戦が、ついに始まった。
年明けを満足に祝う余裕もないまま、すぐの事だった。

旧幕府軍と薩長軍という、数だけでいえば幕府軍が圧倒的に見える布陣。
だが聞こえて来た状況は幕府側の劣勢で、そしてその戦の最前線に新選組はいる。

戦とは無縁の場所で、隊士であるはずの紫苑はそんな無情の知らせを受けた。

紫苑は動かない右腕を支えながら、ゆっくりと立ち上がる。
縁側から見える景色は、血生臭い争いの気配も唸るような銃声も一切ない世界が広がっている。
想い人に押し込まれた、安穏の色。

紫苑さん……」

慌ただしく知らせを運んでくれた千鶴が此方を心配そうに窺っている。
大丈夫だと笑いかけると、また彼女は眉根を寄せた。

「総司を看ててやって。動けないだろうけど、
戦が起こったなんて知ろうものなら死んでも飛び出しそうだから」
「は、はい……」

思ったより冷静な紫苑に戸惑っているのか、
何度も振り返りながら、だが根が素直な彼女は沖田の部屋へと向かった。

ふふ、と自然に笑いが漏れた。
それは一体何に対してだろうか、いや、恐らく自分はわかっている。
これからの事を考えたら自嘲せずにはいられない。

紫苑は僅かな荷物が入っている行李を開けると、ひとつの小瓶を取り出した。
ゆらゆらと、血色の禍々しい液体が揺れている。



―――「本気ですか、藤沢君!?」

ある程度予想はしていただろうに、驚きに目を見開いて言った山南の声がはっきりと蘇る。

信じられないという表情の山南に紫苑はもう一度告げた。
俺に、変若水を下さいと。

「浅慮なのはわかっています……土方さんは、もう許してくれないでしょうね」

あそこまで突き放されたにも関わらず追いかけて化け物になってしまえば、彼は今よりも紫苑に失望するだろう。
変若水を飲もうという気持ちすら湧かない程、想いは完膚なきまでに打ち砕かれたというのに。

きっと、先視の事がなければ諦めていたに違いない。
いやそもそも、それがなければ京までやって来なかった。

「それでも、先へ行ってしまわれたら困るんです。置いて行かれたら駄目なんです」

先視を変えようと、守りたいと動いていた紫苑の感情が、迷惑だと言われた。
独りよがりで自己満足な言動だという事を自覚してはいたが、その言葉にされた単語は相当に紫苑の心を抉った。

確かに自分に支えられなくても彼は一人で考えて生きて、何があったとしても自分で責任をとる人だ。
だけど、そうしてあの人は死への道を進んでしまうのだ。
たった独りで、血の海に深く呑まれて。

