――咄嗟に伸ばした手は、触れる事も掴む事もついにできなかった。
下手な男よりよっぽど強く、だが驚くほど華奢な彼女の手でさえも。

紫苑は何も言わずに、見た事もないような笑顔で光の中に消えていった。
自分も、何の言葉もかける事ができなかった。

引き止められなかった。
だがどうすればよかったというのだろう。
幹部二人と局長のどちらを切り捨てるかなんて、局長の方が命が重いのが当たり前だ。

羅刹ならもしかしたら生き残ってくれるかもしれないと、一瞬そんな考えがよぎりもしたが、それはすぐに却下したのだ。
あの二人を犠牲にして逃げるのは自分が許せない、ならば自分が行くしかない。
そう思ったのに、紫苑は嬉しそうに名乗り出てしまった。

確かに嬉しそうだったのだ、彼女は。
ここ最近、顔色の悪い表情で薄く笑うぐらいだった彼女が、満足気に笑っていた。

感じたのは、恐怖だった。
美しい事を怖いと思ったのは初めてだった。

だが、どうしようもなかった。
局長を最優先に、そして互いに生存できるかもしれない可能性を考えれば恐らく、これが最善の策なのだろう。

悔しかった。
どうにもできない現実が憎らしくて、今まで懐いてきた妹のような彼女に頼らざるを得ない――死地に送るしかできない自分に腹が立つ。

どうか生き抜いてくれる事を切に願いながら、振り切るように局長の部屋に駆け戻った。
吐き出した声は、予想以上に自棄の色が強かった。

「近藤さん逃げるぞ!急いでくれ!」
「何だと!?あの二人を置いて逃げろというのか!」
「っ、ああそうだ!羅刹なら生き残れる可能性はある!近藤さんは無事に逃げ延びる事だけ考えてくれ!」

早く、と促すが近藤はわなわなと身を震わせてその場から動こうとしない。

「何を言っているんだトシ!こんな……こんなもの武士ではない!」

近藤の叫びはまるで慟哭のようだった。

「俺はもう嫌だぞ!部下ばかりが死に、俺だけが生き残るのは!
ましてや総司と紫苑を犠牲にして……そんな命に何の価値がある!?」
「わかってるさ!だがあんたは局長なんだ、頭はいなくちゃならねぇんだ!」

気持ちはわかるが、と反論するが近藤は絶対に引かない。
今までにない激しい意見のぶつかり合いに、その場にいた千鶴や島田も言葉を挟む余裕はなかった。

どちらも間違ってはいない。
だが近藤の主張が真っ当な人間の持つ心だと本当はわかっているからこそ、土方の方が分が悪い。

「だったらそんな地位など必要ない!俺は……総司を捨てる事などできん!」

かつてないほど激昂した目が、まるで見透かして責めるように土方を見据える。

「トシだって、紫苑を捨てて……本当にそれでいいと思っているのか!?」
「っ、思ってねえよ!だがどうしようもねえじゃねぇか!」
「だから俺が行くと言っている!」
「近藤さん!!」

