――「お願いします、山南さん」
真っ直ぐでいて必死な瞳に、逆に懇願するような表情を浮かべたのは山南の方だ。
それは願ってもいない提案なはずだった。
先に要求し、千鶴に迫ったのは山南であるし、数日前にも同じ言葉を紫苑から言われたりもした。
だが、一度はそれを退けたのは紛れもない良心で。
いざ同意されてしまうと、暴走していない自身の正常な頭がやはり駄目だと警鐘を鳴らす。
なのに彼女は、引き返せなくなる前に離そうとしても追いかけて懐に飛び込んでくる。
やめてほしい、自分は恐らく彼女のように純粋な正義だけでそれを発案したのではない。
隠しきれない欲が、詭弁という皮を被っているだけなのだ。
狂い始めた思考には、彼女の強い眼差しの色は痛い。
自分の意識がいかに正気を失いかけているのかを思い知らされるようだから。
冷水を浴びせられたように我に返らせてくれるのは有り難いが、だからこそ今のうちに撤回してほしい。
どうして彼女はこんなにも他人の為に生きられるのだろうか。
女を捨て、人としての平穏を捨てただけでも十分なのに、今度はその身までも犠牲にする。
本来なら危険な目には合わせたくないのに、女性として守ってあげたいのに、現実がそれをさせてくれない。
さらには彼女自身も望んでくれない。
普通の、光が溢れるような幸福に包まれながら生きてほしいのに。
こんな無欲な彼女を、傷つけたくはないのに。
「――お願いします」
「……藤沢君……っ」
ああ、今この時この場所に、彼女が最も敬愛している人物が現れてはくれないだろうか。
誰よりも影響力のある彼なら彼女を、そして自分を止められる。
どんな言葉や圧力を振りかざしてでも、この馬鹿気た考えを潰してくれるのに。
彼は、いない。
そして、彼女の言う"羅刹の寿命"が真実なら自分にはもうあまり時間がない。
その自分の背後には、滅びゆくだけの運命を抱えた部下達が大勢いる。
「……すみません」
申し訳ない、本当にこの言葉しかでてこない。
きっと全てを知ったら激怒するだろう彼にも、
いくらすぐに癒える体であったとしても傷をつけてしまう事には変わりない彼女に対しても。
「っ……、すみません」
彼女に縋るしかない現実が悔しい。
そして、確かに欲しがっている自分にも腹が立つ。
だけど、もう彼女の手をとるしかなかった。
「貴女の血を……頂きます」
からからに乾いた喉でそれだけを絞り出すと、紫苑は満足そうに微笑んだ。
その、強さの奥に潜んだ儚さが垣間見えて、山南は気付かない振りをするように目を瞑った――
梔子 四
きっかけは、吸血衝動だった。
といっても自分自身のではなく仲間の――藤堂のそれだった。
その日は一日、紫苑は辛い体を叱咤させながら通常隊務をこなしていた。
煌々と突き刺してくる太陽が翳り、山々の奥に姿を隠した頃、
ようやく自由に動けると幾分か元気を取り戻して羅刹隊と合流した。
朧に浮かぶ月光に照らされた優しい薄明りの下を歩いていると、紫苑と一緒にいた藤堂が突然変調を訴えたのだ。
「ぐ、あ……っ!」
「平助!?」
「は、なれてろ、紫苑……!」
喉を掻きむしらんばかりに両手を震わせてその場に蹲る。
みるみるうちに色が抜けていく髪を目の当たりにして駆け寄るが、
藤堂はそんな紫苑を突き放して這うように部屋に逃げ込んだ。
見られたくないのだろう、だが放っておけるはずもなくて閉ざされた障子を少しだけ開けて滑り込む。
「っは、ぅがああ……っ!!」
「平助……っ」
彼は唸りながらも覚束ない指で懐から薬を出そうとしたが、上手くできずそれをぽとりと取り落とす。
慌てて薬を掴みたくても体が言う事をきかない。
血走った赤い目を引き絞らせ、獣のような苦しい呻き声を上げる唇。
迷ったのは一瞬だった、けどそれを振り払うのも早かった。
紫苑は落とした薬の包みを拾う事はせず、傍で膝をつくと自身の脇差を抜いた。
「平助、俺の血を飲んで」
「何、言ってんだ、紫苑……っ、…!」
すらりと取り出された刀身が月明かりで鈍く光る。
それを左腕に当てて、紫苑は静かに告げる。
「俺は鬼だ、鬼の血を飲めば鎮まるはずだから」
