新選組が江戸に戻ってきてから数日、
近藤と土方は何度も幕府軍に掛け合い、再戦の機会を得ようとしていた。

土方は夜遅くまで嘆願書などを書き連ね、昼間は幕府の高官に取り合ってもらうため、
また新政府軍に対抗できるだけの戦力を揃える為に外出を重ねている。

黒羽二重を翻して部屋を出ていく土方と近藤の背中を、毎日紫苑は遠くから眺める事しかできなかった。

土方に至っては食事する暇すら惜しいようで、返ってくる膳は少し手を付けただけでほとんど残ったまま。
夜はいつも灯りが灯されている部屋、外出時に見かける渋面に刻まれた目の下の隈、
恐らくほとんど寝ていないだろう事は紫苑も知っていた。

だけど、しっかりと線を引かれてしまった今となっては気分転換の茶や差し入れも、気遣いの言葉すらかけられない。
無理に行っても、彼にとっては何の利益にもならないのだろう。
きっと、あの眉間の皺が余計に深くなるだけ。
此処に千鶴がいれば代わりに頼む事もできたが、彼女も今はいない。
だからこうやって、彼の一向に機嫌のよくならない横顔を、彼の視界に入らない場所から見つめるだけ。

手を伸ばせない。
少し前の自分であったなら、色んな事を構う事なく乗り込んでいただろうと紫苑は思う。
はっきりと想いを拒絶されたからではない。
それも多少はあるのだが、きっと線を引いたのは自分だ。

鬼の身で、一体どんな信頼が得られるというのだろう。
どんな顔をしても、どんな言葉をかけても、鬼の力で底上げした自分は、
言葉の重さが他の人間より遥かに軽くなってしまう気がするから。
そのうえ、紫苑は羅刹だ。
人並みの事をするのは場違いなようで気が引けた。

とにかく、近づけないのだ。
様々な理由が紫苑を足踏みさせる。

あの人のあんな姿は、見ていられないのに。
何かしたい、役に立ちたいのに。
自分ではきっと、あの人の心を揺り動かす事はできない。

「組長?どうかしましたか?」
「……ああ、いや……仕合を始めてくれ」
「はい」

文字通り立ち尽くしていた紫苑は、ようやく我に返ると隊士達の輪に戻る。

敗北を経験してもまだ戦う意思を持っている者達は今日も鍛錬に勤しんでいる。
なかには、いくら剣で戦ったって銃器には勝てないとばかりに、疑問を抱くような顔をしながら取り組む者もいるが。
そんな様々な思惑が混じった集まりを、やはり紫苑は少しだけ離れた位置で静観していた。
以前なら積極的に参加して隊士達をしごいていたのだが、それすらあまりしなくなった。

体が、思うように動かないのだ。
太陽の照り付ける日中に激しく体を動かすと息が上がる。
重りが縛り付けられているかのように鈍い四肢。
少しずつその怠さが増してきているのは、確実に羅刹になった事による影響だ。

だから非常時を除いて、日中はなるべく体力を温存しなければならない。
足枷のように纏わりつく全ての事が歯痒い、だけどどうしようもないと諦めるしかなかった。


そんな紫苑の異変を、紫苑の組に所属する隊士達も気付いてはいた。
少し鋭くなった目つきは、時折虚ろに浮かんでいる事もある。
何となく隊士達や幹部達とも距離をとるようになったり。
それから、夜遅くまで起きていて何かをしている事が多くなった。

華奢な体で活発に動き回っていた組長が、音もなくふらりとそこに存在していたり、
気配が変わったというか、どことなく近寄り難くなったのだ。

だが隊士達に対する紫苑の言動は変わっていないし、こんな状況だから思い悩む事の一つや二つぐらいあるだろうと。
隊士達の尊敬も変わらないので、何かを察知してはいるが誰も深く探ろうとしないまま変わらない関係が続いていた。







梔子 二






紫苑が姿を見せると、全てを理解した彼は少しだけ悲しそうに笑った。
いつものような意地悪な言葉もあまりなく、「そっか……君まで」とだけ呟きながら。
何も言わなくても、自分達はそれで気持ちのほとんどを共有してしまった。

彼の目が言わんとしてる事が何となくわかって紫苑は苦笑を返すと、
彼が身を起こした布団の傍らに、自由に動く右腕を使い滑らかな動作で座る。
羅刹であるにも関わらず撃たれた傷が治らない沖田は、未だ安静を余儀なくされている。
新選組と同じく江戸に移動した彼らは、この小さな隠れ家から出られない。

