招き入れてくれた尼僧は、名を苑秋と言った。
華奢な体付きであるが、目尻の皺が長年此処の庵主を勤めている事を語っている。
何よりも眼差しがとても優しくて、母親のように包み込んでくれる温かさがあった。
「私は……人を殺めました」
静かに耳を傾けてくれる苑秋に、紫苑は少しずつ事情を口にした。
江戸で女らしからぬ剣術を習っていた事、その道場の留守を預かっていた事。
もちろん流派や新選組に関係する事は一切喋らず上手く言い換えていたが、
現実味を持たせる為にほとんどが事実だった。
「私が守らなければいけなかったんです。なのに……見知らぬ男達がやって来て」
誰にも話した事はない、この先話すつもりもない過去を、吐き出した。
翡翠 三
―――「へえ、此処が噂の田舎剣術の道場か!」
突然に響いた、乱暴に踏み込んでくる男達の声。
がらんとした道場で彼らは私だけの姿を捉えた。
「寂れてんなぁ。しかも女しかいねぇし!」
「今は宗主も代理も不在で、私が留守を預かっている身です。何かご用ですか?」
ちょうど誰もいない今、道場を守るのが私の役目だった。
こんな時に道場破りなどされて天然理心流に傷が付いてしまってはいけない。
どうにかして立ち去ってもらおうと冷静を装って立ち塞がったが。
彼らは私を見て、さらに吹き出して高笑いを始めたのだ。
「はっ、女が道場の留守?冗談にも程があるぜ!」
「女に守らせる程度のどうしようもねぇ流派だな!わざわざ出向く価値もなかったぜ!」
「……私の事はいくらでも軽んじられて結構ですが、天然理心流を馬鹿にしないで頂けませんか」
当時、私は血の気が多かった。そして勝てる自信もあった。
大切な"家"である試衛館を馬鹿にされればすぐに怒りを露わにしてしまう自分だった。
口調を強めて睨み付けると、三人の男達は獲物を見つけたようににやりと笑った。
こんな華奢な女に言われて腹の底から可笑しかったのだろう。
「へえ、言うじゃねぇか。お前、仮にもその流派を背負ってんだろ?だったら勝負しようぜ」
その言葉に乗って仕合を了承してしまった。
今まで私を"女だから"と蔑み、腕を認めてくれなかった者達と同じ。
だから絶対に負けたくなかった。そして、どうしても自分の腕で叩き伏せてやりたかったのだ。
「はっ!」
「く!……へっ、やるじゃねぇか」
一人目の男を簡単に打ち倒せた事で、私は勝利を確信した。
だが二人目の木刀を正面から受け止めようとして、すぐ真横に現れた影に意識が逸れてしまった。
「な……っ!」
元より公平な一対一となるはずがなく、最初からこれを狙っていたに違いないが油断していた自分に対処する術はなかった。
襲ってくる一人と戦っている隙に、背後から二人が執拗に回り込んで此方の隙をついてくる。
そしてついに両腕を羽交い締めにされ木刀を奪われ、応戦しようとしても既に遅くそのまま床に引き倒された。
四肢に無遠慮に加わる体重、そして下衆な目がいくつも私を見下ろしていた。
「はっ!もう抵抗しねぇのか?」
「っ!やめ……っ!」
自分の力など、非力なものだった。
あっという間に押さえ付けられて、口を塞がれて、懐をまさぐられて。
いくら足掻いても駄目だった。
どんなに力を込めても、動いてくれなかった。
「女のくせにこんな物持ってるから痛い目見るんだぜ!」
――どうして。女は剣を握ってはいけないの?
「あんまり男を馬鹿にするんじゃねぇぞ!」
――どうして、女が男より強くなってはいけないというのか。
「女は大人しく男に組み敷かれてればいいんだよ!」
「っぃ……いやああああ!!!」
――……どうして。
巻いていたさらしをいとも簡単に解かれ、隠されていた膨らみを乱暴に扱われながら。
言葉にならない叫びを上げ続け、嫌悪と絶望だけが脳内を占めていた。
――嫌だ、嫌だ!誰か……誰かぁ!!
