――刻々と期限が迫っていた。

蝦夷への出港の準備を早急に進めなければならないのに、進むたびに気が重くなる。
じりじりと身を焼く焦燥感を押し殺して土方は折浜の港に立っていた。
大事なものを本当に全て失ってしまったのかもしれないと、
油断すれば自分が空っぽになった感覚に襲われ、逃げるように仕事に没頭した。

信じているという約束など、思うだけならいくらでもできる。
だがどうにもならない現実ばかりを自分達はいつも突き付けられてきた。

(あと数日……)

見切りをつけなければならない期限が近付いている。
もしかしたらどこかで生存しているかもしれないが、そうであったとしても恐らくもう会えないのだろうと何となく思う。
此処を離れたら、そうなってしまう予感があった。
彼女なら追いかけてこようとするかもしれないが、その前に自分の命が尽きてしまう気がしていた。
せめてどこかで生きていてくれればいい、そう願いたいがこんな戦況ではそれすら無情にかき消していく事も土方は痛いほど知っていた。

結局、生きていても死んでいても、彼女に会えずに出港すれば、それが永遠の別離になるのだろうという結論がどうしても認められない。

溜息はとうに尽きた。
今はひたすら、手が震えてしまわないように必死に書類を握りしめていた。
藤沢君……戻ってくるといいね」とそれだけを言った大鳥にも気遣われ、どうやら自分は動揺しているのだと気付いた。

暑かった夏が過ぎ、冷たい風が自身の心の隙間に吹きすさぶようで、また眉間の皺が増える。
険しい顔を維持して土方は自身を保っていた。

そんな時、来客の知らせと共に部屋に現れたのは意外な人物だった。

「よっ、土方さん!」
「新八……!よくここがわかったな!」

会津で会ったのを最後に、江戸へと戻っていた永倉が相変わらずの明るさで入って来る。
久しぶりの仲間の顔に、荒んでいた気持ちが少しだけ和らいだ。

「土方さんにお届け物だぜ」

開口一番にそう言った彼に、届け物?と訝しげな顔をすると、永倉はニヤニヤと笑う。

「俺と左之と山崎で、斎藤と紫苑の二人を連れて来たぜー」
「……な、んだって」

一瞬、情報が多くて何と言ったのか理解できなかった。
だがすぐに言葉が頭を巡り、土方は瞠目した。

「っ、来てるのか!?」
「ああ、なかなか骨が折れたぜ」

永倉の言葉が言い終わる前に土方は立ち上がり、外へ駆け出した。
通り過ぎる直前にすまないと声をかければ、永倉は全て承知だからか笑って手を上げた。

恐怖とは違う動揺と焦りで土方は屋敷内を走っていた。
普段見た事もないような必死な形相をしている鬼副長に、通りすがりの兵士達が固まっていたが構わなかった。

永倉の言った事が嘘だとは思わない。
だがこの目で確かめなければまだ信じられないと、不安と喜びが混じり合って頭が破裂しそうだ。

そして外への扉を開け放った瞬間、彼らが目に飛び込んできた。

「お前ら……!」

短距離を走っただけなのに息が上がっていた。
跳ね上がる心拍数を抑え込むようにして、別れた時と同じ顔を凝視する。
負傷はしているようだったが、全員無事だったようだ。

「やっと見つけたぜ、土方さん」

爽やかに微笑する原田と。

「ただ今戻りました、副長」

腹部を押さえながらも、確かな口調の斎藤。

「遅くなりまして申し訳ありません」

律儀に頭を下げる山崎。
そしてその集団の中央で、声も出せずに茫然としているのが。

「ほら行け、紫苑
「、あ……」

彼女を支えていた原田が腕を離し、緩やかに背中を押す。
驚いて一歩前に進み、力なくよろめいた紫苑を見た瞬間、走り出した。

土方の記憶の中と変わらない、大きく見開かれた瞳と、短髪が柔らかく揺れる男装の武士。
男勝りで飄々として、だけど誰よりも仲間想いで脆くて、仲間の為なら命すら捨てかねない女。
もう二度と見られないかもしれないと思っていた彼女を胸中におさめ、力一杯に抱き寄せた。