すぐ近くで二人の顔を見比べていた千鶴は、
掠れた声で紫苑の名を呼んだ以外は口を挟む事なく辛そうに目を伏せているだけ。
そういう所、できた女だなと紫苑は感心せざるを得ない。

「……だけど、それは元々負わなくてもいい怪我だったはずだよ」

改めて紫苑が怪我をした経緯を思い出したのだろう。
しばらく沈黙が続いていたが、次第に眉をひそめた沖田はついにそんな事を漏らした。
棘のある口調は、まるで誰かを責めているようだった。
いや、実際責めているのだろう。

「近藤さんの護衛をもっと多くしてれば、こんな事にはならなかった。
一歩間違えたら近藤さんが撃たれてたかもしれないのに……」

土方さんは一体何をやっているんだと、非難を口にする。

これは予想されていた事だ。
本来なら近藤が撃たれ、今以上に沖田の土方に対する不信感は膨れていたはずだった。
誤解と猜疑心によって生じた亀裂が、修復不可能かと思えるぐらいに深まっていく様を、紫苑はあの一瞬の先視で見た。

だが目の前にいる彼は愚痴を零しているものの、明らかな亀裂に繋がるような、
怒りや憎しみといった激しい感情は伝わってこない。
それはやはり、彼の何よりも大切な人物が怪我をしなかった事が大きく作用しているに違いない。
それに彼の憎まれ口は、恐らく紫苑の現状を惜しんでの事だろうとは何となく気付いていた。

だからよかったと、紫苑は安堵の胸をなで下ろす。
この仲違いすらも自分は回避させる事ができたのだろうと。

だけど、それはそれ。
少しでも土方の事を悪く言われるのは許せない感情も確かにあって、紫苑は思わずムキになる。

屯所を出ていく、あの背中。
勇ましく堂々とした風体にも思えるけど、紫苑にはそう見えなかった。
使命感に追われ、誇りと意地を守る為、疲労を自覚しない振りをしているような閉ざされた背中。
責任が重くのしかかって、雁字搦めになっているように見えるのは気のせいだろうか。


――これ以上あの人を追い詰めないで欲しい、あの人のせいにしないで欲しい。


「違う、違うんだ総司……あれだって仕方ない判断だったんだよ。
誰が好き好んで大事な近藤さんを危険な目を合わせたいものか」

沖田の言葉が面白くなくて、つい感情的になってしまう。
彼が反論する前に紫苑はまくし立てた。

「あの人は近藤さんが大切なんだよ……大好きに決まってるじゃないか、ずっと一緒だったんだ。
全部、近藤さんを思っての事じゃないか……!」
「それで近藤さんを危険に晒すって?言ってる事が矛盾してるじゃないか」
「近藤さんが望んで護衛を少なくしたんだよ。いいんだ、だから俺が行ったんだ」

険悪な顔付きの沖田を納得させるように、紫苑は自嘲して右腕をさする。

「土方さんだって完璧じゃない。やりたいのにできない事だってある。
それは俺が補うからいいんだ。俺は、知ってたから」
「どういう意味?」

危なげにも見える薄笑いを突然浮かべた紫苑を、沖田は怪訝な表情で見つめる。
紫苑は隠していても仕方ないと、鬼の家系の事、先視の事も、
沖田の病や近藤の狙撃を知っていた事も、全てを明かした。

「……じゃあ君は、知っててわざわざ銃弾をもらいに行ったって事?」
「近藤さんに当たらなければいいと思っていただけだ。結果的に俺が撃たれたけど」
「…………」

理解しがたい話だったのだろう。
沖田は布団をぎゅっと握りしめて、そのまま黙り込んでしまった。

次に言葉を発する時、彼はそれでも怒るのだろうか、呆れるのだろうか。
わからなかったが、とにかく土方が悪く言われなければそれでいいと紫苑は思っていた。

彼は紫苑や、己の手のひら、不安そうに此方を見守っている千鶴に何度も視線を遣って。
呆けた顔をしたかと思えば怒りを滲ませたり、喜怒哀楽を一巡させるような様々な表情をしたのち。
何かを吐き出すような、重くて大きなため息を落とした。

「……どうしてそこまでするのさ、君」
「さあ、何でだろうな……たぶん、好きだからだよ」

色々言いたい事があったはずなのに、結局何も言えなくなってしまったのだろう。
ようやく絞り出したそんな問いに答えると、沖田は毒気を抜かれたような顔をして、「やっぱり馬鹿だね、君」と苦笑した。

