止めようと思えば、いくらでも止められた。
もっと早く、こんな事になる前に。
それができなかったのは、ひとえに捨てきれなかった甘さと弱さによるものだった。
羅刹の研究に有用かもしれないと初めに考えたのは山南自身だ。
多くの羅刹の狂気に苦しむ者達の為にも、鬼の血が欲しかった。
それ以上に、甘美な誘惑が目の前に存在していて、
駄目だとわかっていても人としての理性が本能に抗えなかった。
だがもう、終わらせなければならない。
結局は羅刹に滅ぶ以外の道は残されていなかったから。
山南のやってきた事は、全て無意味だったのだ。
そして何よりも、自身を傷付けてまで他人を救おうとする彼女の為に。
「山南さん、あんた……っ!」
彼女を止められる唯一の人物に全てを告げると、予想した通りの激しい怒りを見せた。
山南の胸倉を掴もうかという距離で土方は声を荒げる。
「全て私の責です、罰はいくらでも受けましょう。
鬼の血で羅刹達が助かるのならと、当時は本気で思っていたのです」
「俺はそんな事許可しちゃいねえ!」
「ええ、わかっています。わかっては……いたのです」
「くそ……っ!」
後悔するように目を伏せた山南に、土方は怒りの矛先を見失う。
心底悔やんでいる様子に、まさかという考えは薄らいでいった。
「血が、欲しかっただけな訳じゃねぇんだな?」
「……もしかしたら、喉から手が出る程欲しかったのかもしれません。
ですがその本能は完全に抑え付け、新薬の研究の為に使わせていただきました、これは本当です」
「…………」
「新薬のおかげで、羅刹達の狂気は抑えられました。
それでも……寿命まではどうにもできませんでした」
「……寿命、だと?」
羅刹は、力を使えば使うほど命を削る。
風間から教えられた紫苑が、山南に伝えた真実。
それを今この時、初めて口にした。
案の定土方は驚きに目を見開いて、僅かに震えていた。
羅刹である自分にも当てはまるその事実に対してではなかった。
「知らなかったのは……俺だけか……っ」
「…………」
「山南さんも、紫苑も……!知ってて、黙ってたのか!?」
遠くを見つめるようにして激昂した土方の姿は、打ちひしがれているようでもあった。
自分の限界を付きつけられたからではない、
そんな大事な事を知らずに、今までのうのうと生きていた自分に腹が立った。
「……彼女に落ち度はありません。
彼女は自ら羅刹の為にと、命を繋いでくれる為に血を分けてくれたのですから」
山南もまた、疲れたように天を仰いだ。
脳裏に浮かぶのは、躊躇いもせず左腕を斬り付けた時の赤い血と、紫苑の怖いくらいの微笑。
あの時ようやく気が付いた。
これが、異常な事だと。
「彼女に無理をさせ続けてしまいましたが……全て、意味のない事でした。
狂気がなくなっても、私たち羅刹は削られた寿命で灰に消えてしまう」
「…………」
そう言った山南こそ、消え入りそうな声だった。
土方も問い質したい事はいくらでもあったが、
絶望すらしているような山南を見ていると言葉にするのは憚られた。
羅刹を生かす義務を負い、その為に払った犠牲の責任を誰よりも感じている彼を、
これ以上どう責められるというのか。
既に彼は、罰を受けている。
逆に土方は彼に何かしてやれただろうかと後悔すら感じた。
羅刹の研究を引き継いだのは山南だったが、それ以来任せきりだったように思う。
増えていく羅刹達は、放っておけば人を襲いかねない狂気の獣で、
その彼らをいなしてまとめるのは一筋縄ではいかなかっただろう。
研究を重ね、時には恐らく彼らの為に血すら求めて。
近づく命の限界に、きっと誰よりも彼が焦っていたのだろう。
上手く言葉が出ない土方に、山南はくすりと微笑んだ。
全てを諦めたかのような、哀しい眼だった。
「だからもう、彼女を止めてあげてください。私では……できません」
「山南さん……」
自分では誘惑を拒絶できない、それゆえの心からの懇願だった。
生み出されてしまった羅刹達に、何がしてやれるのだろうか。
答えはすぐに出るものではなかったが、
紫苑は止めなければならないと、それだけははっきりとわかっていた。
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あれからすぐに土方は紫苑の元を訪れた。
大股で乱暴に襖を開けた人物を、紫苑は肩を揺らしながら何事かと凝視する。
「羅刹に血を与えるのをやめろ」
「…………」
何の脈絡もなく、突然に突き付けられた命令。
だが考えるまでもなく、それの意味を紫苑は瞬時に悟った。
ああ知ってしまったのかと、意外にも頭は冷静だった。
ついに山南さんが言ったのかと、呑気にそんな事も思った。
彼は血はもらえないと、やめる気でいたのだから。
だが紫苑は、例え山南が拒否しようとも、
土方に命令されたとしても譲れないものがあった。
「どうしてですか?それでみんな楽になれるんですよ?
