深緋 三






井上から茶に招かれ、原田や永倉との気恥ずかしい会話から逃げてきた後。

着たままだった隊服の袖を手繰り寄せながら外気に身を震わせ、
いつもより早足で廊下を歩いていると、自室の前でとある人物が立っていた。

(土方さん……?)

首を傾げるより早く、気付いた土方が目だけで紫苑を制した。
どうしてそんな所に、という疑問がその鋭さに掻き消える。
彼は身を潜ませて紫苑と千鶴の部屋の中の様子を窺っていた。

何が起こっているのか、そろそろと足音を立てずに部屋に近づくと聞き慣れた声がする。
だが随分切迫した様子で、誰かと口論になっているようだった。

「――鬼に流れる血は、やはり人の血よりも強い力を持っているのではないでしょうか?
あるいは、羅刹の狂気を完全に抑える力があるかもしれません」
「な、なんで……そんな事が言えるんですか?」

淡々とした、だけど不穏な色を帯びた山南の声が、
戸惑う千鶴をじりじりと追い詰めているような絵が容易に浮かんでしまった。
昼間にも関わらず羅刹の彼が動いている、それが異様な空気を助長している。

土方を仰げば、入る機会を窺っているのだろう、動くなと目で命じられる。
ずっと変若水の研究をしていたであろう山南は、辿り着いたその考えに間違いはないと笑う。

「少なくとも試してみる価値はあるはずです。この仮説が正しい事が証明されれば、それはとても素晴らしい事なのですから!
貴女の存在で我々全て……羅刹隊、いや新選組の全てを救う事ができるのですよ!」
「なっ……」
「さあ……怖がらなくていいですよ。私は何も貴女を殺そうというのではない。
ただほんの少し、血を分けてもらえるだけで良いのです」

山南の発言はさらに恐ろしいものになっていく。
一歩間違えれば狂ってしまったような、血を求めて千鶴に迫っているような、危険な状況に思えた。

まさか、と嫌な予感がよぎる。
不安が胸を締め付けるのと同時、時期を見計らった土方が部屋へと突入する。
それに続いた紫苑が目にしたのは、ぎらりと鈍く光る刀身だった。

「何やってんだ、山南さん?」
「千鶴っ」
「ひ、土方さん、紫苑さん……」

紫苑が素早く千鶴を後ろに庇い、さらにその前に土方が立ち塞がる。
咎めるように問いただしても、山南は構えた刀を下ろそうとはしなかった。

真っ直ぐに此方を見据える目は羅刹の色ではないが、その奥の光が妖しく揺らめいているようだった。

「……隊の為に。羅刹の狂気を抑える方法を探っているんですよ」
「その為に、こいつを斬るってのか?」

殺しはしません、血を分けて頂くだけですと、土方の鋭い視線にも怯まず答えた。
説き伏せるような静かな口調が余計に恐ろしさを感じさせる。

「私のしている事は、全て新選組の為。聡明な土方君にはおわかり頂けるでしょう?」

先日の鬼の襲撃で、一般の隊士だけでなく羅刹達まで多く失った。
この不安定な時勢において今後も羅刹は必要であり、
そして羅刹をより有効活用するには狂気を抑える術を見出しておくべきだと山南は言う。

羅刹という存在の最大の欠点が、自我を失い狂ってしまうという事だ。
それが改善されれば、羅刹としての生は格段に伸ばされ、本人達も狂気という恐怖から解消されるのだろう。
負の要素がなくなるのだ、それは確かにおいしい話かもしれない。

だが、だからといって、その研究の為に千鶴が脅かされるのは違う。
彼の口上は正論のようにも思えるが、今重要なのはそこではない。
千鶴を捉える彼の目が、あまりにも冷たくて鋭いから。

