(いない、な……)
風間がいない事を確認し、細心の注意を払いながら紫苑は離れまでの道を草むらから進んだ。
監察方として息を潜めて様子を探る必要もあると、山崎や島田から指導を受けていたが、
まさかこんな形で実践する事になるとは思ってもいなかった。
しかも此処には自分しかいない、自分の判断次第で命の危険、もっといえば新選組が危険に晒される。
こんな重要任務を宛ててくれるほど信用してくれるのは本当に嬉しいのだが、反面に重圧を感じる。
喉に溜まる唾を飲み込んで、掌の汗を意識しないようにして離れの壁に顔を近づける。
朽ちかけた建物の中からは僅かな灯りと、男達の話し声が聞こえた。
(やっぱり当たりか)
はっきりと会話が聞き取れる訳ではないが口調は西方の訛りを感じるし、内容からしても尊攘派なのは間違いない。
「我々は一体いつまで……潜んでいればいいのか」
「桂先生の考えは……」
「だが……壬生の狼をのさばらしておくのは……」
「待つしかあるまい」
(桂、小五郎……という事は長州藩の人間……?)
重要人物の名は一通り覚えさせられ、その中でも"桂"の名は高頻度で登場していた。
かき集められた言葉だけで彼らの出身が特定できたのは幸いだった。
恐らく此処は、表立って動けなくなった長州藩士の隠れた拠点なのだろう。
幕府側の人間として、新選組として、この事実は放っておけるものではない。
副長の判断次第では討ち入る事もあるだろうと、紫苑はとにかく会話から情報を集めて離れを後にした。
(……だけどどうして苑秋様が彼らを?)
どうしてこんな男性禁制な場所に匿わせ、紫苑にも近寄らせないようにしたのだろう。
彼女が倒幕派の人間であれば一番簡単な答えであるのだが、生憎彼女には一切そういう素振りは見られなかった。
数日間苑秋に習い仏に手を合わせていたが、彼女は一心に念仏を唱えていた。
世を捨てる事がどういう事かを丁寧に説き、世に対する偏った思想は表向きは感じられない。
そして何より、彼女は本当に優しい人だった。
紫苑のような"世捨て人"とは違い慈愛に満ちあふれ、尼としての生涯を真摯に受け止めていた。
さらに彼女はどんな生き物にでも手を差し伸べようとするのだ。
実際庵には犬や猫などの動物が多く、紫苑の潜入を困難なものにさせているのは余談だ。
だからもしかすると、彼女はどのような人間でも構わず救おうとするのかもしれない。
殿方禁制という事すら気にせず、助けを求めてきた者は誰でも。
そんな事を紫苑は思った。
「苑秋様、表の掃き掃除をして来ます」
「お願いね、紗矢はん」
そして今日も変わらぬ朝、苑秋にも変わった所は見られない。
穏やかな眼差しに一礼して外に出ると、山奥である事も相まって落ち葉が敷き詰められていた。
これを綺麗にするには労力を要するなと、軽く吐いた息は白くなった。
この頃は一段と寒い、もしかしたら雪が降るかもしれない。
そう思いながら熱心に箒を動かしていると。
「お、まいどすんまへん!」
「っ!」
重そうな籠を背負いながらも山道を颯爽と男が登ってきた。
景気よく声をかけられたものだから紫苑は箒を抱き締めるようにして肩を跳び上がらせた。
「いつもご贔屓にさせてもろてます!」
「、や……っ!」
男が笑顔で近づいてくる、それだけで紫苑は必要以上に怯えて後ずさる。
その不自然な程の警戒ぶりに男は「あれ?」という顔をして立ち止まった。
「……もしかして、怪しい男とでも思てはります?」
「ご、ごめんなさい……私……っ」
「ああ、もう近づかへんて!野菜を売りに来ただけやし!」
髪を隠していた頬被りをさらに深く引き下げ、紫苑は涙目で震え上がる。
男は慌てて手を引っ込めて、宥めるように早口で喋った。
この辺りの山寺を訪ねて回る物売りのようで、今までも此処にも何度か来たと言う。
まだ若いであろう男は、爽やかに籠から野菜を取り出して紫苑に見せた。
「いくつか持ってきたさかい、買うて欲しいねんけど」
「、……でも」
「苑秋様に聞いてもろたら必要な野菜頼んでくれはると思うで」
「…………」
(これは、本当に聞きに行けって事……?)
