「よし、解散!」
世の中は不穏な空気が流れ、巡察の道中もぴりぴりとした緊張が漂っていた。
揺るぎないと思っていた幕府が崩れ、いつ何かが起こってもおかしくはない。
それでも今日は何事もなく屯所へと帰還する事ができた。
隊士達がばらばらと散っていくのを見送り、まず最初に副長に報告。
それも終え、軽く息を吐いて廊下を歩いていると。
「おかえり、紫苑」
ひょいと顔を出した井上が、手招きしながらにこにこと笑っていた。
「こっちに来て座りなさい、今お茶を用意してあげるから」
柔らかい表情だったがどことなく有無を言わせない口調で、
不思議に思いつつも紫苑は案内された部屋に入った。
深緋 二
巡察帰りで着替えなどもままならないまま、戸惑いながらも頷いて茶を受け取る。
井上は正面に座って此方をじっと見守っているものだから正直飲みにくい。
飲まなければならない雰囲気を感じ、ちらちら視線を気にしながらずずっと茶を啜る。
熱い液体が喉から胃へ渡り、じんわりと体全体が温かくなっていくのがわかる。
外から戻ってきて冷えた身にはもの凄く染みる。
ふわりと茶の香りに包まれながら長い息を吐いた。
「温まったかい?」
「はい、美味しいです」
「熱い茶を飲んで、ゆっくり深呼吸すれば落ち着くだろう?
たまにはそうやって、気持ちを無にするのも大事だよ」
「…………」
半ば強引な態度、そして茶と諭すような言葉。
普段から言い聞かせられる事はあったが、今日はそれとも違う。
もしかしたら彼にも気を遣わせてしまっているのかもしれないと紫苑は思った。
悩みを抱えているのに気付いて、でも聞かないままで遠回しの言葉だけをくれる。
心から紫苑を心配しているのだと、彼の目がそう言っている。
(そうか……こんな風にされるぐらい、俺は不安定に見えるのか……)
茶なんていつでも飲んでいる、だが敢えてこんな場を設けられた事に意味があるのだろう。
外界から遮断するように区切られたこの部屋は、中央に置かれた火鉢以外の音がない。
しんと静まり返って、抱えている物全てを忘れてしまいそうな感覚に陥る。
そうして心を整理して、再び此処から歩き出せという、井上の真意が覗えた。
申し訳なくて、紫苑は言葉少なに謝罪だけを口にする。
「……すんません、源さん」
「いいんだよ、私にはこれくらいしかできないからね」
そんな事はない、十分に気持ちが安定した気がするのだ。
苦笑する井上に何かを言おうとしたが、ちょうど廊下に人影が通りかかった。
「お、帰ってたのか紫苑」
「ちょうどいい、原田君も永倉君も飲むかい?」
「そうだな、冷え込んできたし一杯もらおうかな」
顔を見せた二人は井上に促されて部屋に座る。
井上が茶を汲みに行っている間、永倉がへばり付くように火鉢を取り囲む。
「あ~寒ぃなあ~」
「ああ、もうじき雪でも降るかもな」
二人がそんな会話をするのを聞きながら紫苑は湯呑みで手を温め、茶を喉に流す。
「雪か……積もるかな?」
「降れば多少はな」
「そうだよなぁ」
ぽつりと呟き紫苑はまた黙り込む。
いつもは毎年積もれば、子供っぽく雪合戦やら雪遊びをしていた。
そういう時に一番乗り気で参加してくれるのが藤堂で、
嫌々言いながらも喧嘩を吹っかければ雪を投げ付けてくるのが沖田だった。
(今年は積もっても……楽しくなさそうだな)
ふとした時に寂しさを感じてしまう。
「最近元気ねえなあ、紫苑」
「…………」
じっと此方を観察していたのだろう、永倉がそう零す。
本当はそう見えないようにしていたつもりなのに、
井上にも気遣われてしまったあたり隠しきれていなかったらしい。
今さら否定しても無駄なのだと悟った紫苑は、表情を変えずに答える。
「そりゃあ、色んな事があったからなぁ……」
現に今だって、この場に藤堂がいない事が不自然で仕方ない。
御陵衛士として離隊した時からこの状況だが、近くにいるのに触れ合えない事がもどかしい。
明るい太陽の下、賑やかして笑わせてくれた三馬鹿が見られないのは寂しくて。
紫苑が言葉にした事で、部屋は途端に静まり返ってしまった。
