「総司」
「あれ紫苑、そんな怖い顔してどうしたのさ」
「仕合い、しようぜ」
いつにも増して真剣な表情で木刀を向けてくる紫苑に、沖田はくすりと笑って立ち上がる。
「言っておくけど、僕負けないよ?一君みたいに指導とかしないし」
「いい、わかってる」
それ以上余計な会話もなく打ち込みが始まった。
尼僧庵での任務を終えて、紫苑が何よりも気にしていたのは沖田の体調だ。
しばらく屯所を留守にしていたからどんな状態だろうと様子を窺っていたが、
やはり治っているようには到底思えなかった。
むしろ確実に、少しずつ悪化している。
「動きが鈍くなってるぞ、総司!」
「少し風邪気味だからね……っ」
いつもは余裕で紫苑の攻撃をかわしていたのに、今の彼は必死に動いている。
剣に誇りを持っている彼はわざと負けるなんて事はしないのに、この優劣はどういう訳か。
女の自分が沖田を押している、その事実が悲しくて紫苑は唇を噛み締めた。
脳裏に映し出された光景が現実のものになろうとしている。
屯所を離れている間に少しでも彼の体調が良くなっていればいい、
そんな紫苑の僅かな願いさえも打ち砕かれ絶望ばかりが湧き上がる。
「っ……!」
苛立ちを隠さないまま腕を振り上げると、沖田の持っていた木刀が宙を舞った。
それが無残にも地面に転がる様子を見届け、彼は息を切らせながら笑っている。
「あーあ、負けちゃった」
軽く言ってのけた口調に、反対に泣きそうに顔を歪ませたのは紫苑だった。
「本当に……風邪なのか?」
「…………」
「それ、本当にただの風邪なのかよ!!」
松本良順が行った健康診断の時も二人は真剣な顔付きだった。
あの時には恐らく何らかの診断はされていたのだろう。
「俺が総司に勝つ事なんてなかったのに!いくら手を抜いたって、総司は簡単に勝てるだろ!?」
紫苑の悲痛な叫びを、沖田は静かに聞いていた。
紫苑にとって沖田は憧れだった。
しなやかに動き、それでいて冷酷で確実に相手を仕留める彼の剣を、ずっと目指していた。
昔からどれだけ挑んでも一度も勝たせてもらえなかった。
いつも本気で打ちのめされて、そのたびに意欲を燃やしていた。
いつか、一度でいいから彼に勝ってみたいと。
それが今こんな形で実現するとは。
悔しくて、腹立たしくて、泣きそうになる。
「君が心配する事じゃない。君は土方さんの事だけ考えてればいいんじゃない?」
「総司!」
紫苑が咎めるような目を向けると、沖田は笑ってばかりいた表情を少しだけ翳らせた。
砂にまみれた木刀を見つめながら、ふっと息を吐いて。
「…………黙っていて、みんなには」
「――っ!」
それは病を肯定する言葉だった。
症状から判断して、恐らく死病と言われている労咳だ。
「僕は此処にいたいんだ、わかるよね?」
「……っ」
(そんな……総司が、労咳なんて……!)
