深緋 十






舗装された道を、あるいは草木の茂る獣道を走り抜ける。
一秒でも早く辿り着こうと、障害物は全て乗り越えて最短距離を突っ切る。

建物があれば飛び乗って屋根を伝うような、常人では考えられない速さと瞬発力。
それが今の紫苑にはあった、羅刹になった鬼として。

とにかく急がなければ、間に合わない。

(源さんが……源さんが……っ!)

倒れていく隊士達の幻影の中に、井上の姿があった。
複数の敵に囲まれて、いくつもの刀が彼の身に埋まっていくその瞬間を見た。

もう疑う余地はない先視が教えてくれた、未来。
望まぬものばかり運んでくるそれは紫苑の視界をにじませる。

全速力で走りながら、考えたくもないのに井上の顔ばかりが蘇る。
試衛館に世話になった当初から、彼はずっと優しくしてくれた。
時には確かな口調で諭してくれる人、だけどいつも紫苑の意志を尊重してくれた。
それは今も変わらず、何も言わないながらも気にかけて茶を淹れてもくれた。

いつも彼は自身の非力さを悲観していたけれど、それは大きな誤解だ。
彼は失ってはならない人。
彼は、新選組では貴重な良心を担っている人であるのだから。


数刻の間走り続けると、景色は次第に不穏な空気を増していった。
そこらじゅうに上がる煙と炎が、戦の激しさを物語っている。
雷のように銃声がこだまして、地響きとなって紫苑の足場さえ揺らす。

新選組が今現在どこにいるかはわからないが、
本隊は副長と、そして局長がいるのだから堕ちる事はないだろう。
それよりも井上の隊の動きが一番心配だ。

(っ、血の臭い……?)

鋭くなった嗅覚があの生臭い鉄のようなそれを捉えた。
戦いがあった証拠だと少しだけ方向を変えてそちらへ飛び出すと。

「!!!」

いくつもの死体の中央で、白い着物の男が立っていた。

周りには幕府軍らしき男達が倒れ、さらには浅葱色を纏った隊士達も全員、事切れている。
見慣れた背中も、血溜まりにまみれて沈んでいた。

「貴様……」
「っ、……源さん!!」

抜き身の風間には躊躇したが、今はそれよりも井上の事で頭がいっぱいだった。
斬る素振りもなく立っている風間の横を通り過ぎ、紫苑はべちゃりと足音を立てながら力無い体に駆け寄った。

「源さん……源さん!!」
「ぅ……ぁ……紗矢、か……?」

まだ辛うじて意識があった井上は、焦点の定まらない目で紫苑を見上げた。
彼はもしかしたら、もう目が見えていないのかもしれない。
見えていたら、この容姿を見て紫苑だとは認識できないだろう。
真っ赤に染まった手を必死に動かしながら、声を絞り出す。

「トシさんに、伝えてく、れ……力不足で、申し訳な、い……
最後まで………共に、在れなかったことを、許して…欲しい、と……」
「やめて……もうやめて!」

そんな遺言は聞きたくない。
だけど医者を呼ぼうにも、もう長くない事を悟ってしまった。
だから、涙声で叫ぶ事しかできなかった。

「最後の、夢を……見させて、くれて……感謝…し、て………」
「!!」

宙を舞った手が、ぱたりと落ちる。
それきり彼はもう声を発する事はなかった。
それどころか、もう目を開ける事も、紫苑の名を呼ぶ事もない。

「源さんっっ!!!」

紫苑はひたすらに抱き締めて、間に合わなかったと自分を呪った。

羅刹であっても結局は守れない。
羅刹であるならば、そう思った僅かな希望は潰え、現実が紫苑を押し寄せる。
誰かが死ぬたびに自身の何かが抉れていくようで、また一つ刻まれた傷口がじくじくと膿んでいく。

(もう嫌だ……っ!誰かが死ぬのも、それを守れない私も!)


――無力な自分は、もう嫌だ。


崩れ落ちそうになる自身を震い立たせて、紫苑はふらりと一人生き残る男へと向き直る。
風間は楽しそうに口角を上げて此方のやり取りを静観していたらしい。

「まさか、お前が鬼だとは思わなかったぞ。だが純血ではないな」
「ええ……変若水の力を借りなければ鬼だとも自覚できなかった、非力な女ですよ……」

投げやりに吐き出された言葉に、風間はすぐに不快だとでも言いたげに眉根を寄せた。

「鬼でありながら紛い物に堕ちたか。愚かな……貴様に鬼の誇りはないのか」
「ですが……愚か者にならなければ、俺は刀すら握れず、安穏に殺されていた」

紫苑は金目の瞳孔を振り絞り、刀を抜く。

「ほう、仇討ちでもする気か?」
「俺には、行かなければならない場所がある……貴方が立ち塞がるというなら、戦わなければならないでしょう?」

彼が、井上達の仇ではない事は知っている。
井上の腹を刺したのは、まさしく此処に転がっている幕府軍の男達だ。
これは想像だが、井上の隊は幕府軍であった男達と戦って負け、
さらにその男達を風間が斬り捨てたのだろうと。