人を襲う必要もない、狂う事だって遅らせられるのに」
「それでもだ!お前は、自分のやっている事がわかっているのか!」
「わかっていますよ、私がそうして欲しいと山南さんに頼んだんですから」
押し殺した声はやがて激しさを増していった。
土方が知ればこうなるだろうという事は初めから予想済みだ。
反対に紫苑は淡々と言葉を続ける。
「少しずつなら問題ありませんよ」
「そういう事を言ってるんじゃねえ!こんなのは、どう考えたって異常だ!」
力を使う訳でもないのだから、危険な事など何もない。
紫苑の主張は、土方には到底受け入れられるものではなかった。
感情的になるのを抑えて、はあ、といつもより強い溜息を吐く。
「……もっと、自分を大事にしろ。
お前は確かに羅刹になっちまったかもしれねえが……頼むから、人間らしくいてくれ」
紫苑は内心で苦笑していた。
きっと自分は、たとえ羅刹ではなくただの人間であったとしても血を与えていただろうと。
だけど彼がそういう話をしているのではないとはわかる。
人道的、それを説いているのだろう。
彼が言いたい事はわかる、それが正常な思考だとも。
しかし、だからといって了承できるものではなかった。
「……やめませんよ」
「何だと?」
途端に、不穏な空気が流れた。
怪しいような仄暗さで、だけど鋭い双眸が低く唸る。
怒りすらにじませた頑なな紫苑に、土方までも眉を寄せた。
「今まで人道的じゃない事もやってきた新選組が、今更何を言ってるんですか」
「これは命令だ!それが聞けないというのなら隊規違反で斬るぞ」
「…………」
命令で縛り付けようとする彼に苛立った。
紫苑にとっては、間違った事などしていない。
ましてやこんな劣勢の戦況で、そんな理由で隊士を一人減らすつもりかと。
すっと、音も立てずに紫苑が立ち上がる。
獣のように細められていた目を、感情に任せて見開かせた。
「私の何がいけないのですか!鬼の血があれば、みんな楽になるんですよ!?」
「それでもだ!」
「何でですか!?血を!あげるだけじゃないですか!」
「俺が嫌なんだよ!!」
「っ?!」
噛み付くように吠えた紫苑を押し留まらせたのは、それよりも大きな土方の慟哭だった。
紫苑は僅かに混乱した。
彼自身が嫌だと言った、それはどういう意味か。
人道的とか正常だとか命令でなく、彼の私情だという事なのだろうか。
理屈の押し問答をしていたはずなのに、それを持ち出されたら紫苑は何と反論すればいいのか。
新選組の鬼副長では有り得ないような言葉が不意打ちで、一瞬返す言葉をなくした。
「お前はもう、色んなものを犠牲にしてきただろ?
これ以上……ただの血であっても、身を削って欲しくねぇんだよ」
「……、でも」
「俺が嫌だって言ってんだ。お前を傷付ける奴は、たとえお前自身であったとしても俺が許さねぇ」
「…………」
射抜くような彼の目が、大真面目に言っているのだと語っている。
自分の意志が、感情で返されてしまった。
まさかそう切り込まれるとは思っていなかった。
(嫌だからやめろって……そんな事言われても)
「わかっちゃいるんだ。そんな事言ってられる状況じゃねぇって……
だからこそ僅かなものであっても、必要のない犠牲は絶対に払わせたくねぇ」
「……わ、私だって、嫌ですよ……っ、このまま、羅刹隊の人達を見捨てるのは……」
葛藤しているらしい心情すら吐露されて。
未だほとんど見た事のない感情を垣間見て、紫苑は戸惑いながら言葉を紡いだ。
「見捨てろとは言ってねえ。ただ、研究は打ち止めだと山南さんは言っていた。
だから、無闇な提供までしなくていい……残念だが、お前の血でも羅刹達は助けられない」
「…………」
「もう十分だ、お前はよくやった」
鬼の血があったとしても、滅ぶ道しか残されていないと山南は言った。
少しでも延命ができるのなら構わないと紫苑は思うが、土方はそれが"嫌"だと主張する。
別に、彼が好ましいと思う行動を積極的にとっているつもりはない。
むしろ彼の希望と反する事ばかりして、何度怒られてきた事か。
だがその時であっても、彼は"正論"を口にしていたのに。
彼の気持ちを押さえ込んで覆すには、一体どうしたらいいのか。
紫苑には、それに対抗する策が用意できていなかった。
「お前が味方全て、どんな奴でも守りたいっていう気持ちは知っているつもりだ。
だがな、お前に仲間を守りたい気持ちがあるように、俺はお前を守りたい。
この俺の気持ちは、尊重してくれねぇのか?」
「…………」
お前だけ意志を貫くのか?と少しだけ柔らかい声で問われて、紫苑はぐっと詰まる。
確かにそうかもしれないと思わざるを得なかった。
自分だって、こんなにも意志を曲げられたくないと思っているのだ。
