近頃、油小路にある天満屋では、とある話題で持ちきりだった。
それは数日間、この旅籠に泊まりに来ている若い男が、女のように端整な顔立ちをしているという事。
江戸出身の商家の息子で、商売の修行の為に京に滞在しているらしい彼は、
育ちの良さが窺えるような柔らかい物腰でふわりと微笑むものだから、すぐに時の人になってしまった。
「綺麗な顔してはるから、役者はんかと思いましたわぁ」
「そ、そうですか?ありがとうございます……僕としては、男らしくいたいのですけどね」
初めて泊まりに来た時に彼は恥ずかしそうに答えた。
女性と話すのは慣れていなくてと、言葉少なに照れながら呟いた仕草に、女中達は母性本能をくすぐられていた。
今日も日が沈む前に彼は行商を追えて天満屋に戻って来た。
微笑しながら頬被りを外すと、彼の短い頭髪が現れる。
ばっさりと髪を切り落とした事に関しては、彼は「男らしく見えるかもしれないと思って」と言った。
ささやかな努力がまた可愛らしかったと、給仕係は嬉しそうに皆に喋っていた。
「今夜は、盛り上がってますね」
「連泊のお客さんがいはりまして、騒がしくてすんまへん」
「いえ、楽しそうで羨ましいですよ」
緩く微笑んで、男――紫苑は食事に口を付ける。
思いのほか気に入られてしまったせいで女中達が代わる代わるやって来るものだから、初めは戸惑った。
根掘り葉掘り聞かれればいつかぼろが出る、だから恥ずかしいからと口数を減らした。
女慣れしていないとわかって彼女達をさらに喜ばせてしまったのかはわからないが、
少しだけ会話を交わせば満足そうに退出してくれるから結果的には良かった。
静かになった部屋に聞こえてくるのは、何処かからの酒宴の音。
平和そうで何よりだ、紫苑はくすりと笑いながら立ち上がると廊下へ出た。
その騒がしい部屋を通り過ぎて厠へ行き、戻ろうとした所で人とぶつかった。
「あ、すみません。よく見ていなかったもので……」
「いや、すまない」
出会い頭の衝撃は軽いものだったが、紫苑はすぐさま頭を下げる。
対する男は静かな動作で、小さく端的に答えた。
そのやり取りの間に紫苑は掌に忍ばせておいた紙を男に手渡した。
視線を上げれば、真っ直ぐな蒼い目が此方を見下ろしている。
彼の深くて穏やかな色を間近で眺めたら、何だか安心した。
紫苑は目尻を細めると、もう一度お辞儀をして部屋へ戻った。
(さてと……指令書も渡せたし)
後はのんびり料理をつつきながら朝が来るのを待つだけ。
もちろん警戒は怠らないし熟睡もできないが、ひとまず今日の一番の隊務は終わりだ。
安堵の息を吐いて、卓に置かれた酒に僅かに口を付けた。
弱くはないが寝てしまっては困る、だからこれは自分へのささやかなご褒美。
(一君、読んでくれたかな?)
