いわば、あの騒動はきっかけだった。
前兆にすぎなかったのだ。
「総司に行かせてよかったんですか?」
雪村綱道に似た者を島原で見かけたという証言により、
今まさに千鶴が自ら芸者に変装して潜入している最中だ。
何かあったら報告しろという命令通り千鶴は屯所へ文を寄越し、
呼ばれた沖田が角屋に向かっている。
「あいつが一番物事に対処できる、そう千鶴が判断したんだろ」
「……まぁそうですね」
偽装された文である為に詳細までは把握できないが、沖田が必要な状況になったのだろう。
紫苑が気にしているのは彼の体調の事だが、出て行く時の様子を思い返せばいらぬ心配かもしれない。
(そこまで大騒動にはならないと思うし……)
現地には山崎や斎藤もいるから、まず無事で帰ってこられるだろう。
「それにしても綺麗だったなぁ千鶴、あれなら島原で人気出ますよ」
潜入する前に皆で千鶴の女装姿を目の当たりにしたが、誰が見ても可愛かった。
芸者らしく艶やかに着飾られ、色気を漂わせるような化粧に一同黙り込んでしまう程。
恥ずかしそうに俯いて、頬を染める姿が余計にそそられた。
なかなか良いものを見させてもらったと、紫苑はしみじみと思う。
「お前も女の格好したいのか。だったら早く出て行く事だな」
「だから辞めませんて。俺は千鶴の話をしてるだけで」
本能的に羨んでいたからこそ口に出てしまったかもしれないが、それと新選組は比べものにならない。
何の為にばっさり切ったと思っているんだと、土方の背中を睨むが無視された。
(俺は髪短くしたから髪文字使っても無理だし)
諦めて溜息を付き、今頃千鶴達はどうなっただろうかと夜の庭を眺めていると、
ふいに土方が筆を置いた音が聞こえた。
「……紫苑、お前……本当に此処にいる気か」
「当たり前ですよ」
「どんな命令をしても従う気か」
「はい、そう土方さんが判断したのなら」
振り返れば土方の紫苑の瞳が此方を見つめていた。
強く真っ直ぐに、だが少しだけ躊躇うように。
(、何……?)
いつもの押し問答かと思っていたのに、どうやら様子が違う。
口調もいつもの刺々しいものでなく、まるで此方の意思を試すようだった。
「ならば紫苑、お前には出家してもらう」
「………………はい?」
突然告げられた言葉に、紫苑は開いた口が塞がらなかった。
翡翠 二
近頃、伊東甲子太郎が怪しい動きをしていると土方は小声で言った。
伊東派の者達と連れ立って頻繁に島原へ出掛けたり、幹部達にも熱心に声をかけているという。
そしてさらに、ある尼僧庵にも尋ねて行っているのでは、という報告が入った。
尼僧庵とは女性が出家して尼として暮らす寺であり、言わずもがな男子禁制の場所だ。
男が尋ねて行くこと事態が不自然であり、それが新選組の者であるならもっと異常だ。
伊東派が新選組の害になる事を企んでいるのなら突き止めなければならないし、
もし誰かと……例えば倒幕派と内通しているならば処断しなければならない。
だが通常の潜入調査では入り込めない、だから紫苑にお呼びがかかったのだ。
「脅かさないで下さいよー、そういう事は先に言って下さい」
命令と称して本気で新選組を辞めて出家しろと言われたのかと思いきや、任務の話だったとは。
概要を聞かされて紫苑はようやく胸を撫で下ろした。
「これは千鶴の件と違って本当の潜入だ。悟られればお前の身が危うくなる」
「わかってます」
「伊東派の当人達とはかち合うなよ。いくら上手く化けても見破られるだろうからな」
「はい、何とか善処します」
もう1人だけ新選組には千鶴という女性がいるが、いざという時戦えない彼女では無理だ。
そして、仮にも出家するという事は剃髪しなければならない、それは彼女には酷な話で。
一方で一般の男よりも髪をばっさりと切っている紫苑ならばと考えたのだろう。
「場合によっては斬り合いになるから、外に控えさせる監察方と連絡を取り合え」
「……はい」
本物の任務だ、と紫苑は急に重みを感じた。
自分の報告次第で伊東派を処罰する事もあり得るだろうし、
大捕物に発展するのかもしれないと思うと自然と生唾を呑み込んだ。
「やれるか?」
最後に一言だけ問われ、紫苑は迷う事なく頷いた。
出立は数日後。