予想していたのに、口に出された瞬間に頭を殴られたような衝撃が走った。
有名な死病だ、いくら彼が強くても病には勝てない確率の方が高い。
呆然と視線を彷徨わせていると沖田が久しぶりに口角を吊り上げた。
「君がどんな想像してるか知らないけど、僕は簡単には死なないよ」
強がりだとも、本人が一番辛いのだともわかっていた。
だけど今日ばかりは飄々と言ってのける態度が気に入らない。
"あの場面"を見せられては冷静ではいられなかった。
思い出すだけでもぞっとする、あの血だらけの体。
「……俺は、見たんだ……総司が……病に倒れる姿を」
「へえ?療養しろっていう新手の説得?ああ、夢で見たとか?」
「…………」
どう表現したらいいのかわからない。
答えられずに眉を潜めるていると沖田はふいと顔を逸らした。
「そんな訳の分からない夢で勝手に僕を殺さないでよ」
「っ、総司!」
立ち去ってしまう沖田の背中を見つめながら、紫苑は瞼をきつく閉じた。
――あれは夢なんかじゃない、自分の直感がそう語っている。
当たってしまったのだ、見てしまったのだ、未来を。
「母さん……俺、母さんの気持ちが、今わかった……」
どうして自分は、何もできないのだろう。
翡翠 六
―――家は農家だった。
だけど母親は紗矢が物心つく頃に既に他界、父親も病で伏せってしまっていた。
親戚付き合いもなかった紗矢の家は長年二人暮らし、貧乏ながらも野菜を売りながら細々と生活していた。
だが父の病状がいよいよ悪化すると、動ける者は紗矢以外にはいなかった。
必然的に紗矢が家の事を全て行い、畑仕事をしては一人で商売に行き、家に戻れば父親の世話をしていた。
甲斐甲斐しい娘だと周りの住人は言うが、彼女は他の家の娘とは少し違っていた。
「紗矢……また縁談を断ってしまったのか」
「あんな田舎道場の女房なんて嫌です。あそこの門人全員伸した事あるし」
「そうか……あそこの跡取りは結構いい男だと思ったんだがなぁ」
「自分より弱い男なんて真っ平御免だもん」
床に伏しながらも呆れたような目を向けてくる父に紗矢はプイと顔を背けた。
紗矢は世間で言えば"とんだじゃじゃ馬娘"だった。
何よりも木の棒を振っている方が好きだと言い、近くの道場に通っては男達を叩きのめして帰ってくる。
間違えて女に生れてきてしまったのだろうか、そう思ってしまうほど紗矢の"剣"に対する自尊心は高かった。
「だが、俺もそう長くはない。早く嫁ぎ先を見つけてやらねば、お前が独りになってしまう」
「何言ってるの。父さん置いていける訳ないでしょ」
「……すまん。お前には苦労ばかりさせているな……」
「いいよ私は。充分好きに生きてる」
ふわりと笑うと突然に父は黙り込み、ふっと真剣な表情で見上げた。
「……紗矢、母さんを恨んでいるか?」
「え?」
ずっと母親の事を口にしなかったのに、突然そんな事を言うものだから紗矢は少し驚いた。
小さい頃の記憶だから母親の顔は今やほとんど曖昧にしか思い出せないというのに。
「勝手に逝ってしまった母さんを。そのせいでお前に良い思いをさせてやれなかったしな」
「恨むなんて……そんな事思う訳ないじゃない。ただ吃驚したぐらいだよ」
「そうか……すまんな」
「何で父さんが謝るの」
「……母さんがああなったのは、俺のせいでもあるからな」
「え……?」
紗矢が目を見張るが、父親はずっと穏やかな表情だった。
「母さんは……弱い人だったんだよ。天命が怖くて、逃げてしまった人だ」
「……どういう、事?」
母は自害だった。
だけどその理由までは当時子供の紗矢には知り得なくて、父もまた言おうとはしなかった。
それを今、遺言のように語り出す。
「……母さんは知ってしまったんだ。いつか俺が、不治の病にかかるという事を」
言っている意味が初め理解できないほど、告げられた真実は信じがたいものだった。
「お前の母親の家系には先の出来事を読む力があったそうだ。
母さんの代の頃にはもうほとんど力はなかったらしいが、唯一"見えてしまった"のが俺の天命だった。
どうやっても変えられない未来を知ってしまったと、母さんは絶望して泣き崩れていたよ」
「……何、それ……」
未来を読む、そんな嘘みたいな話なのに、まさか母親がそれにあたるとは。
どれだけ理解しようとしても夢物語に聞こえてしまうのは仕方がないだろう。
「俺は言ったんだ。"人はいつか死ぬ、その時まで幸せに生きていけばいいんだ"と。
だが……俺の死を見るのは耐えられなかったんだろうな。だから母さんは……自ら命を絶った」