それは、受け入れてくれた証なのだろう。
近藤の思いや土方の判断、それから紫苑の決意を。

そう、好きなのだ。新選組という場所が。
そこで必死に生き抜こうとしている人達が。

「……それなのに、時代が私達の居場所を奪っていく。
私はただ、皆の近くにいて守りたかっただけなのに……」

(あの温かい時間のまま、過ごしていたかっただけなのに)

気が付いたら此処まで来て、そして羅刹にまでなっていた。
敗北を味わい、今や逆賊のような扱いになった。

紫苑は表情をぐにゃりと歪めて右の掌を握りしめる。

「どうしたらいい?どうすればこの状況が良くなるんだ?
だけど、それを全て土方さんに背負わせるなんて酷だ……」

皆が皆、思っている。
この絶望的な戦況を、土方さんなら何とかしてくれると。
自分達はどうなってしまうのだろうという先の見えない恐怖を、土方さんが払拭してくれると。
何か打開策を持ってきてくれると、希望を見せてくれると。

きっと彼自身もそのつもりで必死で動いている。
だけどあの背中はもう、重すぎて身動きが取れないように見えるから。
今はそうじゃなくても、いつかそうなる気がするから。


――背負わないで欲しい。
どれだけ彼が頭の切れる存在だろうと、皆を率いる存在だろうと、あの人はただの人間。

いつか、潰れてしまう気がする。


「あの人は鬼副長だけど優しい人なんだよ……誰よりも新選組を思って、誰よりも苦しんでる。
あれ以上何を求めるっていうんだ総司は……あの人は、あの人は……!」

感極まった目頭が熱くなって、紫苑は沖田から顔を背けた。
布団だけでなく彼の袖を握りしめてしまいそうになるのを何とか堪え、震える両手で畳を引っ掻く。

何もできないのが辛い。
先視の力で全てを見通せられたらいいのに、自分で制御できない事がもどかしい。
あの背中を追いかけて、支えたいのに。

「全く……だから君とは反りが合わないんだ」

ふっと、言葉とは裏腹に優しい口調が紫苑に降ってきた。
顔を上げると、反対に顔を背けられる。

「あの人だって近藤さんが大切なくせに、だったら命懸けで守ればいいのに頭が良すぎて他の事も考えるから……守れないんだ」
「……総司」

わかってたのかと呟くと、「そんなに馬鹿じゃない」なんて憎まれ口が返ってきた。

「僕はあの人が嫌いだ。天才でも何でもないただの人間なのに、それでも近藤さんが一番信頼してるから」

彼が土方を悪く言うのは信頼の裏返しなのかもしれない。
わかっていても傷つけてしまうのは、きっと子供じみた嫉妬から。

「君も、何があってもあの人を追いかけてる。だから、嫌いだ」
「……うん、知ってる」

何て、素直で人間的な人なんだろうか。
そんな彼を紫苑だって好きだ。

本音と意地でぶつかって、何度も喧嘩して、だからこそ嘘のない言葉で繋がれる。
彼は何だかんだ言って、紫苑を一人の武士として扱って、鍛えてくれたから。
憎らしくて愛おしい大切な仲間、心からの同志だから。

沖田は紫苑を振り返ると、心からの微笑みを浮かべた。
力の戻った、強い光を宿した目で。

「僕が治るまで近藤さんを守って、紫苑。そこからは僕が守るから、君は土方さんでも守ってなよ」
「……ああ、わかった」


だから一緒に守ろう、互いに大事な人を。
そんな約束を、二人で交わした―――





















満月の夜、不穏な気配が立ち込める闇の中。
その暗さに同化するようにゆらりと戻ってきたのは人影だった。

「お帰りなさい」
「、……」

寝静まった深夜に似つかわしくないはっきりとした声色で出迎えると、
闇色の人物――山南は目を見張って紫苑を振り返る。

「……まだ起きていたのですか」
「目が冴えてしまったので」

月が出ている夜は、気が高ぶって眠れない。
それでも昼間活動する為にも無理をして眠るようにしているのに、
今日のような満月の日はどうやっても眠ってなんかいられない。

体が、血がざわざわするのだ。
今動いたらこの手は何をするかわからない、まだ奥に潜んでいる欲求が意識をもたげてしまいそうで。
だからこうやってじっと縁側で蹲って月がいなくなるのを待っていたら、彼が来た。