彼だって意志を曲げられたくないだろう。
「でも私は、それでも……土方さんとかが目の前で苦しんでるのに何もしないとか、そんな事できない……」
「…………」
土方の言う事はわかるが、どうしてもそれだけは譲れないとばかりに弱弱しい声を出す紫苑に、
仕方なく、本当に仕方ないといった様子で息を吐く。
「……わかった……なら、交換条件だ」
彼の最大限の譲歩なのだろう。
頭を抱えるようにしながら、不本意極まりないという顔だった。
「目の前でまさに衝動で苦しんでいる者がいて、どうしても血が必要な時だけだ。
その代わり羅刹達全てに血をわけるのはやめろ、必要最低限だ」
「……じゃあ、今度土方さんも衝動に襲われたら、飲んでくれますか?」
「…………」
土方の妥協案は、裏を返せばそういう事になる。
そう返ってくる事も半ば予想済みだった。
本当は飲みたくない。
自分の欲の為だけに紫苑を傷付けるなど、何よりも嫌悪する行為だ。
だが、恐ろしいほどの紫苑の威圧感に、
これは了承しなければまたいつ暴走するかわからない、そんな恐怖すら浮かんだ。
だから、紫苑の意志を曲げさせる代わりに、土方もほんの少しの意志を曲げる。
「ああ……それで、おあいこになるだろ?」
「……わかりました……じゃあ私も、そうしなければいけないんですよね……」
紫苑は嬉しそうに笑い、それでいて悲しい色をした目をゆっくりと伏せた。
恐らく自身の中で妥協を必死で呑み込んで、他の羅刹達に詫びているのだろう。
そうさせたのは土方だが、ひどく心が痛んだ。
彼女の意志を一つ諦めさせてしまった事に罪悪感すら湧いた。
そんな、壊れそうな微笑をさせたい訳じゃなかった。
表面上は穏やかな双眸の奥で、虚ろな光のようなものが揺れている。
いつか消えてしまいそうだと、焦燥感に駆られた。
「……そんな風に笑うんじゃねぇよ」
「え……?」
紫苑を大事にしてやりたいのに、辛そうな顔しかさせていない気がする。
自分と一緒にいるせいだとわかってはいるが、
だからといって手放せば彼女は勝手に死にに行ってしまうから、距離を置く事もできない。
紫苑は此方の意図を読み取ろうとしているのか、少しだけ首を傾げた。
だが、土方はそれ以上何も言わなかった。
歯痒い気持ちを口にした所で彼女は「大丈夫です」「すみません」と言って、笑うだけだろうから。
冷たそうに見えた頬に手を伸ばすと、思いの外その肌は温かかった。
少しずつ伸びてきた髪は、花街の女のような長さと艶やかさこそなかったが、
さらさらとくすぐる感触が気持ちよくて幾度か指を往復させる。
「なんて女になっちまったんだ、お前は……」
「……すみません」
「悪い意味で言ってねえよ。ただ、とんでもねぇ奴になったなって、思っただけだ」
「…………」
咄嗟に謝罪が出るのがやはり彼女らしいと思った。
何かを言おうとして、結局言葉が見つからなかったのだろう。
紫苑は苦笑で返事をすると、そのまま大人しくしていた。
何故だろう、彼女の笑った顔を見ると、いつも怖くなる。
慶応4年、8月。
会津の藩境でついに大きな戦が始まった。
伝習隊主体の大鳥の軍も合流し、母成峠で新政府軍を食い止めなければならない。
例に違わず新選組も各個同盟軍に組み込まれ、激戦地に赴いた。
「お前、あまり遠くまで行くなよ。俺の目の届く範囲にはいろよ」
戦の装束を着込み、紫苑が指揮する事になる兵達と突撃の準備を整えていると、
わざわざ近くにやって来た土方がそう釘を差す。
他の兵もいるなかで、紫苑にだけ聞こえるような声色で。
(戦なのに、そんな事言うんだ……)
紫苑の隊の配置は、土方がいる所から大きく離れている訳ではないが、
歩兵という立場上どうしたって参謀が陣の奥で、紫苑が前線寄りになる。
紫苑だって積極的に敵軍に突撃していくつもりはないが、
刻一刻と状況が変わっていく戦の前線で、その約束を律儀に守るのは不可能に近い。
何となく気付いた事がある。
野放しにしない発言や、先日の羅刹の件も含め、
彼は紫苑に傷付いて欲しくないと強く思ってくれているという事だ。
前線に向かうにも関わらず、彼自身その矛盾を自覚しながら、
それでも口に出してくれる事がすごく嬉しいと思った。
紫苑はくすりと笑うと、戦場には似つかわしくない晴れやかな顔を向けた。
大丈夫です、という言葉はいつも使っているから何だか説得力がない気がして、
咄嗟に上手い返事が出てこなかっただけなのだが、土方は酷く眉を寄せた。
「……何か言え」
「、え?」
「何も言わず笑われると、また死にに行くんだと思うじゃねえか」
「…………」
きょとんとしたのは紫苑だった。
(もしかして、結構気にしてたのかな……?)