言うなれば仇をとってくれた人だ。
だが、彼は羅刹を忌み嫌っている。
ならば彼は紫苑も排除する必要があるし、素直に道を開けてくれるとは考えづらい。

何よりも、この怒りの捌け口を探していた。
羅刹の血のせいだろうか、その辺りの感情の制御がうまくできていない。

「……面白い。鬼とはいえ、お前のような血の薄まった女と純血の男、どちらが強いかなど明白だろう」
「ええ、無謀でしょうね、馬鹿だと思うでしょう?でも、こういう女もいるんですよ」

ならば戦ってみせろと、嘲笑を浮かべた風間が刀を振りかぶる。
彼にしては遅い刀捌きは、完全に遊ばれている証拠。
だが、紫苑も昂ぶった衝動を持て余していたせいで、本気でそれに食らい付いて正面から受け止める。

治癒した腕は以前よりも容易に動いてくれて、さらに並の男以上に重量がある。
地を踏み締める足は軽く、俊敏だと皆に恐れられた太刀筋はさらに速さを増している。

獲物を取り逃がすまいと風間の獰猛な瞳を睨み付ける。
恐怖は今はそれほど感じない、どうやら無意識ながらも鬼として、
純血の鬼の風間を本能的に畏怖していたのではないかと思う。

金属の甲高い音があたりの空気を引き裂く。
次々と繰り出す技に、次第に風間は本気を出し始めていた。

「哀れな女だ。鬼としての矜持を持たず、その身に紛い物の血を混じらせ、
低級な人間に飼われている事にも気付けないのか」
「私は……っ、何かに従わされている訳でもない。
私は私の宿命に贖う為に生きている。それが俺の鬼としての在り方な気がするから……っ」

縛られているとするならば先読みの能力にであるが、これは自身の問題。
紫苑の鬼の家系が負ってきた呪いに立ち向かう決意に、誰の思惑も差し挟む事などできない。

ただ、こうまでして未来を変えようとする原動力は恋情から発生したものではあるが、
それも、紫苑だけの心の問題だ。

「だが、紛い物の血で鬼の力を増幅させたとしても、長くはもたぬ。
それは自身の力を借りているにすぎない。使えば使うほど、死が近くなるぞ」
「そう……でも俺は、元より長く生きるつもりなんてない。今戦えればそれでいい……!」

羅刹の力は無限ではないという事実、だがそれが紫苑に何の関係があるだろう。
今この時、刀を握る力があれば十分だ。

「これが……私が私として生き、活かしてくれた人にできる唯一の事!」

戦って戦って戦い抜いて、そしてあの瞬間まで守ってみせる。

「哀れであっても構わない!あの人になら飼われたって構わない!
俺はただの獣になれる!あの人を守る為ならば、鬼ですら斬ってみせる!」
「っ…!」
「これが……俺の愛し方なんだよ!」

雄叫びを上げながら薙いだ刀を弾き、風間が後ろへ飛び退る。
彼はもう小馬鹿にしたように笑っていなかったが、本当に呆気にとられたのだろう。
意味がわからないと顔に書いたような表情で紫苑を不思議そうに見つめるだけ。

「お前―――」

言いかけた所で、この場に近づいてくる足音が二人の耳に届く。
背後からやって来るその人物を振り返って、紫苑は咄嗟に顔を背けた。
こんな事をしてもいつかは露呈するのだが、どうしようもない後ろめたさが心臓を跳ねさせる。

一番会いたくて、会いたくなかった人がそこにいたから。

「風間か!……っ、な…お前!?」

土方はまず対峙する風間を捉え、
そして横にいる新選組隊士――羅刹隊の一人とでも思ったのだろう――に目を向けて、はっきりと驚愕の色を浮かべた。

紫苑、か?その姿は……っ!?」
「…………」
「我ら鬼の本来の姿だ」

どう説明したものかと黙り込んだ紫苑に、面白がった風間が口を挟む。
余計な事をと思ったが、隠したってどうしようもない事は確かだった。

困惑する土方が、紫苑の髪の色を見つめているのがわかる。
そして普通の羅刹にはない煌めくような金の瞳、頭から突き出た小さな二つの角。

ただ呆然とする彼に、紫苑は耐えきれなくなって目を逸らす。

「鬼、だったのか?」
「……知りませんでした……さっきまでは」

その言葉に引っかかりを感じたのだろう、土方は視線を紫苑の右腕にずらした。
もう刀は握れなくなっていたはずの腕は動き、怪我をしているようには見えなかった。

「まさか、変若水を飲んだのか……?」

それには答える必要はなかった、もう答えは出ているのだから。
俯くばかりの紫苑から風間に視線を移し、そして表情を一気に険しくさせる。

「お前の話は後だ。今は……」

風間の背後に乱雑に散らばる死体に目を向けて、土方から殺気が溢れた。

「源さん……っ、てめえがやったのか」
「っ、違います!風間は、源さんを殺した奴等を……!」
「何!?……ならどうしてお前とあいつが斬り合っている?」
「っ、それは……俺が羅刹だから……」