「このままじゃ土方さんを守れない……俺は、あの人を守りたくて此処まで来たのに!」

こんな所で、立ち止まってなんていられない。

「一番傍にいられなくてもいい、許されなくてもいい……それでも、新選組にいなければならないんです!」
「貴女という人は、そんなにも土方君の事を……」

唖然としたように呟く山南に、くすりと苦笑してみせる。

あの人が好きだ。
だけど、もうこの気持ちは恋心のような淡いものではない。
もっと強く、生きる意味と、そして宿命のように感じていた。

初めて見えた先視が彼であった瞬間から自分の生きる道は決まっていた。

報われなくていい。
いや、報われればどんなにいいかと考える事はあったが、端から報われるとは期待していなかったし、
今となってはもう万に一つもない。

「……怒らないで下さいね?これが私の信念ですから」
「貴女を咎めるなど、どうして私ができるでしょう……ですが悲しい、ただそれだけです」

奇しくも腕を負傷した者同士、互いの気持ちは誰よりも理解できただろう。
ああやはり貴女もと、山南の目からはそんな嘆きが聞こえて来そうだ。

「私、試衛館に……土方さんに拾われてよかったと思っています。
たとえ土方さんがそれを過ちだと思っていても、私は……っ」

全てを否定されても、紫苑は間違いだったと思わない。思いたくない。
知らず右腕を握り締めていた左手をゆっくりと、だけど確かな力が包み込んだ。

「……貴女の気持ちは……わかりました」

そうでしょうね、と心が返事をする。
私達は似たもの同士、どうやっても相手を拒めはしないのだ。

「いいんですね?もう、人には戻れなくなりますよ?」
「……はい。どんな姿でもいいから、私はあの人の傍で一生を終えたい」

微笑むと、握られた手にさらに力がこもる。
本当に馬鹿な人だ、と重く諦めを吐き出されながら。

「ですが変若水は、貴女を壊す薬です。貴女が本当に化け物の力が必要だと思う時に飲みなさい。
私が、貴女を羅刹になどさせたくないのだという事は、覚えていて下さい」
「……はい」
「あれは、貴女の未来をなくします」
「いいえ、未来は知っています。それを、変える為に生きるんです」
「え……?」

彼はわずかに戸惑いの表情を見せ、そしてまた悲しそうに目を伏せた―――








(ごめんなさい、みんな……)

ひとりだけの平穏なんていらない。
人を殺した事も、新選組の事も忘れて得る幸せなんて、そんなの幸せじゃない。

錆び付いてしまったかのような右手を必死で動かし、震える指先で小瓶の蓋を持ち上げる。
こんな簡単な動作だけで、半身が酷く疼いて痛んだ。

硝子の中で血色の液体が海のように波打っている。

涙が、頬を伝った。
どうして泣いているのかは自分でもよくわからなかった。

だけど全てを振り切って、紫苑は変若水を喉に流し込んだ。

「っ!?」

ドクンと、心臓が破裂しそうな程に跳ねた。
それから体中が、手足の先の血管までが沸騰しているように熱く脈打ち、皮膚を刺す。
内臓が食い破られていく感覚で、全身が耐え難い痛みに蝕まれた。

痛い、熱い。
肩を撃ち抜かれた時よりも強烈に。

頭が痛い。五感全てが、痛い。

「、あ…ああああああああああああ!!!!!」

紫苑の意識は、真っ赤な世界に引き摺り込まれた。






深緋 九






―――なんだこれは、始めにそう意識を持った。

耳をつんざく、無数の声。
いや、声と呼べるものではない程の雄叫びや断末魔の悲鳴が入り交じった激しい雑音だった。

助けを求めるように一気に思考に流れ込んで、頭が割れそうだ。

(何、これ……!?)

それから闇に現れたのは浅葱色の隊服。
その澄み渡った河のような鮮やかな色が、血で染まっていく。
事切れていく人、人、人。

ある者は銃弾に血を弾けさせ、ある者は刀でその肉を断たれて。
仲間が……大切な仲間達が死んでいく。

必死で手を伸ばしても彼らには届かず、奪われるようにその姿は霧散した。

代わりに放り出された場所は、次々と入れ代わっていく光景の中心。
誰かの顔だったり、普通の田園風景やどこかの屋敷で厳かに座る人々。
誰かが生まれる瞬間、死んでいく瞬間、笑顔と涙顔、そして戦と血。

何人もの走馬灯を一度に見させられているような、ぐちゃぐちゃな視界だった。

(か、母さん……?)

唯一認識できたのは母親の顔。
幼い頃の記憶の中の母親よりも若い女性が笑っている。
それから、会った事はないがきっと祖母なのだろう、母を抱いた、母に似た女性。
さらにまたその両親の顔が現れ、何度も繰り返して目の前に映る人物はどんどん祖先へと遡る。

繁栄していた一族、厳格な表情の重鎮達、それが衰退して現在に至るのだと唐突に理解させられた。

(っ!?)

彼らが炎の中に消えて、再び目の前は赤一色に染まる。
呻き、恨み、怒り、悲しみ、嘆き。
そんな感情の渦が血の刃となって紫苑を抉る。

(っ……苦しい……!)

一体誰の叫びなのか、紫苑に絡みついて押し潰されそうな感覚に思わず両腕を抱えた。
右腕は、動いていた。


――戦え


内なる狂気の声がする。


――血を貪れ


本能が上書きされる。


――殺せ


この衝動のままに。


「うあああああああああああ!!!!」


嫌だ、呑まれたくない、負けたくない。
私は私の意志で、自分の為に戦うんだ。
血の為じゃない、戦う骸になんてなりたくない。


――紗矢


っ……誰?