そう、これは全て演技なのだ。
紫苑は"何かしらの形で監察方が報告を受け取る"と土方に事前に言われていたから、
どんな変装をしてくるのだろうと色々な予想はしていた。
あらかじめ"男が苦手な女"という前提で潜入すると伝えてあったのでこそこそと報告するのかと思いきや。
こんなにも堂々とやってきて野菜を売りつけられるとは。
(でも、何回も来てて顔見知りなら一番怪しまれないのか)
変装した監察方が突然来て、その野菜を買ってもし苑秋に不審がられたら……それが不安だったのだが。
元々、伊東甲子太郎が出入りしていたかもしれない尼僧庵を探る為に変装して接触していたのだろう。
暫く考えるようにして顔を上げると、野菜売り――山崎はにこりと笑顔を作った。
「……じゃあ、聞いてきます、から」
とりあえず山崎に言われた通りに確認に行くと苑秋は「ああ」と笑い、あっさりと紫苑に野菜を頼んだ。
本当に彼女が把握していた事に半ば感心しながら戻ると、紫苑は人間不信さを出しながら答えた。
「……かぶらと葱をと、苑秋様が」
「へえ、おおきに!」
山崎はてきぱきと野菜をまとめてくれた。
そしてその代わりに、小さく折りたたんだ報告書と代金を山崎の掌に忍ばせた。
前置きがもの凄く長かったが、ようやく目的の物が渡せて紫苑は内心で安堵を息をつく。
「ほな、また良い物仕入れて来ますわ!」
「……はい」
次に彼が来る時は、土方からの指示書が渡される事だろう。
そして紫苑の今後の行動が決まる。
少しだけ緊張に眉をしかめて野菜売りを見遣ると、軽い足取りの彼の背中はかなり小さくなっていた。
(これは……本当に捕り物になるかもしれないな)
伊東派の密会相手なのかはわからないが、長州藩士の拠点なのは確かな事だ。
離れにいる男達を思い出しながら、紫苑はもう一度箒を握り締めた。
翡翠 四
この日、伊東派が外出している隙に新選組の屯所では内密に幹部が集められた。
それも試衛館からの馴染みのおけるごく数人だけで、息を潜めるように身を寄せていた。
聞き耳がないかだけを確認して副長の土方は言う、尼僧庵での怪しい目撃情報を元に、
そこで尊攘派の浪士が匿われている事を突き止めたと。
第二次長州征伐が起こり幕府側の実質敗北が決まった頃に舞い込んできた長州藩士の潜伏は、
幕府としても新選組としても見逃せるものではない。
「もたもたして逃げられねぇうちに、その尼僧庵へ討ち入る。
これはお前達信頼できる幹部連中にしか任せられねえ一件だ。そのつもりでいてくれ」
土方が粗方の説明をしていると仲間内で関心の声がいくつか聞こえた。
口を挟むように、彼らを代表して沖田が素朴な疑問を投げかける。
「それにしても、よく尼僧庵で見つけられましたよね。
そんな所に隠れられたら僕達ではどうも入り込めやしないのに」
「そうだよな、女しか入れねぇんだから」
「さすがに山崎君とかも女装は無理そうだし」
うんうんと永倉も相槌を打った。
いくら監察方が有能でも、尼僧庵の奥の内情までは容易に探れない。
だからどうやって、という幹部達の目を向けられたが土方は事も無げに続けた。
「ああ、だから最も適した人物を送り込んだ。そこそこ腕が立ち、男禁制の場所でも入れる奴を」
「へ?そんなおいしい思いできる奴いるか?」
「千鶴じゃねぇだろうしな、ずっと屯所にいるし…………まさか」
永倉の主観はさておき、原田達もその唯一の人間に見当が付く頃、答えたのは斎藤だった。
「……紫苑、ですか」
「ああ」
(、え……?)