いくら敵方だろうとも、風間の事を誤解させてはいけない。
慌てて土方の袖を引くと、怖いくらいの怒気は多少は鎮まったが、
探るような目がやはり耐えられず紫苑は顔を背ける事しかできなかった。

「ならあいつは敵って事だろ?仇討ちしたからって、何も変わらねえ」
「そ、それはそうかもしれないですけど……でも!」

風間が普通の敵とどこか違うという事を抜きにしても、此処で土方が戦う事は筋違いな気がする。
少なくとも今この瞬間は、彼と戦う必要などないのだ。

そうやって必死に止める紫苑と困惑する土方に生まれた妙な沈黙、
その空気を遮るように風間が突如クツクツと笑い出す。

「そうか……そいつだな。土方さえ死ねば、お前はそのくだらん考えを捨て去るか」
「な、」

風間はさも可笑しそうに口角を吊り上げていた。
確かに紫苑は、ただ一人を盲信するような発言をしたが、まさかこの短時間で悟られる事になるとは。
風間は落ち着かせていた獣のような殺気を再び放ち、土方に刀を向けた。

「たとえ紛い物混じりだとしても、人間風情に飼われている鬼がいるのは気に食わぬ」
「鬼の矜持なんかにゃ興味ねえが、やる気なら容赦しねぇぞ」
「こいつらのように、貴様も無駄死にするか?」
「――無駄死に……?」

ピクンと肩を揺らした土方から殺気が溢れ出す。
まずいと思った時にはもう土方は紫苑を腕で押し退け、刀を抜いて飛び出していた。

「無駄死に、って言いやがったか今!この俺の前で、無駄死にとほざきやがったか!?」
「っ!」

激しい形相で繰り出す攻撃を、風間が顔を歪めながらやり過ごす。
何度も打ち鳴らされる金属音が、土方の怒りの強さを物語っていた。

激昂した彼は紫苑ではどうする事もできず、おろおろと見つめるしかできなかった。

「なんだと……!?」

風間も予想外だったのだろう、いつもより必死な顔付きで刀を防いでいる。
手加減も余裕も感じられない、そればかりでなく焦っているようでもあった。
純血の鬼が、ただの人間に押し負けられそうになっている。

怒りに任せて力の限りに獲物を振り回す、こんな乱暴な土方は初めてだ。
それは"無駄死に"と言った風間に対するものというよりは、もっと違う何かに対して憤っているようだった。

「く……っ!」
「な―――!」

だがしばらく続いた土方の刀を受け止めた次の瞬間、風間の容姿は変化していた。
紫苑と、同じ姿に。

「まさか、俺の本来の姿まで晒す事になるとはな」

本気を出さなければならない事実が憎らしいのだろう、背筋が凍るような笑みに恐ろしい殺気を孕みながら。
赤い眼をさらに鋭くさせた、引き絞られた黄金色はまさしく獣のそれで、襲いかかるように刀を振り上げる。
それからの風間の動きはまさしく人間業ではなかった。
目にも留まらぬ速さとはこの事を表すのだろう、太刀筋が辛うじて幻影のように見えるだけで、
横殴りの雨のように土方に降り注ぐ。
何とか受け止めるも、どうしようもない力の差で一気に劣勢に持ち込まれてしまった。

これは加勢しなければ此方がやられてしまう、ようやくその考えに行き着いた紫苑が刀の柄に手を遣る。
そうしてジリジリと押されていく土方を追いながら頃合いを見計らっていると、
ぼんやりと土方の姿に重なるように彼がもう一人見えた。

始めは自分の目を疑った、だがその半分透けた"彼"は実物よりどんどん先に進んで勝手に動いていく。
必死の形相で見えない何か――おそらく風間だと思うが――と戦う影。
しばらく健闘していたそれは刀を弾き飛ばされ、よろめきながら後ろに下がり、そして―――

(っ、いけない!)

