「仙台へ退くだと!?」
戦の時とはまるで違う静まり返った陣営内で、土方の荒げた声が夜の闇を引き裂いた。
「このまま戦っても、もはや会津が落ちるのは時間の問題だ」
「……っ」
大鳥が至って冷静に説明を続け、土方が狼狽する。
今までとは逆の構図だと紫苑は思った。
いつもなら冷徹に、時に冷酷な判断を下すのは土方だった。
島田や山崎、斎藤達もその場にいたが、誰も口を挟める状況ではなかった。
「ここは我々も仙台へ退き、援軍を頼んで再起を図る以外に道はないと思う」
母成峠での戦が続いているが、正直戦況は厳しくなるばかり。
敗戦に次ぐ敗戦で敵はすぐ傍にまで迫り、会津を守りきるのは絶望的にさえ感じていた。
大鳥が言うには、榎本武揚が中心となった旧幕府海軍が江戸から海路で北上しているとの事。
陸軍では新政府軍に対して負けが続いているが、海軍艦隊では劣らない力を保持している。
その榎本艦隊と合流して戦力を増強し、再起を図ろうという話だ。
「それは、会津藩を見捨てるって事か。容保公は承知したのか?」
「……容保公の御意向なんだよ」
「なんだと……?」
「ただし、容保公はこの会津藩にて最後の一兵になるまで戦い抜くそうだ」
仙台へ退くという事は、会津藩が戦っているというのに協力せず、自分達だけ先に行くという事だ。
世間から弾きだされたような荒くれの集まりに新選組という名を与え、
ただ無闇に刀を振るうだけだった自分達を"武士"にさせてくれた恩のある会津藩を、
土方の言う通り見捨てて自分達だけ生き延びるという事だ。
いくら会津藩主が望んだ事とは言え、それを簡単に了承していいものなのだろうか。
会津藩が落ちるのは時間の問題、つまりは全滅するだろうと思われているのに。
「ならば、俺達もその武士の気概に応えて共に戦うべきじゃねぇのか!」
紫苑が考えるように、土方も納得できていない様子で大鳥に食って掛かる。
世話になった藩と運命を共にする、その考え方はもしかしたら古いのかもしれないが、
人としてその道が筋だとも思うから、紫苑は土方に同調するように険しい目を大鳥に向ける。
だが淡々と話している彼だって、恐らく何も思ってないなんて事はないはずで。
彼と接点を持った事は多くはないが、それでも普通の人だった。
人としてのごく当たり前の感性を持ち、無謀に突撃した土方を叱咤するような人だ。
絞り出されるような声、時折怒りすら滲ませたような口調に、
総督ではなく大鳥自身の気持ちとしては納得していないのだろうと紫苑は思った。
わかっている、そう思いながらも決断を下す総督と。
わかっている、それでも許容できない鬼副長と。
どちらも、間違ってなんていないのだろう。
「容保公は武士の誇りと共に、会津藩と命運を共にする決心をされた。
僕達は、その武士の誇りと気概を引き継ぎ、再起をかける!」
「しかし!」
「これは、総督としての命令だ!」
「……っ!」
土方はハッとして言葉を詰まらせた。
命令、その言葉は彼に深く突き刺さった事だろう。
そう言われて、彼は一番大事な人を亡くしたのだから。
「仙台へ陣を移す。すみやかに撤退準備を……お願いします」
大鳥は目を伏せそれだけを告げ、早々に去っていった。
浅葱 十二
誰も、動けずにいた。
一人俯いて肩を震わせている土方に、声をかけるべき言葉が見つからない。
大鳥のいなくなった沈黙の空間に、篝火の爆ぜる音だけが虚しく響いている。
「何てこった……これじゃ、近藤さんの時の、二の舞じゃねぇか……っ」
「…………」
また誰かを残して、行くのか。
彼が苦しんでいるのはそのせいだろう、きっと近藤を思い出している。
(結局、同じ事を繰り返す……でもそうしなければ勝つ見込みすらない。生き残れない)
紫苑は眉根を寄せ、目を閉じた。
どうする事が正しいのか、自分でもよくわからなかった。
そこまでして、自分達が生きなければならない理由なんてあるのだろうか。
死んでいった人達の志を引き継ぐ為、近藤が生きる事を望んだ、それがもっともらしい理由だけれど。
それを言い訳にして、ただ自分達は意地汚く"生"に縋り付いているだけなのかもしれない、とまで思った。
かつて鳥羽伏見での戦の時、大坂で死ぬつもりだった近藤に、
土方が「腹を切るべき場所はここじゃない」と説得した事があった。
ならば、一体どこでどの場面なら死ぬべきなんだろうか。
ここがその場所だ、と見定める事が本当にできるのだろうか。
紫苑はそれが決まっているが、ただ無意識に死に場所を引き延ばそう、という気持ちは本当に存在しないのだろうか。
そんな事はない、と否定できる自信がない。
だって自分達は、佐幕の筆頭であった会津を捨てて、一体どこまで行こうというのか。
塞ぎ込んだ思考が堂々巡りをしていると、ある人物が声を発した。
静かな、彼らしい確かな音で。
「――俺が残ります」
「、斎藤……」
(え、……?)