驚いたように顔を上げた平助には気付かず、原田は戸惑いながらも納得の声を漏らした。
「そりゃ……あいつなら全く問題ねぇし、ある程度危険に晒されても切り抜けられるだろうし……」
「なんだ。土方さんのお使いに行かされてると思ったら、そんな楽しそうな事してたんだ」
「総司、滅多な事を言うんじゃない。下手をすれば命に関わるのだから……」
(あいつ……大丈夫なのかよ……)
井上は女としての紫苑の身を純粋に案じていたが、藤堂だけは違った。
試衛館で起こった事件を唯一知っている藤堂は、今回の潜入は精神的にも辛いのではないだろうかと。
例えばその長州藩士に見つかり、過去と同じような目に合わされるかもしれない。
そこまでなくとも、紫苑の痛みを呼び起こすには十分なのではないかと思う。
大事な仲間であり、そして過去を唯一知っているからこそ、できる事ならそんな思いはしてほしくない。
一人で悶々と悩む藤堂を余所に、土方らの話は続いていく。
「……だから俺達にしか任せられない、という事ですか」
「そういう事だ」
この案件を説明する為には、まずどうして尼僧庵に潜入できたのかから説明しなくてはならない。
だが紫苑が女だからという事は秘密であり、だから始めからその事実を知っている者にしかできない任務なのだ。
「潜入中の紫苑が浪士達を引き止めている隙に庵に突入する。日時はあいつからの伝令次第だ」
早くそんな危険な所から救い出してやらねば、藤堂だけが焦りを感じていた。
寒さが一層染みてくる夜更け頃、紫苑は正座で静かに目を閉じていた。
男に襲われ人間不信となった女を演じて数日が経った。
尼になる為の勤めを懸命にこなし、苑秋からはそろそろ得度の時期だと告げられた。
元々惜しくはない髪だ、別に剃髪にする事に抵抗はない。
だが唯一躊躇いを感じるのは苑秋の無償の優しさだった。
彼女は疑いもせず紫苑を信じ、いつも気に掛けては諭してくれる。
任務で苑秋を騙し続け、さらに紫苑に"あの時の殺人"に対する後悔の気持ちがない以上、この生活は全て裏切りだ。
(せめて、苑秋様が悪者であればいいのに)
あの真っ直ぐすぎる心が、本物でなければいいと思っている。
残された僅かな罪悪感が沸々と紫苑を責める。
自分は男となり、新選組となり人を斬る道を選んだ。
彼らの意思を貫く為には、邪魔になる物は全て排除する気でいる。
だからこうも女として扱われ、本気で心配されると正直戸惑いを感じて仕方ない。
自分が悪い事をしている、そんな気にさせられるのだ。
(本当の尼になる前に……終わらせて、ここを出たい)
この罪悪感が大きくなる前に早く屯所に戻りたい。
そしてあの放っておけない性格の彼に、どんな冷たいものでも構わないから労いの言葉をかけて貰いたい。
そうすればこの任務は全て"正義"になる。この晴れない感情から解放されるはず、だから。
紫苑は勢いをつけて私室から出ると、定期調査へと向かった。
土方からの命令が来る前に立ち去られてしまわない為の探りだ。
溶け込むように夜の闇に身を投じ、そのまま音も立てずに草木を掻き分ける。
少し遠い場所にある離れへと近づいていると。
突然、気配もなしに背後から手が伸びた。
「っ!!」
「貴様か、近頃この辺りをうろちょろ嗅ぎ回っている鼠は」
片手で易々と紫苑の両手を封じ込め、喋れないように口までも塞がれて。
ゆっくりとした口調であったが、頭上から聞こえる低く重い声が体を縛り付け。
(、この声は……っ!!)
それは確かに風間のものであったと認識した瞬間に、紫苑は全身が冷たくなるのを自覚した。
どうしよう、ついに見つかってしまった、そんな動揺ばかりが脳内を占めて、じわりと恐怖に変わっていく。
「新しく入って来た尼らしいが、何処の間者だ。幕府の手の者か、それとも別の藩か」
獰猛な獣が唸るように続く冷酷な言葉に、心臓が鷲掴みにされた。
がたがたと震える醜態だけは晒したくなくて、必死で自身に力を加えて耐え続ける。
(風間に、下手な嘘は通用しない……!)
終わりだ、何もかも。
耳にまで伝わる自身の鼓動の音を聞きながら、熱さと冷たさが体中を行き来する。
動揺や恐怖、冷静と混乱が入り交じった思考で、とにかく絞り出した答えは唯一つ。
何も言わずに、自害するのがいい。
「っ……が!」
だが舌を噛む事が予想されていたのか乱暴に口を開けさせられ、驚異的な力で顎を掴まれた。
おかげで口を閉じる事もできない無様な格好になったが、紫苑にはそんな事どうでもよかった。
とにかく新選組の者だとは死んでも知られてはいけない、それだけだった。
「ん……?貴様の顔、何処かで見た覚えがあるな」
「っ!」
二条城で一度、風間の前に立ち塞がった時の事だろう。
(駄目だ、悟られる!!)