「よく、生きていてくれた……!」
「ひじかた、さ……っ!」

存外にすぐ泣く彼女の涙を感じて、抑え込んで殺していた感情が一気に溢れ出す。

紫苑が生きていた、ただそれだけでよかった―――






紺碧 九






「いやぁ、土方さん大胆ー」

遠くから永倉の声がして、顔を上げれば凄く温かい目をした一同に見守られていた。
まぁ、俺達が焚き付けたんだけどな、と原田の言葉まで降って来た。

確かに周囲には自分達以外の兵士もたくさんいて、何だ何だと此方を見ている人もいる。
こんな公共の場で一応男同士であるはずなのに抱き合うようになっていて、どうしようかと紫苑は動揺するが。

「わぁ!?」
「――お前らも来い、報告を聞かせてもらう」

紫苑は米俵のように肩に担がれ、視界がぐるんと回されて素っ頓狂な声がでる。
だがそんな事はお構いなしに土方は皆を引き連れて屋敷へと入った。

「え、ちょ、え!?」
「怪我人は大人しくしてろ」

(だけど何で私だけこんな風に!?)

すたすたと歩く土方に反論できなくて、固まっている間に土方の執務室にある来客用の椅子の一つに座らせられる。
斎藤君と藤沢君が戻ったって?と話を聞きつけた大鳥までやってきて、一同が集められた部屋はわいわいと騒がしくなる。

「まず斎藤、よく生還してくれた」
「いえ……紫苑に助けられました」

え、私?と戸惑う紫苑を余所に、斎藤は腹部に視線を落としながら至極真面目に答えている。

紫苑がいなければ、俺は本当に死んでいたと思います」
「そうか……会津は、残念だったな」
「はい……ですが、志は捨てていないつもりです。だから此処まで来ました」
「ああ、斎藤がいてくれて心強いよ」

苦しさと喜びがない交ぜになったような表情を見せる土方。
会津の事や、幕軍の今後の事を考えると厳しい顔にならざるを得ない。
だが、それでも来てくれて有り難いと、仲間の存在に喜んでいるからの穏やかな顔なのだろう。

「それから左之助も大変だったな。新八も、よく助けてくれた」
「新八が来てくれなかったら本気で危なかったと思う」
「いや、紫苑に左之が危ないって言われたらなあ、行くしかねぇからな」

原田と永倉が笑いあい、二人で紫苑の頭を撫でる。

「全部、紫苑のおかげだな」
「、え……いや、俺は何も……」

紫苑が顔を上げると、斎藤までもが同意だという顔で此方を見ている。
確かに先視はしたけれど、そんなに褒め称えられるほどすごい事をしたと思っていない。
きっかけはあったかもしれないけど、それでもここまで生きてきたのは皆がそれぞれに強かったからだと紫苑は思う。
どう反応していいかわからず困惑していると、土方はふっと笑うだけで何かを言う事はなかった。

「山崎、こいつらを連れてきてくれて感謝する」
「滅相もございません。俺は任務を遂行しただけです」

殊勝な態度の山崎に土方は静かに頷き、一同を見渡す。

「……お前達が来てくれて、本当に嬉しく思う」
「土方さんにそんな風に言われるの、何か慣れねぇな」
「そうだな。鬼副長なんだから、もっとどっしり構えておかないといけないんじゃないか?」

はははと、永倉と原田が冗談で返す。
そんな和やかな空気に土方は怒る事なくさらに頬を緩めた。

(土方さん、また変わった?)

柔らかくなったと感じた事が以前にもあったが、それよりも目に見えて優しくなったような気がするのだ。
そして何よりも、感情を素直に表に出している。

(いつか、本当の土方さんに戻る時が来るのかな……?)