皆も気にしているのに恐らく思い出さないようにしている、それを紫苑が引き出したのだろう。
だから言わないようにしてたのにと、
重さが漂う雰囲気にしてしまった紫苑は、場を繕うようにとりあえず笑ってみた。
「……ま、そう落ち込むなよ。お前だけの問題じゃない」
長い沈黙を破ったのは、そんな原田の優しい口調だった。
言い換えれば紫苑が悩んでも仕方ないという事だろう。
だが彼らは"先視"を知らない、紫苑さえもっとしっかりしていれば防げた事態なはずだった。
(俺の問題なんだよ、左之さん……)
紫苑は「わかってる」と小さく返して湯呑みに口をつける。
茶は、だいぶぬるくなっていた。
しばらくすると井上が戻ってきて二人に茶を配った。
紫苑にもおかわりをと、頼んでもないのにわざわざ新しい茶をくれた。
暗くて重い感情が表に出てしまっているのは良くない。
原田や永倉だってそれを抱えているのに気丈に振る舞って、此方の気遣いまでするのだ。
無理しているのだと言われてもこれ以上弱さを出す訳にはいかないと、
紫苑は液体と一緒に不安と後悔を飲み下す。
「うし、飲みに行くか!」
急に明るさを取り戻した永倉が声を張り上げた。
何とかこの重苦しい空気を払いたかったに違いない。
それと、彼なりの紫苑への励ましのつもりだろうが、
「何言ってんだ新八、こいつはどっちかっつうと甘味とか団子の方が喜ぶだろ」
反応したのは原田だった。
彼の誘い方はまさしく男に対するものだったから。
「そ、そうだったな……紫苑、女だったんだよな」
「忘れてたのかよ……」
思い出したとばかりに狼狽する永倉と、さすが女心に長けた原田。
そのやり取りに紫苑はふっと笑みを零す。
「ま、女らしくねぇからしゃあねえよな」
それに甘味も団子も今はいらない、と厚意に詫びながら付け足す。
女らしさの欠片もない、随分男っぽい紫苑をふいに原田がしんみりとした目で見つめる。
「そうだよな……お前、女なんだよな」
「……何だよ左之さん、改まって」
「本当だったら綺麗な簪つけてよ、良い家に嫁いで子供育てて、幸せに暮らせるのにな」
「…………」
実に悲しそうな声だった。
女は優しくするべきを信念にしている原田は、女には女らしく淑やかで美しくいて欲しいのだろう。
だから理想の娘姿とはあまりにも正反対な紫苑が残念で仕方ないのかもしれない、紫苑はそう思う。
そんな原田の目をはね除けるように、紫苑はあまりにもさばさばと答える。
「今さらだよ左之さん。俺はもうただの女には戻れない」
「……ああ、それを許しちまったのは俺達だしな。お前が決めたなら何も言わねえ」
紫苑が決めたのならと、彼らは仲間として新選組に入れてくれた。
すなわち男として人殺しの道を許して受け入れたという事。
それを原田は少しだけ後悔しているのかもしれないが、そもそも紫苑は自分から人を殺した。
初めて刀を血に染めてしまった時に、もう"女"の範囲を超えてしまっていた。
例え正当防衛であったとしても、それを悔いていない時点で自分は真っ当な道は進めない。
「左之さん達のせいじゃない、俺が選んだんだ。
だから俺が女って事は忘れてよ、男として扱ってくれればそれでいい」
「わかってるさ、隊務の時は男だと思うようにしてる。だけどな……お前、時々女の顔するから……」
「、……」
躊躇いながら呟かれた言葉にぴくりと動きを止めてしまった。
永倉は話の全てが理解できないながらも何となく原田の言いたい事がわかっているのだろう。
食い入るように紫苑を見つめ、そして原田の目は真剣だった。
「此処から離れられねぇ理由がそれだろ?
お前の望みも夢も、女としての幸せも全部、此処にあるんだもんな」
「…………」
どこまで勘付いているのだろうか。
だが、本人には何とかひた隠しにしているがそれ以外には案外あからさまだったのだろう。
恋情に気付いたのは彼だけかもしれないが、仕方ないといえば仕方ない。
だが何故今になってそんな事を言う。
"ある人"を追ってきたのは初めから皆わかっていただろうに。
「だけどな、それは女にとっては辛いんじゃねぇか?