そんな事を思いながら、聞こえる男達の声を肴に夜は更けていった。
深緋 四
紫苑に任された隊務、それは三浦休太郎を警護する斎藤の補佐をする事だった。
三浦は紀州藩の公用人であるが、彼が新選組に依頼して坂本龍馬を殺させたとの噂を流された為に、
坂本の仇を討とうとする者達に狙われていた。
そこで彼を守る為に斎藤が天満屋に詰める事になった。
斎藤も実際は隊務で御陵衛士に参加していたのだが、事情を知らない隊士からは逃げ戻ってきたように見られている。
なのでほとぼりが冷めるまで新選組から離れている方がいいだろうという判断だった。
人目につかないように身を隠しているせいで、斎藤は簡単に外へは出られない。
その為、新選組との連絡手段、そして外と天満屋を行き来しながら情報を集める事を命じられたのが紫苑だった。
潜伏場所をうろうろする人間が新選組の者だと知られる訳にはいかない。
だから商人に変装して目立つ短髪を隠し、天満屋に滞在しながら時には屯所で指令書を受け取る。
元監察方の紫苑にはお手の物であった。
今日も、そんな変わらない一日になるはずだった。
(……ん?今一瞬だけ誰かがいたような気が……)
行商と称した見回りをしようと紫苑が外へ出た時、視界の隅で物影が動いたように思えた。
だがあまりにも一瞬で、人であったかどうかも定かではない。
その影は小道に消え、さりげなく追ってみたがやはり何もなかった。
それから日中も注意しながら街を歩いたが不審な事はなかった。
(思い過ごしならいいんだけど……)
確証がなさすぎて報告すらできない。
だけど何故か気になって仕方なかった。
紫苑は天満屋に戻ると女中達と和やかに会話をしてから階段を上る。
だが自室には入らずに三浦達の部屋の前で少しだけ足音を不規則に鳴らす。
それは何か連絡したい時の合図で、そのまま厠で待っていればすぐに斎藤が現れてくれる。
「確かな事はないけど……嫌な予感がするんだ」
「……わかった」
曖昧な言葉だったが彼は理解してくれた、これで平素より警戒してくれるだろう。
そうして部屋に入り、朝まで三浦休太郎の部屋を見張る。
時には女中の相手をして今日あった出来事などを適当に話し、周囲に気を配りながらひっそりと夜を過ごす。
そのまま朝になってくれればよかった。
だが静かな夜を引き裂いたのは、突然のけたたましい足音。
旅籠の夜には似つかわしくない複数の乱暴な音に、紫苑の意識は一気に覚醒した。
瞬時に行商道具から隠し持っていた刀を取り出して身構えると、
多数の人影は三浦と斎藤達の部屋へと突入していった。
「三浦休太郎はお前か!」
「坂本先生の仇ぃっ!」
(くそ……当たっちまった……!)
やはりあれは予兆だったのだろう、思わず舌打ちしていた。
外は突然の襲撃に悲鳴やらで騒然とし、部屋の中からは大立ち回りの物音と雄叫びに近い怒号が飛び交っている。
紫苑は騒ぎの中心である部屋に飛び込むと同時に、すぐ近くにいた敵藩士の背中を斬り払う。
「ぎゃあああ!」
「っ、まだ仲間がいたのか!」
不意打ちに男達は僅かに怯んだが、すぐさま体勢を持ち直して紫苑に応戦する。
刀を振りながら周りを確認すれば三浦は頬から血を流しているが生きていて、
斎藤の組の隊士が守りながら、隙を見て部屋から逃がす所だった。
「逃がすか!」
「く、……がああ!!」
三浦を追おうとした男に斬られたのは、近くにいた隊士の一人だった。
(っ……こいつら、強い!)
現に紫苑も一人の男に掛かり切りで動けない、斎藤も同じだった。
仲間達を守りながら、なんてとてもじゃないができそうもない。
今はとにかく隊務をこなす事で精一杯、すなわち三浦の逃げる時間を稼ぐ事しかできない。
苛々する、どうしてだろう。
いや、仲間がすぐそこで血を流して事切れているからだ。
これじゃ自分が傍に付いていた意味がない。
斎藤は三浦を守る事、そして自分は襲撃を未然に防ぐ事、それが役目だったのに。
「、一君っっ!!」
「……っ!」
灯りの消えた暗い視界の隅で、違う男が斎藤に襲いかかろうとしていた。
叫び声に気付いて彼は背後の人間とも刀を交えた、だが危険な雰囲気に変わりはなかった。
紫苑は目を見開いて、自身と鍔迫り合いをする男の刀身を躊躇わず握り締めた。