頼むから!と叫んだ時だった。
妥協点の見つからない口論を引き裂いたのは、室外から響く一発の銃声。

「「っ!」」

その音が何を意味するかなど、深く考えなくとも体が理解していた。


――撃たれたのは、どちらなのだろう。


体中に走ったのはまたしても恐怖。
飛び出したい衝動を必死で抑え込んで、それを深々と吐き出しながら土方は「わかった」と呟く。

「……だったら俺が行く」
「それも許さんぞ、トシだって俺の部下だろう?」
「わかってる……だが、だからって近藤さんが行く事はねぇんだ!」

緊急を要する外の状態、頑として譲らない近藤に、焦りばかりが募っていく。

「これは俺の誇りの問題だ……総司を、紫苑を捨ててはおけん!」
「だから俺が――!」
「トシ!新選組の局長は誰だ!?」
「っ!」

諭すように穏やかな顔をしていた近藤が、一転して尊大な態度で土方を睨み付けた。
有無を言わせない威圧的な目で、立場を思い知らせるように。

「俺が新選組局長、近藤勇だ!その俺が命令しているのだ!」
「、あんたが……俺に命令するのか……っ!」

いくら旧知の仲であっても、組織として上に命令されてしまったのなら逆らえるはずもない。
逆らいたいのに、それをしてしまったら新選組の全てが崩れていく。

「命令は絶対なんだろう?隊士達に切腹や羅刹化を命じておいて、
自分達だけは特別扱いか?それが、俺達の望んだ武士の姿か」
「……っ」
「俺は……俺達は、最期まで武士でいたい。そうだろう?」

規律を誰よりも重んじてきた"鬼副長"であるが故に、組織を持ち出されると身動きがとれなくなる。
グッと呼吸を詰まらせる土方に、再び柔らかい表情で笑いかける。

「大丈夫だ、ついこの間だって助命嘆願が叶ったのだ。
もしかしたら俺だって聞き届けられるかもしれんだろう?」

先月、土方の義兄である佐藤彦五郎とその長男源之助が敵軍に拘束された。
その知らせを聞き助命嘆願に回り、何とか処罰されずに済んだ事から、
今回も"大久保大和"で通せば逃げられるのではないかと近藤は言う。

そんな簡単にいくものかと、土方は思った。
だが終始優しい目で言うものだから、ついに口を挟む事はできなくなった。
その代わりに噛みしめる唇と震える拳の力だけが強くなっていく。

「トシ……若い命を、よろしく頼む。彼らに、ましてや女性に守られている訳にはいかんからなぁ」
「…………っ」


――どちらかしか選べないなんて、何と残酷な現実か。


「行かせてくれ。それが俺の、今の望みだ」


志、誠、立場、情、命、魂。

最後に殉じなければならないのは、一体どれなのだろう―――






梔子 十一






白い獣が二匹、振り返る。

「な……ん、で…!」

起こっている現実が理解できず、力なく下ろされた刀の行き先もわからないまま、背後を凝視する。

固まって動けない二人を余所に、堂々と歩み進む人物。
誰よりも、此処にいてはいけない人がそこにいて、二人の横を通り過ぎる。

「血の気の多い若い者達が失礼した、私が大久保大和と申す者。
突然の事に動揺し、無闇に血を流させてしまった非礼を詫びたい」

命を捨ててでも守ろうと思っていた人が、敵軍の前ではっきりと名乗りを上げた。
唖然として言葉もまともに紡げない紫苑の代わりに、沖田が今まで聞いた事のないような悲痛な叫びを上げた。

「何で……出てきたんですか!!」

それは激しい程の怒りを孕んでいて、彼の心の底からの悲鳴だったのだろう。
だが近藤は一転して柔らかく微笑み、血まみれの沖田と紫苑を長岡屋まで引き上げさせた。
門前まで追いやられた二人は抗議の目を向けるが、近藤の表情は揺らがない。

「俺は総司と紫苑を犠牲にしてまで生き長らえたくはない」
「でも僕は……!」

どうしてと、戸惑いばかりが心を占める。それは紫苑も例外ではない。
あの聡明な副長がこんな結末を選んだのか、いや違うだろうと二人を交互に見つめながら紫苑は思う。
もしそうするのなら彼自身が出てくるはずだから。

ならば、これは近藤自らの意志という事になる。
だけど本懐を遂げさせてもらえないなんて、生きる意味を否定されているようなものだ。羅刹なら特に。

沖田の胸中を思うと、どうして死なせてくれないのかという怒りが嫌という程理解できた。

「俺は総司に生きて欲しいんだ」
「嫌だ!僕が近藤さんを守る!その為に羅刹にだってなった!」
「俺は、羅刹になって欲しくはなかった。
もしそうならざるを得なかったとしても、それは俺を守ってもらう為じゃない」
「だからって近藤さんが出てきたら意味がないじゃないですか!
近藤さんを死なせるくらいなら僕が死んだ方がましだ!!」