心の中で助けを呼んでも、大切な人達の名を呼んでも、叶わなかった。
混乱にぼやけた視界にかつての仲間達はいない、あるのは歪んだ唇といくつもの手。
どうにかして逃げたいのに逃げられない、この自分を侵していく存在が許せない。
"どうして"とこの世の不条理に顔を涙で汚しながら、どす黒い感情が奥から吹き出していく。
――憎い……ただ憎くて堪らない。
大切な試衛館を穢す奴等が、神聖な道場で私を辱める奴等が憎い。
憎い、殺したい、殺してやりたい、殺してしまいたい。
私を組み敷く奴等を、女を軽んじる奴等を。
――殺してやる……殺してやる…………殺してやる!!!
「っ、があぁっ!!」
それが爆発した時、どうやって男達の手から抜け出せたのかよく覚えていない。
動物のように雄叫びを上げて、全ての力を出し切って太腿に進んでいた手を振り切った。
そのまま狂い始めていた思考で体裁も何もなく這うように道場の隅へ駆けた。
そして象徴として飾られていた真剣を手にし、言葉さえなくした唇で咆哮をあげた。
目は血走り、涙でぐしゃぐしゃであっただろう。
ただ自分を追いかけてきた目の前の男達を殺す、それだけしか考えていなかった。
「うああああああああ!!!!」
視界が、赤一色に染まった―――
「夢中で刀を振るって……気が付いたら男達が全員横たわってて……っ!」
血溜まりに浮かぶ塊に、渾身の力を込めたであろう刀が垂直に突き刺さっていた。
初めて人を斬った。
自分が振りかざした凶器で肉が裂けて、赤い鮮血が飛び出して、倒れていく男達。
「怖くて……何が起きたか自分でも信じられなくて……!」
瞳孔の開ききった目は絶え間なく涙が溢れ。
両腕を抱き締めるようにして縮こまって震えている紫苑の背中を、苑秋は優しく撫で上げた。
「大丈夫、ゆっくりでええんよ」
包み込むような柔らかい声に、ようやく現実を思い出して苑秋を一度だけ見上げたがすぐに項垂れた。
儚く、生気さえも失ったような、壊れかけた笑みを宿して。
「……死ぬつもりだったんです。汚れてしまったから……もう、生きていられないと」
江戸を飛び出してふらふらと彷徨って、何処かの山奥で誰の迷惑もかからない所で命を絶とうと。
譫言のように声を絞り出すと、苑秋は悲痛に満ちた表情を浮かべ。
そして歩いてきた道のりの遠さにも驚いていた。
「でも、できなかった……」
紫苑の瞳から再び涙が溢れた。
「思ってしまったんです……どんな理由があったとしても、私は罪人で……
自分だけひと思いに楽になってしまっていいものだろうかと。
あの人達は私に……乱暴したけれど……元は私が挑発してしまったから……」
女としての自尊心や無駄な自信で喧嘩腰で接しなければ、もっと穏便に済んでいたのかもしれない。
そう考えたら、どうしても自分が悪いような気がして堪らなくなった。
後悔と恐怖が、この身に押し寄せてきた。
「本当は死にたい……もう知らない男の人に会うのが怖い。あの悪夢のような日を思い出したくない……!
