穏やかな日々だった。
このままでいられない事はわかっていたのに、
束の間の平和に浸っていられると錯覚してしまいそうだった。
自分は、普通の人間だと思っていた。
だけどその幻想をものの見事に打ち砕いたのは、自身の吸血衝動だった。
「ぁ……ぐ、ぅ!」
静かな静寂に包まれた夜。
丸い月が綺麗だと窓際に座り込み、月光浴をしていた時だった。
自分が羅刹だと忘れかけていた所に、本当の現実を突き付けられた。
もの凄い喉の渇き、それから全身を刺すような痛い脈動。
体の内を食い破って、外に溢れてしまいそうな何かと戦いながら、
紫苑は痙攣する腕を動かし懐から薬を取り出した。
「はぁ、っ……う、ん…!!」
這うようにして月の光から隠れ、薬を嚥下する。
気を抜けば獣のような声色になってしまう荒い呼吸を呑み込んで耐える。
(今日は、長いな)
いつもならそろそろ効いてきてもいいはずなのに、一向に収まらない。
苦しい、息ができない、血が欲しい。
「はっ……う、あ!…ま……まだ……っ?」
薬は一時的なものだと聞いた。
紫苑がもらっている薬は、紫苑の血が混じった新薬ではなく古いものだ。
あれは、狂いきってしまった羅刹には効かないものだった。
(薬が、効かなくなってきてる?)
耳鳴りがする、頭が痛い、血が欲しい。
飲みたい、耐えなければ、楽になりたい、痛い。
混濁した意識を必死で保ちながら、のたうち回るようにして時が過ぎるのを待つ。
頼むから収まれと、紫苑は懇願するように自分に言う。
「っ!?――ぅあ!」
ドクン、と何かが大きく脈打った音が耳で聞こえた。
それから視界が闇色に暗転して、また鼓動が激しく体を軋ませる。
真っ暗な中に、誰かがいる。
(誰かがいる……?近藤、さん……?)
静かに目を閉じた近藤が白い装束を身に纏い、正座している。
静観な顔付きが、少し痩せこけているのは気のせいか。
「な、何……これ……!?」
だがそれが何かを、頭のどこかでは既にわかっていた。
――先視だ。
鼓膜をどんどんと叩くのは紫苑自身の脈の音。
それに合わせてさっきよりも体が痛みを訴えたが、紫苑はもうそれどころではなかった。
「っう……ま、…まっ……て!」
嫌だ、この光景は嫌だ。
どうなるかなんて見たくない、だって嫌な予感しかしない。
――数人に囲まれても、近藤は微動だにしない。
何を話しているか聞こえない、だけどゆっくりと双眸を開かせた近藤の表情は、穏やかだった。
「嫌……い、やだ…っ!!」
(近藤さん!!)
叫びは声にならなかった。
手を伸ばしても、紫苑の体が畳にどさりと倒れただけだった。
「た、たすけ……っ!」
大切な人が殺されてしまう。助け出さないと。
なのにこの手は、彼に届かない。
――気持ち悪い程の鮮やかな茜色の空に、刀が掲げられる。
日の光を浴びて反射する、鈍い色をした刀身が。
それが、自らの重みのまま、力の限り振り下ろされた。
――近藤さんが、薄く笑った。
「いやああああああああああああ!!!!!!!」
紫苑が悲鳴を上げたと同時に、彼らの姿は掻き消えた。
障子の隙間から差し込む月明かりで少しだけ明るい部屋、
だけど紫苑の脳裏に浮かぶのは、空の赤、飛び散る赤、弾ける赤、流れる赤。
(だれの、あかいろ?)
