それは突然だった。
ついに来たか、という気持ちだったが、この時はそんな事を考える余裕など一切なかった。
「っう、あ……!」
何の前触れもなく胸の鼓動が跳ね上がったと同時に、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息ができなくなる。
慌てて息を吸い込んでも、干上がった喉は水分を求めだす。
喉を掻きむしりたいほどの、渇き。
炎天下に長時間投げ出された人間がひたすらに水を求めるように、紫苑の頭と体が一心に欲しているのは。
――血が飲みたい
その欲求だけが紫苑の意識を支配していく。
体の奥で激しい衝動が暴れまわり、皮膚を突き破ってしまいそうになるのを必死で抑え込む。
負けてしまったらきっと乗っ取られる、そう直感した。
「ぐ、ぁ……っ!」
苦しい、足りない、欲しい、そんな欲求が狂ったように体中を這いずり回る。
蹲って、勝手に動きそうになる四肢を両腕で拘束して耐える。
頭の血管がドクドクと脈打って、割れそうだ。
額が熱いのは恐らく、この衝動に呼応して鬼の象徴である角が紫苑の意志に反して生えたからだろう。
角までも生やし、目を血走らせて唸っている姿は、客観的に見ればまさしく獣のようであっただろう。
――欲しい
いやだ、私は欲しくない。
いくら人間ではなくなったとしても、血をすするなんて御免だ。
ましてや人の体を捌いて血を飲むなんて事も。
ついさっきまで一般隊士達と一緒にいた。
これからの戦い方なんてのを語り合っていた。
少し席を外した瞬間にこの吸血衝動、誰かに見られなくてよかったと、混乱した思考でも確かに思った。
誰もいない小部屋を見つけ、日の当たらない隅に隠れて紫苑は耐える。
(く、薬……!)
先日山南から衝動を抑える薬を渡されていた事にようやく思い至り、
ぶるぶると震える手で懐から取り出し、かぶりつくように包みの中身を喉に押し込んだ。
「う、はぁ……っ、あ」
薬が効くのをひらすら待ち、ようやくまともな思考に戻るまではしばらくの時が必要だった。
内なる声が聞こえなくなると、紫苑は耐えていた分の空気を吸い込み、安堵と一緒に吐いた。
(これが、吸血衝動……)
はあはあと荒い息でぼんやりと考える。
正直思っていた以上に辛かった。
今はまだ耐えられるが、いつかあの声が自身の自制心を超えてしまったら、きっと自分は自分でなくなる。
幾度となく処理してきた羅刹達と同じように、血だけを求める化け物になるのだろう。
(頼むから、最後までもってよ、この体……)
大事な人を守る時までは狂う訳にはいかないのだから。
「誰かいるのか?」
「……っ!」
突然襖が開かれ発せられた人の声にビクリと肩を揺らしてももう遅い。
抑えきれなかった呻きをたまたま聞きつけたのか、驚きに見開きながら此方を見下ろす目と視線が合った。
紫苑、と名前を零し、そして状況を正確に読み取った頭上の人物はみるみるうちに険しい表情に変化する。
よりにもよって一番知られたくない人に見つかってしまった。
それでなくとも今彼とは顔を合わせづらいというのに。
「……血が飲みたいのか」
「な、何でもないですよ?ちょっと、日の光がきつかっただけです」
「……」
何でもないわけがない。
苦しさを紛らわす為に知らず胸元を握り締めていた手を咄嗟に離したが、
息荒く疲れ切った表情をしていては悟られても無理はなかった。
へらっと笑っても、相手の顔色が緩む事はなかった。
その目をされると辛い、己の行動を咎められているようで。
そんな意図はなかったとしても、人間じゃないものとして見られている気がするから。
とにかく何でもいいから此処にいたくない、いつまでも痛い程の視線を浴びたくない。
土方が言葉に困っている今のうちにと、紫苑は立ち上がって土方の横をすり抜ける。
「おい紫苑、」
「何でもないですって、本当に」
これ以上何か言われたら流石に立ち直れなくなるかもしれない。
だから逃げようとしたが、続いた言葉は少しだけ意外なものだった。
「……苦しいなら言え。無理すんじゃねえ」
「…………」
言って、どうなるというのだろう。
吐き出した分、今度は彼がそれを背負うのだろう。
そう思ったけど、とにかくやり過ごしたくて素直に頷きながら笑みを作る。
少しだけ嬉しかったのは本当だから。
「わかりました」
「……本当にわかってるのか?」
「わかってますって」
心配性なんだからと茶化して立ち去ろうとしたけど、彼の探るような目は鋭いまま。
「…………」
「……もう、いいですか?」
引力のある視線に囚われる前に、紫苑は彼の返事すら待たずにその場を離れた。
彼から追い討ちの言葉は、それ以上なかった。
梔子 三
「あー……何か面白くねぇなあ」