女として見られたくなくて髪も切って……此処まで悩みながら来ました」
「そう……辛い思いをしはったんどすなぁ」
ばっさりと切り落とされた髪の意味を知り、苑秋はさらに悲しそうに瞳を伏せた。
「だから苑秋様……私を仏門に入れて下さい……
死ぬ以外ではこんな事ぐらいでしか、罪を償う方法が見つからないんです……」
罪人の私が必死に考えた償いの道です、と縋るように見上げた。
「それができないのならば……私を殺して下さい」
「……紗矢はん、あんたはんのご家族は?」
しばらく考えた後に苑秋は静かに尋ねたが、紫苑はぴくりと肩を震わせた。
一度だけ言葉を詰まらせ、だけど躊躇いながら口を開いた。
その不自然さは、まるで"禁句"であったかのように。
「父は、病気で」
父は不治の病にかかり、紫苑に看取られながら眠りについた。
試衛館に誘われる少し前の事だった。
「……母は私が幼少の頃に、自害しました」
「、え……」
母は、その精神を病んで自ら命を絶つ道を選んだ。
幼い自分にはその理由がわからなかったが、父が死ぬ直前に遺言のように教えてくれた。
「母は弱い人だったと……父が言っていました」
消えてしまいそうに微笑んだ紫苑に、苑秋は心から詫びた。
苑秋は紫苑の告白を受け止め、やんわりと微笑んだ。
気持ちの落ち着いていない今ではまだ得度できそうにないからと、
ひとまずは滞在してゆっくり考えなさいと苑秋は言った。
出家するという事は、俗世を全て捨てるという事だからと。
部屋を与えられ、一人になった紫苑は何をする訳でもなく畳に座り、両掌を見下ろした。
あの時真っ赤に染まったこの体は、今でもあの感触を覚えている。
掌にあるいくつもの肉刺の跡を眺め、そして自嘲の笑みを浮かべた。
(私はそんなに弱くもないし、出来た人間ではないよ)
すらすらと口から出た物語に自分でも驚いていた。
実際はあんな事を思う暇もなく、ただ目の前に飛び込んだ光景の為だけの決意をしたのだから。
死のうとも思わなかったし、罪を償う為に生きようとも思わなかった。
昔も今も紫苑に渦巻いたのは憎しみと悔しさだけ、後悔などしていない。
(ごめんなさい、苑秋様)
彼女の眼差しは本当に慈愛に満ちていて、素直な心で紫苑を見つめていた。
それが少し後ろめたくもあり、自分が純粋ではない事に気付かされてしまった。
(……さて、とりあえず潜入は成功かな)
本来の任務の為にとにかく状況把握からしなければならない。
思い出してしまった過去を振り払って紫苑は立ち上がると辺りを見渡した。
苑秋は去り際に微笑みながら一言だけ付け加えた。
"離れの建物は、朽ちかけているから行ってはいけない"と。
(いきなり怪しい……やっぱり当たりか)
本当に危ないから禁止したのか、それとも其処に紫苑が入ってはいけない何かがあるのか。
紫苑はこっそりと部屋を抜け出て廊下を歩いた。
手水や水場を軽く案内してもらった今日ならば、たとえ見つかってもいくらでも嘘がつける。
配置を把握する為にも周囲を調べていると、生い茂った林の奥にある古ぼけた建物が目に入った。
あれが離れか、と近づく道を模索していたその時。
「っ……!!」
驚愕に息を詰まらせ、ほぼ反射的に身を隠した。
(な、んで……風間が……っ!?)
微かに見えた明るい髪色、夜にも映える白い着物、
何より本能的にあれが過去に剣を交えた事のある人物だと教えてくれた。
紫苑は風間と顔を合わせた事がある。
相手に覚えられていなければ幸いだが、知られていればこの潜入は失敗だ。
それだけでなく自身の命が危ない。
(でも、だからって……逃げ出せない!)
風間は木の陰から物憂げに離れを注視していた。
あそこに何があるかまでは判別できないが、少なくとも彼に関係するものがあるという事だ。
ならば多少危険でも確かめるべきなのだろう。
信頼されて土方に命じられた任務、こんな事で終わらせたくなんてない。
(何とか、見つからないようにすれば……)
相当な手練れである彼の存在をすり抜けるようにして任務を遂行できるだろうか。
わからないが、やってみるしかない。
決心した紫苑は今夜の偵察はここまでだと、細心の注意を払って来た道を戻った。
隠しきれない鼓動が、自分の動揺を物語っていた。
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潜入編にヒロインの過去が混ざってます。
襲われてますが一応は最後までいってません。
一番の難関は京言葉です。それが何よりも苦労します。
エセ方言ですので違和感は確実にあると思いますが、どうかご勘弁下さい。