獲物を見つけた獣のようだった。
正しい正しくないかはともかく、何よりも彼を止めなければ、そう紫苑は感じた。

「山南さん、総長とあろう者が隊規を破るつもりか?私闘はご法度、知らねえはずはねぇだろう?」
「ああ……なるほど」

紫苑が口を挟む前に、機転を利かせた土方が隊規を強調させた。
それには山南が納得したように紫苑も内心で感心していた。
そう言えば、ある程度正気ならば表面上は引かずにはいられない。
相変わらず頭の回転が速い副長だと、そう思った。

「しかし雪村君は隊士ではありませんが?それでもですか?」
「隊士じゃねぇがずっと此処にいるんだ。似たようなもんだろ」
「……ならば仕方ありませんね」

山南はゆっくりと刀を鞘に収めた。

「今日の所は引き下がりましょう。ですが、もう羅刹は私だけではない。
藤堂君や沖田君にとっても降りかかる問題なのですからね。可愛い仲間の為にも、少しは真剣に考えて欲しいものです」
「……ひとついいかい?」

そのまま立ち去ろうとしていた山南を、眉をしかめたままの土方が呼び止める。

「山南さんの理屈は正しい、それは昔からずっと変わらないさ。
でも山南さん……あんた自分自身が血に飢えてるとか、そんな事じゃねぇよな?
自分が血を口にする為にその正しい小理屈を並べ立ててるって、そんなくだらねえ話じゃ……」

その言葉には、どこか彼の苦しみが混じっていた。

山南は本当に、ただ純粋に新選組を思ってこんな行動に出たのだろうか。
言っている事だけ聞けば正しいのかもしれない、
だが普通ならば女から血をもらうなんて思考は常軌を逸していると感じるはずだ。

そんな言動を、本当に正しいと思ってやっているのだろうか。

「そんな訳はないでしょう、私は常に新選組の事を考えていますよ。では雪村君、また……」
「…………」

去り際の言葉は、この件自体を諦めた訳ではないという事。
物騒な挨拶を交わし、今度こそ山南は部屋からふらりと出て行った。

「、あ……」

二人の会話を呆然と見守っていた紫苑は、山南の背中を目で追っていた。

振り返れば土方が深い深い溜息をついた後、千鶴の様子を窺っている。
怯えるように小さくなっている千鶴は心配だった、だけど彼がいるならと紫苑は咄嗟に部屋を飛び出した。

とたとたと廊下を走り、緩やかな歩みを引き止めるように山南の袖を掴んだ。

「山南さん!」
「……どうしました藤沢君、そんなに大きな声で」

底冷えするような目で、羅刹である山南を呼んだ事を咎められる。
思わず身が凍るような感覚に襲われて何とかそれを振り払ったものの、紫苑は困り顔で視線を彷徨わせた。

「、えっと……」

追いかけた事に明確な意図はない、気が付いたらそうしていたのだ。
だから、すぐには的確な言葉など出ず、脳内で必死に理由を探す。

彼を独りにしてはいけないと、漠然と感じた。
それは危険とかそういう意味ではなく、羅刹になった者にしかわからない苦しみを背負い、
迷って道を見失ってしまったような……そんな孤独な背中だったから。

独りで歩かせては駄目だ、そう思ったら彼の袖を引っ張っていた。

「お、俺……山南さん信じてるから!山南さんがどんなになっても、俺は山南さんの味方でいるから!」
「…………」

ぽかんとした表情の彼が紫苑を見下ろしている。
ああ、変な事を口走っていると、自分で自分を呪いたくなった。
ついさっき仲間に言われて嬉しかった言葉をそのまま使った、だけど上手く伝わっていない気がする。

「だ、だから……辛かったら言って下さい!そりゃあ、羅刹の事を俺が全部理解できないかもしれないけど、
だからって俺と山南さんに違いなんてない!山南さんはそれでも山南さんだ!」

息を切らせながら一気に捲し立てた。
そして我に返って、意味不明でなおかつ無遠慮な物言いをしてしまったと紫苑は視線を泳がせた。
目上に対するものでもないし、自分が口出しするような問題ではないのに。