これから新選組は今以上に厳しくなると思う。無傷じゃ済まない環境になる」
大政奉還などで上の組織は揺らいでいて、どう傾くか見当も付かない。
いや、もはや一触即発な状況なのは誰もが察知していて、
いつか大きな事件に発展するかもしれないと危惧している。
そうなれば新選組は先頭を切って前に出なければならないだろう。
「お前は傍にいられれば何だっていいと思ってるだろうがな、あの人は男としてお前に人殺しを命じ続ける。
お前を女としては見ない……どんな男でもな、"女"に刀を持たせる訳にはいかねぇって普通は思うからな」
「わかってる、でもいいんだ。俺は今もたぶん心は女だけど、それ以外は全部捨てた」
"あの人"だって、最初は頑なに紫苑を江戸に帰そうとしていた。
だがそれを拒み続けた結果、根負けした彼は紫苑を男として使い始め、今はもう何の抵抗もなく命を下す。
そうしてもらいたかったのは自分だ、不満なんて本当にない。
「いいのかよ、お前……此処にいたって幸せになんかなれねえよ。男としても女としても、辛いだけだぞ」
「……ありがと、左之さん」
あの人の傍にいたって報われない、そんな事はわかってる。
あの人は女の自分を必要としていない、だから江戸に置いて行かれたのだ。
この仲間達の輪に残る為には男になりきらなければいけなかった。
女として見てもらえなくても、報われなくても、傍にいられればそれでいい。
そんな事は、新選組に入隊した時からずっと心に留めておいたのだ。
心配してもらえるのは嬉しいが、今さらな話なのだ。
紫苑は、振り向いてもらう為に此処に来た訳ではないのだから。
それに、あの人は時折紫苑を気遣っては不器用に優しくしてくれる。
ただの仲間に対するものでも、手のかかる妹のような存在に対するものでも、何だっていい。
それだけで紫苑の中の女の部分が喜んでいる。
本当にそれだけで、いいのだ。
「俺はいつだって、それ以上を望んだ事はないよ」
その微笑みに、誰もが釘付けになった。
強さを持ち合わせているのに、なんて美しくて儚い表情だろうかと。
心の機微に疎い永倉ですら気付いた。
本当に、"彼女"は恋をしているのだと。
「そうか……悪かったな、こんな話しちまって」
「いいよ。でも左之さん、頼むからこの事黙っててくれよ?新八っつぁんも源さんも」
「お、おう、わかってるさ」
「ああ、承知しているよ」
もちろんだと原田は頷き、弾かれるように残り二人も首を縦に振った。
だが会話を聞いていた永倉と井上は何か言いたげな目をじっと紫苑に送る。
それがどれも哀れんだような視線で、見られている本人は次第に耐えきれなくなった。
「だあああもう!俺は別に何とも思ってねぇんだからいいだろ!?」
「悪ぃ……いやぁ、何か勿体ねぇなって」
そんな顔ができる女なのに、女の幸せが掴めないなんて。
端から望んでいないなんて可哀想だと感じた永倉が、頭を掻きながら呟いた。
「だから忘れろって!そうやって気にされるから嫌なんだよ!」
困った目で見られたくない、いつだって対等に扱って欲しいのに。
声を荒げた紫苑は立ち上がり、逃げるように部屋から出て行こうとする。
「紫苑」
呼び止めたのは井上だった。
「性別は関係なく、ただ私達は紫苑が心配なだけだよ。耐えきれなくなったり、
誰かに悩みを打ち明けたくなったらいつでも言ってくれ。私達は、紫苑の味方になりたいだけさ」
「……っ」
「俺も何が言いたかったかっていうとな、無理すんなって事だ」
原田にも優しく諭されて紫苑は顔が熱くなるのを感じた。
何だかじんと心に染みたのだ。
「……ありがと」
下を向きながらぼそぼそと呟いて、紫苑は足を進めた。
胸が温かいのは、茶のおかげだけではない気がした。
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前後編だったのに長くなりすぎて切りました。
そのせいで特に何という訳でもない、骨休めの話だけになってしまった。