必死で止めようとする沖田に、紫苑は何も口を挟めない。
むしろ彼と同じ気持ちであるので、同意するように近藤に抵抗の目を向けた。
だが切迫した沖田の言葉に、近藤は全然く耳を貸そうとしない。

あの、どんな時も余裕で人を食ったような顔付きでいようとした彼が、本気で焦っている。

「俺は死にに行く訳ではないんだぞ、大久保大和として話を付けに行くだけだ」
「近藤さんは甘いんですよ!」
「――総司!いい加減にせんか!!」
「っ!」

だが沖田の叫びよりも何倍も強い叱咤が突然降ってきて、思わず二人は肩を強張らせて怯んだ。

「いつまで親離れしないつもりだ!!
そもそも総司がいなくなったら雪村君はどうなる?!雪村君の気持ちを少しは考えた事があるのか!」

もの凄い剣幕の目は、ただ上に立っていただけではない、
人殺しの荒くれ集団を牽引してきた、人を従わせるに値する程の力強さがあった。

(総司だけにはとことん甘かった、あの近藤さんが……)

何でも受け入れて許してくれた人が、こんなにも怒っているなんて。
かつて見た事のない光景は、沖田にとっても衝撃だったようで黙り込むしかできないでいる。

そしてその激しい目は、隣の紫苑すらも貫いた。

紫苑もだ!あいつは、トシは……君が心配なんだ!
それなのに君や総司に先立たれたら、俺達はどうやって生きていけばいい?!」
「……っ」

でも、と言いたい意志はまだ心に存在している。
だけど思わず「すみません」と謝ってしまいそうになる程、自分が小さくなってしまったように思えた。

(私達は、間違っているの……?)

客観的には間違っていないはず。
だけど彼の気持ちの中では、きっと間違いなのだろう。

沖田と紫苑に決意があるのと同じように、近藤にも強い決意がある。
それが決して共存できなくなった時、どうしたらいいのか紫苑はわからなくなった。

同じように、俯いて苦しみに満ちた顔を歪ませている沖田に、近藤はまた優しく笑った。

「……総司、親の言う事は聞くものだ。親より先に逝く子など、親不孝以外の何物でもない」
「……僕は……僕は……っ!」

彼にどう言ってやればいいかわからない。
彼は、本当にこの為に生きてきたのに。

呆然自失だった。
自身の本望と大切な人の激昂で、葛藤と混乱に渦巻いた思考が上手く回らない。
大切な人を犠牲にするのは嫌だ、でも相手はそれが嫌だと言う、ならばどうしたらいい。
自分達は望まれていないのかとすら思った。

近藤は、そのまま屋敷の門を開け放ち、二人の背中を押そうとした。

「っ!こ、近藤さん……!」
紫苑……いや、紗矢。トシの傍にいてやってくれ」

ハッと我に返って抵抗して振り返っても、近藤は穏やかにそう言った。
つい先ほど、近藤の部屋で和やかに話していた時と同じ温かさで、泣きそうになった。

「い、嫌だ!!僕は――っ!!」

最後を予感し、恐怖を覚えた沖田がついに暴れ出す。
だが力強く、そして優しい掌が沖田の頭に触れた。

「……ありがとう、総司」
「っっ!!」

一瞬息が止まった隙に、トンと押し出される。
非情な音を立てて、目の前の門が閉ざされた。

「近藤さん……!近藤さんっ!!」

どれだけ沖田が叩いてもビクともしない壁。
血が出るほど叩いてる背中を、紫苑は悲痛な面持ちで見つめていた。
近藤と沖田の互いの想いが悲しくて、もうどちら側に付けばいいかも決められなかった。