今の鬱々とした状況を、永倉は的確に言葉にした。
江戸に戻ってきてから新選組に命じられたのは、
政権を譲り上野の寛永寺に謹慎している徳川将軍慶喜の警護だった。
将軍家を崇拝している近藤にとっては光栄至極の任務だろうが、さして幕府を盲信していない者にとっては、
戦から逃げるように江戸に上った元将軍など守っても面白くないというのが本音だった。
永倉だけでなく、そう思う隊士は少なくない。
そもそも一度見捨てられているのだから余計に。
「左之、飲みに行くぞ!」
「おいおい、真っ昼間からか?まぁ、他にする事もねぇからいいけどよ」
警護は二班の交代で行われているから、飲める時に飲んでおきたいらしい。
永倉の溜まった鬱憤を読み取ってか、原田はため息をつきながらも隣に並ぶ。
「紫苑!お前も行くだろ?」
「俺はいいよ、ごめん」
「ああ?何だよ、最近付き合い悪ぃなー」
「新八、日中に紫苑に無理させんじゃねえ」
「あー、そう、だったな……忘れてた」
そういえば羅刹だったな、と原田に指摘された永倉はポツリと漏らす。
藤堂のように死人扱いになっていれば表立って動けないが、
紫苑の場合は皆と変わらずに生活している為に、羅刹になっている事を忘れがちになる。
太陽の下で普通に立ってはいるが、羅刹にとってはそれだけで結構辛いのだという事を思い出して、
思わず戸惑いの目で紫苑を見遣れば、少しだけ影のある苦笑を返された。
こんな風に制限に縛られ思い通りにいかない事も、こんな現状になってしまった事も、
色々な事が面白くなさそうに永倉は頭を掻きむしる。
「斎藤は?」
「俺も遠慮しておこう」
「おいおい、結局左之だけじゃねぇか!」
「付き合ってやるだけ有り難いと思え」
肩を落としながらもそれ以上紫苑と斎藤に不満を漏らすは事なく、二人は明るい街へと繰り出していった。
途端に静かになってしまった空間に残された紫苑はふうと息を吐く。
「……一君は、何か用事でもあるの?」
「いや、早急に進めなければならない任務はない」
「そっか」
彼は単に飲みに行く気がなかっただけらしい。
特に意味もない会話を軽く交わして紫苑はその場を後にする。
永倉には悪いが、きっと誘われたのが夜であっても付いていかなかったと紫苑は思う。
羅刹などの偏見もなく同等に扱ってくれるのは素直に嬉しいのだが、紫苑自身がとてもそんな気にはなれなかった。
彼らに甘え、馴れ合っている自分が許せないと表現した方が正しいだろうか。
永倉が感じた付き合いの悪さは気のせいではない。
そうなるようにしているのだから。
「紫苑」
「っ、……一君」
あの場で別れたはずなのに、振り返れば斎藤が気配を荒立てずにそこにいた。
付いて来ていないと思っていたのに、そういう所彼は計り知れない。
「調子がよくないのだろう?ならば寝ていた方がいい。此処には俺も皆もいる」
なるほど、彼は心配してくれているらしい。
彼だけでなく、皆、何となく紫苑を気にしてあれやこれや声をかけてくる、永倉の誘いのように。
それは羅刹に対する腫れ物のような扱いではなく、本当に心配されている、というのは紫苑も薄々気づいている。
だが心配されればされる程、余計に罪悪感が募る。
自分はそんな風に心配される存在ではない。
(みんな、優しすぎるんだから……)
嬉しいから、辛い。
「……調子は、よくないよ。だけど、なるべく皆と同じ時間に起きていたいんだよ」
「あんたがそれでいいなら構わないが……」
気まずくても体が辛くても、それでも昼間にこだわるのは、ひとえに土方と同じ活動周期でなければ不安だから。
いざという時、寝ていましたじゃ取り返しがつかなくなるから。
「大丈夫だよ、昼間はちょっと体が重い程度だから。ありがとう、一君」
「……そうか」
彼は未だに晴れない顔をしているが、此方の意志も尊重してくれる人だから、それ以上は何も言わなかった。
だが色々思う所はあるのだろう、斎藤はすぐに立ち去る事もなく、ぼんやり庭を眺めている紫苑の斜め後ろに立ったまま。
時が、流れていく。
乾いた風が身を震わせ、春を待って耐え忍ぶ枯れ木も揺らしてカサカサと音を立てる。
ふと、ずっと脳裏に占めていた事を打ち明けてみたくなった。
助けて欲しい訳でも、優しい言葉をかけて欲しい訳でもない。
だが彼なら嘘をつかず、言いにくい真実もちゃんと教えてくれるだろうと思ったから。
皆に触れ回る事も騒ぎ立てる事もなく、己の内に留めておいてくれるだろう。
「ねえ一君……ひとつ聞いていい?」
「何だ」
それでも彼の目を見て言うのは怖かった。
だから彼の声を背後で聞きながら、もう一度息を吸い込む。
「……みんな、何とも思わないのか?」
「何をだ?」
「……俺が、鬼だったのに」