「お、おい!どうした!?」
紫苑の声を聞きつけたらしい土方が、
治っていない怪我を引きずるようにして部屋に飛び込んでくる。
土方が目にしたものは、頭を抱えるようにして倒れ込んでいる白い髪の紫苑だった。
慌ててその体を起こすが、瞳孔が開ききった梔子色は土方を見る事もなく、ただ壊れたように涙を流している。
「紫苑!何があったんだ!」
「ああ……いや……っ、こんどう、さ……」
「紫苑!!」
言葉になりきらない譫言を呟く紫苑の頬を何回か軽く叩いた。
ようやく自分がどこにいるか、誰に抱きかかえられているかに気付いた紫苑は、ゆらりと土方に視点を定める。
いつの間にか吸血衝動は収まっていて、羅刹化していた見た目も元通りになっていく。
「近藤さんが……近藤さんが……っ!」
「近藤さんがどうしたんだ!」
「……処刑…され……っ」
誰かに助けを求めたくて、紫苑はそのまま土方の服に縋り付いて泣いた。
状況がよくわかっていない土方はしばらく呆然としていたが、聡い彼はそれが先視によるものだと理解した。
「……見たのか?」
「早く、助けに行かないと……!土方さん!早く、近藤さんを……っ!」
「わかったから落ち着け……本当に、近藤さんを見たんだな?」
「……はい」
紫苑が荒い呼吸を落ち着かせる程の、長い時間だった。
土方は震える唇から、一言だけをようやく絞り出す。
「…………そうか」
現実から逃げるかのように目を閉じ、だけど必死で頭を整理しているようだった。
「俺はこんな状態だから行けないが、とにかく誰かに確認に行ってもらう。
だが……江戸でやれるだけの事をやった上でその結果なら……今から行った所で……もう何も変わらないだろうな」
「そんな……っ」
「あとは……もしかしたら総司ならやれるかもしれないが、相手は新政府軍だからな。
俺達や羅刹隊の対策をしていないはずがない」
「…………っ」
土方は淡々と喋っているが、近藤に対して何も思ってないなんて事はないのだ。
感情を噛み殺して平静を保とうとしている姿が痛々しくて、
また悲しくなって紫苑の目からは新たな涙が流れる。
「もう……無理って事ですか?」
「……信じたくはないが。そう思ってた方がいいって事だ」
「…………」
(また、視えても何もできない……)
今から紫苑だけでも一人で戻って、
何とか助け出そうとしているだろう沖田に加勢すれば何とかなるのではないか。
だけどここは会津、刑場はきっと江戸だ。
処刑になるのは何日後か、それとも明日か、もう終わってしまっているのか。
そんな事を悶々と考えていたら、急に上を向かされ、ぐいと目尻を拭われた。
「聞いているのか紫苑?他の奴を向かわせる、お前は残るんだ」
「っ、でも……!」
「お前、さっきまで羅刹の発作が起きていたんだろ?その体でどこまで行けるってんだ」
「…………」
正論だ。
実際紫苑の体は先視の余波なのか何なのか、全身が脱力したように思うように動かない。
無理に江戸に戻ろうとしたって、途中で落馬するのが関の山だろう。
「気にするな……と言っても、無理なんだろうな」
「…………」
何もできない自分が悔しい。
土方と違い、取り乱して泣いている自分が恥ずかしい。
納得できていない感情が双眸から溢れ続ける紫苑を抱きとめながら、土方はポツリと小さく呟いた。
「近藤さんは……どんな最期だった?」
「っ……斬首で……でも、穏やかな顔をして……っ」
「…………」
腹も切らせてもらえないのか、と土方は辛そうに吐き出した。
武士が刑罰を受けるときは、切腹を言い渡されるのが普通だ。
"武士ならば潔く腹を切れ"、それが誇りとされ、
綺麗に身を清め、命乞いなどせず静かに死を選ぶ、そうやって自らの生き様を見せる。
身分も重んじられ、遺体も家族の元に返され埋葬される。
だが斬首というのは、そういった武士の誇りや身分というものを顧みない。
潔くもなくただ首を切られ、遺体は野晒しにされ、家族も武士の家という身分を失う。
恐らく近藤ならば切腹させてくれと言うだろうが、聞き入れてもらえなかったのだろう。
新選組の局長が、武士でいさせてもらう事もできなかった。
"武士でいる事"それが自分達の最後の誇りだというのに。
それが新政府軍と真っ向から敵対している自分達の末路なのだろう。
土方は悔しそうに顔を歪め、俯いた。
「…………」
「…………」
目の前にあった紫苑の体に縋るように、拘束の力を強める土方。
表情は見えなかったが、彼が今何を思っているのかぐらいわかる。
紫苑もまた、止まらない涙を零した。
(近藤さん……!)