「す、すんません……何言ってんだ俺……っ」

だけど言った事は全て本音だ。

止めなければ千鶴は危ない目に遭っていたかもしれない。
いくら正論であったとしても、彼の行動は褒められたものではない。

だが、危険因子だからといって敬遠される存在になってはならないとも思う。
ああやって思い詰めて極端な考えに及んでしまうようなら、
逆に傍にいてじっくり話を聞いてあげるべきではないだろうか。

「貴女という人は……今しがた刀をちらつかせていた者に向かって、信じると言うとは……」
「まぁ……普通な女じゃないですから」

呆れたように溜息を一緒に吐かれ、紫苑は申し訳なさそうに返す。
千鶴は恐怖を感じたかもしれない、それは咎めるべきかもしれないが。
だけど彼を見限るなんて事はどうしてもできない。

今回の彼の行動は予兆だろう、少しずつ羅刹という毒が彼を蝕んでいる。
切り捨てるのではなく、守りたいのだと紫苑は思った。
何故なら彼もまた、紫苑にとって大切な仲間だから。

どうすればいいのかは、今はまだわからないが。

「私の味方だと言ってしまっていいんですか?貴女は、土方君側の人間でしょう?」
「……土方さんの味方でもあり、山南さんの味方だという意味です。
だって土方さんと山南さんは敵同士なんかじゃない、溝なんてのもない。昔から、今もずっと」

よく彼らは不仲だと言われる事がある。
それは彼らの主張するものが違う為に、たびたび意見衝突しているが、
実際は二人は同じものを目指していて、その方法が違うだけなのだ。
相手が嫌だから衝突している訳ではない。

根底では二人は信頼しあっていると、傍でずっと見ていた紫苑はそう確信に近い思いを抱いている。
それ故に先程の土方の言葉だ、彼は微かに不安を抱いたのだろう。
いつも正論を言っていた山南が、もしかしたら羅刹の血によってその正しさを歪めてしまったのではないかと。

「だから、独りで決めようとしないで下さい。独りで……行ってしまわないで下さい。
俺が山南さんの苦しみも全部聞きますから」

彼の行動は、彼なりに羅刹隊の今後について憂い、行き着いてしまった結果だったのだと信じたい。
もう、あんな風にはさせたくないから。

強い目で見上げると、しばらく黙り込んでいた彼はふうと息を吐いた。

「そうですね……貴女さえよければ、沖田君や藤堂君の話相手になってやってください。彼らも苦悩している事でしょうから」

幾分か和らいだ口調でそう言う。
だけどそこに肝心な人が入っていない。

「山南さんは、迷惑ですか?」
「…………」

食い下がらない紫苑に僅かに驚き、すると山南はすっと目を細め、紫苑の顔を覗き込んだ。
その双眸は先程とは違い穏やかに静まり返っていて、深くて優しい色だった。

「……君は、私をも抱え込もうとするのですね。
そんなに様々なものを背負っては、君が潰れてしまいますよ」
「構いません、俺は大切なものを守りたいだけですから」
「……そうですか。では、君の好きにするといい」
「はい、そうします」

一歩も引かないとでもいいたげに紫苑が頷くと山南はまた苦笑した。
柔らかい、昔からの見慣れた表情だった。

彼が邪魔だと感じないのなら、出来る限りの話を聞こう。
少しだけでもいい、その内に燻った感情を共有したい、それが紫苑の抱いた感情だった。

納得したらしい紫苑にゆっくりと微笑むと、山南は再び歩き出した。

「ありがとうございます、藤沢君……体当たりな言葉が本当に、君らしい」

紫苑の思いが全て伝わったかはわからない。
それでも、ぽつりと零れた呟きは、とても温かい響きを持っていた。

これからは頻繁に彼を訪れよう、そう思った。

彼が、孤独と毒に、負けてしまわないように。











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前回の話が前編で、今回が後編。
山南さんとの会話で1話埋まってしまった。

日常想起のようなもの。