視線を上げれば、斎藤は既に決心した顔をしていた。
「大鳥さんの言う通り、もはや会津藩が落ちるのは時間の問題かもしれません」
つまりは、負けるという事だ。
負けた幕軍がどうなるかなんて……わかりきっていた。
「しかし我々をこれまで庇護してくれたのはこの会津藩、最後まで武士らしくあろうとするこの藩と共に、
俺も武士として、微衷を尽くしたい」
そこに参加するという事は、会津と共に死ぬという事だ。
(一君……)
ギュッと、胸が掴まれたような気がした。
明確な不安と恐怖が紫苑に衝撃を与える。
(そんな……一君だけ、行っちゃうなんて)
ここで死に別れになるかもしれない、そんな覚悟は今すぐできるようなものではなかった。
何も考えられなくなって、土方と斎藤の会話を他人事のように耳に入れていた。
「土方さん達は仙台へ行ってください」
「……どうしても、残るのか」
「はい」
揺るがない双眸で会津への忠義を語る斎藤は、もう全て決めている顔をしていた。
会津の地で、骨を埋める覚悟すらも。
全てを悟ったように語り出す。
彼の誇りを、今生きている意味を。
それが余計に不安を煽る。
置いていかれるとすら思った。
「この会津藩には、誠の武士の魂が息づいています」
行ってしまう恐怖に斎藤を見つめていると、まっさらだった頬に、赤い染みがポタリと落ちる。
空から落ちてきた訳じゃない、内側から染み出るようだった。
何だと思う間もなく、小さかった染みが次第に全身にじわりと広がり、足元に海すら作り、
身に着けている服までも煤にまみれ、所々千切れてボロボロになっていく。
血だらけだった。
あれだけ静かに喋っていた彼が、肩で息をしている。
紫苑と同じ白い髪が血色に汚れ、燃えるような赤い獣の目の焦点が定まらない。
揺るがなかった双眸が、苦しみと、それでも必死に踏み止まろうとする強さに歪み。
今にもその命を終えてしまいそうな彼が、そこにいた。
(――!?)