「…………」
父の言う通り人はいつか死ぬ。どんな時期で、どんな最期かはその時までわからない。
それは誰でも一緒であるはずなのに、知りたくもなかった"光景"を知って自害した母は、やはり弱かったのだろうか。
「紗矢……もしもこの先、未来を予見しても抗おうとするな。受け入れるしかないんだ。
未来を先に知っても良い事など何もないんだ。ただ、今を生きていけ」
母さんの血を継いでいるお前ももしかしたら"見える"かもしれないからと、父は言う。
「強く生きろ、でなければ運命に流される。お前の母親のように」
それを伝えた次の日、父親は眠るように息を引き取った。
ついに天涯孤独になってしまった紗矢は身の振り方に悩んだ。
婚期を逃している事は当に自覚している。
どこかに奉公に行ってもいいし、自力で嫁ぎ先を探すのも女の道だろう。
一生独り身でこの田舎の畑を耕しながら細々と生きるのもいい。
だが紗矢はこの時、「だったら剣の道を極めたい」と思ってしまったのだ。
下働きをしながらどこか良い道場の門弟にさせてもらって、好きな事に没頭したいと。
「……どんな風に生きてたって、どうせいつか死ぬんだ。だったら好きな事をやりきって死にたい」
それから紗矢は数々の道場を巡っては馬鹿にされ、追い出される日々を送った。
そして、仕合いを見ていたという"ある男"に声をかけられた事がきっかけで、最後に試衛館の門を叩いたのだった―――
「紫苑、どうかしたかい?」
「え?」
我に返れば、心配そうな顔で此方を窺っている井上がいた。
目の前には煮立ち始めた鍋がふつふつと湯気を登らせている。
ああ、と慌てて中身をかき回すと、摺り下ろした大根がふわふわと泡立った。
これ以上煮立たせていたら味が飛んでしまう所だったと、紫苑はこっそりと胸を撫で下ろす。
「すんません、源さん。ぼうっとしてました」
「それはいいんだが……やはり何かあったのかい?」
この前の任務の時に、とまでは口にしなかったが十分に伝わった。
意識を飛ばすように考え事をしていたのだ、井上がそう感じるのも無理はない。
「違いますよ。久しぶりの炊事当番だから寝惚けてたんです」
「……紫苑、悩みがあるなら頼ってくれていいんだよ」
嘘などすぐに見破られ、井上は困ったように微笑んだ。
目を真っ直ぐに見つめて根掘り葉掘りなんて事はせず、自分の分担の作業を行いながら柔らかい口調で。
「そういう事に男だから女だからというのはない。水臭いじゃないか、ずっと一緒にやってきたのに」
井上は紫苑が試衛館にいた時代から何かと気に掛けてくれていた。
優しく諭され、時には叱られ、兄というよりは皆の相談役に近い存在だった。
紫苑も井上に何度も愚痴を聞いてもらったりしていた。
だが、今はこの胸のもやもやを表現できそうにない。
非現実的な不安など、打ち明けられる訳がないのだ。
「……悩みじゃないんですよ。こういう平穏な朝が懐かしいなぁって、思ってただけです」
こうやって皆の食事を準備していると昔を思い出す。
何にも縛られず、ただ夢だけ持っていられた自由な頃を。
剣を磨きながら、皆と軽口を言い合い、同じ釜の飯を食べる。
新選組となってからはそれは似ていてもどこか違うのに、時々錯覚してしまう。
「自分の場所に戻ってきたなぁって実感できる」
だけどその場所さえも時間によって、少しずつ変容している。
沖田とはいつも喧嘩ばかりだが、大きな声では言えないが大事な仲間だと思っている。
その彼が、よりにもよって父親と同じように不治の病にかかるとは。
そして"天命"を知ってもどうしようもできず、重さに耐えかねて自害してしまった母親。
今まさに自分は、そこまでには至らずとも母親と似たような境遇に陥っている。
(母さんは……こんなに悔しい思いをしたのか……)
それが大切な伴侶であるなら尚のこと苦しかったに違いない。
もしかしたら自分のように未来を変えようと一度は動いたのかもしれない。
だが、どうもできなかったのだろう。
(総司は絶対新選組を離れないって言ってたし……無理矢理やったら、それこそ殺されそう)
"銃弾に撃たれる光景"は何とかなりそうな気もするが、病では防ぎようもない。
現にもう発症してしまっている以上、治す事だけが全てであるが相手が死病では勝算は低い。
長期に療養すれば治る見込みもあるかもしれない。
だがそれを拒否し、皆と共にありたいと思う意思は嫌という程に理解できる。
だから何もできない、八方塞がりになってしまった。
(こんな力……未来が変えられないなら、あったって仕方ないじゃないか)