ふいに背後から音がして、放心状態だった紫苑が振り返ると土方が待ち構えていた。
今にも人を射殺しそうな目をして、開かない門を睨みながら……震えていた。

そして瞬時に悟った、彼もまた局長の説得が叶わなかったのだと。
これ以上ないほど歯を食いしばった視線が一度だけ紫苑を捉えたが、言いたそうだった何かすらグッと堪えて彼は踵を返す。

「っ……、行くぞ!」

言葉にならない、彼の激しい気持ちが紫苑にもわかる気がして胸が痛くなる。
ただ辛くて、苦しくて、悔しくて腹立たしくて……それを何にぶつけたらいいのかわからない。
誰のせいでもない、言うなればこんな選択しかできなかった不甲斐ない自分と、
どうにもならない無情な現実を恨みたい気分なのだろう。

だからそれでも前に進もうとする土方の背中に、紫苑は心を決めた。
飛び散っていた頬の返り血を拭い、未だその場から離れようとしない沖田の手を掴む。

「……行こう」
「嫌だっ!」

パシ、と乱暴に弾かれた音がする。
それでももう一度掴んで、「行こう」と告げる。

「近藤さんは総司を愛してたんだ、だから守ったんだよ……」
「僕は一緒に死ぬ!!君に僕の気持ちがわかる訳がない……っ!!」

衝動のまま吠えて睨み付けて、沖田は少しだけ後悔した。

紫苑の双眸からは、行き場をなくして堰を切った感情が零れていた。
こびり付いた血の痕を、透明な液体が洗い流していく。

紫苑が、沖田の気持ちもわからずにやっている、なんて事はないのだ。

「、……行こう」
「…………っ」

掴んだ手を振り払う、また掴んでは離されて。
飽きるほど何度も繰り返して、それでも紫苑はまた強く握り締める。
泣きながらも毅然とした眼差しで、静かに諭す。

その何度目かでついに抵抗を止めた沖田は、諦めたように門を叩く力を弱めた。
ダラリと何もしなくなった体を半ば無理矢理引きずるようにしながら、紫苑は長岡屋を離れた。
二人が裏口から出ると、待っていた土方や千鶴達と合流して一緒に走る。

木々を押しのけるようにして林の中を駆け抜けていく。
途中、ただ連れられるままの沖田は虚ろな目でうわ言を呟いていた。

「僕が……近藤さんを……僕が……」
「違う、総司じゃない、違う」

上手い言葉が見つからなかったが、
それでも自分を責める事だけはしないで欲しいと、根気よく相槌を打つ。
彼の心には届いていないかもしれないから、とにかくその度に手を握った。

それぐらいしかしてやれなかった。

「おい、そこの者、止まれ!」

敵軍を正門に引き付けたといえども、やはり何人かは残っていたらしく、
逃走する土方達に刀や銃器を向ける。

「貴様ら、このような所で何をしている!?答え……ぎゃあああ!!」

だが速度を全く緩めないまま、躊躇う事もなく土方が敵兵を斬り払う。
後ろから追っていた紫苑は、その背中が激しい殺気に満ちている事に気付いた。

「……運が悪かったな。今の俺は虫の居所が悪いんだ」
「貴様ら……まさか幕兵か!?」

騒ぎを聞きつけた敵軍が集まってくる。
その数は、とても生身の土方一人で片付けられるものではなかった。

(駄目だ、敵兵が増えてきた)