流山で沖田と出陣する時、確かに言葉は告げず笑うだけだった。
それを思い出して嫌がっているらしい。
紫苑は思わず吹き出してしまった。
鬼副長が何を言っているんだと内心思いながら、渋い顔をする彼が何だか可笑しかった。
「すいません、そんなつもりはなかったんですけど……
えっと、生きて帰ってこられるように善処します」
「命令だ」
「……はい」
それだけ言い残してさっさと行ってしまった彼の背中に、紫苑はまた小さく笑った。
戦が始まれば、そんな穏やかな気分は一瞬にして消える。
銃器や大砲が主になってきた戦線に対し、紫苑の隊は歩兵……すなわち刀一本。
たった一つの武器で銃弾の嵐をかいくぐり、敵の数を減らしていく。
一人、また一人と減っていく味方を少しでも生き残らせようと、
指示を叫びながら、時には檄を飛ばして奮い立たせる。
「っ!」
半円を描くように降ってきた刀をすんでの所でかわし、ひるがえした体の勢いのまま敵を斬り捨てる。
間髪入れず聞こえる銃声。
羅刹化していない今は流石に弾の気配は感じられなくて、左肩を掠めていった。
だが出血に怯んでいる暇はない、空を薙ぐ大砲の音を聞いて味方にそれを告げる。
よけろ、と意図せず男のような咆哮を上げた。
着弾の衝撃で味方がよろめいて動揺したが、直撃した者はいない。
「あれが隊長だ!」
「あいつをやれ!」
安否確認すらさせてもらえないまま、紫苑の周りを刀を持った男達が取り囲む。
舌打ちをした紫苑は、僅かに唸り声を出すと目の前の敵に突っ込んだ。
断末魔を上げたのは、新政府軍の男。
噴き出る血飛沫の隙間からチラリと見えたのはここには存在していなかったはずの白い糸。
それが太陽に透かされて光ったと思った時には、男達は全て倒されていた。
その中央で、獣の目を引き絞る、紫苑がいた。
周りは普通の人間ばかりだ、余計な混乱を招きたくないと、羅刹の力は必要な時だけ使う事にしていた。
すぐに力を抑えると、また黒髪となって敵に突き進んでいく。
そうして、本当に危なくなった時だけ羅刹になった。
「一瞬、藤沢君が白く光ったように見えた……」
その光景を、追いついてきた後続にいた大鳥が気のせいだろうかと言いながら呟いた。
周りの兵士は気付いていないが、洞察力に長けた彼だからこそ気付いたようだ。
隣にいた土方は、彼には聞こえないように舌打ちをした。
「……気にしないでくれ。あいつは命懸けで戦ってるだけだ」
こんな大勢の中で羅刹にならなければならない状況、
そしてその羅刹化を最小限に抑えようとしている様子が、
いかに紫苑のいる場所が過酷なのかを物語っている。
だからこそ、化け物扱いだけはしてほしくないという気持ちが強かった。
だが大鳥は首を振ると、持ち前の柔らかい声で紫苑を褒めた。
「いや、悪く言っているんじゃないよ。何て言うか……綺麗だった」
「…………」
それはそれで複雑な心境になった土方は、一人眉を顰めた。
戦は、まだ終わらない。
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前から書きたいと思っていたシーンでしたが、難産でした。