ただ絶望する、それだけ。
「……失いたくない」
ぼそりと小さな声で呟いたが井上には聞こえていたようだ。
新選組に漂う暗雲に井上も気付いているのだろう、重めの溜息が落とされる。
「そうだなぁ……私も此処にいられて幸せだと思うよ。
不安な事を考え出したらそれこそキリがないさ。前に進むしかないんじゃないかい?」
「……そうですね」
漠然とした不安が現実になってく恐怖。
それでも世界は進んでいく、たとえ自分が望まなくても。
「さあ、そろそろ仕上げに取りかかろう。皆起きてくる頃だろう」
「……はい」
堂々巡りの思考を振り払うように紫苑は笑った。
用意できた膳から順に運んでいくと、皆が朝の挨拶をしながら集まってくる。
互いに軽く相槌を返してはいつもの場所に座り、沖田は体調が良いと笑っていた。
じきに広がるのは見慣れた食事風景、それが貴重なもののように思えて。
紫苑はこの日常を噛み締めつつ箸を動かしていたが。
「お、これ紫苑が作ったんだろ?」
「……ああ、そうだけど」
ふいに藤堂が紫苑に話を振ったおかげで、それはいつもと違っていた。
彼が指さしたのは、汁物を分担された紫苑が作ったみぞれ汁。
大根を摺り下ろして、だし汁で煮立たせただけの何の変哲もない貧乏料理だ。
変な味でもするのかと首を傾げていると、唸るように近藤までが声を上げた。
「やあ~懐かしいなぁこの味。江戸にいた頃を思い出す」
「美味いんだよ、紫苑の作るみぞれ汁は」
「はあ、普通だろ?んなもん誰だって作れるじゃねぇか」
特に難しいものでも、豪華なものでもない。
皆と同じようなものを作っていただけの紫苑には、嬉しさよりも先に戸惑いが生まれた。
なあ、と同意を求める意味で紫苑は千鶴を見遣った。
以前にも彼女が作っていた気がしたのだが、慌てたように首を横に振られた。
「いえ、私が作るのとは少し味が違います」
「そうだな。昔は美味いとだけしか思ってなかったが、今は違いがわかる気がする」
「左之さんまで……」
「何が入ってるんですか?」
「えー特に変なもんは入れてねぇけどなぁ」
変わった事はしてないつもりの紫苑は、千鶴に尋ねられても困り顔で頭を掻いた。
「紫苑が作ると何て言うかな……ちょっと酸っぱいんだよね」
「ああ、だが僅かな酸味が大根の甘みを引き出しているのだろう」
「あー…………じゃあ梅干しのせいか?」
沖田と斎藤に言われてようやく該当する食材に思い当たる。
「え、これ梅が入ってんのか?」
「身を細かく潰して、本当に少しだけな。体に良いからって……あれ?普通じゃねぇの?」
藤堂に意外な顔をされたが、紫苑にしてみればそれこそが意外だった。
辺りを見渡せば皆が「違う」と口々に言う。
土方は何も言わなかったが目がそうだと語っていた。
「そうなのか……知らなかった」
「いいじゃないか、美味いと言ってくれるんだから。皆、紫苑の味付けが好きなんだよ」
「源さんの言う通りだって!紫苑、これまた作ってくれよな」
「……ああ」
(無意識に、本気で作っちゃった……)
早くに母親を亡くしている紫苑は基本的に料理も得意だった。
それを試衛館でいつも披露していたし、今日のように美味いと言われた事もある。
だが男として新選組に入隊してからは意識して適当に料理を作っていた。
ただでさえ女っぽいと言われやすいのに、料理まで上手かったら余計にからかわれる元になるからと。
調味料を多めに入れたり、合わないだろうという食材を混ぜてみたり、色々と画策していたのだが。
久しぶりに新選組に戻ってきた安心感と喜びで、いつの間にかしっかりとご飯を作っていたらしい。
しかも紫苑でさえも気付かなかった微妙な味付けを覚えていて、それを褒めてくれた。
(くそ……嬉しいじゃないか)
不安に思っていた時期だっただけに、不意打ちは本当に困る。
気持ちを表情に出すのも、言葉にする事も恥ずかしくてできそうにないから。
「ちょ、新八っつぁん!それ最後の一個!」
「お前が汁に夢中になってるからだろ!」
「美味いんだからしょうがねぇだろ!?」
「んな事ぁ百も承知よ、だが隙を見せるとはまだまだ甘いなぁ平助!」
いつもと同じ風景、そしていつもと同じやり取り。
――こんな時間がずっと続けばいいのに、心からそう思った。
火照った頬を緩ませながら。無理な願望なのだとわかっていながら。
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平和な話も混ぜてみたり。
大人数だと誰が喋ってるのか分かりづらくてすいません。