まだ決まった訳じゃない、だけどこのままじゃきっとそうなる。
どうしたら変えられるのか。
わかっていても変えられないのだろうか。
ただ彼が運命の道から外れる事を、願う事しかできないなんて。
「……俺は、一体どんな最期になるんだろうな」
「―――っ」
「いや、知るような事じゃねえか」
自嘲に溢れた独白に、紫苑はびくりと肩を震わせる。
土方は自身の言葉を笑い飛ばして、それ以上は何も言わなかった。
(……怖い)
――先視が怖い。
誰かの死ばかり見えてしまうこの力を、初めて恐ろしいと思った。
浅葱 六
――「トシ?そちらのお嬢さんはどうしたんだ?」
初めて門をくぐったそこは、活気はあるが少ししなびた、よくある田舎剣術の道場だった。
出て来たのはここの師範代らしき若い人物。
実直そうな、見るからに人のよさそうな風貌だった。
面白そうだったから連れて来たと、私を誘った人が答えると、
彼は破顔して私を招き入れた。
「ほう、女性の身で剣術を習っているのか。それは見てみたいなあ!」
土方という、やたら顔の良い人もそうだが、彼もまた女だというのに全く怪しまない。
不審そうな、小馬鹿にしたような目でジロジロと品定めする事もない。
ここまで警戒心がない人は初めてだと、呆気にとられている間に道場に足を踏み入れ、
気が付けば軽い仕合になっていた。
様子見とばかりに寄ってきた男達を次々と倒していくと、流石に皆の顔色が変わった。
今までだって珍しがって腕試しさせてくれる道場はあったが、
門下生をほとんどのしてしまうと、結局"女がしゃしゃり出るな"と、追い出された。
まずいな、またやりすぎたか、と思っていると今度は一目で腕が立つとわかる若者が目の前に立った。
「へえ、少しが骨があるみたいだね」
のちのち沖田という名前を知ったが、彼と打ち合うと、良い所までいったものの結局負けてしまった。
ニヤニヤした顔で私を見下ろすような、典型的な私を嫌う人種に似ている沖田に負けるのは、本当に悔しかった。
どうやったら彼に勝てるか、半ば睨み付けるようにしながら思案していると、
仕合を見守っていた師範代が凄い勢いで飛びついて来た。
「君!どこの道場の者なんだ!?」
「……っ」
怒っているのではない、興味津々といったキラキラした目で見つめられて、
私はその勢いに思わず後ずさりした。
「道場には所属してません、が……」
「なに!?ならば是非うちの道場に入ってくれないか!」
「え……?」
「他に行く所があるというなら仕方ないが……君のような人材が埋もれているのは勿体無い!」
「…………」
願ってもいない提案だった。
他の門下生も、連れて来た土方という人も、不服そうな顔をしている人はほとんどいない。
まさかの歓迎の雰囲気に私はただただ驚くばかり。
「いいんですか?私、女ですよ?」
「そんな事は関係ない!必要なのは志、それだけだ」
「……ありがとう、ございます」
初めて見た時から感じていた、彼は信用できると。
そんな人が取り仕切っているから、この道場はこんなに温かいのかもしれない。
ここにいたい、心からそう思った。
「俺は近藤勇という。君の名は?」
「藤沢、紗矢です」
太陽のような、眩しい笑顔だった。
「ならば、紗矢ちゃん……かな?一緒に武士の道を極めよう!」――
その笑顔が、首が、吹き飛んで。
禍々しい青空を染める、近藤さんの血。
「っっっ!!!」
ハッと目を見開かせると、視界にあったのは自室の天井。
辺りを見渡しても、あの赤色も、ましてや近藤の姿だってない。
いつもと変わらない、静かな清水屋の一室だった。
(また、夢……っ)
激しい鼓動を落ち着かせるようにしながら、紫苑は頭を抱えた。
先視をしたあの日から、もう何度も繰り返す平穏だった頃の夢。
その時によって夢の内容は違っていたが、
眠ろうとするとこうやって夢に出てきて、そして最後には彼の首が飛ぶ。
眠らなければいけないと思うのに、そのたびに悪夢がやってきて飛び起きた。
逆に、こんな夢を見るくらいなら眠りたくないと起き続けていた時もあったが、
体力の限界で寝落ちすると、また夢を見る。
冷や汗か涙か、もはや判別がつかない液体が首から体に伝っていく。
体力と精神を削られて、紫苑は憔悴していた。
(近藤さん……!)