規律や組織を慮って、彼は自らを"鬼副長"として振る舞っている。
いつか、それをする必要がなくなる時がくるのだろうかと、紫苑はそんな事を考えた。
鬼副長が嫌な訳ではない。
だけど彼が無理をしなくてもいいのなら、その方がいいと思った。

「だが戦況は厳しくなる一方だ。それでも俺達と来るか?」
「生き延びて此処まで来たんだから、俺達も戦うぜ」
「ああ、乗りかかった船だ」

皆がもちろんだと賛同すると、空気は一気に戦時に戻る。
それから、この先の軍の方針を土方から聞いた。
折浜を出港し、一度宮古湾を経由して蝦夷に行くのだと。

一通りの報告と情報交換を終えると、さてと、と原田が斎藤に声をかける。

「斎藤に、しっかりとした手当てをしてやらねぇとな」
「……そうだな、頼む」
「お、おお、俺も付いて行ってやる」

三人が口々に言うと、大鳥が立ち上がる。

「ああ、なら僕が部屋に案内するよ」

山崎も次の任務に向かうと言い部屋を後にする。
なら自分も、と紫苑が立とうとすると原田に止められた。

「お前は、此処にいな」
「え……」

皆のあからさまな気遣いに、どうしていいかわからなくなる。
二人きりになった部屋は急にしんと静まり返り、沈黙が気まずい。
言いたい事はいっぱいあったはずなのに、いざ彼を前にすると何も言えなくなってしまった。

ちらりと土方の動向を盗み見ていると、彼は溜息をついた。

「……傷の具合は?」
「あ、ええと、銀の弾で足を撃たれまして……でもだいぶ治ってきましたよ」
「そうか……」

彼の眉間に皺が寄るので、また無茶をしたのかと怒られるかと思ったが。

「まあ、手足がちゃんと付いているだけ、ましか……」

そう自分に言い聞かせるように言うと、紫苑の傍まで歩いて片膝を付く。
見下ろすような形になってしまって何だか申し訳なかったが、
この足ではまだ上手く床に座れないのでその体勢を恭順するしかない。

「……先視をしても忘れろと、前にも言ったな」
「あ……そ、そうですね……」

そう言われながら、その命令を無視しては何度も怒られてきた。
また説教だと思って紫苑は反射的に身を縮み込ませる。
だが怒号が飛んでくる事はなく、代わりに辛そうな顔で見上げられた。

「本当にお前は、俺の言う事を聞きやしねぇんだ」
「すいません……」
「だが……その力のおかげで仲間達が還って来てくれた。だから、感謝している」
「……え……?」

まさかそんな事を言われると思わなくて紫苑は返す言葉をなくした。

「そういう事だろ?お前がそんなになってまであいつらを助けようとしたから、
結果的に皆ここにいるんだ。だから、誇っていい」

未来を変えようと必死だった。
変えられた時もあったけど、変えられない事もあった。
原田を助けようとして、結局永倉を危険に晒してしまった。
斎藤の事だって、紫苑は追いかけただけで、自分が助けたとは思っていなかった。

「よく頑張ったよ、お前。お前が未来を引き寄せたんだ」
「……っ」

だけど土方が優しく諭すから、紫苑は今までの無茶が報われた気がして目頭が熱くなる。
他でもない想い人に言われたら尚更だった。

だが、素直に喜びきれない事もある。

「でも……山南さん、いなくなっちゃったんですよね……?」
「視たのか?」
「っ、……はい」

満足そうな顔で灰となって消えてしまった山南。
それから、仲間を亡くして苦しそうな顔をした土方。

あの時の光景を思い出して土方を見下ろすと、ついに紫苑の双眸から涙が零れた。
それを逐一見ていた土方は手を伸ばし紫苑の目尻を拭う。

「お前に、ありがとうとすみませんと伝えてくれと言われた。どうせ紫苑は知ってしまうだろうからと、笑ってた」
「っ……!」
「笑ってたんだよ、山南さんは。だからお前がそんなに背負わなくていいんだ」

余計に泣いてしまった紫苑の頭を、立ち上がって抱き締める。

「お前一人で、全員を守ろうとしなくていい。救えなかった命に、お前が責任を感じる必要はねぇんだ」

呆れる、というより懇願されているような声色だった。
土方を慰めたかったはずなのに逆に慰められてしまって、
余計に涙が止まらなくなっていると、不意に土方が小さく笑う。

