寂しいからって女の私を出してしまったの?
それを気にしていながら……どうして、コムイはやり直すなんて言ったの?
私は貴方を好きだと、確かに言った。
貴方は受け入れてくれたのだと、そう思っていた。
でも貴方は……
「こんなになるなら……期待しない方がよかった……っ!」
どうして目を合わせてくれないの?
どうしてそんなに冷たい目をしているの?
私が『女の私』を持っているから……?
「お前が悪いんだ」
「っ!……そう、だね……わかってる……私が……」
「違う、こんなになってもまだ気付いてないからだ」
「え……?」
神田の言葉に一瞬喉を詰まらせつつも、悲しげに瞳を下げる。
そんなアリィンに思いもよらなかった台詞と共に、スゥと息を吸い込む音が聞こえた。
「馬鹿だよ、お前……いい加減わかれよ……っ!」
その叱咤とは裏腹に、優しい両腕。
顔も口調も怒っていた、だけど恐怖はなかった。
「言いたい事があるならあいつに全部言えばいいんだよ。
何怖がってんだよ?あいつに嫌われるのが怖いか?あいつと話せなくなるのが怖いか?
今さらなんだよ、とっくに関係は最悪になってるだろ………!」
「…………っ!」
ズキズキと胸が痛む。
己の本音が全部露見している。
でも晒されているという羞恥より、その神田の言葉は響いた。
「何で自分の言いたい事ぐらい言わねぇんだよ?
何に遠慮してる?あいつの為か?違うだろ自分が怖いんだろ」
そう、素直に聞けばいいんだ。
どうして冷たくするの、と。
どうして神田くんとくっつけさせようとするの、と。
どうして何も言ってくれないの、と。
「んなとこで泣くぐらいなら言えよ……っ、あいつも、お前も!」
どうして来てくれないの、と。
怖かったんだずっと、傷つくのが。
『君を忘れたことはなかった』という言葉以外、安心できるものは何一つなかった。
以前のような、態度で愛されているという感覚も。
それでも、やっと恋人という間に戻れたのに自分の失態でまた彼を失うのだけは嫌だった。
だから何も言えずにいた。
完全に断ち切られるよりは、その少ない繋がりで満足するしかなかった。
でも、もう完全に切られるのかもしれない―――
随分時間が経った。
……それでも、やはり彼は来なかった。
アリィンが待っているのは明らかだった。
でもその希望も次第に薄れ、何か言いたげに口を開閉させるアリィン。
それを何も言わず見つめたままの神田。
長い、沈黙だった。
少しずつ、アリィンの紅い瞳から涙が零れる。
「ねぇ……どうして……やり直すなんて言ったのかな……?」
アリィンが好きな『大人の威厳』などどこにもない。
それは、親に捨てられた子供のように幼く、純粋な本当の姿。
「だからそれをあいつに聞けよ、それと……お前の言いたいこと全部、本当に言いたい事をだ」
神田も自然と柔らかい口調に戻る。
こんな彼女など、殻を破ってしまえば怯えてばかりの少女と変わらない。
目尻に堪る雫を親指で拭ってやる。
熱い……と思った。彼女の奥深くで溢れかえる気持ちのように。
もう少しで彼女は、最後の一歩を踏み出せるかも知れない。
この自分の腕から抜けてもう振り返らないだろう、最初の一歩を。
「なあ、考えてみろよ、あいつはそんなに冷たい奴だったか?」
返事はなく、首を傾げるようにして尋ねる仕草。
可愛いと、本気で思った……それが一瞬頭によぎってしまったのは、失敗だった。
それでも神田は徹する。
「本気でぶつかってきた相手に冷たくあしらうような奴だったか?
そんな奴なら……さっさと縁切って、忘れちまえ」
表情が違うと言っている。
そんな男だったら、そもそも昔付き合ったりしないだろう?
「お前が、一番知ってるんだろ?」
……もう、早く俺の腕から出ていけ。
違う、彼は冷たい人なんかじゃない。
確かに再会してからのコムイは、事務的だったり冷たかったりするけど、
本当はそんな人じゃないって、心のどこかが感じてる。
穏やかな日々もあった、優しくしてくれる事もあった。
その時の彼の眼差しは、全てを溶かすような柔らかくて熱いもので。
それだけは、昔と変わらなかった。
それだけが、本当の彼の心のような気がして。
「全部……何もかも打ち明けて………本当の気持ちを言ってくれると思う?」
正直、コムイ以外の男は寂しさを紛らわす為の道具にしかすぎないと思っている。
それだけ愛していると言えば聞こえはいいかもしれないけど、
その奥でやっている事は決して良いものじゃない。
この事実を突きつけられたら、もう私は終わる。
「言わなきゃ誤解が解けねぇだろ?」
「でも……」
「お前が全部言っても、本音が返ってこねぇなら……もうあいつはダメだ。
昔とは違う、変わったと思って、もう愛想も尽きるだろ?
過去なんか気にしない奴なんか他にいくらでもいる。俺はそんなお前でも―――」
無意識に零れそうになったものを慌てて抑え込む。
出してはいけない、これ以上言葉にしては。
別に前にも言ったことがある、でもこれは最後のけじめだった。
頭を振り、気持ちを切り替えてアリィンの濡れた頬に触れた。
「なあアリィン、もうこれ以上……お前を止める枷はないはずだろ?」
今度はアリィンがハッとする番だった。
「もしかして……今までの、全部わざとだったの?」
宿屋に連れ込んで、『欲しければここまで取りに来い』とコムイを煽って。
私を襲おうとしたのは、全部……私を立ち上がらせる為……?
神田はフッと鼻で笑っただけだった。
「知らねぇよ、お前が欲しくて全部俺がやったことだから」
神田の優しさにまた涙が溢れて、同時に罪悪感でいっぱいになる。
好きだと言ってくれたのに答えられなくて、頼れと言われたのに頼れなくて、
それなのに愛想付かれる事もなく、私の為に犠牲になってくれた。
神田くんをギュッと抱きしめると、彼は少し震えていた。
誰か、神田くんを愛してあげてください。
私では応えられそうにない、その資格もない。
「……ごめん、ごめんね……神田くん……!」
貴方の気持ち、全部踏みにじらせて、ごめんなさい……
―――あの女が俺に振り向くことはない、それはもう明らかだった。
それでもあの男に取られるのが悔しかったのか、本当にそうしたかったのかはよくわからない。
最後の、賭だと思った。
あいつが来るなら、それでいい。
そんな事はありえないとは、ほぼ予想がついていたが。
あいつが来なくて、あの女が立ち上がるのならばそれでいい。
けどあいつが来なくて、あの女があのまま俺の誘いに乗っていたのなら……
……その時は……
「……酷ぇ……女だな……」
思えば、最悪の初恋だった。
けどどうしてこの体は、この頬に伝わるもののように温かいのだろう。
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……すみません、伸びました(笑)
1話で収めるつもりが長すぎて3話に分けました。
あとちょっとです。