「千鶴、総司を頼む」
「は、はい!……沖田さん……っ」

繋いでいた手を千鶴に託すと、ずっと心配していたのだろう、
涙を目に溜めながら沖田の肩を支える。

「……島田、山崎、ここは俺が何とかする。皆を連れて敵の包囲を突破しろ」
「わ、わかりました!」

それだけを指示して、土方は刀を手に敵兵へ走っていく。
やはり一人でやるつもりだったのだ。

「でえええやあああ!!」
「ぐあああ!!!」

痛々しい雄叫びだった。
怒りに身を任せて力づくで敵を斬り伏せる、胸が締め付けられるような戦い方。

「さあ藤沢君も……、藤沢君!?」

込み上がる苦しさにまた泣きそうになった目尻をグッと堪え、
島田の声も無視して紫苑も戦いの渦中に飛び込んだ。
羅刹化して、一気に何人かをまとめて斬り捨てた。

「……邪魔してんじゃねぇよ紫苑!」
「邪魔してません!俺は俺で戦ってるだけです!」
「黙って下がってろ!これぐらい俺一人で、充分なんだよ!」
「そうです、ね!」

紫苑が横槍を入れれば土方が嫌がる事はわかっていた。
だがそうしなければ、羅刹でない土方では勝てない。
紫苑がそう思って入ってきたと、土方も悟っていた為に余計に苛立ちを感じていた。

「何で俺が、お前に守られなきゃなんねぇんだよっ!」
「腹が立ってるのは、土方さんだけじゃないんですよ!」
「ぎゃあああ!!」
「う、ぐああ!!」

叫び合いながら敵を薙ぎ倒していく。
闇雲に刀を振り回して、そうしているうちに敵兵は全て地に沈んだ。

いくつもの断末魔の悲鳴。
それも空に消えていくと、辺りには静寂と二人の荒い呼吸音だけが残った。

「…………」
「…………」

立ち尽くして動こうとしない背中からは、もう殺気は消えている。
だけど次第に孤独な色に変わっていくそれを、紫苑は背後で見届けていた。

(土方さんの背中……こんなに小さかったかな……?)

先程は悪態に悪態で返してしまったが、冷静になると何て声をかけたらいいかわからない。
それでも、独りにしてはいけない事は確かだった。

「……俺は……何の為に、ここまでやって来たんだ……」
「…………」

長い長い沈黙の後、土方は誰もいない茜色の空に吐き出した。
消え入りそうな声は、今までの"鬼"と呼ばれた副長からは程遠い弱さだった。

「あんな所で、近藤さんを敵に譲り渡す為か?あの人を押し上げて……本物の武将にしてやりたかったのに」

(ごめんなさい、土方さん……貴方の大切な人を守れなくて)

彼の震える背中に、紫苑は謝る事しかできない。

「どうして俺はここにいるんだ……?結局俺は近藤さんを見捨てて……置き去りにして、
どうしててめえだけ助かってるんだよ!!」
「…………すみません」

聞いているだけで胸が張り裂けそうになるような、こんなに悲痛な叫びを聞いた事がない。
こうなりたくなかったから二人で囮になろうとしたのに、できなくて、
無力な自分をも責められているようで、紫苑は思わず声を漏らした。

「お前も……っ!もう二度と、あんな勝手は許さねえ!」
「だけど――」
「口答えも許さねえ!」
「……すみません」

振り返った鋭い目が、紫苑を黙らせる。
悲しみと怒りに歪んだ視線に縛り付けられ、ざくざくと音を立てて近づいてくる土方に射抜かれる。

「……俺が何の為に、お前を江戸に置いてきたかわかるか?」
「俺が……女だからです」
「それでも、お前を新選組に入隊させたのは何故かわかるか!?」
「っ……私が、しつこいから……!」

こんなにも紫苑に対して怒りを露わにした事はない。
言い争いは何度もしてきたが、立場や建前でなく本気で責められた事もない。

獣に狙われたような気分でその場から動けない。
だけど恐ろしさは感じなかった。
彼の剥き出しの感情がビリビリと伝わってきて、喉の奥が熱くなる。

「……どれだけ遠ざけてもお前は勝手に追ってきて羅刹にまでなって、仕舞いには死のうとしやがる!」
「っ……!」

詰め寄った勢いのまま土方は両手を伸ばし、紫苑の両肩を掴んでギリギリと握り締める。
あまりに強い拘束で痛みさえ覚えたが、今にも泣いてしまいそうに歪んでいる顔が目の前にあって、ハッとする。
この痛みはきっと、彼の心の痛みなのだろう。