確実な情報を掴むまでは幹部達にも極秘な為に、
紫苑は土方の使いとして出掛けるという名目で皆に挨拶を済ませ、準備を進めていた。
だが誰もが「おう、気をつけて行ってこいよ」と明るく送り出してくれる中、
唯一切羽詰まった表情でやってきた人物がいた。
紫苑を心から心配しているような、娘を労るかのような顔で。
「紫苑!」
「近藤さん……」
「本当に、あの話受けるのか?」
副長から命令されたのに、局長がまた伺いに来るなんて奇妙な状態だ。
だけど彼らしいと、紫苑はくすりと微笑んだ。
「もちろんですよ。近藤さんだって知ってて承認したんでしょう?」
「う、む……それはそうだが……できれば俺は、お前にはやって欲しくなかった」
「何言ってるんですか、非情な人斬り集団の局長ともあろう人が」
冗談めかすと、さらに近藤は恐縮したように俯く。
「すまんな……こんな役を押しつけて」
「いいえ。俺にしかできない任務なら、これ以上名誉な事はありません」
「髪も……いくら短くとも、女性にとって髪は大事なものだろうに……」
「え、大丈夫ですよ。こんなもんすぐ生えてきますって」
そこそこ腕が立ち、かつ女である紫苑にしかできない仕事。
それを任された事が紫苑には嬉しくて誇らしかった。
髪をつまみながらあっけらかんと言うと、近藤は僅かにつられて笑った。
変な人だと、紫苑は思う。
男女という隔てなく試衛館に招き入れてくれて、それこそ皆と同じように一人前に稽古をつけてくれた。
だが打ち身でもしようものなら彼は顔色を真っ青にして、すぐに手当てしろと慌てふためいたものだ。
髪を切り男装して新選組にやって来た時も"仕方ない"と笑い受け入れていたのに、
危険が伴う任務には局長の立場さえ忘れて心配して。
(お人好しなのかもしれないな、近藤さんって人は……)
彼は自分を自由にさせてくれるものの、最後にはいつも女である紫苑を気に掛ける。
究極に優しい、そんな形容が似合う人はそうそういない。
だから新選組は成り立っているのかもしれない、
紫苑は一向に晴れない近藤の顔を見つめて自然と頬を緩ませた。
「ありがとうございます、近藤さん。
近藤さんが局長で、土方さんが副長だから俺は命が賭けられる」
近藤は少しだけ困ったような表情を見せたが、構わず続けた。
「新選組の為なら、俺は女である事を最大限有効に使います」
一度は捨てた女としての自分、だが彼らの為なら喜んで女に戻ろう。
そう、笑って見せた。
京の中心部から少し離れた山奥に、ひっそりとその寺はあった。
小さな庵であったが見窄らしい様子もなく、森に隠された建物だった。
そこへ着物を身にまとった女がゆっくりと、弱々しい足取りで近づいてくる。
髪は頭巾で覆われていて見えないが、世から逃げてきたかのように背中は儚さを背負っている。
門の前に立ち、女は縋る気持ちで戸を叩いた。
乾いた音がしてしばらくすると木戸が開き、剃髪の尼僧が姿を見せた。
「突然押し掛けて、申し訳ありません……」
女にはその尼が仏のように見えたのだろう。
耐えきれず大粒の涙を零してその場に崩れ落ちた。
慌てて駆け寄る尼に何度もすみませんと謝り、お願いですと懇願する。
「私にはもう…行く宛がございません……っ」
するりと頭巾を外すと、無残にもばらばらに切られた短髪が目に入る。
痛々しい姿に口を押さえ驚いたように覗き込むと、女は震えていた。
「私を……仏門に入れて下さい」
それしか私には術がない、そう呟きながら頭を下げ。
死にたいと思う程の最大の罪を言葉にした。
「……人を、殺してしまいました……っ!」
だからもう人の世では生きられない。
紫苑は土に両手を付き、後悔に泣き叫んだ。
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さあついに潜入・夢主編です。
千鶴の島原騒動と同時期ですが、夢主には出家してもらいます。
女の格好させてみたい願望があったんですが、
髪が短すぎて本当に女装できなかったという裏話。
現代ほどのカツラ技術があればよかったんですけど……無理でした。
やっと近藤さんとの絡みが出せて満足してます。
ここからしばらく長いですが、気長にお付き合い下さい。