夢だとわかっている、だけど心が引き裂かれそうだった。
これ以上は寝転がっていても無駄だと、紫苑は布団から這い出て外側の障子を開ける。
今は日中、針のように紫苑を突き刺す太陽がまだ南天にあるという事は、
まだ寝入ってから大した時間も経っていないらしい。
「…………っ」
痛い。もう何が痛いのかもわからない。
ただ辛くて、悲しくて。
限界だったのだろう。
だから、誰かに助けてもらいたかったのかもしれない。
それとも独りでいたらおかしくなると無意識にでも思ったのかもしれない。
紫苑自身もよくわかっていなかったが、気が付けばフラフラと廊下を歩き、とある人物の部屋を訪ねていた。
「紫苑?寝たんじゃなかったのか、―――どうした?」
「…………」
書類をしたためながら喋っていた土方が紫苑の顔を見ると、一転して声色を変える。
入口でぼうっと立っていた紫苑は、遠慮がちに笑って土方の近くに座る。
「発作か?それとも、また何か視たのか?」
「……いえ」
何かが言いたかった訳ではない、ただいつの間にかここまで足が伸びていただけで。
いつもは夢を見ても上手く隠していたのに今日はそれができなくて、
壊れたように笑いながら黙っていたが、それを放置できる程土方は鬼ではなかった。
カタンと筆を起き、正面から向き合って紫苑をじっと見つめた。
「ならなんだ?」
「…………」
きっと、弱っていたのだろうと思う。
咄嗟に彼の声が聞きたかったのかもしれないと。
「……眠れないんです」
ポツリと少しずつ口を開くと、土方が眉根を寄せた。
「眠ろうとすると、夢の中で近藤さんが笑ってるんです……」
「…………」
「笑って……私の名前を呼ぶんです……だけどいつもその首が飛ぶ」
こんな風になっているという事は、その夢は一度や二度ではないのだろう。
そう考えた土方は、何かを言おうとして言葉を選んでいたが、結局どれも言葉にはならず。
しばらくしてようやく吐き出せたのは、やはり溜息だった。
「……酷い顔だな」
「…………」
「……一人でいられねぇなら、此処にいていいから好きにしてろ」
疎むようなものではない、最大限紫苑を気遣ったような声色だった。
夢は夢だとか、そんなものに惑わされるなとか、
もっと強くなれと言われるかと思ったが、そんな事もなかった。
「どうせ寝られねぇならそこにいろ。寝れるんなら寝ていい。誰かいた方がマシだろ」
「…………」
彼が呑み込んだ言葉は、もしかしたら慰めや励ましの類のものだったのかもしれない。
だけど結局それを言わず結論だけを口にした、しかも何とも不器用な提案で。
(土方さんらしい)
無意識に彼を求めていたのは確かだ。
願ってもない言葉に紫苑は薄く微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「……ま、する事がねぇなら適当にその辺の整頓でもしておいてくれ」
「はい」
まさか彼の布団を拝借して寝るなんて事は流石にできない。
目を瞑るのはやはり怖かったから、
紫苑は土方の仕事を邪魔しない程度にモゾモゾと部屋を動きながら書類整理を始めた。
散らばっている書状を分類してまとめていると、少しだけ気が紛れた。
余計な事は考えなくて済む、そうしているうちに落ち着きを取り戻していく。
何よりも、この静かな空間が、紫苑の部屋と同じ静寂が流れているはずなのに、どこか違うと感じる。
お互い必要以上には喋らないのに、息苦しさなんてものは存在しない。
人の気配があるからだろうか、いやきっと、"彼"がいるからなのかもしれない。
全て受け止めてくれるような、温かい何かに包まれているかのような、柔らかい空間だった。
「……あ、土方さん」
「どうした?」
気付いたように小さく声を出すと、熱心に筆を走らせているのに彼は即座に反応した。
どうやら態度には出さないが、かなり此方の事を気にしてくれているらしい。
紫苑は土方にわからないように背中に微笑んだ。
「墨が減ってきてますよ」
「ああ、そうだったな」
買い置きしてある墨を数えていたら、かなり少なくなっていた。
清水屋にいながらもずっと書き物をしているから減りが早いらしい。
「買いに行ってきましょうか?」
「……行けるのか?しかも昼間に」
そんな状態で外に出られるのかと、羅刹である事の両方を心配されたが、
紫苑もこのくらいならと、いつもの軽い調子で答える。
「少しだけなら大丈夫ですよ、多分」
「……まあ、行けるってんなら頼みたいが。だったら、ついでにフラフラ散歩でもしてこい」
「……はい」
恐らくは気分転換でもしてこいって意味なのだろう。
相変わらずわかりにくい人だなと紫苑は笑いながら買い物に出た。
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さすがに長くなりすぎたので、話を切りました。
ちなみに主人公が近藤さんに出会った頃、近藤さんは嶋崎姓から変わるぐらいの微妙な時期だったのですが、
めんどくs…その辺は省略しました。