「……て、言った所で、どうせお前はそうやって泣くんだよな」
「、すいません……」
「いや、頑固な奴だと思っただけだ」

そんなつもりはないのだが、よく考えれば彼の命令を何度も無視している。
もしかしなくても自分は頑固だったのか、と紫苑は自分に驚いた。

「そうやって無理して、肝を冷やすのはいつも俺だ……今回は、本当に駄目なんじゃないかと思った」

キュッと、紫苑を閉じ込めている腕が強くなる。

「戦時の消息不明は十中八九、戦死だ。
死んだものとして扱わなきゃいけねぇのに、認めたくなくて……どうにかなりそうだった」
「……っ」

彼の体が、声が震えていた。
それが、どんなに心配していたのかを物語っていて、紫苑はただただ申し訳なさでいっぱいだった。

「……ごめんなさい」

何度その言葉を思い、口にしただろう。
本当はそんな事言いたくないのに、紫苑の意志は結局彼を苦しめてしまう。
苦しませたくないと思っているのに、自分の存在が彼をそうさせている事実が辛い。
紫苑の胸まで痛くなって、どうすればいいのかわからなくて土方の袖を握る。

それ以上、言える言葉が見つからない。
どんな言葉をかけたって、彼を楽にはできないだろうから。

「……ずっと」
「……?」

ぽつりと小さく呟かれたそれに、紫苑は少しだけ首を動かす。
何を言いかけたんだろうと静かに待っていると、土方は深い深い息を吐いた。

「ずっと……妹だと、家族のようなもんだと思っていた」
「…………」
「だから自分でもよくわからなくなっていた。この情が何からくるものだと」

彼にとって紫苑は妹のようだと、以前にも告げられた。
どうして今更その話をと疑問に思ったが、彼の独白は止まらない。

「少なくとも今まで俺は、惚れた女には危険なものから遠ざけて、傍に置かないようにしていた。
ましてや刀を持たせて戦に駆り出すなどと、させるはずがなかった」
「…………」

土方の胸の中にいながら、自身の胸が恋情の意味で痛んだ。
普通はそうだよね、と冷静に思いながら、その事実に泣きたくなる。

原田が言っていた、惚れた女に刀など持たせないと。
だから、この人は本当に紫苑の事をそういう対象に思っていないのだろう。

「……近藤さんが投降したあの日、お前は死ぬつもりで出ていっただろう?
あの時……手放した事を心底後悔した」

想い人との今生の別れを覚悟した日。
大切な人達を逃がす為、沖田と二人で、死ぬまであの屋敷を守りきるつもりだった。

「何度も手放そうとして、その度にお前は姿を変えながらも付いてきた。
……だからいつの間にか、何をしてもお前は俺に付いてくるものだと、錯覚していた」

互いの望みと意見が食い違って、もう無理かもしれないと思った。
彼の傍に自分がいては迷惑かもしれないと考えた事もある。

「勝手に飛び立たれる事があんなに怖いなんて、今まで思わなかった」

死にに行こうとして本気で怒られた事に紫苑は驚いた。

「何も言わず、ただ笑っているだけなのが……怖かった」

紫苑の笑んだ顔があまりにも綺麗で、その死をも甘受した目に、土方は心から恐怖を感じた。
思い出すと今でもその感情が蘇り、土方の言葉が詰まる。

「だから……手放す事をやめて、傍に置くようにした。
なのにお前は勝手に動いて戦って、どれだけ俺を心配させてるのか知っているか」
「……ごめん、なさい」
「それがお前って奴なんだろうとはもう嫌というほどわかった。だが……せめて俺の目の届くところにいてくれ。
お前がいないと、また何処に飛んでいったのかと気になって仕方なくなる」
「……、……はい」

紫苑はただ返事をする事しかできなかった。

「本来なら戦から遠ざけて、安全な所にいて欲しいが……隊から外したらお前はまた勝手に動くだろうし、俺が困るからな」
「…………?」

紫苑が勝手に動く事に困る事すれ、遠ざけて彼が困る事なんてあるのだろうか。
僅かな引っ掛かりを感じていると、土方は小さく笑う。

「こんな細っこい体なのに、俺はお前の存在に助けられている。お前がいると何でもできる気がしてくる。
いないと……不安になる。お前が傍にいて呑気に笑っていてくれねぇと……どうしていいかわからなくなる」
「…………」
「危険な目にも遭う、死ぬかもしれない。それでも傍にいて欲しいと思ったのは、お前が初めてだ」

それは、どういう意味か。
耳に入ってきた言葉が多くて、紫苑は放心した頭で反芻させる。

だがそれらが整理される前に、それ以上の言葉が紡がれる。

「愛してる」
「……っ」
「好きだとか、仲間への情とか、家族愛とか、いくらでも感情に名前は付けられる。
だがそんな程度では俺の感情は言い表せられない。全部ひっくるめて、それすらもう飛び越してる」


――彼は、何と言った?