「そ、んな事、できる訳がな、い、だろ…!」
「薬なんかじゃ駄目だ、だから早く」
藤堂は驚愕に瞠目し、ぶんぶんと首を横に振る。
だが紫苑に引き下がる気なんて微塵もなかった。
一時しのぎにしかならない薬、それに対して羅刹の狂気自体を抑えられるかもしれない鬼の血。
その鬼の血を持った自分が、此処にいる。
たとえ純血ではなくとも、角と金の目を持っているほどには紫苑は鬼だ。
だから、躊躇う事なんてなかった。
どちらが彼にとっていいのか、考えるまでもない。
戸惑い、僅かに後退りする藤堂の前で、紫苑は刀を横に引いた。
一瞬後には赤い線だったものが、一気に決壊する。
闇夜にも浮かび上がるような真っ赤な鮮血が溢れる腕を、彼の眼前に差し出す。
「平助、頼むから飲んで」
「……い、嫌だ……俺は、血なんて……っ!」
「平助……!」
藤堂は頑なに抵抗していた。
だが元は欲しくて欲しくてどうしようもなかった血だ。
そんなものを目の前で見せつけられて、ぼんやり発光する赤い目が動揺に揺れる。
人としての最後の誇りを捨てさせるような酷い事をしている自覚はある、だけどこれが一番良い方法なのだから仕方ない。
彼は首を振りながらも次第に血から目を離さなくなり、物欲しげにゴクリと喉を鳴らした。
荒い呼吸を繰り返し、ついにふらふらと手を伸ばす。
そして、腕から滴る液体を、一滴も零さないように舐めはじめた。
「……っ」
そこからはなし崩しだ。
無我夢中な形相でそれを嚥下し貪っている姿はまさしく動物のようであった。
腕を這いずり回るのは生暖かい舌の感触。
それに嫌悪を覚えた訳ではない、むしろ謝罪の気持ちでいっぱいだった。
彼の為だとはいえ、嫌がっていた姿にさせてしまった。
きっとこうなりたくなかったのだろう、見られたくなかったに違いない。
(ごめん、平助……)
溢れた血液を綺麗に舐めとった後は傷口から生まれる新しい血を飲み干す。
そうして漏れる声も少なくなり次第に表情を和らがせると、髪と目はいつもの彼の色に戻っていった。
「……よかった、落ち着いたみたいだな」
「はぁっ……紫苑……ごめん、」
やはり紫苑の血でも効果はあるらしい。
薬を飲んだ時よりも、元に戻るのがかなり早い。
さらに薬の場合、無理矢理衝動を抑え込んでいるように思えたが、これは戻った後も幾分か楽そうに見える。
平常な思考に戻ったらしい彼は、気まずそうに顔を歪めて目を反らす。
二人の間にあった傷口は、スッと跡形もなく消えていった。
ごめん、と苦しそうに頭を下げる藤堂。
だが謝りたいのはこちらの方だと紫苑は思う。
きっと、彼の矜持を傷つけたから。
「俺こそ、ごめん……でも俺がこうしたかったんだ。平助を、楽にさせてやりたかったから」
「でもこんなの、おかしい……っ」
「うん、わかってる。それでも、平助に死んで欲しくない、狂って欲しくもない」
それから、と紫苑は真剣な表情で見つめる。
「お願いがあるんだ平助。羅刹の力はあまり使わないで欲しい」
羅刹の力は永遠でも無限でもない。
使えば使うほど命が削られるからと告げれば、彼はそうか、と寂しそうに笑った。
そんな都合の良い話なんてねぇよな、と納得するように。
「だから命を使わないで。狂気が抑えられなくなった時は、俺がいつでも血をあげるから」
「はは……何か、凄い大事にされてるな、俺」
どっちが女だかわかんねぇ、と零す彼の目は悲しそうな色をしていて。
それに少し胸が痛んだが、紫苑もまた眉尻を下げて微笑んだ。
「当たり前だろ?……我儘なんだ、俺は」
「……それこそ俺が望んだ事だって言っても、紫苑は満足しないんだろ?」
「うん、そうだね」
優しく即答すると、「そうだよな、そういう奴だもんなあ」と諦めの混じった溜息が漏らされた。
「死んだら何もならない。だから、生きて平助。
最後まで抗って生きよう……自分の命にも、この辛い事ばかりの世の中にも」
「……ああ、お前の言う事はわかったよ。けど俺……これじゃ、土方さんに顔向けできねぇ」
「え?」
藤堂は苦笑しながら独り言のように呟くと、ゆっくりと立ち上がる。