「武士として、この会津藩を見捨てる訳にはいきません」
「武士として、か……耳が痛ぇな」
土方の声に呼び覚まされるようにまばたきをすると、先ほどと変わらない平静な表情をした斎藤だった。
血の一滴も、その場には存在していなかった。
(そんな……っ)
「―――嫌だ……」
「紫苑……?」
「私も、行きます。一君と戦います」
「な……!?」
ずっと黙っていた紫苑の突然の声に、斎藤すらも目を見開いた。
激昂したのは、やはり土方だった。
「お前……!斎藤が何故会津に残るのかわかっているのか!?」
「わかってます!死にに行くんでしょう!?会津の為に!」
「、……紫苑」
咎めるような目を向ければ、斎藤はぐっと息を詰めた。
「一君が会津の為に戦いたいのは知ってる!でもだからって、その為に死ぬのはおかしいよ!」
「死ぬって……お前、また何か視たのか!?」
死ぬかもしれない、ではなく死ぬとはっきり口にする紫苑に、先視をしたのだと土方は予測をつけた。
その通り紫苑は気付いていた、あの血塗れの姿がこの先に待ち受けている未来だと。
微衷を尽くすと言った彼の、最期だと。
「駄目だ、尚更あんたは土方さんの傍にいろ。紫苑まで残る事はない」
「……どうして?戦力は多いに越した事はないよね?」
「危険だからだ。生き残る確率は、恐らく万に一つもない」
「それって、生き残るつもりがないって事だよね?」
「……むざむざ死んでやる気は毛頭ない。だが、戦の最中に命を落とすのもやむないとは思っている」
尋問のような受け答えに、最後はほらやっぱりと紫苑は怒ったような目を向ける。
「一君が残りたいっていう気持ちを止めたりしない。
だけど最初から死んでもいい、なんて思わないで。ちゃんと生き延びるつもりで、戦って」
「……ああ、わかった。だがそれとあんたが会津に残る事に何の関連がある?」
「一人でも多ければ生きられる可能性が高いでしょ?
だから私も残って、戦い抜いて、一君と二人で……みんなで生き残りたい」
自分達が会津を捨ててまで生きる必要があるのか。何が正解なのか。
少し前までそんな疑問が湧き上がっていたというのに、
斎藤の死ぬ瞬間を視た直後から、そんな迷いは取り払われてしまった。
(一君はこのまま、天命のまま命を散らせたいのかもしれない……
だけど、少なくとも私は、間違ってるかもしれないと、迷いながらここまで生きてきた)
会津に残るのは死ぬ為ではなく、生きる為。
それで誰かを殺す事になっても、どんな手を使ってでも。
(それでも私は……これ以上、誰かに死んで欲しくない)
彼に少しでも"生きたい"という意志があるのなら。
大切な仲間が死んで欲しくない、だから誰かを殺す。
なんていう矛盾だと、紫苑は涙さえ浮かべて自嘲した。
自分には微衷なんてものはない、あるのは仲間を死なせたくないという自分勝手な気持ちだけ。
もう決めてしまったのだ、初めて人を殺したあの瞬間から。
誰かを殺してでも、誰かを守ると。それが紫苑の決意だったから。
(今更引き返すなんておかしい、から)
「一君……もう羅刹に、なってるでしょ?」
「……知っていたのか」
「何となく。だから、いざという時、一君に鬼の血を分けてもあげられる」
ふわりと嬉しそうに斎藤に笑いかけると、ぐいと腕が反対の方向へ引っ張られた。
「お前……!さっきから聞いてれば勝手に話を進めるんじゃねぇ!」
恐らく先程の紫苑と同じように思考が停止していたのだろう土方が、
我に返って紫苑の両肩を掴むと怒りに任せて叫んだ。
「俺は!お前を手放さねぇって言っただろ!何で俺は、わざわざお前を死地に送り出さなきゃいけねえんだよ!」
「一君が死ぬのを止めに行くんです!死にに行くんじゃないです!」
彼が反対するだろう事はわかっていた。
だけど咄嗟に決めた事とはいえ、紫苑の中ではその選択が一番自分に納得のいくものだった。
「会津を見捨てて本当にいいのかなって、思ってました。
どうして自分達だけ、逃げて生き続けるんだろうって、思いました」
「……っ!」
「仙台へ行って戦力を増強するのが、結果的には多くの兵達を守る事になるのもわかります。
会津に一君が残るのもわかる。だから私が、全部を見捨てませんから」
(私が、土方さんの代わりに会津に忠義を果たすから、苦しまないで)
見捨てる、そんな風に思わないで欲しかった。
「一君も、会津も、兵達も、もちろん土方さんも。
だから土方さんは仙台へ行って下さい。他の皆は私が守ります」
「お前一人だけの力で何ができるっていうんだ!」
「わかってます!だから、せめて一君だけでもって事なんですよ!」
紫苑が増えた所で戦況が変わるはずない事ぐらいはわかっている。
わかってても、無謀でも、それでも天命に抗わなければ先視は実現する。
動かずには、いられなかった。
「土方さんだって、一君に死んで欲しくないですよね!?