駄目だと思った時には体が動いていた。
真っ二つにされる危険も顧みず、二人の刃が飛び交う渦中に体をねじ込ませ、土方の刀を自身のもので押し戻す。

「っ!!!」

咄嗟に土方の体ごと後退したが間に合わず、紫苑の左腕は風間の刀によって抉られていた。
鋭い痛みも流れる血も今はどうでもいい。
切断までされなかった事だけには安堵して両者を交互に見遣れば、彼らは流石に驚いて動きを止めた。
そのまま、風間を見つめる。

「やめて……もうやめて!」

数秒遅れて実際に本物の土方が同じ動きをした時に、あの影は"未来に起こる事"なのだと直感した。
このままでは彼は、鬼の力に圧倒されて変若水を飲んでいた。
先に動いていた影が、それを選択していたから。

彼が、新選組の頭脳である副長が、羅刹になんてなってはいけない。
だから水を差す事になっても止めなければならなかった。

それに風間は土方の怒りを煽って遊んでいた。
そうして怪我をすれば紫苑が動揺する、それを楽しむように。
だが思いも寄らない苦戦に風間は本気になってしまったけれど。

(こんな戦い……何の意味もない!)

「何をしているのですか副長!」
「、山崎!」

ふいに林の茂みから現れたのは監察方の山崎だった。
土方を追いかけて来たのだろう、彼は珍しく感情的になりながら土方の正面に周り、紫苑の隣に並んだ。

「貴方は頭で、俺達は手足のはずでしょう。そんな風に敵陣に突っ込んで、どうするんですか!」
「お前……」
「頭がなくなってしまっては、何もかも終わりなんです!」

山崎は背後の土方を落ち着かせるように諭し。
紫苑は眼前の鬼を咎めるように、半分は懇願するように睨むと、風間はつまらないと舌打ちをした。

「ふん、付き合いきれん」

吐き捨てて、その場から消えた。

途端にしんと静まり返った気配に、紫苑はよかったと息を吐いたが。
背後の彼は、全く鎮まっていなかった。

「……いい加減我慢ならねえ……腰抜けの幕府共も、邪魔くせえ鬼も、お前も!」
「っ……すみません」

最後のは紫苑に向かって、ドスの利いた低い声で唸るようにぶちまけられた。
土方の怒りを受けながら、そうだろうなと何故か納得できた。
その間にも、皮肉にも紫苑の腕の怪我はすぅっと治っていく。

「今の世の中、どこに武士がいるってんだよ?腰が引けて城ん中閉じこもって、日和見決め込んで……
あわよくば勝ち馬に乗ろうなんて考えてる卑しい連中ばかりじゃねえか」

それはこの現状に対する苛立ちだった。
紫苑は直接目の当たりにしていないが、恐らく戦況は芳しくないのだろう。
隣に立つ山崎も苦しそうに俯いていたから、ほぼ間違いない。

どうしようもない現実に、押し流されそうになっている。
いや、今まさに押し流されているのだ。

「鬼共はチョロチョロ目の前をうろつきやがって、うざってぇんだよ……
お前は、勝手に羅刹になって戻ってきやがるし……」
「……怒ってます、よね?」
「当たり前だ!俺は!お前を羅刹にさせる為にああ言ったんじゃねぇ!」

恐る恐る聞けば、倍以上の怒号が返ってきた。
だけどそれはやはり予想していた事だったし、自分でも馬鹿な事だと自覚していたので、
もはや諦めの境地に至っていた紫苑の気持ちは揺れはしなかった。
ただ、目だけは未だに合わせられないが。

「わかってますよ……でも、どうしても戦いたかったんです」

何度言い合いをしたかわからない同じ内容。
静かに答えれば、怒っても無駄だと悟ったのか土方が顔を歪ませて黙り込む。

きっと、想いをはっきりと断ってやれば諦めると考えていたのだろう。
放心したように紫苑を見下ろして、がっくりと肩を落とすように憐れみの色を滲ませる。

「もう……お前を嫁に出してやれなくなったじゃねぇか」
「初めっからそんな気ないですから」

羅刹なんかを、普通の家庭に嫁がせる訳にはいかない。

「捨て置く事もできねぇじゃねえか……」
「……いつ狂うかわかったもんじゃありませんしね」

こうなってしまったからには新選組として連れて行くしかない。
いつ自我を失って一般人を襲うかわからない羅刹を、野放しになんてできないから。

「馬鹿野郎が……っ!」

爆弾を抱えているような女など、もうどんな幸せだって望めない。
どうする事もできなくなった現実に、再び土方が憎々しい表情で呟いた。

「っ…………勝手にしろ」
「……はい」

悔しそうに、不機嫌極まりない彼の一言。
それに紫苑は、消えそうな微笑みで応えた。


――幸せなら、ここにあるから。


だから、そんな悲しそうな目をしないで。


「……ごめんなさい」


貴方を悩ませて、ごめんなさい。







――久方の光のどけき春の日に

しづ心なくの散るらむ――











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3章終了。
長かった…。

さらりと山崎さんの死亡回避。
主人公の一人称が混ざっているのはわざとです。