「俺、土方さんに紫苑の事頼まれてたんだ。見ててくれって……なのに」
あろう事か傷をつけて、血を飲んでしまった。
「……黙っといてくれよ。あの人、煩いから」
困惑の表情を浮かべる藤堂に、紫苑は小さく返した。
あの鬼になりきれない鬼副長は、恋愛感情で此方を見ていないくせに、心配だけは人一倍するから。
それは嬉しいけれど、やはり少し辛い。
「紫苑……お前」
「ん?」
「そんなに抱え込んでどうするんだよ……いつか、自分が潰れちまうぞ」
逆に心配してくれる藤堂に、紫苑はまた薄く笑う事で返事をした。
大丈夫だと、それを伝えるように。
――自分にできる事があるなら、なんだってする。
それがこの瞬間に固まった、紫苑の新たな決意だった。
"自分の血を羅刹隊の為に使って欲しい"、それが紫苑自らが望み、提案した内容だ。
血を分け与えるにあたって、山南といくつかの約束事を決めた。
一度に提供する血は少量、一日に一回しかもらわない事。
といっても、喉が潤せるほどには必要なので、要は紫苑が貧血を起こさない程度だという事だ。
そして、事情を知ってしまっている者、つまり山南や藤堂以外の一般隊士には、
紫苑が鬼である――血の提供ができるという事は内密にする事。
紫苑の血を飲めば楽になれる事が知られたら、暴走した隊士がその血欲しさに襲ってくるかもしれないからだ。
尤も、藤堂もこの事は知らないので、全てを把握しているのは山南のみになるが。
提供した血は研究用途以外に、必要と判断した隊士に山南から与えられる。
その際、隊士に血を飲ませる現場に立ち会う事を紫苑は許可されたが、見守る以上は何もしてはいけないと念押しされた。
できれば現場にもおらず、せめて別室にいて欲しいと言われたが、それに関しては答えを濁した。
それから、紫苑の体調が悪かったりおかしな所があれば血は絶対にもらわないと約束された。
鬼の血を飲めば狂気が抑えられるかもしれない、それは確実ではなかったがやってみる価値はある。
現に藤堂には効果があったので、吸血衝動に有効なのは確かめられた。
血に狂う隊士に与えるのはもちろんだが、定期的に少しずつでも鬼の血が入るとどうなるのだろうか。
この、少しずつ正気を失っていく症状を遅らせ、落ち着かせる事ができるかもしれない。
それらは彼らの命を繋げる事にもなるし、無益な殺生も減らせるかもしれない。
全てはまだ実験段階だが、何でもやってみせると紫苑は決めた。
山南には「貴女だけ楽になれないのが心苦しい」と悲しそうな顔をされた。
自分自身の血では効果はなさそうなのだから仕方ない。
それに、紫苑はこの案に関して全く不本意な部分はない。
千鶴のように強制されるのは駄目だが、これは自身が望んだことだ。
逆に光栄なくらいだ、鬼である事で役に立てるのならば。
――鬼だからと、絶望した。
偶然が重なって得た現在を認める訳にはいかなかった。
だけど、鬼だからこそ、できる事もあると思ったのだ。
仲間の為に何ができるか、考えた結果がこれだ。
羅刹の狂気にだって、もう苦しんで欲しくない。
もう関係ない人達の血を求めて欲しくない。
止めたい、この負の連鎖を。
「っ」
ぽたぽたと傷口から流れて落ちる雫を、硝子の瓶で受け取る。
波打ちながらかさを増していく液体は、鮮やかなほどに深紅に揺れて、妖しい色を映し出す。
魅惑的に光るそれに、羅刹である山南もまた物欲しげに瞳を揺らしたが、耐えるように目を細める。
滴っていた血は何もしなくとも次第に止まり、傷は自然に塞がった。
「……すみません」
「いいんですって。これで羅刹隊の皆が楽になるんですから」
慎重に瓶に蓋をして、山南は目を伏せながら言う。
捲り上げていた袖を戻し、もう何回聞いたかわからないほどの謝罪の言葉に紫苑は苦笑するしかない。
「貴女の血、絶対に無駄にはしません」
「はい、ありがとうございます」
「……それは私の台詞ですよ、藤沢君」
これは、二人しか知らない秘密の盟約。
紫苑が悪戯っぽく笑えば、山南もまた、苦しそうな顔に何とか笑みを貼り付けた。
Back Top Next
全てを抱え始めた主人公。