だから、一人より二人なら生きて帰ってこれる可能性が上がるじゃないですか!」
「それで二人とも死んだら意味がねぇって言ってんだ!」
「じゃあ、一君だけ死ぬのはいいって事ですか!?」
「そういう事を言ってるんじゃねえ!」
力の限り叫んで肩を怒らせている。
わなわなと震えて、彼の強い双眸はこれ以上ないくらいに歪んでいた。
「お前は……いつもそうだ!勝手に決めて、勝手に命賭けて死にに行く!
俺の言う事なんか聞きやしねぇ!!」
「…………」
羅刹に血をあげるあげないで口論になった時も、こんな風に感情を吐き出した。
頭を押さえ、ずっと溜め込んでいたといわんばかりの本心のようだった。
その苦悩するような表情に、少しだけ悪い事をしている気になった。
紫苑の選択が、土方を苦しめているのかもしれない。
それを思ったのは一度や二度じゃない。
やりたいように動く紫苑の影で、彼はいつだって紫苑の身を案じてくれていた。
それに感謝しながらも、それでも意志を貫こうとする自分の性格に、心から申し訳ないと思う。
「俺の事なんか、これっぽっちも考えちゃいねえ!」
「……ごめんなさい。でも、絶対に死にませんから。
私は、土方さんのいない所で死んだりなんかしません!」
「…………っ」
死なないと言い切りながらも、死ぬかもしれないと、わかっている。
もう彼の傍にいて、彼の死を救えないのかもしれない。
もう、二度と会えないかもしれない。
今度こそ本当にそうなるかもしれないと、わかっているのに。
自分は、そうせずにはいられなくなってしまった。
どうしてだろう、泣いてしまいそうだった。
「ごめんなさい、土方さん」
「っ……!」
もう一度謝って、目に涙を溜めながらふわりと微笑んだ紫苑。
土方は呆然とそれを見つめ、返す言葉をなくした。
何かを言いかけて、言えずに、そうして深い溜息をつく。
拳を握りしめて、唇すらも震わせているのに、何かを諦めたように肩を落とした。
ギュッと目を瞑り、そうしてゆっくりと開かせると紫苑を見つめた。
長い時間をかけ、ポツリと零したのは独白のような言葉。
「そうか……俺は、もうお前には勝てねぇって事か……」
意気消沈したように天を振り仰ぐ。
苦しそうな、どことなく悲しそうな表情に、紫苑の心が痛んだ。
ごめんなさいと、そればかり思った。
「俺が何を言った所で……お前の意志は、変わらないんだな……?」
「……はい」
「…………そうか」
わかったと呟くと、土方は気持ちを振り払って頭を切り替える。
次に紫苑の目を見た時には、既に新選組の副長としての顔に戻っていた。
「互いに守り合え、間違っても死ぬつもりで行くんじゃねぇ。戦って、会津が落ち着いたら……帰ってこい」
「……ありがとうございます、土方さん」
「斎藤も、合流したかったらいつでも来ていいんだぞ」
「お気遣い、感謝します」
土方と紫苑を見守っていた斎藤が一歩前に進み出る。
彼らしい真っ直ぐな目で紫苑の隣に並ぶ。
「俺は会津の為に戦いますが、決して死にたい訳じゃない。
だから土方さん、必ず紫苑を生きて返します」
「……頼む」
努めて冷静を保っていた土方が、眉を寄せるとそう絞り出す。
ほんの、一瞬だけの事だった。
(ごめんなさい、土方さん……)
勝手な事をしているのは自分だとわかっている。
彼を苦しめているのは自分だとも。
――それでも……どうか、もう一度土方さんに会えますように。
未来を視せる天命に、そんな自分勝手な想いを願った。
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