深紅と漆黒でチカチカする眼前で、誰かがふわりと姿を見せる。
淡い光に包まれているような彼女は、母親だった。
優しく微笑んで、そして泣いていた。


――きっと、貴女には同じ宿命を負わせてしまう事になる。


何を言っているの?
ねえ母さん、どうして小さな私の手を離して、刀を自身に向けているの。


――ごめんね……何もできなくて、ごめんね。


逃げないで!自害なんて何の意味もないじゃない!
やめて母さん!


――貴方は負けないでね、紫苑


「っ!?」


紫苑、それは私の名前。
紫苑と、誰かの声がする。

私は戦う、紫苑として。
この力にも、羅刹にも、負けたりなんてしないよ。


――紗矢


ああ、父さんの声がする。
母さんと同じくこの能力に翻弄される私に、父さんは悲しんでいるんだろうね。


――もしもこの先、未来を予見しても抗おうとするな。受け入れるしかないんだ。
   ただ、今を生きていけ。


ごめん、父さん。
たとえ命を狂わせたとしても、信じたものの為に私は、前に進むよ。


だって、私は―――










紫苑さん!」
「!はあっ、はあっ……!」

ずっと呼吸を忘れていたかのように、軋む体を押さえて息を吐き出す。
気が付けば、蹲っていた紫苑を抱えるように千鶴が目の前にいた。

痺れる頭はまだ痛いが、次第に冷静さは取り戻せた。
視線を彷徨わせて思い出す、此処は大坂城の、療養所だ。

そして自分は、今しがた変若水を飲んだのだと。

紫苑、さん……っ!」

顔を上げれば、千鶴が放心したように此方を凝視している。
恐らく紫苑の悲鳴を聞きつけて飛んできたに違いない、
そして羅刹へと変容している紫苑の姿に驚きを隠せないのだろう。

「その、目と……角……」
「、え……?」

自分で見る事は叶わないが、羅刹ならば自身の髪は白く色が落ち、目は血のように赤く変わっている事だろう。
だが角とはどういう事なのだ。

千鶴が恐る恐る柄鏡を取り出して紫苑に見せてくれる。
それを覗き込んで、紫苑は全てを理解した。

「っ、はは……これが、本当の私……」

忌まわしい血色だと思った双眸は、鋭く光る金色に。
そして白髪が伸びる額からは、一対の丸く尖った角が生えていた。

あの闇で見せられた人々の中でこんな容姿の者達がいた。
まさしく紫苑の祖先の記憶だったのだと、どうしてかはっきりと理解できた。

「だから私は、先読みの力があったのか……」

納得して、そして渇いた笑いが漏れた。
馬鹿馬鹿しい程に単純で、残酷な理由。


――衰退して血の薄くなった鬼の一族、その末裔。


それが紫苑の真実だった。

ふらりと立ち上がって、全身を見下ろす。
右手を動かして、違和感がない事を確かめる。
全身は、これ以上にない程に力が漲っていた。

「変若水を、飲んでしまったんですね……」
「……ごめんね千鶴、驚かせて」
「いえ……私に何かを言える権利なんて、ないですから……」

苦笑して見下ろせば、彼女は首を横に振りながら俯いた。
彼女も山南と同じように、ただ悲しそうな目をするばかり。


――これが先視の力を持つ一族の、さだめ。


未来を見る事を止められないように。
誰に止められても、立ち止まれない宿命。

だから紫苑は、京を目指す。

「……総司を、頼むな」
「こ、此処から京へ行くんですか?」
「驚くぐらい力が湧いてくるんだ。俺の足でも走り続ければ数刻で着くと思う」

もう武士の顔となった紫苑は手早く着替えをすませ、大小を腰に差す。
浅葱色の隊服に袖を通し、鉢金を額に巻き付ける。
急がなければ間に合わない、あの闇で見た光景はきっとそんな先の出来事じゃない。

「……気を付けて、下さいね」
「ありがと、千鶴もね」

色々な事が頭をよぎる。
まだ混乱している事もある。

だけど全てを振り切って、とにかく紫苑は走り出した。

大坂から京の地まで。
新選組のいる、戦の真っ直中へ。











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