無理矢理に上を向かされ、刺すような赤い視線に紫苑は捕らわれた。
怖くて、骨が折れそうな力にあがなってでもどうにかして顔を背けたかった。
顔が変形しても、骨が砕かれても構わないからと。
このままあの目を見ていたら、ただ怯えるだけで何もできなくなってしまう。
思いつく限りの抵抗を加えて身動ぎしても、どうとでもないという顔で見下ろされ。
暫し記憶を辿っていた風間だったが、やがてニヤリと侮蔑の表情を浮かべた。
「……貴様、新選組とかいう犬か」
「な……ち、―――!」
「しかも女だったとは」
「っ!触るな!」
確かめるように乱暴に胸を掴まれ、嫌悪を覚えた紫苑は反射的に暴れた。
だが興味を持ったのか風間は笑みを漏らすばかり。
「女、何故そうまでしてあの犬共に従う」
拘束されていた顎が解放され、喋れと促される。
だが薩長と関連する者に話す事など何もない。
お断りだと身を捩らせるが、両手を締め付ける力が骨が軋むほど加圧されて。
「無駄だ。俺に敵う訳がないとわかっているだろう?」
「ぁ……っ」
「興を削ぐような真似をすれば今すぐ殺すぞ」
本能的な恐怖を読み取られ、一層に赤い眼は凄みを増した。
(どっちみち殺すくせに……!)
それでも屈したくない紫苑は、赤い双眸をただひたすらに睨み付けた。
怖い、怯えてしまう、だけど負けたくはなかった。
"あの時"のような力の差で、ねじ伏せられたくはなかった。
「幕府の子飼いは女まで使役するのか」
「……違う……私が、自分の意思で選んだ……っ!」
「ほう、髪までそれらしくしてか?だが女をこのような場所に使い、何の利益があるというのだ。
武士としての誇りすらない上に、余程節操のない犬だと見える」
「、を……侮辱するな!」
新選組、そう言葉にはしなかったが風間には十分に伝わっているだろう。
話す気など更々なかったが、馬鹿にされればどうしても怒りを覚えてしまう。
監察方としては失格だろうが、どのみち自身の命は風間に握られている。
こうなれば絶命する前に喉元に噛み付くぐらいはしてやろうと、荒んだ目で睨み上げると風間から笑みが消えた。
「殺されるとわかっていながら、吠えるか」
「…………吠えてやる、最後まで」
風間と紫苑の交差する視線、込められているのは殺気だった。
死すらも躊躇わぬと、敵意を剥き出した表情をする紫苑は、およそ女には見えない。
いや、女の姿であったからこそ、その殺意は常軌を逸した物に感じられた。
「……まあいい、此処にいる奴等は腑抜けばかりだ。どうなろうと俺の知った事ではない」
「っ……?」
直前までどちらが先に手を出すか、そんな一触即発な状態だったにも関わらず。
溜息をついて獰猛な気配を緩めた風間に紫苑は唖然とするばかり。
「俺は"様子を見ろ"と命を受けただけ、死なれても俺は困らん。勝手にしろ」
「、え……」
(見逃すって事……?このまま男達を襲撃してもいいって、事……?)
先程とは違う混乱に襲われた紫苑は思わず体中の力を抜いた。
自分としては大変有り難いが、様子を見に来たという風間にとってはそれでいいのだろうか。
だがやる気のない風間を見る限り、もう紫苑を殺す気もないのだろう。
雑に体を解放されて、放心状態で見上げるが。
「面倒な役目を押しつけられたものだ……」
と一人で零す言葉は、恐らく彼に命令した藩の上役へ向けて発している。
「あ、……あの……」
「何だ」
「…………いえ」
見逃してくれてありがとう、何て言う状況じゃない。
殺す気にもならない、そんな"面倒"で命拾いしただけの事だが、
ふいに話しかけてしまったのに意外にも答えが返って来て、さらに驚かされるばかり。
「……此処に、幕府の……新選組の人間が来ませんでしたか」
「知らん。あの者達が此処に逃げ込んだのは数日前からで、俺が寄越されたのはつい最近だ」
「…………」
(なら、今いる人間と伊東さんが接触した人間は別……?)
何故か普通に教えてくれて、本当によくわからない人だと紫苑は思った。
だが今回の潜入の核心を突く情報は得られた。
「さっさと部屋へ戻れ。俺が帰れぬだろう」
「は……はい」
狐につままれたような顔をしながら、とにかく気が変わらない内にと紫苑は部屋へ逃げた。
死を覚悟した心臓はいつまでも高鳴ったまま、この状況に思考はまともに動かず。
ずるずると畳に座り込めば、荒い呼吸を繰り返しながらも何故か笑みが漏れた。
生きている嬉しさ故にか、"鬼"の不可思議な行動故にかは紫苑にもわからない。
両手首に残る赤い痣が、未だ視界で震えていた。
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詰め込みすぎて長くなりました。
大阪弁まで出して完全に自爆。
山崎には主人公が女だと伝えてあります。
そして何気に井上さん初登場。
いつもいるのに台詞がない人その2。