「どうすればいい、俺は……?お前を普通の女として幸せにしてやりたかったのに、俺にはできねえ……!」
「……すみません」

紫苑の望みが、彼を追い詰めた原因の一部になっているのなら申し訳ないと思った。

(苦しませて……傷付けてごめんなさい)

「なのに目を離せばすぐに命を投げだそうとする……!
俺は、お前に守ってもらう為に傍に置いたんじゃねえ!死なせる為でもねえ!!」

ああ、死のうとした事を本気で怒っているんだと冷静に思った。
それが最良だと判断した、彼も組織としては正しい選択だと知っていたから止められなかったのに。
彼の性根では納得していなかったという事、それは純粋に嬉しい。

でも、と反論する事は簡単だった。
だけど今はそれをしてはいけない気がして、紫苑はただ土方の溜め込んでいた感情を受け入れる。

(悲しい……こんな風にしかなれなかった現実が、悲しい)

皆が皆、迷いながらも志を抱き、正しい事を信じて今まで生きてきた。
どこで間違えたのだろう、いや"間違い"だとはっきり言えるものなんてきっとなかった、だから辛い。

胸に積もり積もっていくものが、双眸から溢れて止まらない。

「……悲しいですね、土方さん……」

紫苑を掴んだままの土方が顔を上げた気配がする。
だけど酷い泣き顔で視線を合わせる気にはなれず、土方の背中を照らす夕日ばかり見つめていた。

あの輝きが眩しくて痛い、だけど自身の胸はもっと痛くて切なかった。

「どうして……みんなの願いは、全部叶えられないのですかね……?」
「…………」
「どうして……誰かの望みが、他の人を悲しませてしまうんでしょうね……?
みんな……守りたかっただけなのに、生きて欲しかっただけなのに……!」
「……っ」

はらはらと壊れたように涙を流す紫苑が、何だか赤い光に消えてしまいそうで、思わず土方はその華奢な体を抱き締める。
辛いのは二人とも同じだったのだと、責め続けていた事を胸中で詫びながら。

「私は……土方さんと近藤さんに死んで欲しくない、それだけでしたよ……」


――「女性に守られている訳にはいかんからなぁ」――


ふいに近藤の言葉が蘇って、喉が詰まる。
互いが互いの命を望んでいるのに、どうして上手くいかないのか。

「馬鹿だ、お前は……俺を守ったって良い事なんてねえぞ」

同じ体温を分け合うように身を寄せ、土方は寂しそうに呟いた。

「いいんです……それが私の、幸せですから」
「……そんなんじゃ、俺が嫌なんだよ」

(本当に、上手くいかないね……)

だけど今は、そう思う感情であったとしても、同じ気持ちを共有できている気がすると紫苑は思う。
悲しくて苦しいのに、どこか安心できた。

「独りで泣かないで土方さん……ほんの少しだけでいいんです、私も一緒に……背負いますから」
「……泣いて、ねえだろ」

あなたの重圧を――それは言葉にしなかったが、彼には伝わっているだろう。
そして、拒絶もされなかった。

「もう何も言わねぇ……だがこれからは、お前を野放しにはしない」

それはどういう意味なのだろう。
正確にはわからなかったけど、傍にいてもいいという事なんだろうか。

「お前は、俺が見てねぇと勝手に死のうとしやがるからな」
「……はい」

低く囁かれた声に確かな温かさを感じて、紫苑は静かに返事をした。

涙は枯れない。
これからの事を考えると不安で仕方がない。

だけど自分達はまだ生きている、だから生きていかなければならない。
正しいと思う選択をしながら、ただ必死に。


――「紗矢。トシの傍にいてやってくれ」――


この押し潰されてしまいそうになって震える背中を、守る為に。







――世の中にたえてのなかりせば

春の心はのどけからまし――











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総司と土方さんで似たような描写でかぶってしまいましたが、
必要だと思ったので入れました。

皆が近藤さんの説得に応じた経緯を自分なりに考えて描きました。
特に総司を納得させるのは大変でした…納得しきれてないけど。