予想もしなかった行動で動揺した隙に男の腹を思い切り蹴り飛ばす。
そして、掌から滴り落ちる血など構わずに斎藤へと駆けた。
「く、そおおお!!」
押される斎藤の背中に一太刀浴びせようとしていた男に向かって刀を突き出した。
狙いも定まっていない咄嗟の突きは脇腹をかすめただけだったが、怯ませるには十分だった。
「っぐ、ああ!!」
「―――!」
全ての状況を見極めた斎藤が隙をついて動き、最悪の事態だけは免れた。
紫苑が息を吐いたと同時、またあの感覚が襲ってきた。
先視の前兆だと、すぐに理解した。
―――現れたのは、新選組局長……近藤さんの姿。
草木の密集する森の中で護衛が数人いるにも関わらず、
今まさに銃声が木霊すると同時、馬上の彼の肩から血が弾け飛んだ。
最も怪我をしてはいけない人が、苦悶の表情を浮かべて。
撃ち抜かれた箇所からは血が溢れ、その光景が遠ざかっていく代わりに言い争う声が何処からか聞こえる。
これは、土方さんを責める総司の声だ。
応える土方さんの声は、それを受け入れて、全てを背負うように後悔をにじませていた。
崩壊の音がする。
近藤さんを思うが故に絆がほつれていくような、彼らの僅かなすれ違いの始まりの―――
「っぅ……!」
急に情報を詰め込まれる反動なのだろう、酷い頭痛によろめきそうになったが、何とか気を張って刀を握り直す。
「三浦を討ち取ったぞーー!!」
「よし、引くぞ!」
ふいに外から聞こえた雄叫びに、男達は目的を果たしたと撤退していった。
そうか、守れなかったか、と紫苑は思わず膝をついた。
「無事か、紫苑」
「あ、ああ……大した事ない」
大怪我をしたと思ったのだろうか、斎藤が真剣な目で覗き込んでくる。
だがこれは先視によるものだ、心配させまいと笑ってみせたが。
「この間もあんたはそうやって突然苦しんでいた……何か、あるのか」
「大丈夫、病とかじゃねぇから……何て言うかな、血に弱いのかもしれない」
真っ赤な掌を見下ろしながらこの場を取り繕うような嘘をつくが、斎藤は怪訝な表情を崩さない。
だが頭痛と動悸が治まり、立ち上がって元気そうな紫苑を見てそれ以上は何も言わなかった。
騒動が収まった後で、死んだと思っていた三浦が実は生きていた事がわかった。
あれは駆け付けた新選組が機転を利かせて叫んだ嘘だったらしい。
とにかく三浦を守れたのは幸いだったと安堵の息を吐いたが、これは勝利と呼べる戦いではなかった。
「死んだのは、信吉か……」
「……ああ」
宮川信吉、彼は近藤の従兄弟であった。
試衛館にいる時からよく知っている、弟のように可愛がっていたのに。
紫苑は申し訳なくて、込み上がる涙を抑えて宮川の遺体に心で詫びた。
もっと自分が、ちゃんとしていれば。
(……だけど今度こそは、何があっても変えてみせるから)
局長が襲われる事で新選組が崩壊していく音が聞こえた。
何となくだが想像ができるのだ。
新選組として局長を尊重するが故に、危険な場所に送り出さなければならない副長と。
局長を愛してやまない沖田は、どんな事情があっても局長を危険な目に遭わせたくない。
そんな、どちらも間違っていないが故の、すれ違いを。
杞憂であればいい、だがもうそう思うだけで先視から逃げるのはやめた。
常に最悪な状況を念頭に置くべきなのだ。
「……一君、俺先に屯所へ戻るよ」
返り血を拭い、自室で簡単な応急処置を済ませて行商道具をまとめ、
今までの宿泊費と騒ぎを起こした詫び代金を残す。
「もし此処の人達に俺の事を聞かれたら、怖くなって逃げ出したらしいと伝えて欲しいんだ」
「……了解した」
立ち止まってなんかいられない、次の事を考えなければ。
紫苑は後悔を振り払いながら夜の道を走り抜けた。
「……ごめん」
そう溢れた呟きは、一体誰に向けたものかは自分でもよくわからなかった。
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天満屋潜入を烝くんや島田さんじゃなくて主人公に任せたのは、
屯所にいると落ち込んでて鬱陶しいから気分転換に外に出させた、という裏話。
薄桜鬼では描かれなかった天満屋事件でした。
主人公、視えるものが増えてます。