思いの外、か細い声になってしまった。
下手をすれば聞き逃してしまいそうな音量に恐る恐る振り返ると、
彼は心底意味がわからないといった表情で首を傾げている。
聞こえなかった訳ではないらしい。
どういった類の返答をすればいいのかわからないと顔に書いてある。
「ほら、意外だったとか、吃驚した、とか」
「……俺は特に思わなかったが。鬼であって、それで何か問題でもあるのか?」
「けど、皆は自力で一から強くなったのに、俺は鬼だったから強かった。そんな力は偽物だ。
偽物が、此処で安穏と生活してていい訳がない。俺は……みんなと仲間でいられる資格がない!」
堰を切ったように一気に捲し立てた紫苑に、斎藤は少しだけ表情を変化させながら、
どう答えたものかと悩んでいるのかしばらく黙り込む。
カサカサと、寒々しい音だけが二人の耳に触る。
そろそろ晩冬であったがまだ突き刺すような寒さは厳しいまま。
それでも、やせ細った枝には少しずつ硬い蕾が姿を見せ始め、いずれ大きく膨らむだろう。
春はもう、すぐ傍まで来ていた。
「……確かに、紫苑には鬼の血に所以する素質があったのかもしれない」
彼にしては珍しく、言葉を選ぶようにゆっくり告げられる。
「だが、それをここまで磨き上げたのは自分自身の力ではないのか?」
「…………」
「どんな業物でも磨かなければ錆びていく。磨いた努力は紫苑の意思で、
そこに鬼の血の干渉などなかっただろう?鬼であったとして、それで紫苑の何が変わるというのだ」
はっきりと言われ、紫苑は呆けたように斎藤を見つめた。
正確には、意外な事を言われて混乱していた。
「あんたの力は努力によって作られているのだから本物だ、それは俺が証明する。
それから、此処にいる者達は元々そういう集団だ。出身や身分、そんなものは此処では何の意味もない」
それはつまり、どういう事なのだろう。
ずっと重苦しく悩んでいた紫苑の頭では、未だに彼の言葉の意味を上手く呑み込む事ができなかった。
(私の力は、努力で作られている……?)
何度も反芻して、ようやくその言葉が紫苑に突き刺さる。
だが痛みではなくこれは、凍り付いた心が熱いくらいに溶かされていく感覚。
モヤモヤしていた頭が次第に晴れ渡っていくような。
「なら……俺は、みんなの仲間でいいって事か?」
「俺達は志を同じくして新選組にいる。そこに許可など必要ない。俺達が紫苑を仲間と認めている、それだけだ」
「……私、は……此処にいてもいいの?」
「――何だお前、んな事で悩んでたのか」
「っ、な……新八っつぁん!?左之さんも!」
庭先から姿を見せたのは、街に出かけたはずの二人だった。
なんでここに、という呟きは言葉にならなかったが、意味は伝わったのだろう。
並んだ原田もくすりと笑って近づいてくる。
「紫苑の様子がずっとおかしかったからな」
「左之の奴が、今日は特に変だから帰るってうるせぇんだよ」
文句を言いながら、全く不満にも思っていない顔の永倉。
立ち尽くす紫苑の目の前にまでやってきて、原田はふわりと柔らかい眼差しで、紫苑の頭をそっと撫でる。
「俺達を避けてるから何かと思えば。鬼とか羅刹とか関係ないだろ?お前はお前じゃねぇか」
「んとに、馬鹿だなぁお前。俺等が鬼とかで判断するように見えるか?俺は、お前だから一緒に戦えるんだろ」
そして、永倉にも少々乱暴に頭を撫でられた。
「――っ」
泣いてしまいそうになった。
嬉しくて、優しくて、こんなにも自分は受け入れられていたのかと。
昔からずっと、性別の事があって自分を"自分"として見て欲しかった。
此処にいる仲間達はそれをしてくれる人達だった。
試衛館の頃から今に至るまで、それはいつ何時も変わらなかった。
それなの枠にはめて区別していたのは、自分だった。
信頼されている、だから信じなくてはいけなかったのに。
こんなにも簡単に、自分の苦しみを解放させてしまったのは、やはり仲間達だった。
始めから打ち明けていればよかったのかと、今更ながら思った。
「……あり、がとう……」
絞り出すように言えば、仕方ない奴だなと苦笑してまた撫でられた。
ちらりと傍にいた斎藤を見ると、彼もまた少しだけ綻ぶように口角を上げていた。
――この人達に逢えて、よかった。
こんな自分を受け入れてくれて、彼らには感謝してもしたりない。
これだけで、自分の人生に意味があったようにも思えた。
生きていてよかったとさえ感じた。
温かい場所を与えてくれた全てに、感謝して。
そして一筋の液体が、頬を流れた。
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ついに主人公にも吸血衝動が。
早い段階で何となく悩み解決。