ただ愛という言葉の意味を考えて、どれだけ考えても、そういう意味でしか考えられなくて。
まさしくそれは、恋情の囁きで。

(好きよりも、飛び越してるって……?)

好き、ではなく、それ以上の意味という事で。

「愛してるんだ。お前が愛おしくて仕方ない、紗矢
「……っ」

本当の名前で言われて、紫苑の封じ込めていた心の奥底が震えた。

ああ、そういう事かと思った。
少し前に紫苑も感じた、彼も仲間達も全てが大事すぎて、"好き"という感情が飽和していた。
みんな好きなのに、どうして彼だけ特別だったのか。

(……それが、愛)

よくわからなかった自身の感情の名前を教えられて、すとんとはまり込んだ。

「私も……愛、してます。好き、なんて言葉じゃ足りないんです。
ずっと……好きで好きで、どうしようもなくて……たぶん、愛してました……っ」

この現実が嘘じゃない事を思い知らされて、紫苑の隠していた感情が涙と共に溢れた。

「ずっと……ずっと、……!」
「……ああ、知ってる」

初めて出会った時から、ずっと好きだった。
貴方だけを見て、生きてきた。
本当は優しいのに不器用で、感情を押し殺して鬼副長に徹して、なのに実は脆くて。
そんな彼が好きすぎて、狂おしいくらいに切なくて、無性に抱きしめたくなる気持ちは、きっと愛だった。

まさか気持ちが報われる日がくるなんて思いもしなかった。

「負けたよ、お前に」

土方が優しい声色で言う。

「女のくせにやたら強くて、おっかなくて、だけど仲間には弱くて。
普段とぼけてるくせにすぐ泣いて、命すら投げ出そうとするお前にいつからか惚れちまったから、俺はもうお前に勝てねぇ」

斎藤に付いて会津に残る事で口論になった時、似たような事を彼は呟いていた。
あれは、そういう意味だったのか。

「頼むから、生きて帰ってきてくれ……望むのは、ただそれだけだ」
「ひ、じかた、さん……っ」

嬉しさと、罪悪感と、色んな感情が入り混じって涙になる。
温かい胸に、それから吃驚するほど力強い腕に抱かれながら紫苑はわんわん泣いた。
もう無理だと思っていた彼の体温を感じていられる事が嬉しくて仕方ない。

彼が今どんな顔をしているか見たいのに、自分の顔が酷すぎて顔が上げられない。
きっといつものような優しい顔をしているだろうに、見えないのは勿体無い。

そう思っていたら紫苑の両頬に手が添えられて上を向かされた。
途端に目の前に飛び込んできた綺麗な顔に、紫苑は釘付けになった。

涙で酷い顔を晒されて、恥ずかしさを感じていると濡れた頬を優しく拭われた。
予想した通りの柔らかい表情だと呆然と思っていると、その顔がそのまま下りてきて唇に何かが触れた。

「!?」

突然の事に紫苑の思考は完全に停止した。

「……なんだよ、目閉じねぇのかよ」

僅かに離れた土方が不満そうに笑っている。

「え……や、その……ど、どうしていいかわからなくて、」
「相変わらず色気がねぇな」
「っ……!」

(何これ、意味わかんない)

吸い込まれそうな双眸が瞼の奥に隠れ、感じるのは温かくて柔らかい感触。
ついさっきまで戦だの怪我だの、色気とは程遠い所にいたのに、どうしてこんな事になったのだろう。

わかったのは、優しい彼の元へ帰ってこれたのだという事。
想いさえ通じて、自分は求められているという事。

朧げながらようやくそれを実感できて、ゆっくりと目を閉じれば熱い涙がまた零れた。











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