「貴女は眠らなければならないでしょう?羅刹であっても昼間も起きているのですから」
「こんな月の時は無理ですよ……山南さんだって、じっとしていられないんですよね?」

羅刹になったばかりの紫苑だって無理なのだ、彼に至っては月光の影響を特に色濃く受けているだろう。
その証拠に、何度も夜に出歩いているのを知っている。
時には他の羅刹隊の者達も引き連れて、何かをして朝方帰ってくる。

「山南さん、いつも夜に何しに行ってるんですか?」
「…………」

こんな噂が立っている、羅刹隊は見回りとは名ばかりに人を斬り、血を飲んで歩いていると。
この所、屯所の外で辻斬りが横行しているという話を聞けば、羅刹隊との関係を疑ってしまうのも無理はない。

鋭くさせた目で投げかけた相手を見遣るが、彼はその柔和な姿勢のまま。

「……見回りですよ。それ以外に何があるというのです?」
「…………」

山南達がやったという証拠もない、これ以上問い詰める事はできなかった。
だが探るような視線は感じているのだろう、山南はくすりと苦笑すると「もう寝なさい」と言って紫苑の横を通り過ぎる。

「山南さん……もう、やめてください」
「何を言っているのですか、藤沢君」
「山南さんが何をしているのか知らない、だけどもうやめて欲しいんです。羅刹を増やすのも、羅刹の力を使うのも。
羅刹は、自分の力を前借りしてるだけです。使えば使うほど寿命が短くなって、死ぬだけなんです」
「……何、ですって?」

立ち上がって告げた言葉に、山南はあからさまに顔色を変えた。
羅刹化した紫苑と対峙した風間が口にした、羅刹の真実。
変若水の事を知っている風間が言うのだから恐らく嘘ではないのだろう。

それが本当であるなら、早い段階で羅刹になっている山南などはきっと先が長くない。
他の羅刹達も、死期を早めているだけの行為は嬉しくないだろう。

「それは……っ、本当の事ですか?」
「はい、恐らくは。だから闇雲に羅刹の力に頼るのはやめてください。
あれは無限の力なんかじゃない。俺は……山南さんには、長く新選組にいて欲しいんです」
「そんな……なら私は、一体何の為に……っ」

驚愕で立ち尽くしてしまった山南はうわ言のように呟く。
彼の気持ちは痛いほどわかる、羅刹隊が新選組に必要だと主張してきた彼が今絶望に苛まれている事にも。

ふらふらと消えてしまいそうに足を動かす山南に、「それから……」と紫苑は追いかける。

「山南さん、どうしても血を飲みたくなったら俺の血を飲んで下さい」
「、藤沢君……っ?」
「俺は、鬼です。俺の血を飲めば、狂気が抑えられるんですよね?」

以前、彼はそう言って千鶴を追い詰めていた事があった。
鬼の血なら可能なのかもしれないと、だから紫苑の血でも純血には劣るが多少はその効果があるだろうと踏んだ。

辻斬りの真偽はわからない、だが鬼の血があればそれをやめてくれるのならば、紫苑は惜しまない。
羅刹の副作用の苦しみはもう紫苑でも理解できるし、何より彼に無駄な人殺しをして欲しくなかった。

(俺の血でいいなら、いくらでもあげる)

それで、助かる人がいるなら。

「あ、でも俺羅刹だから何か変な事になったりしますかね?」
「それは大丈夫だと思いますが……」

あまりにも唐突な提案に狼狽しきった山南は振り返り、紫苑にゆっくりと近づく。
そして悲しそうに微笑んで、目を伏せる。

「仕方のない方ですね、貴女は……そんな貴女の血など、飲める訳がありません」
「でも……っ」
「それに、もしもの時はこれがあります」

それでも食い下がる紫苑の前に薬を取り出した。
狂気を一時的に抑える薬だと、彼は言う。

だけど不安になる、彼が口にしたようにそれは一時しのぎでしかないのではないかと。

「貴女は大丈夫なのですか?」
「……今の所は」
「血が飲みたくなったら、これを飲みなさい」
「…………」

さらに懐からいくつか包みを出して、紫苑に手渡して微笑む。
羅刹らしくない優しい眼差しで、紫苑を黙らせる。

それ以上言い返す隙は、持たせてくれなかった。











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場面が飛び飛びになってしまった。

千鶴ちゃん空気にしてごめんなさい。